今日はこのシリーズの続き。
『小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。
12 第4章を読む_後編前半
前回、法家の思想による「法律」が近代立憲民主主義の「法律」と完全に異なることを確認した。
今回は、別の観点から近代的な思想と法家の思想の違いをみていく。
まず、近代法と法家の思想の違いとして重視している分野の違いがある。
つまり、近代法で中心になるのは民法などの市民法であるのに対し、法家の思想で重視しているのは刑法である。
その結果、両者の法システム自体が大きく異なることになる。
この点、民法は「Civil_Law」と訳されるところ、これは「世俗法」とも「市民法」とも訳すことができる。
そして、この世俗法の反対に位置するのが「教会法」となる。
このように、近代ヨーロッパにおいては、市民法と教会法、つまり、宗教法が分離していることになる。
なお、分離という観点から見れば、仏教も同様の特徴がある。
これに対して、儒教と法家の思想には、世俗法と宗教法という発想がない。
つまり、中国社会では世俗法と宗教法が一致している。
さらに、世俗法と宗教法が分離している仏教においては僧侶が存在する。
また、キリスト教の場合、僧侶はいてもいなくてもいいことになる。
これに対して、儒教と法教には僧侶に対応する身分がない。
そのため、仏法たる規範や戒律の解釈者たる僧侶の代わりを演じる人間が必要になる。
そして、その役割を果たしているのがユダヤ教の律法学者、イスラム教の法律家(ウラマー)、そして、中国社会の官僚である。
そして、官僚は君主の権力を行使する人間であり、君主側の人間である。
そのため、「法律は主権者たる国民を守るための盾である」という発想が中国に根付くことはなかった。
このことは、中国法が罪刑法定主義に至ることは原則としてないことを意味する。
この「罪刑法定主義」という発想は、フランス革命の人権宣言にも独立直後のアメリカ合衆国憲法にもある。
この罪刑法定主義という発想こそ人民を権力たるリヴァイアサンから守る盾となるからである。
もちろん、日本国憲法にもあるし、さらに言えば、大日本帝国憲法にさえあった。
この点、日本に関する点については条文も確認しておこう。
大日本帝国憲法第23条
日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ
日本国憲法第31条
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
一方、中国法は法家の思想の下で大いに発展していた。
また、罪刑法定主義の一歩前までいったこともあると言われている。
しかし、最後の一歩を超えることができなかった。
ところで、罪刑法定主義の目的は人民の権利保護にあるが、その手段は予見可能性の確保(罰せられるか罰せられないかが事前に予測できること)にある。
つまり、罪刑法定主義は権利保護と同時に目的合理的な行為を担保するための法、ということになる。
その罪刑法定主義が中国であと一歩のところで実現しない。
著者は、この点に中国法や中国人の法意識などの本質を見ることができる、と述べている。
以上が中国の刑法の話である。
では、民法についてはどうか。
だから、市民法はレッセ・フェールを前提としており、政治権力からの恣意的な介入を原則として認めない。
本書には記載がないが、そのことを示しているのがいわゆる「私的自治の原則」である。
この私的自治の原則は「個人は自らその意思を表示しない限り原則として私法上の義務を負うことはない」というもの。
罪刑法定主義が「法律なくして犯罪なし、法律なくして刑罰なし」ならば、私的自治の原則は「意思表示なくして私法上の義務なし」ということになる。
このように、私的自治の原則が私法上の権利保護を担保していることになる。
では、私法上の予見可能性・目的合理性を担保している発想は何か。
それは、これまでの読書メモで何度も触れてきた「近代的所有概念」である。
(参考となる読書メモとして次のものを取り上げておく)
近代的所有概念の特徴を簡単に述べると、次のようになる。
・所有者は所有物について絶対的な権利を持つ(所有権の絶対性)
・所有者と所有物の対応関係は原則として1対1である(所有権の一義的明確性)
・所有者は具体的な占有と異なり抽象的に判断される(所有権の抽象性)
これまで何回も触れたように、この「近代的所有概念」は資本主義になってから始まったもので、前近代社会には存在しなかった。
もちろん、中国社会や中国法にも。
その結果、中国社会における市場経済の作動が不可能、ないしは、著しく困難になっている。
この点、資本主義における矛盾を批判したケインズやマルクスでさえ、政治権力による恣意的な経済的介入の禁止は踏まえている。
というのも、目的合理的な経済政策・金融政策を実行に移したところで、レッセ・フェールを阻害するような権力の行使が頻繁に発生するならば、経済政策や金融政策の実効性が上がらないからである。
だから、政治権力による経済介入が簡単にできる社会では市場経済は作動しないし、ケインズやマルクスの話は役に立たない。
ケインズやマルクスに関するその辺の話は次の読書メモで述べたとおりである。
