薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『昭和天皇の研究』を読む 16

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

16 第9章を読む_後半

 前回は、北一輝の思想と天皇機関説事件についてみてきた。

 今回は、北一輝が掲げた理想社会へのロードマップと決起した青年将校たちが北一輝に盲信していくプロセスについてみていく。

 

 前提として、決起将校たちは『国体論及び純正社会正義』はまず読んでいないとみてよい。

 また、彼らのバイブルだった『日本改造法案大綱』を読み切ったのは、安藤輝三、村中孝次の三人だけであろう。

 もっとも、全文を読んでない決起将校であっても、冒頭の部分は読んでいるだろう。

 本書ではその部分が引用されているので、この部分を見てみる。

 

(以下、本書で引用されている『日本改造法案大綱』の一部を引用したもの)

 憲法停止。天皇は全日本国民とともに国家改造の根基を定めんがために、天皇大権の発動によりて、三年間憲法を停止し、両院を解散し、全国に戒厳令を布く

(引用終了)

 

 ところで、秩父宮は安藤輝三とともに『日本改造法案大綱』を読んだとされている。

 もしそうだとすると、第6章(読書メモへのリンクは次の通り)の秩父宮天皇に述べたと言われている「憲法停止・ご親政」の趣旨はここにあるとみていいだろう。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 さらに、北一輝が掲げたロードマップをみていく。

 もっとも、ここからは引用ではなく、私釈三国志風に意訳していくものとする(だから、引用でも直訳でもない、この点に注意)。

 

(以下、本書で引用されている『日本改造法案大綱』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

 非常事態において、国家権力が有害なる言論や投票を無視することができるのは、国家緊急権を持ち出すまでもなく当然である。

 この点、近代憲法が議会の絶対化するのは、イギリスやアメリカにおける教権的『デモクラシー』を直訳した結果である。

 この直訳した『デモクラシー』は、議会の議論の質を問題にせず、量の絶対を推し進めることを指す

 このような量の絶対を主張する『デモクラシー』は保守頑迷の者が議会の議論の質を覆い隠すために用いている。

 その保守頑迷の者らの態度は、日本の国体を高天原的論法で説明しようとする論者の態度と大差ない

(意訳終了)

 

 この北一輝の主張には注意がいる。

 彼は、デモクラシーそのものを否定していない。

 彼が否定しているのは、デモクラシーにおいて議論の質を考慮せず、「量(多数決)の絶対」を押し通すことである

 では、北一輝はどう考えているのか。

 以下、本文をに記載されている北一輝の主張を私釈三国志風に意訳する。

 

(以下、本書で引用されている『日本改造法案大綱』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意なお、強調は私の手による)

「クーデター」という手段を保守陣営や専制君主が用いる権限濫用と即断する者は歴史を見ていない。

 例えば、ナポレオンやレーニンを見よ。

 フランス革命の後、フランス議会やマスメディアの多数派は保守陣営が占めており、彼らはブルボン王朝による政治を復活させようとしていた。

 これに対して、ナポレオンは革命を遂行するためにクーデターを断行した。

 ロシア革命において、レーニンは革命運動を妨害する議会に機関銃を向けてクーデターを断行した。

 これらの例からもわかる通り、「クーデター」を保守的権力者の行為だと考えるのは著しい誤解である。

 そうではなく、「クーデター」は国家権力ないし社会意志の直接的発動とみるべきである。

 当然だが、進歩的な思想は一般国民の間に発生することだってある。

 だから、日本の改造はこの一般国民の間で発生した進歩的なものと元首たる天皇が一体となって行うべきなのだ。

(意訳終了)

 

 著者(故・山本七平先生)は、この辺に決起将校たちはシビレたのではないか、と述べる一方で、この『日本改造法案大綱』は奇妙な「予言」になっている旨指摘している。

 というのは、この北一輝の主張と朝鮮半島において李承晩・張弁政権をクーデターで妥当した朴・全両政権の出現は似通うところがあるからである。

 もっと言えば、朴・全両政権の性格と北一輝の計画する政権の性格にも似た面があった。

 とすれば、北一輝の主張は、先進国のデモクラシーを直訳してその方向にまい進しようとした国家がたどる一般的現象なのかもしれない。

 

 

 こうやって見ると、磯部浅一ら決起将校が目指したのは、天皇の基に軍部独裁内閣を作ることであって、戒厳令のもとで憲法を三年間停止し、その間に国内の一大改造をやろうとしたと言える。

