今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
11 第7章を読む_前半
第7章のタイトルは、「『錦旗革命・昭和維新』の欺瞞」。
第2章から第6章までは、「昭和天皇の自己規定」・「昭和天皇が『守成の明君』として育てられた点」についてみてきた。
第7章から第9章までは、「『昭和天皇の自己規定』に対する挑戦及びその結果」についてみていくことになる。
本書は、昭和初期の時代の流れの説明から始まる。
つまり、昭和天皇が摂政になられたのが大正10年(1921年)、この年に平民宰相原敬が暗殺。
翌大正11年(1922年)、イタリアでムッソリーニがファシスト政権を樹立する。
さらに、大正12年は関東大震災があり、日本自体が外国に目を向けている余裕はなかった。
この点、当時、日本は第一次世界大戦を通じて多額の金・ドル準備高があった。
また、国内に大きな矛盾を抱えていなくもなかったが、切羽詰まった状況にはなかった。
他方、イタリアに対する評価は高くなく、ドイツはベルサイユ条約によって再起不能の状態にあった。
そこで、当時、「約20年後に日本はドイツとイタリアと組んで、イギリスとアメリカに戦争を吹っ掛ける」などと予言したら、一笑に付されるのが落ちだっただろう、と著者(故・山本七平先生)はいう。
「まことに、十年先、二十年先を見通すのはむずかしい」という一言を添えて。
さて、時代の針を少しずつ進める。
昭和2年(1927年)に金融恐慌。
昭和3年(1928年)にイタリアにおけるファシスト独裁法の可決。
そして、昭和4年(1929年)のウォール街の大暴落。
最後に、昭和5年(1930年)の世界恐慌及び昭和恐慌。
20年代の後半、世界、または、日本の経済はガタガタになっていく。
そんななか、昭和8年(1933年)にワイマール共和国で全権委任法を可決し、ヒトラーの独裁が承認された。
この点、ファシスト独裁法や全権委任法を見ればわかるが、ファシズムは議会制民主主義と表裏の関係にある。
そりゃ、いわゆる国権の最高機関たる議会が合法的に独裁を認めるのだから。
この点は次の読書メモでもみてきたとおりである。
ところが、総理の任命権は天皇にあった日本ではそうはいかなかった。
そこで、日本では「全権委任法の制定」ではなく、「天皇を動かす」という手段でファシスト政権の樹立を目指すことになった。
さらに、前章で見てきた「昭和天皇は自分の意志を持たない『玉』または『錦の御旗』に過ぎない」という発想を加えれば、「天皇を奪取すればいい」ということになる。
これが「錦旗革命・昭和維新」実現のための具体的なプログラムになる。
では、日本でファシストへの憧れが起きたのはいつごろか。
著者によると、概ね満州事変があった昭和6年ころに始まり、二・二六事件やベルリン・オリンピックのあった昭和11年がピークになっている、という。
そして、その背後にはファシズム賛美を唱えるマスコミがあった、とも。
ただ、このときのマスコミの態度は現代まで繰り返されてきた「ほにゃらら賛美」と大差がない。
確かに、マスコミが報道した事実それ自体は一面において真実を報道していた。
ムッソリーニによってローマから名物の乞食が姿を消した、ベルリンからは娼婦が消えた、ナチス・ドイツに失業はなく、健康保険が整備されて病気になっても安心である、あちこちにアウトバーンを建設しているなどなど。
ヒトラーがなしたことは次の読書メモにもあるとおりである。
一方、日本の現実を見れば、新宿のガード下に乞食がいるわ、農村は疲弊して娘を娼婦に売るわ、町に失業者があふれているわ、一度病気になれば医者にかかれず、アウトバーンはどこにもない。
これで、ドイツやイタリアにあこがれるな、というのは無理からぬ話であろう。
もちろん、ドイツやイタリアの大躍進の背後にあるものを見なければ、であるが。
この点、背後にあるものを見ず、表面を見て素晴らしいという態度は「若くて純粋」ともいえる。
しかし、悪く言えば「純粋培養された世間知らず」の青年将校がドイツの経済的大躍進とナチスの再軍備という情報を得て、強い共感を持った。
これが日本をあらぬ方向に暴走させることになる。
そんななか、昭和6年9月に満州事変が勃発する。
また、10月には軍によるクーデター計画が発覚し、いわゆる「錦旗革命事件」が発生する。
つまり、帝国陸軍は満州と東京でクーデターを起こそうと考えていた。
