薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『小室直樹の中国原論』を読む 12

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

12 第4章を読む_後編前半

 前回、法家の思想による「法律」が近代立憲民主主義の「法律」と完全に異なることを確認した。

 今回は、別の観点から近代的な思想と法家の思想の違いをみていく。

 

 

 まず、近代法と法家の思想の違いとして重視している分野の違いがある。

 つまり、近代法で中心になるのは民法などの市民法であるのに対し、法家の思想で重視しているのは刑法である

 その結果、両者の法システム自体が大きく異なることになる。

 

 この点、民法は「Civil_Law」と訳されるところ、これは「世俗法」とも「市民法」とも訳すことができる。

 そして、この世俗法の反対に位置するのが「教会法」となる。

 このように、近代ヨーロッパにおいては、市民法と教会法、つまり、宗教法が分離していることになる

 なお、分離という観点から見れば、仏教も同様の特徴がある。

 

 これに対して、儒教と法家の思想には、世俗法と宗教法という発想がない。

 つまり、中国社会では世俗法と宗教法が一致している

 この意味では、イスラム社会やユダヤ社会と類似している。

 

 さらに、世俗法と宗教法が分離している仏教においては僧侶が存在する。

 また、キリスト教の場合、僧侶はいてもいなくてもいいことになる。

 これに対して、儒教と法教には僧侶に対応する身分がない

 この点は、ユダヤ教イスラム教徒同様である。

 

 そのため、仏法たる規範や戒律の解釈者たる僧侶の代わりを演じる人間が必要になる。

 そして、その役割を果たしているのがユダヤ教の律法学者、イスラム教の法律家(ウラマー)、そして、中国社会の官僚である

 

 そして、官僚は君主の権力を行使する人間であり、君主側の人間である。

 そのため、「法律は主権者たる国民を守るための盾である」という発想が中国に根付くことはなかった。

 このことは、中国法が罪刑法定主義に至ることは原則としてないことを意味する。

 

 この「罪刑法定主義」という発想は、フランス革命の人権宣言にも独立直後のアメリカ合衆国憲法にもある。

 この罪刑法定主義という発想こそ人民を権力たるリヴァイアサンから守る盾となるからである。

 もちろん、日本国憲法にもあるし、さらに言えば、大日本帝国憲法にさえあった。

 この点、日本に関する点については条文も確認しておこう。

 

大日本帝国憲法第23条

 日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ

日本国憲法第31条

 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない

 

 一方、中国法は法家の思想の下で大いに発展していた。

 また、罪刑法定主義の一歩前までいったこともあると言われている。

 しかし、最後の一歩を超えることができなかった。

 

 ところで、罪刑法定主義の目的は人民の権利保護にあるが、その手段は予見可能性の確保(罰せられるか罰せられないかが事前に予測できること)にある。

 つまり、罪刑法定主義は権利保護と同時に目的合理的な行為を担保するための法、ということになる。

 その罪刑法定主義が中国であと一歩のところで実現しない。

 著者は、この点に中国法や中国人の法意識などの本質を見ることができる、と述べている。

 

 以上が中国の刑法の話である。

 では、民法についてはどうか。

 

 近代の市民法民法)は資本主義を前提としている

 だから、市民法はレッセ・フェールを前提としており、政治権力からの恣意的な介入を原則として認めない。

 

 本書には記載がないが、そのことを示しているのがいわゆる「私的自治の原則」である

 この私的自治の原則は「個人は自らその意思を表示しない限り原則として私法上の義務を負うことはない」というもの。

 罪刑法定主義が「法律なくして犯罪なし、法律なくして刑罰なし」ならば、私的自治の原則は「意思表示なくして私法上の義務なし」ということになる。

 このように、私的自治の原則が私法上の権利保護を担保していることになる。

 

 では、私法上の予見可能性・目的合理性を担保している発想は何か。

 それは、これまでの読書メモで何度も触れてきた「近代的所有概念」である。

(参考となる読書メモとして次のものを取り上げておく)

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 近代的所有概念の特徴を簡単に述べると、次のようになる。

 

・所有者は所有物について絶対的な権利を持つ(所有権の絶対性)

・所有者と所有物の対応関係は原則として1対1である(所有権の一義的明確性)

・所有者は具体的な占有と異なり抽象的に判断される(所有権の抽象性)

 

 これまで何回も触れたように、この「近代的所有概念」は資本主義になってから始まったもので、前近代社会には存在しなかった。

 もちろん、中国社会や中国法にも。

 その結果、中国社会における市場経済の作動が不可能、ないしは、著しく困難になっている。

 

 この点、資本主義における矛盾を批判したケインズマルクスでさえ、政治権力による恣意的な経済的介入の禁止は踏まえている。

 というのも、目的合理的な経済政策・金融政策を実行に移したところで、レッセ・フェールを阻害するような権力の行使が頻繁に発生するならば、経済政策や金融政策の実効性が上がらないからである。

 だから、政治権力による経済介入が簡単にできる社会では市場経済は作動しないし、ケインズマルクスの話は役に立たない。

 ケインズマルクスに関するその辺の話は次の読書メモで述べたとおりである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 以上、近代社会の刑法や民法が中国法のそれと異なるところを見てきた。

 ここからは「市場」について見てみる。

 

 近代資本主義における市場は「契約」と「近代的所有概念」の上に立っている。

 それゆえ、「契約」や「近代的所有概念」がなければ近代社会の市場はない、ということになる。

 そこで、「契約」や「近代的所有概念」の意義が問題となる。

 たとえ、アメリカ人やヨーロッパ人の場合は当然すぎて問題意識を持つことすらないとしても。

 というのは、「契約」や「所有」に対する意識の違いこそが、中国人(社会)と中国に進出したアメリカやヨーロッパの企業のトラブルの原因になるのだから

 

 まず、「契約」とは何か

 この点、アメリカやヨーロッパがキリスト教社会であることから、この契約は「神からの契約」という形(モデル)を採用することになる。

 それゆえ、「契約の絶対性」が導かれることになり、次の2つの原則が導かれることになる(この2つの点については次の読書メモが示す通り)。

 

1、契約は契約外の事情(人間関係等)からは独立していなければならない

2、契約は文章化されること等によってその内容が明確になっていなければならない

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 しかし、このような契約の特徴はユダヤ教キリスト教イスラム教のような絶対神との契約を前提としている宗教が持つものである。

 中国のような社会においてこのような契約の特徴を持っている保障はない。

 というよりも、これまでこの本を見てくれば、このような契約の特徴はないと言ってもいいだろう。

 

 

 これまでの読書メモで見てきた通り、近代法を前提とする資本主義社会のルールは歴史上特異的なものである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 それゆえ、資本主義のルール、契約、近代的所有概念をあたかも自明視して取引に臨めば、トラブルが起きることは当然ともいえる

 本書では中国社会が対象となっているが、イスラム教社会においても次の読書メモで同様の検討をしている。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 著者によると、中国社会の進出がトラブルによって失敗する最大の原因は「アメリカやヨーロッパの企業が資本主義のルールをあたかも『不磨の大典』の如く見ているから」となる。

 その結果、資本主義のルールによって動かない中国人の行動様式が奇妙なものに見える。

 もちろん、アメリカの場合、先の大戦のころにも日本人・日本社会に対しても同様のことを感じていたであろうが。

 

 そして、当時の日本人・日本社会に対してやったように、無理やり資本主義のルールを中国に押し付ければどうなるか。

 この点、規範がない日本人の場合はそれなりにうまくいった。

 しかし、中国人には規範がしっかりある。

 あとは、推して知るべし、となろう。

 

 著者(小室先生)は言う。

「お互いのルールを尊重して双方が学ぶのではなく、『中国のルールは間違っているから、さっさと資本主義のルールに合わせないといけない』と一方的に言い放ってみよ。それは中国人がもっとも嫌う態度であるから、中国人も本気に相手をしないだろう。だから、資本主義のルールのユニークさを十分認識・体感せよ」と。

 

 本書はここから近代的所有概念の理解に関する話題に移る。

 ただ、この辺の話題はこれまでの読書メモの通りなので、重複する部分については簡単に見ていく。

 

 ここで述べられている主張を箇条書きにすると次のようになる。

 また、この点について参考になる読書メモは箇条書きの次にあるとおりである。

 

・所有権の絶対性は造物主の被造物に対する支配権をモデルとしており、このモデルは近代社会の主権概念にも利用されている。

・中世ヨーロッパの主権は大きく制限されていたが、近代にいたる過程で絶対化された

・もっとも、所有権の絶対性は近代法の歴史的特質に過ぎない

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 当然だが、中国も日本もアメリカ・ヨーロッパ社会とは異なる「契約」概念や「所有」概念を持っている。

 では、中国における契約概念、所有概念とは何か。

 この辺のことを理解するために、本書では日本の所有概念について話が進む。

 

 もっとも、日本における所有概念がどのようなものだったかについては既に上に取り上げた読書メモなどで触れている。

 例えば、本書では「将軍から頂戴した馬を見世物に使ったらどうなるか」といった話があるが、この具体例も上の読書メモで触れられているため、ここでは、初めて見る具体例たる「忠臣蔵」を通じて所有概念についてみていく。

 

 

 忠臣蔵では、松の廊下で浅野内匠頭吉良上野介に切りつけた結果、播州赤穂藩は改易となっている。

 このことが赤穂に到達したとき、家老の大石内蔵助藩士と「藩のお金をどうするか、財産整理をどうするか」で話し合いをした。

 そして、大石内蔵助は藩札の交換を行うとともに、改易によって生活に困る藩士に対しては分配金を配るなどのことをしている

 

 以上のお話、忠臣蔵を知っていれば当然知っている話であり、ここの部分に目くじらを立てる日本人はいないだろう。

 しかし、近代的所有概念から見ると、「あれ?」という部分がある。

 

 まず、改易によって藩に属する不動産は収公された。

 つまり、改易により、藩に属した不動産の所有権は赤穂藩から将軍徳川綱吉に移り、その後、新たに赤穂に入る大名に移る、ということになる。

 

 では、動産(財産)はどうなるのであろうか。

 この点、改易前の動産の所有権者浅野内匠頭となるのだろう。

 では、改易後はどうなるのか?