 もちろん、こういう計画は様々な国で起きている。

 もっとも、決起将校らが三年後に民政に移行する計画があったかは分からない。

 そもそも、決起直後の新体制に関する具体的なビジョンすらあったかすらわからないのだから。

 もっとも、決起将校らは『日本改造法案大綱計画』の次の部分は読んでいたと考えられる。

 その部分を私釈三国志風に意訳してみる。

 

(以下、本書で引用されている『日本改造法案大綱』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

天皇は国民の総代表である」という日本の根柱の原理を明らかにする。

 そのために、神武天皇の偉業、明治天皇の革命に則り、宮中を一新する。

 具体的には、枢密顧問官やその他の公務員を罷免し、天皇の補佐役を広く国家から求める。

 また、貴族制度は廃止して、藩屏を取り除いて明治維新の精神を明らかにする。なぜなら、国民と天皇の間にいる藩屏が国民と天皇の連帯を阻止しているからである。

 貴族院は廃止し、代わりに衆議院の決議を審査するための審議員を設置する。

 審議員は一度だけ衆議院の決議を拒否できる。

 審議員は、様々分野の功労者の互選や勅選による。

 二十五歳以上の男子は、日本国民の権利として、平等に衆議院議員の選挙権と被選挙権を有する。

 地方自治も国と同じシステムにする。

 女子は参政権を有しない。

(意訳終了)

 

 これに続いて、北一輝は、「財閥の解体」・「皇室財産の国有化」と進む。

 こうやってみれば、婦人参政権を除けば、マッカーサーの戦後改革によく似ていると言えなくもない。

 また、北一輝は、私有財産・私有農地の制限、基幹産業の国有化に進む。

 こうやってみると、彼の思想・自己規定は社会民主主義に見える。

 さらに、銀行・造船・鉱業・農業・鉱業・商業・鉄道といった基幹産業を国有化する点は、戦後の一時期の世界的流行だった「基幹産業国有化指向」をイメージさせる

 

 とすれば、このような政策を明治・大正時代に主張している北一輝は先覚者のように見え、二・二六事件に別の評価を下す人間が現れても不思議ではない。 

 前回、「社会民主主義者・北一輝」に強い共感を頂いた全共闘の学生のように。

 もっとも、これらの人から見れば、昭和天皇は、「頑迷な重臣」たちの「ロボット・鈍行馬車」に見えてしまい、重臣の中心で「凡庸で困る」存在に見えるだろう。

 あるいは、磯部浅一昭和天皇を呪いに呪っても不思議ではないように見える。

 

 ところで、北一輝は、この革命を天皇と陸軍、そして、在郷軍人によって実施すべきだと考えている

 この点は、革命の手段に軍隊を用いず、議会で多数派を形成して独裁法や全権委任法のような法律を制定することで革命を実施しようとしたファシストナチスと異なる。

 この違いは、『日本改造法案大綱』の発行は大正8年であって、ファシストナチスが出現しているわけではないこと、北一輝が参加した革命は中国の辛亥革命であることによるのだろう。

 つまり、北一輝帝国陸軍在郷軍人に「解放軍」としての役割を期待したことになる

 

 彼の統治機構のイメージは次の通りのものとなるだろう。

 まず、憲法を停止し、在郷軍人らに財産と農地を調査させ、私有財産の上限以上の財産を持つ者たちを調査し、財産を収公する。

 そして、互選によって在郷軍人団会議を作らせ、これを常設機関とする。

 つまり、軍人と在郷軍人とで全日本を抑え、革命の功労者には審議院のメンバーにして、他方、在郷軍人団会議を用いて衆議院の選挙を行う。

 これにて、独裁政権ができるという寸法である。

 ただ、現代の視点から見れば、中国共産党のようなものができるのではないか、という気がするが。

 

 

 ところで、ここで著者の余談が入る。

 昭和初期のドイツやイタリア躍進のところでも見てきたが、このような一種の「改革」に常に共感と賛美を示す日本のマスコミを著者は信用できないポイントである、という。

 さらに言えば、「軍」にいた私にとっては誰が主体であってもこのような「改革」はたくさんである、と。

 

 

 以上を見ることで、決起した青年将校たちが北一輝に憧れた理由がわかるし、戦前を経験した人間には、北一輝の思想が実現したら社会がどんなものになったかも想像できることになる。