以上、近代社会の刑法や民法が中国法のそれと異なるところを見てきた。
ここからは「市場」について見てみる。
近代資本主義における市場は「契約」と「近代的所有概念」の上に立っている。
それゆえ、「契約」や「近代的所有概念」がなければ近代社会の市場はない、ということになる。
そこで、「契約」や「近代的所有概念」の意義が問題となる。
たとえ、アメリカ人やヨーロッパ人の場合は当然すぎて問題意識を持つことすらないとしても。
というのは、「契約」や「所有」に対する意識の違いこそが、中国人(社会)と中国に進出したアメリカやヨーロッパの企業のトラブルの原因になるのだから。
まず、「契約」とは何か。
この点、アメリカやヨーロッパがキリスト教社会であることから、この契約は「神からの契約」という形(モデル)を採用することになる。
それゆえ、「契約の絶対性」が導かれることになり、次の2つの原則が導かれることになる(この2つの点については次の読書メモが示す通り)。
1、契約は契約外の事情(人間関係等)からは独立していなければならない
2、契約は文章化されること等によってその内容が明確になっていなければならない
しかし、このような契約の特徴はユダヤ教・キリスト教・イスラム教のような絶対神との契約を前提としている宗教が持つものである。
中国のような社会においてこのような契約の特徴を持っている保障はない。
というよりも、これまでこの本を見てくれば、このような契約の特徴はないと言ってもいいだろう。
これまでの読書メモで見てきた通り、近代法を前提とする資本主義社会のルールは歴史上特異的なものである。
それゆえ、資本主義のルール、契約、近代的所有概念をあたかも自明視して取引に臨めば、トラブルが起きることは当然ともいえる。
本書では中国社会が対象となっているが、イスラム教社会においても次の読書メモで同様の検討をしている。
著者によると、中国社会の進出がトラブルによって失敗する最大の原因は「アメリカやヨーロッパの企業が資本主義のルールをあたかも『不磨の大典』の如く見ているから」となる。
その結果、資本主義のルールによって動かない中国人の行動様式が奇妙なものに見える。
もちろん、アメリカの場合、先の大戦のころにも日本人・日本社会に対しても同様のことを感じていたであろうが。
そして、当時の日本人・日本社会に対してやったように、無理やり資本主義のルールを中国に押し付ければどうなるか。
この点、規範がない日本人の場合はそれなりにうまくいった。
しかし、中国人には規範がしっかりある。
あとは、推して知るべし、となろう。
著者(小室先生)は言う。
「お互いのルールを尊重して双方が学ぶのではなく、『中国のルールは間違っているから、さっさと資本主義のルールに合わせないといけない』と一方的に言い放ってみよ。それは中国人がもっとも嫌う態度であるから、中国人も本気に相手をしないだろう。だから、資本主義のルールのユニークさを十分認識・体感せよ」と。
本書はここから近代的所有概念の理解に関する話題に移る。
ただ、この辺の話題はこれまでの読書メモの通りなので、重複する部分については簡単に見ていく。
ここで述べられている主張を箇条書きにすると次のようになる。
また、この点について参考になる読書メモは箇条書きの次にあるとおりである。
・所有権の絶対性は造物主の被造物に対する支配権をモデルとしており、このモデルは近代社会の主権概念にも利用されている。
・中世ヨーロッパの主権は大きく制限されていたが、近代にいたる過程で絶対化された
・もっとも、所有権の絶対性は近代法の歴史的特質に過ぎない
当然だが、中国も日本もアメリカ・ヨーロッパ社会とは異なる「契約」概念や「所有」概念を持っている。
では、中国における契約概念、所有概念とは何か。
この辺のことを理解するために、本書では日本の所有概念について話が進む。
もっとも、日本における所有概念がどのようなものだったかについては既に上に取り上げた読書メモなどで触れている。
例えば、本書では「将軍から頂戴した馬を見世物に使ったらどうなるか」といった話があるが、この具体例も上の読書メモで触れられているため、ここでは、初めて見る具体例たる「忠臣蔵」を通じて所有概念についてみていく。
忠臣蔵では、松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた結果、播州赤穂藩は改易となっている。
このことが赤穂に到達したとき、家老の大石内蔵助は藩士と「藩のお金をどうするか、財産整理をどうするか」で話し合いをした。
そして、大石内蔵助は藩札の交換を行うとともに、改易によって生活に困る藩士に対しては分配金を配るなどのことをしている。
以上のお話、忠臣蔵を知っていれば当然知っている話であり、ここの部分に目くじらを立てる日本人はいないだろう。
しかし、近代的所有概念から見ると、「あれ?」という部分がある。
まず、改易によって藩に属する不動産は収公された。
つまり、改易により、藩に属した不動産の所有権は赤穂藩から将軍徳川綱吉に移り、その後、新たに赤穂に入る大名に移る、ということになる。
では、動産(財産)はどうなるのであろうか。
では、改易後はどうなるのか?