 不動産と同じように考えるならば、所有権の帰属先は将軍徳川綱吉になる。

 とすれば、大石内蔵助がやったことは権限なく徳川将軍家の所有する動産を藩士に分配したことになり、これは現代刑法のいうところの横領(刑法252条)になる。

 もちろん、罪刑法定主義の一要素たる「事後法の禁止」を考慮すれば、徳川時代の行為に現代の刑法が適用されないことは当然であるとしても。

 

 もちろん、大石内蔵助に近代的所有概念などあるはずがない(当然である)。

 そして、大石内蔵助以下の藩士は、財産を占有しているのは我々だから、その財産を我々で分配するのは自由と考えたことになる

 このことは、赤穂家の動産の所有権の帰属について一義的に考えていなかったこと、所有権を抽象的に把握していなかったことを意味する。

 

 ところで、本件では、不動産(土地と城)は徳川綱吉に没収されたが、動産についての没収措置はなされていないため、(現代の規範に照らして)公金横領ではないのでは、と考えるかもしれない。

 しかし、この場合でも、改易前の動産の所有権が浅野内匠頭にあったことを考慮して、浅野家の相続人、例えば、浅野大学(弟)や妻の瑶泉院に帰属することになり、「他人の財産」であることに変わりはない。

 にもかかわらず、大石内蔵助は浅野大学などの承諾を得てお金を分配した気配はないが、これはどうしたことか、と。

 

 この点、江戸時代の人間がこのような議論をすることはないのは当然である。

 しかし、現代の我々から見た場合、大石内蔵助が藩の金を勝手に分配した行為は公金横領にあたりうるという点を指摘されないのはなぜか。

 当然だが、「公金横領は悪いことではないから見逃した」は理由にならない。

 このことは、忠臣蔵における物語の中で吉良上野介に対する描かれ方とその描かれ方に対する評価を見れば明らかである。

 しかし、そうならば、大石内蔵助の行為が見過ごされた理由は別にあることになる。

 

 また、この問題提起に対してある程度合理的な反論をすることができる。

 曰く、大石内蔵助らの財産の分配は所有者(徳川綱吉、浅野大学、瑶泉院など)ならば行ったであろう行為を代理で行ったに過ぎない、と。

 そして、改易による事後処理を円満に行うという観点から見れば、藩札を藩の財産と交換すること、藩士の生活保障のために藩の財産を処分するといった大石内蔵助の行為は極めて合理的である。

 だから、大石内蔵助の行為は清算人による一種の財産処分行為として、または、事務管理民法697条)にあたるため、現代から見ても横領にはあたることはない、と。

 

 しかし、このような反論を考える日本人はほとんどいないであろう。

 というのも、これまでの読書メモで述べてきた通り、そもそも日本にも近代的所有概念は根付いていないからである

 そのため、「この財産は誰に帰属しているのか」ということに意識が向かない。

 そして、一義的な所有権を意識しないため、抽象的な所有と具体的な占有の区別もつきにくいことになる。

 この点も、これまでの読書メモで見てきたとおりである。

 

 以上の話は日本人の話であるが、中国人の所有概念を理解する際も参考になる

 この本では、これまで日本人と中国人の違いを細かい部分を含めて指摘していたが、そのことは日本人と中国人に共通項が一切ない、というわけでもないので。

 

 

 以上、本書にみてきた。

 忠臣蔵における大石内蔵助の行為が横領となるかについては、違法性を阻却するためのロジックはそれなりにあると考えられる。

 その意味で、本書の大石内蔵助の行為に対する評価については私は同意しない

 ただ、近代的所有概念からこのように見てみると興味深いものがある。

 

 次回は第4章の残りの部分をみていく。

2023年の総括、2024年の目標等

0 はじめに

 2023年が終わり、2024年が始まった。

 そこで、2023年の1年間を振り返ると共に、2024年の目標をこのメモに残しておく。

 

1 ブログについて

 2023年に私は120個の記事をこのメモブログにアップした。

 つまり、「1年間で2000文字以上の記事を120個分、メモブログにアップする」という目標を3年続けて達成したことになる。

 

 しかし、2023年にこの目標を達成できるかはとても微妙だった。

 12月20日の時点で109個の記事しかできていなかったのだから。

 120個の記事が作成できたのは僥倖と言ってもよい。

 もちろん、多少の融通が効いたとしても。

 

 

 では、2024年のブログのスタンスはどうしようか。

 この点、2023年1月の私は「2023年は2021年や2022年と比較して時間が取れなくなるだろう」と考えていた。

 そして、2024年も2023年や2022年と比較して時間が取れなくなる見込みである

「いっそ目標とする記事の量を減らそうか」と考えなくもないが、2023年の10月から12月までの3ヶ月間に33個の記事をアップしたことを考慮すると、敢えて減らす必要もなさそうである。

 とりあえず、「『120個の記事(1記事あたり2000文字以上)をアップする』という目標は維持する。しかし、健康その他の理由でできなくてもよい」と考えておく。

 

 

 次に、2021年3月から始めていた「司法試験・二次試験・論文式試験憲法第1問を見直す」というシリーズを2023年12月末に終了させることができた。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 このシリーズが終わったので、2023年に進められなかった読書メモを作っていく予定である。

 実際、2023年に終えられた読書メモは次の1冊だけなので。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

2 読書について

 生活記録によると、2023年の1年間に76冊の本を読んだらしいキンドルは含む、プログラミングの本と資格取得のための教材は除く)。

 2021年の135冊に劣るとしても、2022年の67冊は超えている

 結構、本を読んでいたのだなあ・・・。

 

 この点、1年間に76冊というと週1冊以上、ということになる。

 なかなかの読書量である。

 

 

 ただ、読書メモの方はほとんど進められなかった。

 今年はこちらを充実させたいところである。

 

3 資格とプログラミングについて

 次の記事で触れた通り、2023年は「学習習慣の確立」とは無関係に2つの資格を取得した。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 2024年も社会生活上の要請に従い、複数の資格を取得しようと考えている。

 どれも一夜漬けかスキマ時間の活用でどうにかなる、と考えているものばかりである(これはあくまで見込み、実際のところは分からない)。

 

 

 それから、最近、技術習得の必要性を感じているのが、ワードとエクセルに関する技術である

 10月以降、ワードやエクセルを使う機会が格段に増えたのだが、「こういうことができたらなあ」と考えつつも、時間のなさから諦めるといったことが増えている。

 いっそ、ワードやエクセルについて時間を取って一気に学ぶ、というのも悪くないかもしれない。

 それから、エクセルのマクロについて学ぶのも。

 

 ただ、学習する場合、一応のアウトプットの対象が問題となるところ、現段階でMOSを取りに行く予定はない。

 この点はどうしたものかなあ。

 

 

 次に、現段階では数学系の資格取得は考えていない。

 確かに、近い将来を考えると、社会生活上の要請に基づいて機械学習の結果を活用する事態は十分生じうる状況にある

 しかし、現状、数学や統計学について学ぶための時間を作ることができない。

 また、社会生活上の要請は「活用すること」であって、「何かを生み出すこと」ではない

 そのため、数学系の資格取得自体は不要かなあ、と考える次第である

 

 さらに、プログラミングについても上に書いたマクロの他に何かをやる予定はない

 現状の行動可能時間の配分を考慮すれば、対外的に新しい何かを行うことは難しい。

 せいぜい、次のサイトのスキルチェックの問題を解き続け、今ある能力を可及的に下げないようにする、という程度であろうか。

 

 

4 健康等について

 この1年間、生活記録については順調に続けることができた。

 その結果、現状の生活記録のベースに従って約2年半の生活記録が積みあがった。

 この生活記録を見直した結果、自分の生活状況や自分の限界に関するある程度客観的な把握が可能となった。

 

 

 なお、2024年の健康上の目標は次の3点になる。

 

1、しっかり寝る

2、長期的な無理はしない

3、体重を減らす

 

 2023年は、上の1と2についてそこそこ達成したが、3は達成できなかった(体重を増やすことはなかったとしても)。

 2024年は、上の3について少しでも成果を上げたいところである。

 

 

 以上、2023年を振り返ると共に、2024年の目標などをイメージしてみた。

 1年後はどうなっていることやら・・・。

司法試験の過去問を見直す 総括

 これまで、私は司法試験の二次試験の論文式試験憲法第1問の過去問をみてきた。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 検討した過去問は平成元年度から平成20年度(合格した年)の20問である。

 そこで、15年振りにこれらの過去問を見直した感想を残しておく。

 

1、過去問検討の大変さ

 現段階で20問の検討を終えた感想を述べるならば、「疲れた」と「なんとかやり切れてホッとしている」ということになる。

 さらに言えば、「ここまでの作業になるとは考えていなかった」を付け加えてもいい。

 

 この企画を始めたのが令和3年の3月、ブログを開設した直後である。

 だから、私はブログを始めてからこの企画をずっとやっていたことになる。

 そりゃ、「長かったー」と考えるのも無理はない。

 

 でも、考えてみれば、当然である。

 旧司法試験の二次試験の論文式試験は全部で12問。

 そのうちの1問であるとはいえ、20年分見直せば、相応の量になる。

 20年を10年にしておけばよかったなあ、と考えないではない。

 

 もちろん、検討したかった過去問は平成元年から10年にもあったので、現実的には10年にすることはなかっただろう、とは考えているけれども。

 

2、過去問検討の重要性

 次に、今回行った20年間の過去問検討は、合格をする前に行っていた私が行っていた過去問検討よりも深いレベルになっていた。

 私は合格前にこんな検討をした記憶はない。

 

 それゆえ、20年分の過去問を条文と定義と趣旨と判例を踏まえて検討すれば、当時の旧司法試験の二次試験の論文式試験には確実に合格できる、と言えるだろう。

 もちろん、現在の予備試験や新司法試験においても同様のことがいえるのではないか、とも。

 