 北一輝の思想が実現した社会は、戦争末期と似た状態、つまり、軍人が上級市民として権力をふるい、軍隊的な高圧的な程度で国民を圧迫し、隷従を強いる社会である。

 そして、この世代の人間が昭和天皇になんらかの親近感を持つ理由がここにある。

 昭和天皇は決起将校らを全く受け付けなかったのだから。

 その意味で、磯部浅一昭和天皇を呪いに呪ったのも無理からぬこと、と言える。

 

 第8章で見た通り、磯部浅一の呪いは天皇以外には有効に作用した。

 例えば、近衛文麿は、決起将校らに非常に同情的であった。

 また、当時の革新派は、クーデターを用いた二・二六事件方式をあきらめ、ナチスファシストのような議会で多数派を形成することで目的を達成しようとした。

 その結果できたのが大政翼賛会である。

 

 確かに、この大政翼賛会はある程度成功した。

 しかし、ナチスが独裁権力をにぎったワイマール共和国の場合と異なり、日本の場合は議会の上に天皇がいたため、ドイツのようにはいかなかった

 詳細は後の章に譲るが、昭和天皇と同様の考えを持つ尾崎咢堂を起訴しても司法権の独立に阻まれて無罪になる。

 津田左右吉博士は免訴どまり。

 陸海軍は反目するばかり。

 法律は枢密院で違憲性を審査せずして、天皇の裁可にまわされることはない。

 この辺は、いわゆる日本的・盲目的予定調和説を思い出せば、イメージがしやすいだろう(参考となる読書メモは次の通り)。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 これでは、意志の弱い近衛文麿ではどうにもなるまい。

 この点、ヒトラースターリンのように独裁を断行しなかったことは一面において幸いであったが、別の面で不幸であった。

 その結果、時代は「お公家担いで壇ノ浦」(by宇垣外相、石原莞爾によって首相になれなかった人物)へと進んでいく。

 

 

 では、何故このような悲劇になったのか。

 言い換えれば、天皇機関説の本当の問題は何だったのか

 もちろん、神学論争や「『天皇機関説』は、天皇陛下を機関銃のように扱っており、この上なく不敬な思想である」といったものは考慮しないとして。

 

 この点、現行憲法では、国会は国権の最高機関(日本国憲法第41条前段)であるとされている。

 そして、民主主義自体を否定する人間を除けば、この点を問題視する国民はいない。

 では、戦前の国会の地位はどうかというと、天皇機関説を採用すれば同じになる。

 というのも、天皇機関説を採用すれば、①天皇と議会は同質・独立の機関である上、②天皇は議会の制限を受ける(拒否権はない)一方、③議会は天皇に対して独立の地位を有するのだから天皇よりも国会の方が上になる。

 さらに言えば、大日本帝国憲法時代に天皇が法律の制定や予算の議決に対して拒否権を行使したことはない。

 

 この点、近衛文麿の「政府(内閣)は軍隊の行動を制御できない」という主張は間違いであって、「予算(臨時軍事費)を削れば済む」と述べた。

 この点は、天皇機関説を採用しようがしなかろうが変わらない。

 これに対して、近衛文麿は「天皇親政のたてまえ」から「天皇しか軍部を制御できない」と述べているが、予算以外の観点についてはどうなるだろうか。

 大日本帝国憲法下における天皇国務大臣(含む陸軍大臣海軍大臣)の関係が問題となる。

 

 この点、内閣が議会の信任を要する点では、戦前も戦後も変わらない

 その点を考慮した場合、通説だった一木喜徳郎博士の学説に従うと次のようになる。

 

(以下、一木説について本文で示されている部分を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって直訳や引用でないため注意、なお、強調は私の手による)

 大日本帝国憲法第55条第1項は、国務大臣が元首(天皇)の行為についても(輔弼の)責任を持つ旨規定している。

 よって、国務大臣の輔弼の責任には、天皇の命令の適法性について審査できると言わざるを得ない。

 言い換えれば、国務大臣には天皇の命令のうち違憲・違法なものについては執行しない責任がある

(意訳終了)

 