というのも、東京で予算が出なければ、満州で暴れることもできなくなるからである。
そして、東京の錦旗革命事件は不発に終わったが、事態の収拾のため当時の第二次若槻内閣は予備費で戦費を出す。
この結果、「既成事実をつくれば、予算はつく」という悪しき前例を残すことになった。
ところで、天皇陛下の自己規定に「五箇条の御誓文」・「明治憲法の遵守」があることは既に何度も見てきた。
また、秩父宮が昭和天皇に対して「憲法停止・御親政」を建言したところ、断固として拒否したという説もある。
もちろん、この話は侍従長に言われたことの伝聞に過ぎず、秩父宮の意見なのか、秩父宮が青年将校たちの意見を紹介しただけなのかは不明確であり、この点に注意が必要だが。
この背後には、昭和天皇の歴史の教師が白鳥庫吉博士、秩父宮の歴史の教師が皇国史観の平泉澄博士であり、また、二・二六事件の首謀者たる安藤輝三大尉と親しかったこと等があるかもしれないが、その辺の真相は明らかではない。
また、上級階級に属するものが左右問わず空想的な革命を夢見るということは日本に限らずどの社会にもある。
近衛文麿もその傾向があったことは否定できない。
だから、仮に、秩父宮がそのような共産主義や全体主義に理想を持ったからといって無理からぬこと、とは言える。
しかし、興味深いのは若き昭和天皇が関心を示さなかった点であろう。
この点、昭和天皇は「巧みに時流に乗ったり、担がれたりするタイプ」ではなく、地道にこつこつと積み上げていき、その際に、一点一画もおろそかにしない「生物分類学者」のようなタイプであった。
そのうえ、原則に忠実なうえ一つのことを丹念に実践する持続力を持っている。
そのような性格の上、「憲法遵守」・「五箇条の御誓文遵守」という自己規定があれば、そうなるのかもしれない。
そのようなこともあったからだろうか、「陸軍の一部の者が、『今の陛下は凡庸で困る』と言っているそうだが・・・」という表現も残っているらしい(出所はこれまでに出した『西園寺公と政局』、リンクなどは省略)。
また、皇太子が生まれた後の昭和15年、昭和天皇は万一のときは高松宮に摂政をお願いすることになる旨米内海軍大臣に述べているらしい。
この背後にもいろいろ想像ができなくはないが、これ以上は省略。
このように、昭和天皇は性格も「地味な守成」タイプ、受けた教育も「守成の明君教育」であった。
しかし、昭和の時代は明治末から大正時代に予測された方向とは異なる方向に進んでいった。
にもかかわらず、昭和天皇はひたすら愚直に「憲法遵守」に遵う。
この昭和天皇の「憲法遵守」という態度を国民が知ったら皆驚いたであろう。
天皇が命じることはあっても、何かが天皇に命じるとは想像していないのだから。
たとえ、この点について憲法教育が全くなされなかったという意味を含めた教育問題があるとしても。
というのも、「憲法停止・御親政」という言葉は、天皇は憲法の上にいることを想定していなければ、口に出ない言葉だからである。
ところで、「天皇と憲法」の問題について、近衛文麿は自決前(昭和20年12月)に次のような愚痴、ではなかった、回想を記している。
以下、本文に示されたか近衛の回想とそれに対する昭和天皇の感想を私釈三国志風に意訳(意訳であって引用や直訳ではないため注意)してみる。
(以下、本書で引用されている近衛文麿の回想と回想に対する昭和天皇のコメントを意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)
(近衛文麿)
統帥権の問題に政府は軍に介入できない。
政府と統帥部を仲介できるのは昭和天皇だけなのだ。
しかし、昭和天皇はイギリスにかぶれたのか立憲君主の立場を逸脱されようとはなされない。
平時ならばこれでもよかろうが、戦時にこれでは困る。
昭和天皇の御意志なくして軍事と政治・外交が協力できないのだ。
このことを昭和16年の日米外交で大いに痛感した。
(昭和天皇)
あいつは、自分に都合よくいいとこどりをしているだけだ。
(意訳終了)
また、近衛文麿の言い訳は民主主義国家から見ておかしい。
しかし、このような感想を持つ日本人は少なくない。
そこで、この原因を考える必要がある。
そもそもの前提として、「統帥権の独立」に対して政府は何も言えないのだろうか。
さらに言えば、「統帥権の独立」とは何なのか。
確かに、明治憲法は第11条で天皇が陸海軍を統帥すること、第12条で天皇が陸海軍の編成と常備兵額を定める旨規定している。