 ただ、これが全科目についてできるかどうかは相当難しいだろう。

 当時の司法試験に比較して今の司法試験は範囲が広くなったことを考慮すれば、今の方が難しいとすらいえる。

 

 また、2008年の段階で考えても、ここまでやる必要があったとは到底言えない。

 仮に、定義・趣旨・条文・判例に関する知識の習得などを他の部分で補うのであれば、5年でも十分ではないか、と考えられる。

 

3、判例の重要性

 それから、憲法における判例の重要性について再確認した

「こんなことを判例で言っていたのか・・・」と確認させられたことが多かったからである。

 

 ただ、その重要性を確認できたのは、合格後に出版された次の本のおかげである(引用先は最新の版、私が見た当時の版はもっと前のもの)。

 

 

判例の背後にここ本で述べられたロジックがある」という前提知識があったため、判例を確認した効果は高まった。

 当時の学んでいた憲法判例に対する理解その他だけでここまでの成果が挙げられたかは相当微妙である。

 そのように考えると、今回の検討におけるこの本の価値は大である。

 

4、日本教との関係について

 ところで、このブログで司法試験の過去問を検討した理由は、憲法をめぐる日本教の現れを見るためである。

 だが、問題の検討の方に熱中してしまい、日本教との兼ね合いについてはあまり検討できなかった。

 

 しかし、あちこちに日本教的なものを感じとることはできた。

 例えば、猿払事件から。

 それから、津地鎮祭訴訟から。

 あるいは、尊属殺重罰規定をめぐる最高裁判所の判決から。

 

 特に、猿払事件から感じた日本教的なものについては非常に印象深かったため、「『猿払事件最高裁判決に対する批判』を日本教的観点から見る」という形でまとめてみようかと、とは考えている。

 

5、その他の科目について

 なお、憲法第1問についてやったのだから、憲法第2問やほかの科目についてやってみるのはどうか、という考えはなくはない。

 しかし、現段階ではやる予定は全くない

 というか、憲法第2問について同じように20問を見直すことは無理としか言いようがない。

 まして、他の法律については言うに及ばず、である。

 

 確かに、見直すことで得られるものはあるのだろう。

 しかし、今年はブログの記事120個を書き切ること自体が大変であった。

 つまり、来年、年間120個の記事を書き切れるかどうかは極めて微妙である。

 

 また、日本教との兼ね合いを検討することは考えていたよりもできていない

 つまり、過去問を検討すると、憲法学や法律学の方に踏み込んでしまい、社会学的な方向にはあまり踏み込めないようである。

 

 そのため、日本教的なものの検討・分析をするならば、別の題材を選んだ方がいいのではないか、と考えている

 専門的な方向に突貫しなくても済むような何かに。

 

 

 以上で、このシリーズを終了する。

 このシリーズを初めてから終わるまで約2年と10か月、やるべきことをやってから終えることができてホッとしている。

 もっとも、このようなシリーズとしての検討は今後は難しいかもしれない。

 

 あと、今年1年、なんとか120個の記事を書き終えることができた。

 来年も120記事書けるかどうかは微妙である。

 だから、来年は記事の総数を120から少し減らそうか、と考えている。

 

 また、今後は、当分の間は読書メモを作っていこうと考えている。

 精読したい書籍はまだまだあるので。

 

 それでは、よいお年を。

司法試験の過去問を見直す20 その10(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験・論文式試験の平成10年度憲法第1問をみていく。

 なお、この過去問の最終回たる今回は、本問で「教育の宗教的中立性」が問われたことを考慮し、政教分離に関する判例を見たときの私の思い出について述べることにする。

 

13 津地鎮祭訴訟の最高裁判決を見たときの思い出等

 津地鎮祭訴訟の最高裁判決、この判決は日本の政教分離規定に関するリーディング・ケースと言われている。

 だから、私は司法試験の勉強を始めて間もないころにこの判決の全文を見ることになった。

 

昭和46年(行ツ)69号行政処分取消等事件

昭和52年7月13日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/189/054189_hanrei.pdf

(いわゆる「津地鎮祭訴訟最高裁判決」)

 

 

 この点、多数意見はこの事件に対して次のようなあてはめを行っている。

 

(以下、津地鎮祭訴訟最高裁判決から引用、セッション番号は省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

(中略)起工式は、土地の神を鎮め祭るという宗教的な起源をもつ儀式であつたが、時代の推移とともに、その宗教的な意義が次第に稀薄化してきていることは、疑いのないところである。(中略)

 その儀式が、たとえ既存の宗教において定められた方式をかりて行われる場合でも、それが長年月にわたつて広く行われてきた方式の範囲を出ないものである限り、一般人の意識においては、(中略)、世俗的な行事と評価しているものと考えられる。

 本件起工式は、神社神道固有の祭祀儀礼に則つて行われたものであるが、かかる儀式は、国民一般の間にすでに長年月にわたり広く行われてきた方式の範囲を出ないものであるから、一般人及びこれを主催した津市の市長以下の関係者の意識においては、これを世俗的行事と評価し、(中略)。

 また、(中略)起工式を行うことは、特に工事の無事安全等を願う工事関係者にとつては、欠くことのできない行事とされているのであり、(中略)、建築主が一般の慣習に従い起工式を行うのは、工事の円滑な進行をはかるため工事関係者の要請に応じ建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼を行うという極めて世俗的な目的によるものであると考えられるのであつて、特段の事情のない本件起工式についても、主催者の津市の市長以下の関係者が右のような一般の建築主の目的と異なるものをもつていたとは認められない。

 元来、わが国においては、(中略)、国民一般の宗教的関心度は必ずしも高いものとはいいがたい。

 他方、神社神道自体については、祭祀儀礼に専念し、他の宗教にみられる積極的な布教・伝道のような対外活動がほとんど行われることがないという特色がみられる。

 このような事情と前記のような起工式に対する一般人の意識に徴すれば、(中略)、起工式が行われたとしても、それが参列者及び一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられず、これにより神道を援助、助長、促進するような効果をもたらすことになるものとも認められない

 そして、このことは、国家が主催して、私人と同様の立場で、本件のような儀式による起工式を行つた場合においても、異なるものではなく、(後略)。

(引用終了)

 

 今改めてみると、「現実としてはこんなもんか」という気がする。

 

 もっとも、多数意見は結構あれなことを言っている

 例えば、長年の経過により、地鎮祭のような起工式の宗教性が希薄化したとか。

 この点、クルアーンは1400年近く信者に読まれているが、だからといって宗教性が希薄化したとは考えられないことを考慮するとあれである。

 

 また、建築主が一般の慣習に従い起工式を行うのは、建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼を行うという極めて世俗的な目的によるものである、とか。

 工事関係者はさておくとしても市長を含めた一般人が起工式に宗教的なもの(超越的 なもの)を期待していないとか、だいぶ人間(一般人)になめられているような

 

 それから、神社神道自体については、他の宗教にみられる積極的な布教・伝道のような対外活動がほとんど行われることがない、とか。

 やる必要がなかったのはなぜか、ということを考えると結構あれである。

 

 まあ、「人前法後」の日本教らしいや、という感じがしないではないけど(なお、「人前法後」の部分はユダヤ教キリスト教イスラム教では「神前法後」になるし、仏教の場合は「法前仏後」になる)。

 

 

 ところで、この判決では、当時の最高裁判所長官の藤林益三裁判官(弁護士出身、唯一の弁護士出身の長官)が追加反対意見を述べている。

 ここではそれを紹介したい。

 

(以下、藤林裁判官の追加反対意見から引用、セッション番号は省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 多数意見は、(中略)慣行だというのである。

 もちろん世の中には、その起源を宗教的なものに発してはいるが、現在では宗教的意義を有しない諸行事が存することを認めないわけにはいかない。

 正月の門松は、(中略)、縁起ものとして今日でも行われている。

 雛祭りやクリスマスツリーの如きものも、親が子供に与える家庭のたのしみとして、あるいは集団での懇親のための行事として意味のあることが十分に理解できる。(中略)

 しかし、原審認定のような状況下において、本件起工式をとり行うことをもつて、単なる縁起もの又はたのしみのようなものにすぎないとすることができるであろうか。

 多数意見も認めているとおり、本件のような儀式をとり入れた起工式を行うことは、特に工事の無事安全等を願う工事関係者にとつては、欠くことのできない行事とされているというのであつて、主催者の意思如何にかかわらず、工事の円滑な進行をはかるため、工事関係者の要請に応じて行われるものなのである。

 起工式後のなおらいの祝宴をめあてに、本件儀式がなされたとはとうてい考えられない。

 ここに単なる慣行というだけでは理解できないものが存在するのである。(中略)

 しかるに、工事の無事安全等に関し人力以上のものを希求するから、そこに人為以外の何ものかにたよることになるのである。

 これを宗教的なものといわないで、何を宗教的というべきであろうか。

 本件起工式の主催者津市長がたとえ宗教を信じない人であるとしても、本件起工式が人力以上のものを希求する工事関係者にとつて必須のものとして行われる以上、本件儀式が宗教的行事たることを失うものではない。(中略)

 本件においては、土俗の慣例にしたがい大工、棟梁が儀式を行つたものではなく、神職四名が神社から出張して儀式をとり行つたのである。

 神職は、単なる余興に出演したのではない。(中略)

 祭祀は、神社神道における神恩感謝の手ぶりであり、信仰表明の最も純粋な形式であるといわれる。

 教化活動は、祭りに始まり、祭りに終るということができるのであつて、祭祀をおろそかにしての教化活動は、神社神道においては無意味であるとされる。

(引用終了)

 

 この反対意見には、「起工式後のなおらいの祝宴をめあてに、本件儀式がなされたとはとうてい考えられない」とか「神職は、単なる余興に出演したのではない」といった表現があるが、この文章が最高裁判所の判決に登場するとは意外である。

 もちろん、これらの意見はやや極端と言えなくもない。

 しかし、「『本件起工式が世俗目的だ』という認定をするとこういうことになるが、本当によいのか」という問題提起にはなるであろう。

 まあ、問題提起に対する私の見解は日本教としてはそれで差し支えない」になるのだろうが。

 