 この点、立憲君主制制限君主制であり、政府や議会のみならず、天皇でさえも憲法による制約に服する。

 だから、天皇の違法な命令に対して大臣は執行しない責任を有する。

 この点、右翼はこの解釈を大臣を天皇の上に置くと言って批判したが、天皇の上にあるのは憲法であって、大臣それ自体ではない

 また、もっと大事なことは、絶対とされている大日本帝国憲法を制定したのは明治天皇である

 そして、昭和天皇明治天皇が制定された大日本帝国を「皇祖皇宗の遺訓」として遵守している。

 現に、大日本帝国憲法第55条第2項に従って、天皇の裁可には大臣の副署がなされている。

 

 以上は、実務の運用をそのまあ説明しているだけである。

 だから、天皇機関説を攻撃しようが、この実務を変更させることはできない。

 というのは、この実務は天皇機関説を採用しないと成立しないものではないからである。

 とはいえ、天皇機関説を否定する「国体明徴運動」がおこる。

 それにより、天皇機関説憲法は封じられたかのような「空気」が醸成された

 

 このようにしてみると、昭和天皇の「『天皇機関説問題』は神学論争である」との表現は極めて適切であると考えられる。

 確かに、この神学論争は政敵に異端のレッテルを貼り付けて追放することはできた。

 しかし、実務の運用を動かしたわけではない。

 さらに、悲劇・喜劇なことは、最大の異端だった昭和天皇を葬り去れていない

 

 このように見ると、昭和天皇の「憲法遵守」への持続力・意志の強さは驚異的なものに見える

 空気にあらがうことの大変さは現在でも想像できないものではないところ、天皇機関説批判による空気が現在のそれよりも緩かったとは到底考えられないからである。

 

 そして、もう一個誤解を招く要因が、「権力は腐敗する」・「権力者は暴走する」という経験則である。

 そもそも立憲主義は、統治権者たる君主が暴走して国民の権利・利益を侵害しようするのを議会が防止するという考え方である。

 ところが、昭和初期においては、周囲の人間が「憲法停止・御親政」を主張するのに、当の君主たる昭和天皇が御親政を拒否して、憲法という制限の枠を守っている

 こんな稀なケースはまずないだろう。

 

 また、天皇機関説の否定は、明治憲法絶対ではなく昭和天皇絶対のごとく錯覚する原因となった。

 当たり前だが、一木説を唱えた一木喜徳郎は枢密院議長であり、美濃部達吉東京帝国大学憲法学の教授だから、当時の高級官僚はみな彼らの弟子筋にあたる。

 だから、昭和10年までは天皇機関説を前提に実務が動いていたし、昭和天皇もそのようにふるまっていた。

 にもかかわらず、天皇機関説の否定による錯覚が「昭和天皇にすべての責任が集中する」といった錯覚をも生み出すことになった。

 これを指摘したのが津田左右博士であることは既に指摘した通りである。

 

 ここで、著者はいう。

天皇の戦争責任」の論じる人たちを見ると妙な気持ちになる。

 なぜなら、彼らから「機関説を支持する北一輝に心服しつつ、機関説排撃に決起した青年将校」と同じようなものを感じるからである、と。

 

 もちろん、前回の本庄侍従武官長の気持ちを見た通り、当時の国会は食えない人間ばかりであったし、社会においても現実に食えない人たちが充満していた。

 それに加えて、日本において社会問題は山積していた。

 他方、日本のマスメディアは、ファシストのイタリアやナチスのドイツは、それぞれの国の社会問題を「一掃」したように報道した。

 この報道と現状を見て、一部の人々がどう反応するかは現代からも想像ができるだろう。

 

 結局のところ、幕藩体制から明治維新による急速な近代化、その結果としての有色人種唯一の独立国家の維持・存続という素晴らしい結果は、大きな代償を伴っており、「歴史的実体」と「明治憲法」には大きな乖離があった。

 そして、その乖離の焦点に立たされていたのが昭和天皇であり、大日本帝国憲法天皇機関説だったことになる。

 だから、天皇機関説の問題と昭和天皇の評価には、「歴史的実体」と「明治憲法」の間にある大きな乖離に対する評価という要素を抱え込むことになる。

 

 

 以上、第9章を見てきた。

 よくよく考えてみると、私は北一輝の思想をちゃんと見ていなければ、大日本帝国憲法の考え方もよく理解してなかったなあ、と感じた。

 確かに、3年前くらいに次の本を読んだ記憶はあるのだが。

 

 

 

 

 機会があれば読み直してみようか。

 

 第10章からは、在野において昭和天皇と同様の価値観を持った人たちの帝国陸軍に対する戦いについてみていく。