今回は前回のこのシリーズの続き。
今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。
9 第9章 平和主義者が戦争を作る
これまでの章で大事なことを一行で書くと次のようになる。
第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ
第2章_憲法は国家権力に対する命令書である
第3章_憲法と民主主義は無関係である
第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した
第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した
第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている
第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する
そして、第9章。
この章を1行をまとめると「平和憲法では平和を守れない」になる。
中学校の公民で習う内容によると、日本国憲法の三大原則は国民主権と基本的人権の尊重と平和主義らしい。
人権の尊重は憲法(立憲主義)とリンクしているところで書かれているし、国民主権は民主主義とリンクしているところで書かれている。
そして、この章はまだ触れられていなかった平和主義に関するお話。
本章では、「平和条項を憲法に持つ国はたくさんあること」・「日本国憲法の憲法9条第1項には元ネタがある」という話から始まる。
国家が戦争を行うと費用がかかるところ、その戦費は国民の負担になる。
また、戦地になった領土で被る国民の損害は計り知れない。
そのため、立憲主義から見て、国家の軍事行動に歯止めをかける発想は出てきて当然である。
それが証拠に、フランス革命直後にフランスで作られた1791年の憲法には平和に関する条項がある。
また、1998年の段階で世界の約3分の2の国の憲法に平和に関する条項が書かれている。
その中には、「核兵器の禁止」というような日本以上に厳しい規定を持つ国もある。
さらに、憲法9条1項にある「『国際紛争解決の手段としての戦争』を放棄する」という条項を有する国は日本だけではない。
何故なら、これは元ネタがあるからである。
その元ネタは1928年に締結されたケロッグ=ブリアン条約である。
そして、この条約が作られた経緯に話が進む。
第一次世界大戦まで「戦争」それ自体は主権国家の当然の権利とされており、悪ではなかった(これをどう評価するかはさておき、これは事実である)。
「戦争に制限をかけよう」という発想は歴史的経緯のなかで生まれてきたものである。
時代は中世ヨーロッパ。
中世ヨーロッパでは「正義を実現するための戦争」は肯定されていた。
逆に、「不正義を実現するための戦争」は「悪い戦争」とされていた。
しかし、正義は相対的概念であること、大義名分(正義)はいくらでも作れることを考慮すれば、「良い戦争」と「悪い戦争」の区別は本質的には意味はない。
また、「正義のための戦争」と銘打って行われた戦争は「手打ち」ができない。
例えば、正義の名の下で行われて最悪の被害を出した戦争として宗教戦争がある。
この場合、カトリック側とプロテスタント側、いずれが見ても相手は悪魔の手先になってしまうため、相手側のせん滅が戦争目的となってしまった。
その目的で戦争が行われた結果、ヨーロッパは焦土と化してしまった。
特に、30年戦争が行われたドイツの被害は甚大であった。
これに懲りたヨーロッパ人は別の軸で戦争を考えようとする。
この考えがもっとも端的に表れたのプロイセンの軍人、クラウゼヴィッツの「戦争は他の手段による政治の継続である」という考え方である。
つまり、戦争は「正義を実現する手段」から「国益を追求するための手段」に考え方がシフトするようになるのである。
いわば、「感情の戦争」から「損得の戦争」へのシフトである。
この考え方を前提とすれば、「戦争は悪い」という発想は出てこない。
その代わり、「損する戦争をしなければ、戦争の被害は最低限になるだろう」と考えられていたわけである。
その後、技術革新が進み、戦争が総力戦(経済力の戦い)となった第一次世界大戦の惨劇(大損害)を見て、この考えにも疑問符が付きだした。
戦争自体が国家経済を痛めつけてしまい、当事者は共に満身創痍になってしまったのだから。
このとき、戦争による負債を回収すべく勝った側(イギリス・フランス)は負けた側(ドイツ)に天文学的な賠償額を押し付けたが、負けた側も経済的に破産寸前であり、この賠償金が支払われるはずもない。
結局、第一次世界大戦で戦争の直接当事者はことごとく大損害を被って終わった。
そして、イギリスは覇権をアメリカに譲ることになるのである。
感情の戦争はダメ、損得の戦争もダメ。
この結果、「手段としての戦争を否定する」という平和主義が生まれた。
そして、平和主義を確保する国際協調システムとして国際連盟が生まれ、不戦条約が締結されたのである。
もっとも、この条約をめぐっては「『手段としての戦争を否定する』というが、『侵略者に対する戦争(自衛戦争)まで否定するのか』」という疑問が生じ、大騒ぎになった。
例えば、アメリカでは条約を批准する権限を有する議会の上院がこの点を問題とし、ケロッグ国務長官を証人として喚問してその真意をただした。
長官は「この条約において自衛戦争は対象外です」と明確に答えたので、アメリカはこの条約を批准したのである。
話がそれるが、ここで重要なのは「用語が同じならば意味は同じにしなければならない」ということ。
そうでなければ、コミュニケーションが成り立たないから。
そして、憲法9条1項はこの不戦条約が元ネタである。
とすれば、「憲法9条1項は自衛戦争を禁じていない」ということになる。