14 愛媛玉串料訴訟最高裁判決を見たときの思い出など

 ついでに、愛媛玉串料訴訟についても当時の感想をこのメモに残しておこうと考える。

 

平成4年(行ツ)156号損害賠償代位事件

平成9年4月2日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/777/054777_hanrei.pdf

(いわゆる「愛媛玉ぐし料訴訟最高裁判決」)

 

 この判決を見て当時の私が考えたことは、ずいぶんたくさんの補足意見・意見があるなあ、ということであった。

 また、愛媛玉ぐし料訴訟の違憲判決では当時の最高裁判所長官だった三好裁判官(裁判官出身)が反対意見を述べている。

 長官だからといって多数派を形成するわけではないようである。

 

(以下、愛媛玉ぐし料訴訟最高裁判決から引用、セッション番号省略、各文毎改行、一部省略、強調は私の手による)

 裁判官大野正男、同福田博の各補足意見、裁判官 園部逸夫、同高橋久子、同尾崎行信の各意見、裁判官三好達、同可部恒雄の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。 

(引用終了)

 

 あと、可部裁判官の反対意見には共感しない点が少なくなかった

 少なくても、「目的効果基準」に従うのであれば、こっちの方がしっくりくるかなあ、と(個々の補足意見・意見にあるように厳格に考えるならば別である)。

 ただ、この後、政教分離規定に対して最高裁判所は厳しく考える方向にシフトしていくことを考えると、この事件は過渡期の判決だったのかもしれない。

 

 

 以上で、本問に関するお話は終了する。

 次回は20問を改めて見直したことを振り返って、「司法試験の過去問の見直し」という一連の記事を終えることとしたい。

「継続的に資格を取る習慣」の想定しなかった展開

 2019年、令和の時代になってから、私は「勉強習慣の確立」を企てて資格を取ることにした。

 そして、令和元年から令和4年までの4年間で次の7つの資格を取得した。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 ただ、いくつかの試験が一夜漬けや二夜漬け(金曜日と土曜日に徹夜して日曜日の試験を受験すること)で済ませてしまったこと、このメモブログの記事の起案の方がよほど勉強習慣の確立に貢献していることから、令和4年をもって「年間2つの資格を取得し、よって、勉強習慣を確立する」ことはやめることにした。

 

 

 そして、今年(令和5年)。

「勉強習慣の確立」とは無関係に次の資格を取得した。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 つまり、令和4年に「年2個の資格を取得する」という目標を取り下げたにもかかわらず、令和5年は2個の資格を取得してしまった

 資格を取得することはやめたつもりなのに。

 

 この点、今年取得した2つの資格の特徴は「社会生活上の要請に応じて取得したこと」にある。

 一方は、既に互換性ある上位の資格試験に合格しており、この資格を取る意味は全くない。

 また、もう一方は汎用性のある分野ではなかった。

 

 そう考えると、今年は「資格試験の存在意義に適合する形で、資格試験を受けて合格した」といってもいいのかもしれない。

 あるいは、「これまでの資格試験の使い方が異常であった」とも。

 まあ、両方とも一夜漬け、または、スキマ時間を使うだけで合格してしまったので、勉強習慣は全く身に付かなかったが。

 

 

 この令和5年に生じた傾向は来年も続くようである。

 なぜなら、来年の社会生活を予想すると、知識の習得が要請される未経験の分野があり、その学習結果のアウトプットとして利用できる資格試験がある上、その資格の取得が社会生活上意義があるからである。

 具体的に述べてしまうと、現時点でこのような資格は4つある。

 

 そのため、来年はこの4つの資格のうち、3つは取ろうかなあ、と考えている。

 というのも、来年に資格を3つ取ると6年間で取得した資格が12個となり、平均すれば年間2個ずつコンスタントに取っていることになるので。

 さらに言えば、これらの資格はそれほど時間がかからず、場合によっては一夜漬けや二夜漬けでなんとかなりそうな気もするので。

 

 

 ところで、私はこの資格取得のプロセスにおいて「お金にまつわる資格」と「プログラミングやデータ・サイエンスに関する資格」を取ろうとしていた。

 そして、この5年間で取った9つの資格を見ると、次のような結果となっている(なお、3級と2級などランクが異なるものはそれぞれを1個としてカウントする)。

 

お金関係、4つ(FP3級、FP2級、簿記3級、簿記2級)

数理関係、3つ(基本情報技術者、統計検定2級、Pythonほにゃらら)

法律関係、2つ(ビジネス実務法務検定試験2級、AML/CFTほにゃらら)

 

 この点、「お金に関する資格」とは簿記とFPを想定していた(また、双方とも1級まで取る予定はなかった)。

 それゆえ、現時点から見ればその目的をほぼ達成している。

 

 また、法律関係の資格は社会生活上の要請にあわせて取得したものである。

 

 しかし、数理関係については資格取得が進まなかったようである。

 実用数学技能検定1級、統計検定1級、python3エンジニア認定基礎試験の上位試験その他・・・。

 取ろうとして取れなかった資格が多い。

 もちろん、取ろうとして取らなかった資格があるとしても。

 

 この点、実用数学技能検定試験の1級は一度受検したが、無残に撃沈した

 そして、この試験に合格したければ大学教養課程の数学を学び直す必要があると考えている。

 そう考えると、勉強習慣の確立が達成できなかった現状を考慮すれば、不合格は当然の結果であると言えるかもしれない。

 

 次に、データ・サイエンスの基礎となる統計検定1級は実用数学技能検定1級に受かる程度の数学を使いこなす力が必要な気がしている。

 それゆえ、これも手を出しにくい。

 

 そのため、数理系で手を出すならばプログラミング関係になりそうだが、現時点ではそれほどやる気がない。

 プログラミング系の資格を取るくらいなら、次のサイトの問題を解くなどしていた方がよほどいいだろうし。

 

paiza.jp

 

 そう考えると、数理系に手を出すことは当分ないかなあ、という気がする。

 さらに言うと、社会生活上の要請を考慮すれば、法律系の資格だけではなく英語に関する勉強と資格が必要になるかもしれないので。

 

 

 しかし、「学習習慣を確立するために継続的に資格を取得する」という目標がこのような結果になるとは・・・。

 よくわからないものである。

 

 来年はどんな展開が待っているだろうか。

大学で研究・学習したことの社会生活上の効用

 最近、私は社会的要請に応じる形でマネー・ローンダリングの勉強をしている。

 その勉強のアウトプットとして、金融財政事情研究会の「AML/CFTスタンダードコース」という資格を取ったことは、少し前のメモブログで述べたとおりである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 ところで、私は「社会的要請に応じ」と述べた。

 つまり、マネー・ローンダリングの資格を取って終わり、というわけではない。

 日々、アンチ・マネロンの立場からマネー・ローンダリングに関する知識を使いまくっている。

 

 ただ、アンチ・マネロン側に立って縦横無尽に学んだ知識を活用していると、たまに「自分がどっちの立場なのか」が分からなくなることがある。

 そして、そういう状態に陥ると、「あー、これがニーチェの『怪物に対峙する者は(以下略)』というやつか・・・」と気付き、自分の立場がアンチ・マネロン側であることを再認識するのである。

 

 このニーチェの言葉は善悪の彼岸に掲載されている。

 その和訳を示すと次のようになる(出典元は次のリンクの通り)。

 

(以下、次の『善悪の彼岸』の第4章の146から引用、各文毎に改行、強調は私の手による)

 怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがいい。

 そして、君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む

(引用終了)

 

 

 ここで、怪物を「マネー・ローンダラー」とすれば、まさにニーチェの警句の通りとなる。

 そして、私はニーチェを学んでいるがために、「マネー・ローンダラーと対峙している自分は、自らがマネー・ローンダラーになるかもしれないから、用心せねば」と気を付け、自分の立ち位置を再認識することになる。

 また、このような現象があることから、私がニーチェを学んだことは十分社会生活で活用できていると言えそうである。

 

 

 さて、以上の話をやや抽象化する。

 その結果、「日本の一般企業に就職する場合、その企業と一見関連性のない学問を大学で学んでいたとしても、それを企業で活かすことは可能である」ということが言えそうである。

 もちろん、「大学で学んだことをただのコレクション等にせず、自分の発想や行動を反映させた場合」というif文をクリアする必要があるとしても。

 

 上では、たまたまニーチェが登場したが、他の事例を使っても似たようなことが説明できそうである。

 以下、そんな例を探してみる。

 

 

 まず、私は山本七平氏の様々な書籍を読んできた

 重要なものを示せば、次の書籍となる。

 

 

 

 

 これらを学んだ結果、「日本教徒たる自分の感情の動きや言動」が理解できるようになった。

 また、無意識的に日本教徒となっている周囲の反応も理解・納得できるようになった

 それゆえ、大学で山本七平の研究をしていれば、同じような成果が得られたであろう。

 もちろん、この成果が学業的功績とは無関係であるとしても。

 また、その成果は、失敗してから「あ、あのとき学んだ・・・」となるだけのものであったとしても(私自身も似た経験は山ほどしているが)。

 

 

 次に、日本教徒に関する山本七平氏の説明を見ていると、カール・マルクスが『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』で述べていた言葉を思い出す。

 これについては、次の読書メモ(読書メモと原著のリンクは以下の通り)で触れているが、非常に有名なので再掲する。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 カールマルクスは次のようなことを述べている。

「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」と。

 この発言の根拠となっているのが、いわゆる「疎外」と呼ばれる特徴である(「疎外」の特徴は上の読書メモ参照)。

 

 そこで、例えば、大学で歴史を研究した場合、「大学で歴史を学んだ結果知ったこととして、『歴史は繰り返す』というのがある。一度目は悲劇で二度目が茶番かは知らんけど。だから、自分が何か新しいことを始める際、類似の例を探して調べることによって、類似の例で失敗したことを再現しないようにしている。」などと自分が関与した研究・調査などを例として活用した上で説明すれば、「高等教育で歴史を研究・学習したことを社会生活に活用することができる」という主張を相当程度の説得力がある形で説明できるかもしれない。