また、「統帥権の独立」は「作戦指揮に関する政治部からの独立」というだけであって、「軍部が自由に他国と戦争を行うこと」は「統帥権の独立」の範疇にない。
なぜなら、軍を動かすためには金が要るところ、予算を議決する権限は議会にしかないからである。
この点は、「司法権の独立」をイメージすればよい。
司法権の発動(判決)において、その内容に政治部門(国会・内閣)が介入することはできない。
しかし、そのことは裁判所がなんでも自由にできることを意味しない。
現に、手続や裁判制度については憲法と国会の制定する法律によって決まっているし、裁判所の予算を決めるのは国会なのだから。
その意味で、司法府や裁判官の職権行使の独立性は、憲法や法律の範囲内に限られている。
前回、第二次若槻内閣は満州事変において予備費から戦費を支出して、悪しき前例を作ってしまった旨述べた。
また、日華事変(日中戦争)において、近衛は口先では「不拡大方針」と述べながら、戦争に必要な臨時軍事費を閣議で決定し、帝国議会でこれを可決させた。
この点は近衛や近衛の意見に同調している人たちはどう見ていたのだろうか。
政府は予算を通じて統帥部をコントロールできる、コントロールする責任があるとは考えなかったのだろうか。
ちなみに、この点は次のメモにも多少触れられているので紹介する。
ちなみに、第一次世界大戦でガリポリの戦いを強硬に主張し、敗戦の責任を取って辞任した海軍大臣ウィンストン・チャーチル(後の第二次世界大戦時の首相)は「戦争責任は戦費を支出した者にある」と喝破した。
まさに宅建、じゃない、卓見である。
ところで、昭和天皇自身が軍事作戦を停止させようとしたことはある。
これは昭和8年の熱河作戦において天皇が激怒し、大元帥の「統帥最高命令」でこれを中止させられないか、当時の奈良侍従武官長に述べたと言われている。
しかし、奈良侍従武官長は明治憲法や天皇機関説の趣旨に副う奉答を行っている。
曰く、「国策の決定は内閣の仕事、閣外の者はこれに介入できない」と。
つまり、内閣には、国策を決定する権限と国策を実現するための予算を編成する権限がある。
そして、帝国議会はその予算を承認する。
とすれば、昭和天皇といえどもこれには容喙できない。
つまり、「熱河作戦をやめよ=熱河作戦に必要な予算を削れ」と昭和天皇がいうことはできない。
その瞬間、「立憲政治=憲政の基本」が崩壊するからである。
まあ、日本教徒たる空気主義者から見れば「憲政だの立憲政治だの方便に(以下略)」。
とはいえ、このように見れば、近衛文麿の主張の不合理性も見えてくる。
自身の不拡大方針を実施したければ、予算を削ればよかったのである。
とはいえ、近衛文麿にはそれを実現する勇気がなかった。
まあ、近衛文麿は園遊会でヒトラーのコスプレをし、翼賛会を作り、全権委任法によって権力を握って「革新政治」を行いたかったのだろうから、予算を削る気はなかったのだろう。
ただ、この夢見るお公家さんには独裁者としての能力がなかった、というだけのことなのかもしれない。
さて、この時代は要人暗殺が頻繁にあった時代である。
この点は、戦後における連合赤軍の右翼版と考えると多少想像ができる。
しかし、戦後と違うのは、構成員が軍人であること、そして、武器を持っていたことである。
また、連合赤軍に総括があったように、陸軍内でも総括しあっていた。
これがいわゆる「皇道派」と「統制派」の争いである。
そして、総括に対して罪の意識を行わずに実践していた点も似ている。
いわば、帝国陸軍も連合赤軍も同志を総括しながら革命を目指していたことになる。
この点、この奇妙な心理状態は、ドストエフスキーが『悪霊』で分析しているらしい。
しかし、ドストエフスキーはロシアで実際に起きたネチャーエフ事件を材料にしている。
ならば、戦前に日本のドストエフスキーがいたら、いたるところにいた「日本的ネチャーエフ」を見て、日本的な「悪霊」を描いたことであろう。
この点、急速に西欧化・近代化を目指した日本と帝国ロシアには共通点がある。
もちろん、両者は同じにはならなかった。
ロシアはロシア革命からスターリンの独裁政治の時代に入り、一種の「悪霊が勝利した事例」と言える。
他方、日本は様々な要因も重なり悪霊はいずれも退散された。
この悪霊退散の過程で昭和天皇がどのような役割を果たしたか、
それ自体、非常に興味深い話題だが、本章では悪霊たちの「錦旗革命の夢」についてみていく。
以上、本章を半ばまで見てきた。
残りは次回に。