今回は前回のこのシリーズの続き。
今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。
14 私の感想(前半)
各章を1行でまとめると次のとおりになった。
第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ
第2章_憲法は国家権力に対する命令書である
第3章_憲法と民主主義は無関係である
第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した
第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した
第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている
第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する
第9章_平和憲法では平和を守れない
第10章_経済不干渉の夜警国家は大恐慌とケインズによって積極国家(福祉国家)となった
第11章_日本は民主主義・資本主義を根付かせるために「天皇教」という宗教を作った
第12章_日本の『空気』支配が憲法を殺した
第13章_ 日本のリヴァイアサンを操る官僚の弊害、戦後改革がもたらした自由と平等に関する誤解、天皇教による権威の崩壊によって日本は沈没する
これまでは、「本書を読んで私が学んだこと」を書いてきた。
ここからは、「各章を読んだ私の感想」をつらつらと書いていく。
まず、第1章は「日本国憲法は死んでいる」という話であった。
つまり、「近代憲法が機能しているかは『実質的に』判断すべきところ、日本国憲法は実質的に見て機能していない。よって、日本国憲法は死んでいる。」ということになる。
私はこの見解に同意する。
しかし、この「実質的に判断すべき」という点が日本人の感覚にマッチするかは分からない。
つまり、典型的日本人がこの話を聴いても、「本章は我々日本人の判断基準と異なる基準で判断しているに過ぎない。我々の基準では『形式的』に判断すべきところ、日本国憲法は失効していない。以上より、憲法は別に死んでいない」で終わるのかもしれないなあ、と考えた。
なにしろ、日本は「員数主義」の国であるところ、「員数主義」とはつまるところ「形式主義」であり、実質的判断とは対極の位置にあるのだから。
そして、第2章。
この章では近代憲法の常識中の常識、つまり、「憲法は国家権力に対する命令書である」と言うことについて書かれている。
もちろん、「近代憲法がそういうものと定義されている」というのは分かる。
しかし、この権力を縛らなければならない(けん制しなければならない)という発想が「事大主義(大に仕える主義)」を採用する日本人の感覚に適合するのかなあ、と考える次第である。
さらに、第3章。
この章では「民主主義の象徴たる議会」・「『権力を縛る』という立憲主義の発想がどこから出現したのか」を見るために、中世ヨーロッパの歴史を振り返る。
こう見ると、立憲主義の端緒にしても議会にしてもキリスト教の影響は大きいなあと考える次第である。
例えば、国王が当事者(貴族)を集めて一括して契約を締結する(改訂する)場として議会を用意するなんて、キリスト教の「契約」の発想がなければあり得ない。
また、中世の国王の立場の弱さを示す、「国王は人の上に、神の下に」という発想だって絶対神の存在を前提とするキリスト教が必要だろう。
この辺りは、中国と対比してみれば理解が深まるだろう。
そして、第4章と第5章。
国王(とそれに接近した商工業者)VS貴族・教会の戦いは国王の勝利となり、国王による絶対王権が誕生する。
そして、この王権の持つ権力は現在の国家権力とほぼ同質である。
つまり、「権力は領土内にいる国民に何でもできる。伝統主義をも考慮する必要もない」というもの。
しかし、国王は貴族と教会を蹴散らし、絶対王権として権力を行使しようとしたが、今度は国王を援助していた商工業者たちが国王と対立することになる。
さらに、この商工業者が新教徒(教会ではないキリスト教徒)であり、民主主義(平等)と資本主義の精神(勤労と目的合理性の精神)を持つ人たちであった。
この商工業者(新教徒)たちが革命を起こし、国家権力を縛り上げることになる。
となると、「近代革命は新教徒が起こした」と言える。
少し抽象化すれば、「近代革命は『契約主義・平等主義・勤勉主義・合理主義の精神』を持つ人たちが起こした」になる。
この前提を見落としてはいけないように思われる。
さらに、第6章と第7章。
ここから近代革命を起こした人間たちが絶対王権から自分たちの身を守るために作ったシステム(憲法と民主主義)とその背景について話が移る。
まず、近代立憲民主主義を支えているジョン・ロックの思想について。
ジョン・ロックの社会契約説には「人間は理性的存在である」・「人間は(勤勉性と合理主義的精神を持っており)労働を行うことで富を無限に増やせる」・「人間は契約をほぼ守る」という前提があることが分かる。
もちろん、これらの前提は新教徒(ピューリタン)であれば概ね持っている発想である。
しかし、これらの前提がない状況で、ある集団が表面的にこの社会契約説に従ったらどうなるか、それはヨーロッパ以外の国々を見れば分かるように思われる。
あと、ロックの説は「富は無限である」という前提がある。
ただ、富の大きさは「現実の物量と人間の数」の相関によって評価される。
大航海時代以降、ヨーロッパ各国(ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス)は世界を席巻したので、この前提がある意味成立していた。
もっとも、中国はもとよりこのような前提はなかった。
また、現代の世界もこの前提はなくなっているように思われる。
そうなってもロックの思想が成り立つのか、その辺は分からない。
そして、第8章。
この章は民主主義の持つ憲法破壊の危険性について触れられている。
民主主義的決定により「権力者を拘束する必要はない=憲法は要らない」となったら憲法は死ぬ。
例えば、ナチス・ドイツで議会が可決した全権委任法。
別に、これによってワイマール憲法が失効したわけではない。
しかし、行政府の処分をけん制する道具である「法律」、これを作る権限を議会(立法機関)が放棄することでワイマール憲法は死んだ。
また、ヨーロッパを見ると大衆の歓呼の声に支えられて独裁者は現れた。
アドルフ・ヒトラー然り、ナポレオン三世然り、ナポレオン然り、カエサル然り。
もちろん、民衆の幸福にとって独裁政治がいいのか悪いのかは分からない。
ただし、第9章で見た通り、「歴史的に見て独裁政治が人権(生命・自由・財産)を蹂躙しやすい・憲法を蹂躙しやすい」のは確かである。
立憲民主主義を引き受けるならばそのコストも代償も引き受けなければならない、ということなのだろう。
「国民にその覚悟はありや」、この章の最後の質問はそう問いかけているようである。
そして、第9章へ、、、といきたいところだが、本ブログの文字数が2000文字を超えてしまった。
その辺で、次章以降は次回に回す。