 

 

 なお、哲学と歴史を取り上げたが、経済学や社会科学からも学べそうなことはありそうである。

 波及効果とか相互連関とか

 または、数学であっても同様なことを見出せるかもしれない。

「私が学んだ線形代数というのは、『変数が多い(次元が多い)場合にその状況を平面や空間のように把握するための技術』であり、以下略」とか。

 

 現時点ではこのようなことを言葉にしていないが、機会があれば言語化しておくと意識的に活用したり、他人に説明したりできるかもしれない。

 暇があればやってみようかと考えている。

 

 

 ただ、この「学んだことを活かす」ということ自体、なにやら日本教的なものとの相性が悪いような気がしないではない

 しかし、このような相性に関する仮説に気付いたり、この仮説について検証できることも大学で数学等を学んだ成果であるけれども。

 

 

 以上、ふと気づいたこと、考えたことについて備忘の為にこのブログにメモとして残しておく。

 では、今回はこの辺で。

司法試験の過去問を見直す20 その9

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験・論文式試験の平成10年度憲法第1問をみていく。

 ただ、前回同様、今回は本問を検討していて気になったことを見ていく。

 

12 裁量について

 本問を読んでいて気になったのが、「裁量」という言葉である。

 もちろん、この「裁量」という言葉はこれまでもたびたび登場している。

 

 この点、裁判所が行使する司法権の限界の1つにこの「裁量」がある

 そして、この裁量の根拠となるものは、必ずしも1つに限られない。

 憲法や法令上の規定を根拠としたり、専門的判断が可能であることが根拠であったり、と様々である。

 

 当然だが、「裁量がある」ということは「一定の範囲で選択肢がある」ことを意味する。

 そのため、その裁量の範囲内である限り当不当の問題として処理され、司法審査はなされず、合憲・合法となると言われている。

 

 以上の観点から見れば、「裁量があるならば合法(合憲)」というイメージがつく。

 そして、このイメージから考えれば、神戸高専剣道実技拒否事件は例外ということになるだろう。

 もちろん、教育的専門知識を有するからという理由で「棄教か迫害(退学)か」を生徒に迫る裁量(選択肢)が教育機関にあるとは考えにくいので、この結論は当然の結果とも言いうるが。

 

平成7年(行ツ)74号進級拒否処分取消、退学命令処分等取消事件

平成8年3月8日最高裁判所第二小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/882/055882_hanrei.pdf

(いわゆる「神戸高専剣道実技拒否事件最高裁判決」)

 

 ところで、この最高裁判決では学校の裁量を肯定する一方で、その直後に「慎重な配慮を要する」旨述べている。

 

(以下、「神戸高専剣道実技拒否事件最高裁判決」から引用、セッション番号などは省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 高等専門学校の校長が学生に対し原級留置処分又は退学処分を行うかどうかの判断は、校長の合理的な教育的裁量にゆだねられるべきものであり、裁判所がその処分の適否を審査するに当たっては、校長と同一の立場に立って当該処分をすべきであったかどうか等について判断し、(中略)、校長の裁量権の行使としての処分が、全く事実の基礎を欠くか又は社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超え又は裁量権を濫用してされたと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである(中略)。

 しかし、退学処分は学生の身分をはく奪する重大な措置であり、学校教育法施行規則一三条三項も四個の退学事由を限定的に定めていることからすると、当該学生を学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って退学処分を選択すべきであり、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要するものである(中略)。

 また、原級留置処分も、(中略)同様に慎重な配慮が要求されるものというべきである。

 そして、前記事実関係の下においては、以下に説示するとおり、本件各処分は、社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものといわざるを得ない。

(引用終了)

 

 この裁量を肯定した直後にその裁量を限定するような書き方を見て、国籍法違憲判決が頭をよぎった。

 この判決は目的と手段の間の「合理的関連性」の有無で違憲審査を行う旨述べた後、次のように述べた上、事実上実質的関連性がないことを理由に法令違憲判決を下した。

 

平成19年(行ツ)164号国籍確認請求事件

平成20年6月4日最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「国籍法違憲判決」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/416/036416_hanrei.pdf

 

(以下、「国籍法違憲判決」から引用、セッション番号などは省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 立法府に与えられた上記のような裁量権を考慮しても,なおそのような区別をすることの立法目的に合理的な根拠が認められない場合,又はその具体的な区別と上記の立法目的との間に合理的関連性が認められない場合には,当該区別は,合理的な理由のない差別として,同項に違反するものと解されることになる。

(中略)

 したがって,このような事柄をもって日本国籍取得の要件に関して区別を生じさせることに合理的な理由があるか否かについては,慎重に検討することが必要である

(引用終了)

 

 このように見ると、「合理性」という言葉と同じように「裁量」という言葉も幅のある概念なのかもしれない

 

 

 さて、これまでの流れを見ていて、郵便法違憲判決が頭の片隅によぎった。

 

平成11年(オ)1767号損害賠償請求事件

平成14年9月11日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/038/057038_hanrei.pdf

(いわゆる「郵便法違憲判決」)

 

 この判決の興味深い点は、憲法上定められた「法律の定めるところによる」に対する解釈で意見が対立したことである。

 

 まず、判決の記載から確認する。

 最高裁判所は国家賠償請求権を法律によって制限できる場合について次のように述べた。

 

(以下、郵便法違憲判決から引用、セッション番号省略、文章は各文毎に改行、一部省略、強調は私の手による)

 憲法17条は,「何人も,公務員の不法行為により,損害を受けたときは,法律の定めるところにより,国又は公共団体に,その賠償を求めることができる。」と規定し,(中略)法律による具体化を予定している。

 これは,(中略),公務員のどのような行為によりいかなる要件で損害賠償責任を負うかを立法府の政策判断にゆだねたものであって,立法府に無制限の裁量権を付与するといった法律に対する白紙委任を認めているものではない。

 そして,公務員の不法行為による国又は公共団体の損害賠償責任を免除し,又は制限する法律の規定が同条に適合するものとして是認されるものであるかどうかは,(中略),当該規定の目的の正当性並びにその目的達成の手段として免責又は責任制限を認めることの合理性及び必要性を総合的に考慮して判断すべきである。

(引用終了)

 

 規範部分を見ると、国家賠償請求権を法律で制限した場合の審査基準は①目的の正当性、②手段の合理性、③手段の必要性によって判断すると述べている。

 この基準は、森林法違憲判決で示された財産権の制限に関する審査基準よりも厳格である。

 

 ところで、「法律の定めることにより」という部分を「(憲法が)立法裁量を認めたものである」と解釈したこの判決に対して「これは蛇足かつ有害である」と個別意見で批判する裁判官らが現れた。

 批判的な意見を述べたのは、当時の選挙訴訟で多数意見判決や国会に対して批判的な意見を展開していた福田裁判官(行政官出身)と深澤裁判官(弁護士出身)である。

 この意見を引用しよう。

 

(以下、福田裁判官らの意見から引用、セッション番号省略、文章は各文毎に改行、一部省略、強調は私の手による)

 郵便法68条,73条の合憲性を判断するに当たって,憲法17条は,字義どおり,公務員の不法行為に基づく損害賠償請求は,法律が具体的に定めるところにより,その賠償を求めることができると規定していると解すれば必要かつ十分であり,これに加えて立法府白紙委任にわたらない範囲での裁量権を認めた規定であるかどうかを論ずる必要はないのである。

 なぜならば,このように論ずることは,憲法上の権利について,「法律の定めるところにより」とあれば直ちに国会の広範な立法「裁量権」が認められ,司法はそれを前提として「違憲立法審査権」を行使すれば足りるとの考えにつながるものであって,(中略),憲法に定められた三権分立に伴う司法の役割を十分に果たさない結果を招来することとなりかねないからである。

(中略)

 最高裁判所憲法判断は,立法府の「裁量権」の範囲とは関係なく,客観的に行われるべきものであり,多数意見の論理構成は,将来にわたって憲法17条についての司法の憲法判断姿勢を消極的なものとして維持する理由になりかねず,そのような理由付けに同調することはできない。

(引用終了)

 

 なお、この意見において選挙訴訟で福田裁判官自らが述べた追加反対意見を参照している。

 この意見のうち、重要な部分を引用してみよう。

 

平成11年(行ツ)第241号選挙無効請求事件

平成12年9月6日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/775/054775_hanrei.pdf

 

(以下、上記選挙訴訟における福田裁判官の追加反対意見から引用、セッション番号は省略、各文毎に改行、一部中略、強調は私の手による)

 そもそも違憲立法か否かを判断するに当たっては、憲法の諸規定に反しないか否かの観点から行われるべきことは当然であって、憲法に「選挙に関する事項は、法律でこれを定める」(47条)とあることをもって国会に広範な裁量権が認められると解するならば、それは事実上その法律によって憲法の定めるところを変更ないし譲歩させることを認めるに等しい。

 そうであれば、結局のところ、司法に与えられた違憲立法審査権の行使は、憲法の中に「法律による」という規定があるか否かで内容が異なる二重の基準で行われることになる。

 憲法の保障する基本的人権は、憲法に「法律による」と記されているか否かを問わず、ほとんどの場合法令によってその内容が具体化されているのが現実であり、具体的な法律が憲法に合致しているか否かの審査の基準は、憲法に「法律による」と規定されているか否かによって異なるものではない。

(引用終了)

 

 なお、この意見に対して、滝井裁判官(弁護士出身)が反論している。

 

(以下、滝井裁判官の補足意見から引用、セッション番号省略、文章は各文毎に改行、一部省略、強調は私の手による)

 多数意見は,憲法17条が規定する「法律の定めるところにより」の意義について,「公務員のどのような行為によりいかなる要件で損害賠償責任を負うかを立法府の政策判断にゆだねたものであって,立法府に無制限の裁量権を付与するといった法律に対する白紙委任を認めているものではない」と判示している。