少なくても、「用語が同じならば意味は同じ」・「憲法9条1項は不戦条約が元ネタ」ということを前提とするならば。
ところが、憲法の基本書を開けば分かるところ、「憲法9条1項は自衛戦争を肯定するのか」という論点があり、肯定説と否定説があった(政府見解は肯定説である)。
つまり、憲法学界隈ではこの2つのいずれかが共有されていなかったのだろう。
本書では「後者の共有がなかった」と述べているが、個人的には前者が共有されているかも微妙だと思っている。
まあ、この辺はいいや。
さて。
大戦の悲劇を回避するために作られた国際連盟というシステムとケロッグ=ブリアン条約。
「手段としての戦争の否定」という平和主義。
これで戦争の惨事は否定されると考えられていた。
ところが、さにあらず。
今度は第二次世界大戦を生んでしまうのである。
第一次世界大戦後、ドイツに独裁者アドルフ・ヒトラーが誕生する。
このヒトラーが1933年にワイマール憲法を殺して独裁者になったのはこれまでに述べた通り。
また、人民投票を繰り返して、ナチスの支持基盤を確保した。
さらに、「ドイツ経済を立て直す」という公約をアウトバーン建設などの公共事業によって達成する。
また、ヒトラーは贅沢三昧をしなかった。
このように独裁者としての支持基盤を確保したヒトラーはもう一つの公約である「ドイツ帝国の再現」に突き進む。
ヴェルサイユ体制によってドイツ軍に対する制約は極めて厳しいものであったが、ヒトラーは再軍備を宣言し、体制への挑戦をした。
ヴェルサイユ体制は講和条約たるヴェルサイユ条約を前提としているところ、その約束たるヴェルサイユ条約を反故にするとなれば、戦争を再開したとみなされてもしょうがない。
そのため、戦勝国かつ隣国のフランスが雪崩れ込んでくることも十分あり得た。
しかし、平和主義の鎖がフランス・イギリスの動きを封じ、ドイツの再軍備計画を容認した。
この結果、ドイツは再軍備をし、ラインラント進駐・オーストリア併合を成し遂げていく。
さらに、スデーテンラントの要求、ミュンヘン会談による要求の実現、と続いていくのである。
その後、ヨーロッパがどのような戦渦に遭うかは歴史が教えてくれるとおりである。
「手段としての戦争の否定」(平和主義)では戦争は防げなかった。
むしろ侵略者(ナチスとヒトラー)に利用されるだけで終わってしまった。
結局、「戦争はゼロにできないという諦念・戦争による被害を最小化させる意思・結果的に生じる最小限の被害を甘受する覚悟、これらによって戦争を防げる」という身もふたもない結論になってしまったのである。
例えば、冷戦時にソ連がキューバに核ミサイルを設置した(キューバ危機)際、アメリカの大統領だったジョン・F・ケネディは政府として「ミサイル基地が撤去されない場合、ミサイル基地の設置それ自体をソ連の攻撃とみなして、アメリカは直ちに攻撃する」との声明を出した。
ソ連のキューバのミサイル基地設置は第二次世界大戦前夜で喩えれば「ラインラント進駐」ないし「ミュンヘン会談」であろう。
アメリカがミサイル基地設置を容認すれば、ソ連はさらなる冒険に出たかもしれない。
しかし、キューバ危機ではアメリカは妥協せず、ソ連が折れた結果、核戦争への道は免れた。
この点、冷戦体制は局地的な戦争はあったものの、東と西の全面戦争にはならなかった。
全面戦争になれば核の打ち合いで東西両側が滅ぶからというのもあっただろう。
しかし、大戦争まで発展しなかったのは上で述べた意志と覚悟があったからとも言える。
また、平和主義とは離れるが、この章では「憲法から見て独裁政治は何故危険なのか」という疑問に対する回答もここで紹介されている。
ローマの民主制を殺したカエサル、フランス共和国を乗っ取ったナポレオン、そして、ワイマール共和国の独裁者となった今回のヒトラー。
これらは大衆の歓呼を経て登場したものである。
また、これらの時代の景気が決して悪くなかったことは前章で見た通りである。
では、なぜ立憲主義は独裁者を嫌うのか。
立憲主義の目的は個人の権利・自由の擁護にあるところ、独裁者はその権利・自由の核心を侵害する傾向が強いからである。
その核心は思想・良心の自由、つまり、内心の自由である。
例えば、旧ソ連では様々な抵抗運動が生じたが、これは国家(共産党)が人間の思想に干渉したから、具体的には、マルクス・レーニン主義とソ連共産党に対して批判精神を持つことを禁止・強制したからである。
思想・信仰という内心の強制、それは旧ソ連以外でも行われた。
例えば、宗教の強制と言う形で。
その結果、ヨーロッパで悲惨な戦争が生じたのは従前に述べた通りである。
「内心の自由の不可侵」、これは悲惨な戦争の経験に基づいて確立されたのである。
そして、立憲主義において独裁政治が忌避されるのも、歴史的に見て独裁者が内心の自由に踏み込むからである。
本章の余談として書かれたこのことも当然の前提として把握しておくべきだろう。
さて、平和主義の話に話題を戻して、現代日本を見る。
日本を見ると、「『平和、平和』と唱えていれば平和になると思っている」と言われても抗弁できない状況にある。
文明国家ならば「呪術」の段階を卒業して、科学的態度・学問的態度で平和にアプローチすべきでではないか。
さらに、本書が書かれた段階において、日本の大学には軍事学の専門コースがない(今は知らない、ただし、一度ちゃんと調べてみたい)。
もちろん防衛大学があるが、これは自衛隊・軍人のための学校である。
職業軍人のための専門コースしかないとなると、国民は職業軍人の言いなりにならざるを得なくなるが、それでいいのか。
あるいは、「シビリアン・コントロール(文民統制)」と言うが、シビリアンが軍事的な専門知識を持たずにコントロールできるのか。
以上が本章のメモである。
本章、メモだけで既に4000字を超えてしまった。
だから、私が思ったことを書くのは次回以降にし、次章のメモに移りたい。
なお、次章は国家と経済の関係に関する話である。