不動産と同じように考えるならば、所有権の帰属先は将軍徳川綱吉になる。
とすれば、大石内蔵助がやったことは権限なく徳川将軍家の所有する動産を藩士に分配したことになり、これは現代刑法のいうところの横領(刑法252条)になる。
もちろん、罪刑法定主義の一要素たる「事後法の禁止」を考慮すれば、徳川時代の行為に現代の刑法が適用されないことは当然であるとしても。
もちろん、大石内蔵助に近代的所有概念などあるはずがない(当然である)。
そして、大石内蔵助以下の藩士は、財産を占有しているのは我々だから、その財産を我々で分配するのは自由と考えたことになる。
このことは、赤穂家の動産の所有権の帰属について一義的に考えていなかったこと、所有権を抽象的に把握していなかったことを意味する。
ところで、本件では、不動産(土地と城)は徳川綱吉に没収されたが、動産についての没収措置はなされていないため、(現代の規範に照らして)公金横領ではないのでは、と考えるかもしれない。
しかし、この場合でも、改易前の動産の所有権が浅野内匠頭にあったことを考慮して、浅野家の相続人、例えば、浅野大学(弟)や妻の瑶泉院に帰属することになり、「他人の財産」であることに変わりはない。
にもかかわらず、大石内蔵助は浅野大学などの承諾を得てお金を分配した気配はないが、これはどうしたことか、と。
この点、江戸時代の人間がこのような議論をすることはないのは当然である。
しかし、現代の我々から見た場合、大石内蔵助が藩の金を勝手に分配した行為は公金横領にあたりうるという点を指摘されないのはなぜか。
当然だが、「公金横領は悪いことではないから見逃した」は理由にならない。
このことは、忠臣蔵における物語の中で吉良上野介に対する描かれ方とその描かれ方に対する評価を見れば明らかである。
しかし、そうならば、大石内蔵助の行為が見過ごされた理由は別にあることになる。
また、この問題提起に対してある程度合理的な反論をすることができる。
曰く、大石内蔵助らの財産の分配は所有者(徳川綱吉、浅野大学、瑶泉院など)ならば行ったであろう行為を代理で行ったに過ぎない、と。
そして、改易による事後処理を円満に行うという観点から見れば、藩札を藩の財産と交換すること、藩士の生活保障のために藩の財産を処分するといった大石内蔵助の行為は極めて合理的である。
だから、大石内蔵助の行為は清算人による一種の財産処分行為として、または、事務管理(民法697条)にあたるため、現代から見ても横領にはあたることはない、と。
しかし、このような反論を考える日本人はほとんどいないであろう。
というのも、これまでの読書メモで述べてきた通り、そもそも日本にも近代的所有概念は根付いていないからである。
そのため、「この財産は誰に帰属しているのか」ということに意識が向かない。
そして、一義的な所有権を意識しないため、抽象的な所有と具体的な占有の区別もつきにくいことになる。
この点も、これまでの読書メモで見てきたとおりである。
以上の話は日本人の話であるが、中国人の所有概念を理解する際も参考になる。
この本では、これまで日本人と中国人の違いを細かい部分を含めて指摘していたが、そのことは日本人と中国人に共通項が一切ない、というわけでもないので。
以上、本書にみてきた。
忠臣蔵における大石内蔵助の行為が横領となるかについては、違法性を阻却するためのロジックはそれなりにあると考えられる。
その意味で、本書の大石内蔵助の行為に対する評価については私は同意しない。
ただ、近代的所有概念からこのように見てみると興味深いものがある。
次回は第4章の残りの部分をみていく。