 福田,深澤両裁判官は,この部分について,立法府に極めて広い裁量を認めているとの疑念を残す余地があると懸念しているのではないかと思われる。

 しかしながら,多数意見をそのように解するのは,適当ではない。

 多数意見は,上記引用部分に先立って,「国又は公共団体が公務員の行為による不法行為責任を負うことを原則とした上」としているのである。

 この部分と併せて読めば,憲法17条の趣旨は,国家無答責の考えを廃し,被害者の救済を全うするために国又は公共団体が賠償責任を負うべきことを前提にし,(中略),具体的な責任の範囲について,それぞれの行為が行われた具体的状況を勘案して,一定の政策目的によって例外的に加重若しくは軽減し,又は免除することのあり得ることを認めたものと解することができるのであって,福田,深澤両裁判官の懸念は当たらない。

(引用終了)

 

「この懸念は当たらない」というのは主張としては弱いような・・・。

 もっと強い主張、例えば、最高裁判所の解釈はこのようなものであるため、福田裁判官のような解釈をすることは最高裁判所の解釈とは適合しない」と述べた方がよかったような・・・。

「解することができる」では「じゃあ別の解釈、例えば、福田裁判官らのように考えてもいいのね」と曲解してしまうような・・・。

 ちなみに、このような曲解が生じると批判したのが、平成16年1月の選挙訴訟における福田裁判官の追加反対意見である(この意見は次の読書メモで引用したため、ここでの引用は省略)。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 さて、どう考えるべきなのだろう。

 この点、「法律の定める」という規定によって与えられる立法裁量の範囲を(ほぼ)一定とするのであれば、憲法47条と憲法17条の裁量の範囲が等しくなり、ひいては、福田裁判官らが述べた懸念が的中するということは十分ありうると考えられる。

 実際、投票価値という比較的重要な権利・利益の区別について広範な立法裁量を認める判決を出していたのだから、この懸念は全く当たってないとまでは言えないだろう。

 しかし、現実の立法裁量が常に一定かと言われると、それは現実と異なるように見える

 例えば、憲法17条と憲法29条2項は共に法律で定めることが規定されているが、両者の裁量は同じではない。

 このように「裁量」が権利によって異なるのであれば、最高裁判所としては滝井裁判官が述べている通りなのかもしれない。

 まあ、言葉の一義性を重視する私自身は福田裁判官と同様の感想を持つわけだけれども。

 

 

 では、今回はこの辺で。

 次回は、政教分離日本教について考えたことを述べ、この問題から離れることにする。

司法試験の過去問を見直す20 その8

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験・論文式試験の平成10年度憲法第1問をみていく。

 ただ、今回から本問の検討を通じて気になったことをみていく。

 なお、気になった点が3点あるため、今回、次回、次々回と3回に分けてみていくことにする。

 

11 保障される権利の選び方

 今回の過去問の検討で、Xらの発表の自由を学習権によって保障される場合と信教の事由によって保障される場合の2つの場合についてみてきた。

 また、その前段階で表現の自由や学問の自由によって保障されると考えることがやりにくい点もみてきた。

 

 

 では、その背後にある基準にはどのようなものがあるのだろうか

 つまり、「『複数の権利によって保障されうる』と考えるときの権利の選び方」はいかなる基準によって決められるべきなのだろうか。

 これまでに登場した過去問を考慮しながらこの点を検討する。

 

 まず、保障されると考えられる権利が複数あった場合の過去問として、「寄付の拒否」が問題となった平成20年度の過去問、「営利的言論の自由」が問題になった平成18年度の過去問、「政治献金の自由」が問題となった平成13年度の過去問、「教育の自由」が問題になった平成12年度の過去問がある。

 これらの問題は「ある種お金(経済活動や財産)の問題として考えるべきか否か」が問題となった。

 また、これらの問題は「経済活動または財産権の問題ではなく、精神的自由(思想良心の自由、表現の自由、教育の自由)として考える」という方向で共通している。

 そこで、「経済的自由と精神的自由の両面が問題となった場合、精神的自由の要素がある限り精神的自由で考える」という基準を抽出することができ、また、この汎用性は高いのではないかと考えられる。

 

 

 もっとも、本問ではこの基準を用いることはできない。

 何故なら、本問では経済活動とは無縁だからである。

 では、この場合はどのように考えるべきか。

 もちろん、精神的自由に属するのだから、どれを選んでも結論において大差ない、とは言えるだろうけれども。

 

 今回候補となった保障される憲法上の権利は、表現の自由、信教の自由、学問の自由、学習権の4つである。

 そして、それぞれを検討した結果は次のとおりである。

 

表現の自由

(根拠)表現行為を伴う

’(問題点)発表内容が一切考慮されていない

・学問の自由

(根拠)「研究発表」と称して行われる

(問題点)対外的に見た場合、Xらの行為を「学問研究の発表」と評価されにくい

・信教の自由

(根拠)自分の信じる宗派の紹介、宣伝を兼ねている

(問題点)この権利を持ち出すこと自体、権利の制限がより正当化されかねない

・学習権

(根拠)教育の場での発表行為である、生徒である

(問題点)彼らの信仰を軽く見ていないか

 

 今回、検討から除外した学問の自由と表現の自由の問題点を抽象化すれば、「一般化されすぎている」と「対外的にそのように評価されていない」になる。

 とすれば、保護すべき権利を決める際には、「具体的に行為を見る」・「社会や第三者の行為に対する評価を考慮する」の2点が重要になる。

 うち、後者の点は重要になるだろう。

 

 そして、後者の要素を考慮した結果、学習権と信教の自由が選ばれた。

 では、この二者を分ける要素は何か。

 それは、「行為の目的」になるだろう。

 つまり、彼らの意図を「宗派の宣伝」ととらえるなら信教の自由を選ぶべき、ということになるだろう。

 しかし、(偏見によるものか否かはさておき)私自身が「そんなことを文化祭とはいえあからさまにやるだろうか。現段階でそこまでの意図はないのではないか」などと考えた結果、「発表の練習の機会」ととらえて学習権の問題として考えた、ということになる。

 いずれにせよ、ここで「行為の目的」が重要な要素になっていることは間違いない。

 

 以上、2つの要素を抽出すると、「行為の目的」と「行為に対する社会や第三者の評価」になる。

 どうやら、この2点が保護される憲法上の権利を考える上で重要な要素となるようである。

 

 

 なお、これは経済的自由権か精神的自由権か」の区別でも使えるかもしれない

 例えば、私立の幼稚園を運営する目的は、教育であって金儲けではないだろうから、これは教育の自由によって保障されると考えた方がいいことになる(平成12年度の過去問)。

 また、政治献金を拒否する自由は財産の譲渡というよりは特定の政党を支持をしないという要素が強くなるため、財産権よりも(政治的)思想・良心の自由などによって考えた方がいいことになる(平成13年度の過去問)。

 さらに言えば、社会福祉団体への寄付の拒否も同じようなものかもしれない(平成20年度の過去問)。

 

 もっとも、この発想で微妙になるのが、営利的言論の自由である(平成18年度の過去問)。

 営利的言論の場合、当事者の目的は経済活動、手段が表現活動となる。

 また、コマーシャルは宣伝という経済活動であることはよく知られている。

 このように考えた場合、上の基準に従うなら営利的言論は憲法22条1項によって保障されると考えるべきようにも考えられる。

 どうなのだろう。

 

 

 以上、保護される権利の選び方において重要になる要素を抽出してみた。

 客観(共同主観)と主観(目的)の相関で決せられる、というのは当然と言えば当然であるが、意識して使いこなせれば有益ではないか、と考えられる。

 

 次は、「裁量」という言葉について見ていく予定だが、そこそこの分量になっているので、これについては次回に。

司法試験の過去問を見直す20 その7

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験・論文式試験の平成10年度憲法第1問をみていく。

 

10 信教の自由から見たXらの発表に対する制限の違憲

 今回から、本問で制限される権利を信教の自由(憲法20条1項)とした場合にどうなるかを考えてみる。

 

 この点、本問を信教の自由に対する制限として考えたとしても、論述の構成の大枠は学習権の制限と変わらない。

 そのため、その構成に従い、最初に、Xらの自由が信教の自由によって保障されるかどうかを検討する。

 もっとも、学習権のように別の権利による保障の是非までは検討しない。

 Xらの自由が信仰と関連性があることは明白であり、保障されないという結論はまずないからである。

 

 以上、論述形式で書き切ってしまおう。

 

 

 まず、本問でYの措置によって制限されたXらの研究発表の自由は信仰の自由(憲法20条1項)によって保障されると言えるか。

 この点、Xらが発表しようとしたテーマは自らの信仰する宗派の発展の歴史である。

 そのため、Xの発表する行為は、自分の信仰する宗派を外部に紹介・説明する行為と言える。

 そこで、Xらの行為は宗教的行為の自由の一部に属するため、信教の自由として保障され、Xらの発表を認めないYの措置は信教の自由に対する制限となる。

 

 

 以上、憲法上の権利として保障される点を確認した。

 ただ、信教の自由として考えた場合、学習権とは異なる点が見えてくる。

 

 この点、信教の自由は、内心における信仰の自由、宗教的行為の自由、宗教的結社の自由の3つの要素を持つと言われている。

 ちょうど、学問の自由が、学問研究の自由と研究成果の発表の自由と教授の自由という3つの要素を持つように。

 しかし、信教の自由を持ち出た場合、Xらの行為は宗教的行為の自由に含まれるため、彼らの行為により宗教性が生じることになる

 その結果、教育の宗教的中立性との衝突の可能性がより大きくなり、強度な制限を課すことも許されるように見える。

 そこで、本問で信教の自由を持ち出すことは果たしてXらの有利になるのだろうか、ということが気になっている点である。

 むしろ、Y側こそこのような土俵に持ち込んだ方がよく、Xらがこれを持ち出すのはY側の思うつぼではないのか、と。

 この疑問がこれまでの検討で信教の自由を持ち出さずに学習権を持ち出した理由である

 

 

 ところで、憲法上の権利の保障を認めても外部的な行為が伴う限りその保障が絶対無制限にならないことは信教の自由であっても例外はない。

 そこで、今回のYの措置は合理的な制限と言えるか、権利の重要性、制限される権利の程度、裁量の有無、という3要素を用いて違憲審査基準を定立する。

 こちらも論述形式で一気に書き上げてみよう。

 

 

 もっとも、かかる信教の自由も外部的行為を伴うときは絶対無制約とは言えず、人権相互の矛盾衝突を回避・調整するための実質的公平の原理たる「公共の福祉」(憲法12条後段、13条後段)の制約に服する。

 そこで、本問Yの措置は公共の福祉に基づく合理的な制限と言えるか、違憲審査基準が問題となる。

 

 この点、ある個人が生きていく際の拠って立つ位置を決める際に、信仰は極めて重要な役割を担うものであるから、その信仰に基づく宗教的行為の自由を保障することは個人の尊厳や人格的生存を確保するために極めて重要である。

 このような権利の重要性を考慮すれば、その制限の違憲性については厳格な審査基準をもって判断すべきとも考えられる。

 しかし、公立高等学校における教育は、教育に関する専門的知識を持つ現場の学校関係者が、目の前にある可塑性の高い生徒にあわせながら行うことが想定されている。

 とすれば、教育現場においては現場の最高責任者たる校長の裁量を認めざるを得ない。

 また、制限される宗教的行為に関しても、その行為・不作為が教義上の義務となっているものもあれば、望ましい行為とされているものもあり、その重要性は同一ではない。

 そして、自己の宗派について紹介することは学校外でも十分行えるものである。

 とすれば、権利の制限の程度は付随的なものと言わざるを得ない。

 以上を考慮すれば、学校内において自分の信仰する宗派を紹介する自由に対する制限は緩やかなものとならざるを得ない。

 つまり、校長の判断が著しく妥当性を欠くような裁量の濫用・逸脱に当たるような場合に限り、その措置は違憲になるものと解する

 

 

 この点、公立高校の教育現場における裁量と権利の制限の程度を考慮すれば、信教の自由から見ても、それほど審査基準を厳しくすることはできないと考えられる。

 その意味では、学習権と同様である。

 

 また、本問の審査基準は神戸高専剣道拒否事件との兼ね合いを考慮しても不合理なものではない。

 まず、本問における制限される行為は「自分の宗派の歴史に関するの発表」であり、教義との兼ね合いが乏しい一方、学校の外側で行うということが可能である。

 これに対し、神戸高専剣道拒否事件で制限される不作為は「教義上禁止されている剣道」であるから教義との兼ね合いが強いうえ、剣道を実践してしまったら他の場所でどうこうという代替手段がない。

 その結果、権利の制限の程度が両者で大きく異なる。

 ならば、今回の違憲審査基準が緩やかになること自体は問題なかろう。

 

 

 違憲審査基準を立てたあとのあてはめは学習権の場合と同様である。

 つまり、Xの発表を認めることが教育の政治的中立性の原則に反するというYの主張の合理性を検討することになる。

 そして、その際に、政教分離原則から丁寧に論じることになる。

 その結果、「YがXらの発表を許可することが政教分離原則違反にならないとしても、政教分離原則から無関係であるとまでは言えない」ため、Yの判断が著しく不合理なものとまでは言えず、本問のYの措置は信教の自由に対する合理的な制限として違憲にならないと考えることになる。

 

 

 ところで、学習権によりXらの発表が保障されると考えた場合、YがXらの発表を許可することは教育の宗教的中立性に反しない旨の結論になった。

 しかし、信教の自由によりXらの発表が保障されると考えた場合、YがXらの発表を許可することは教育の宗教的中立性に反するということはありうるのだろうか

 私自身、ありうるのではないかと考えている。

 

 つまり、Xらの発表を宗教的行為として保障されるとするならば、Xらの発表の目的も主として宗教的なものと評価されることになる。

 その評価を承知の上で校長が校内での発表を許可を与えれば、校長の主観的な意図として文化祭を盛り上げる、生徒に多様な知識に触れる機会を与えるといった世俗的目的であったとしても、「Xらの宗派に一定の関心を持たせることを通じて文化祭を盛り上げるということだから、その世俗的目的を達成する手段に宗教的意図がある」となって、許可の目的が宗教的意義を持ちかねない。

 また、対外的に公開される文化祭で自己の宗派の宣伝目的を持ったXの発表を許可すれば、たとえそのテーマが「宗派の発展と歴史」として教義から離れたものであるとしても、Xらの宗派に対する援助・助長という効果が生じかねないだろう。

 このように評価して、Xの許可が政教分離原則に反するともっていくことは可能ではないかと考えられる。

 この意味では、教義に反する剣道を強制されそうになった(そして、それを拒否したために退学処分となった)神戸高専剣道実技拒否事件とは事案が異なる。

 

 

 このように考えると、様々な意味で、本問と最高裁の事件は違うのだなあ、と気づくことになる。

 この意味で、信教の自由から本問を考えてみる意味はあった。

 

 以上で本問自体の検討は終わり。

 次回は、本問を通じて考えたことについてみていく。

司法試験の過去問を見直す20 その6

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験・論文式試験の平成10年度憲法第1問をみていく。

 

9 神戸高専剣道実技拒否事件を読む

 前回までは「Xらの発表が学習権によって保障される」ことを前提にYの措置の違憲性について検討した。

 今回から「Xらの発表が信仰の自由によって保障される」ことを前提にYの措置の違憲性について検討する。

 

 

 もっとも、先に確認したい最高裁判所判例があるので、これをみていく。

 

平成7年(行ツ)74号進級拒否処分取消、退学命令処分等取消事件

平成8年3月8日最高裁判所第二小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/882/055882_hanrei.pdf

(いわゆる「神戸高専剣道実技拒否事件」最高裁判決)

 

 この事件は、自己の信仰を理由に工業高等専門学校の体育の中の剣道(自己の信仰に反するもの)の受講を拒否した結果、原級留置処分と退学処分という不利益を受けたため、その処分の取り消しを求めて訴えた事件である。

 まさに、「退学(迫害)か棄教か」という形になってしまった事件である。

 

 この点、この事件の第一審は退学処分について合憲(合法)と判断し、控訴審と上告審は退学処分を違憲(遺法)とした。

 

 

 まず、最高裁判所が認定した事実関係を確認する。

 

(以下、上述の最高裁判決から引用、各文毎に改行、セッション番号などは省略、一部中略、強調は私の手による)

 被上告人は、平成二年四月にD工業高等専門学校(以下「D高専」という。)に入学した者である。(中略)

 D高専では、保健体育が全学年の必修科目とされていたが、平成二年度からは、第一学年の体育科目の授業の種目として剣道が採用された。(中略)

 被上告人は、両親が、聖書に固く従うという信仰を持つキリスト教信者である「E」であったこともあって、自らも「E」となった。

 被上告人は、その教義に従い、格技である剣道の実技に参加することは自己の宗教的信条と根本的に相いれないとの信念の下に、D高専入学直後で剣道の授業が開始される前の平成二年四月下旬、他の「E」である学生と共に、四名の体育担当教員らに対し、宗教上の理由で剣道実技に参加することができないことを説明し、レポート提出等の代替措置を認めて欲しい旨申し入れたが、右教員らは、これを即座に拒否した

 被上告人は、実際に剣道の授業が行われるまでに同趣旨の申入れを繰り返したが、体育担当教員からは剣道実技をしないのであれば欠席扱いにすると言われた。

 上告人は、被上告人らが剣道実技への参加ができないとの申出をしていることを知って、同月下旬、体育担当教員らと協議をし、これらの学生に対して剣道実技に代わる代替措置を採らないことを決めた。

 被上告人は、同月末ころから開始された剣道の授業では、服装を替え、サーキットトレーニング、講義、準備体操には参加したが、剣道実技には参加せず、その間、道場の隅で正座をし、レポートを作成するために授業の内容を記録していた

 被上告人は、授業の後、右記録に基づきレポートを作成して、次の授業が行われるより前の日に体育担当教員に提出しようとしたが、その受領を拒否された。

(中略)

 その結果、体育担当教員は、被上告人の剣道実技の履修に関しては欠席扱いとし、剣道種目については準備体操を行った点のみを五点(学年成績でいえば二・五点)と評価し、第一学年に被上告人が履修した他の体育種目の評価と総合して被上告人の体育科目を四二点と評価した。(中略)

 そのため、平成三年三月二三日開催の第二次進級認定会議において、同人らは進級不認定とされ、上告人は、同月二五日、被上告人につき第二学年に進級させない旨の原級留置処分をし、被上告人及び保護者に対してこれを告知した。

 平成三年度においても、被上告人の態度は前年度と同様であり、(中略)、表彰懲戒委員会が開催され、(中略)、右原級留置処分を前提とする退学処分を告知した。

 被上告人が、剣道以外の体育種目の受講に特に不熱心であったとは認められない

 また、被上告人の体育以外の成績は優秀であり、授業態度も真しなもので あった。 

 なお、被上告人のような学生に対し、レポートの提出又は他の運動をさせる代替措置を採用している高等専門学校もある

(引用終了)

 

 いささか過激なことを言ってしまうが、行政権側の肩を持つことの多い裁判所(一般に、第一審が生徒の肩を持ち、控訴審がそれをひっくり返して行政の肩を持ち、最高裁判所控訴審判決を追認する)が、第一審の判決をひっくり返してまでこの事件で学校側を負かして生徒を救済した理由は何か。

 その理由は、上の事実関係のうちの強調した部分にあるのではないか、と考えられる。

 なお、この最高裁判決には、当時の選挙訴訟で先進的な主張をしていた福田博裁判官が合議体に加わっている。

 

 

 ところで、本事件の争点は2点である。

 1つ目は退学処分の合憲性であり、2つ目が代償措置を採用することが政教分離原則に反しないか。

 以下、これらの点を確認する。

 

 まず、1点目については裁判所は次のような規範を立てた。

 

(以下、エホバの証人信徒原級留置処分事件最高裁判決から引用、各文毎に改行、セッション番号などは省略、一部中略、強調は私の手による)

 高等専門学校の校長が学生に対し原級留置処分又は退学処分を行うかどうかの判断は、校長の合理的な教育的裁量にゆだねられるべきものであり、裁判所がその処分の適否を審査するに当たっては、校長と同一の立場に立って当該処分をすべきであったかどうか等について判断し、その結果と当該処分とを比較してその適否、軽重等を論ずべきものではなく、校長の裁量権の行使としての処分が、全く事実の基礎を欠くか又は社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超え又は裁量権を濫用してされたと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである(中略)。

(引用終了)

 

 こうやって見ると、最高裁判所はいわゆる明白性の基準によって処分の違法性・違憲性を判断するように見え、その結果、違憲になることはほとんどないように見える。

 事実、第一審はこれに従った感がある。

 

 しかし、以上を前提にしながらも、最高裁判所は原級留置処分や退学処分に関する裁量に縛りをかけていく

 

(以下、エホバの証人信徒原級留置処分事件最高裁判決から引用、各文毎に改行、セッション番号などは省略、一部中略、強調は私の手による)

 しかし、退学処分は学生の身分をはく奪する重大な措置であり、学校教育法施行規則一三条三項も四個の退学事由を限定的に定めていることからすると、当該学生を学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って退学処分を選択すべきであり、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要するものである(中略)。

 また、原級留置処分も、(中略)、卒業を遅らせる上、(中略)退学処分にもつながるものであるから、その学生に与える不利益の大きさに照らして、原級留置処分の決定に当たっても、同様に慎重な配慮が要求されるものというべきである。

(引用終了)

 

 そして、最高裁判所は次のような判断をして、退学処分、原級留置処分の相当性を否定した。

 

(以下、エホバの証人信徒原級留置処分事件最高裁判決から引用、各文毎に改行、セッション番号などは省略、一部中略、強調は私の手による)

 公教育の教育課程において、学年に応じた一定の重要な知識、能力等を学生に共通に修得させることが必要であることは、教育水準の確保等の要請から、否定することができず、保健体育科目の履修もその例外ではない。

 しかし、高等専門学校においては、剣道実技の履修が必須のものとまではいい難く、体育科目による教育目的の達成は、他の体育種目の履修などの代替的方法によってこれを行うことも性質上可能というべきである

 他方、前記事実関係によれば、被上告人が剣道実技への参加を拒否する理由は、被上告人の信仰の核心部分と密接に関連する真しなものであった。(中略)

 したがって、被上告人は、信仰上の理由による剣道実技の履修拒否の結果として、他の科目では成績優秀であったにもかかわらず、原級留置、退学という事態に追い込まれたものというべきであり、その不利益が極めて大きいことも明らかである。

 また、本件各処分は、(中略)、被上告人がそれらによる重大な不利益を避けるためには剣道実技の履修という自己の信仰上の教義に反する行動を採ることを余儀なくさせられるという性質を有するものであったことは明白である。(中略)

 また、被上告人が、自らの自由意思により、必修である体育科目の種目として剣道の授業を採用している学校を選択したことを理由に、先にみたような著しい不利益を被上告人に与えることが当然に許容されることになるものでもない

 被上告人は、レポート提出等の代替措置を認めて欲しい旨繰り返し申し入れていたのであって、剣道実技を履修しないまま直ちに履修したと同様の評価を受けることを求めていたものではない。

 これに対し、D高専においては、被上告人ら「E」である学生が、信仰上の理由から格技の授業を拒否する旨の申出をするや否や、剣道実技の履修拒否は認めず、代替措置は採らないことを明言し、被上告人及び保護者からの代替措置を採って欲しいとの要求も一切拒否し、剣道実技の補講を受けることのみを説得したというのである。

(引用終了)

 

 ・・・なんか、この事件、はじめに代償措置の申し出を一蹴したために引き返せなくなったような感じがしないではないが、どうなのだろう。

 

 以上、処分が相当性を逸脱している点を確認した。

 さて、代償措置、つまり、処分の必要性についてはどうだろうか

 この点について最高裁判所は次のように述べている。

 

(以下、エホバの証人信徒原級留置処分事件最高裁判決から引用、各文毎に改行、セッション番号などは省略、一部中略、強調は私の手による)

 信仰上の理由に基づく格技の履修拒否に対して代替措置を採っている学校も現にあるというのであり、他の学生に不公平感を生じさせないような適切な方法、態様による代替措置を採ることは可能であると考えられる。

 また、履修拒否が信仰上の理由に基づくものかどうかは外形的事情の調査によって容易に明らかになるであろうし、信仰上の理由に仮託して履修拒否をしようという者が多数に上るとも考え難いところである。

 さらに、代替措置を採ることによって、D高専における教育秩序を維持することができないとか、学校全体の運営に看過することができない重大な支障を生ずるおそれがあったとは認められない(中略)。

 そうすると、代替措置を採ることが実際上不可能であったということはできない。

(引用終了)

 

 そして、代償措置を行うことが政教分離原則違反にあたるという高校側の主張を次のように述べて一蹴した。

 また、その際には、津地鎮祭訴訟最高裁判決を引用している(言及個所の引用は省略)。

 

(以下、エホバの証人信徒原級留置処分事件最高裁判決から引用、各文毎に改行、セッション番号などは省略、一部中略、強調は私の手による)

 信仰上の真しな理由から剣道実技に参加することができない学生に対し、代替措置(中略)の成果に応じた評価をすることが、その目的において宗教的意義を有し、特定の宗教を援助、助長、促進する効果を有するものということはできず、他の宗教者又は無宗教者に圧迫、干渉を加える効果があるともいえないのであって、およそ代替措置を採ることが、その方法、態様のいかんを問わず、憲法二〇条三項に違反するということができないことは明らかである。

 また、公立学校において、学生の信仰を調査せん索し、宗教を序列化して別段の取扱いをすることは許されないものであるが、学生が信仰を理由に剣道実技の履修を拒否する場合に、学校が、(中略)、当事者の説明する宗教上の信条と履修拒否との合理的関連性が認められるかどうかを確認する程度の調査をすることが公教育の宗教的中立性に反するとはいえないものと解される。

(引用終了)

 

 最高裁判所がこの辺に触れたのは第一審の影響があるだろう。

 もちろん、高校側からもそのような主張はあっただろうし。

 

 

 ところで、控訴審(引用元は次のウェブサイト参照)では、重要な争点は代償措置の有無に尽きると述べた上で本事件の検討に移っている。

 また、処分の適法性については比較衡量によって判断する旨述べており、この点は裁量論を用いた最高裁判所と異なる(ように見える)。

 さらに、代償措置に関する学校側の態度について次のように述べている。

 一部紹介する。

 

www.cc.kyoto-su.ac.jp

 

(以下、同事件控訴審判決から引用、セッション番号は省略、各文毎に改行、強調は私の手による)

 本件において、本件各処分が適法であったを否かに関する争点は、神戸高専において、控訴人に対し、代替措置をとるべきであったかどうかに収斂されるのである。

(中略)

 憲法が保障する信教の自由は、(中略)、信仰が外部に対し積極的又は消極的な形で表される場合に、それによって他の権利や利益を害するときは、常にその自由が保障されるというものではない。

 そして、このような場合には、信教の自由を制約することによって得られる公共的利益とそれによって失われる信仰者の利益について、それぞれの利益を法的に認めた目的、重要性、各利益が制限される程度等により、その軽重を比較考量して、信教の自由を制限することが適法であるか否かを決すべきである

 したがって、本件においては、神戸高専が控訴人に対し剣道実技に代わる代替措置をとらなかったことによって保持しうる公共的な利益と控訴人が剣道実技の受講を拒否したことによって受けなければならなかった不利益、すなわち本件各処分との軽重を比較考量することとなる。

(中略)

 被控訴人は、平成2年度、3年度において、剣道実技の受講拒否を認めないとの方針を頑なに維持し、代替措置の可否についてはそもそも頭から検討の埒外に置いていたものである。

(引用終了)

 

 高等裁判所は学校側に対し、「お前ら(学校)、代償措置について云々言っておるが、そもそも、事件の当時、全く検討していないじゃね―か」と述べている。

 地裁でこういうことを言って原告側を勝たせ、控訴審でこれがひっくり返るということはあるとしても、今回はその逆である。

 よほどあれだったのだろうか。

 

 

 ところで、この事件の最高裁判決が平成8年、そして、本問は平成10年度に出題された過去問である

 だから、本問を見てこの事件が頭に浮かばなければ、そもそも論文式試験は受けられない。

 しかし、こうやって改めて事件を見ると、本事件と本問とはだいぶ違うな、という印象を受ける。

「似て非なるもの」と言えばいいだろうか。

 

 もちろん、本事件の最高裁判所の構成は非常に役に立つものであり、この構成を利用することは間違いない

 でも、参考にしていいのはそこまでなのかなあ、という感じがする。

 

 

 この点、本事件と本問の事実関係を比較してみると、次のようになる。

 

・問題となった行為

本事件、教義に反する行為の実践(作為)

本問、自己の宗派の歴史についての発表の禁止(不作為)

 

・行為がなされる予定の場所

本事件、高等専門学校(公立)の必修授業

本問、公立高等学校の文化祭

 

・生徒の不利益

本事件、退学処分

本問、おそらくなし

 

・行為と教義上の義務(信仰)との関係

本事件、教義と密接に関連

本件、教義との関連性は乏しい(発表内容は研究発表で題材は宗派の歴史)

 

・代償措置の検討の有無

本事件、なし

本問、なし

 

・代償措置の現実的可能性

本事件、あり

本問、あり

 

・学校の属性

本事件、公立の工業専門学校(原級留置処分は1年次)

本問、公立の高等学校

 

 こうやって見ると、本事件と本問とで共通する点は、学校が公立であること、中等教育であること、学校側が代償措置を検討していない一方、具体的な代償措置がありうることくらいであろうか。

 処分の大きさ、制限された行為は大きな違いがある。

 私が違和感を感じたのはこの辺なのかもしれない。

 

 

 以上、信教の自由から見た場合の検討をするため、参考になるであろう最高裁判所判例を確認した。

 次回は、本格的に本問の検討に移ることにする。