資本主義の精神

1 小室先生の動画を拝聴する

 先週の土曜日の深夜、私は普段使用しているPCのデータのバックアップを作成し、緊急時用のPC(値段の割にクソ重い、いつもは使わない)にコピーしていた。

 バックアップとはいえデータは大量にある。

 また、容量も膨大である。

 よって、コピーそれ自体に時間がかかる。

 

 だから、「データをコピーをしている間に、ユーチューブで宮台先生が出演している動画を見るか」などと思っていたところ、宮台先生のお師匠である故・小室直樹先生の動画が見つかった。

 

www.youtube.com

 

 この動画は1998年の小室先生の講演を収録したものらしい。

 1998年というと今から約20年以上前になる。

 かなり昔だ。

 

 内容は「資本主義が成立するためにはどんなエートス(行動様式)が必要か」というもの。

 小室先生の書籍を読んでいたおかげで講演内容(質疑応答除く)は理解していることであった。

 小室先生の書籍を読んだ甲斐があった。

 

 また、質疑応答の部分は面白かった。

「ロシアへの対応」に関する小室先生の返答は先生が日本の独裁官でもない限り不可能であろう(また、列強の反対にもあうだろう)が、なるほどと思わせるものであった。

 また、官僚に対する対策も参考になった。

 20年経過した後においてもこの発言は有効だと思う。

 

2 小室先生を知ったきっかけ

 ところで、私が小室先生を知るきっかけとなったのは次の2点である。

 

 第一は、『痛快!憲法学』という書籍を通じて、である。

 

痛快!憲法学 (痛快!シリーズ)

痛快!憲法学 (痛快!シリーズ)

  • 作者:小室 直樹
  • 発売日: 2001/04/26
  • メディア: 単行本
 

 

 以前このブログで取り上げたが、この書籍は憲法の背景・歴史について書かれた本である。

 そのため、ヨーロッパの歴史・キリスト教の歴史にまで遡って書かれている。

 

 また、近代立憲主義だけではなく、近代における重要原則たる民主主義・資本主義・平和主義についても触れられている。

 ざっくりと「憲法ってなーに?」という人にとっては非常に最適な本である。

 

 現在、私は故・山本七平氏の『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』から学んだことをブログに書き留めているが、それが終わったら『痛快!憲法学』から学んだこともブログにまとめようと思っている。

 

 小室先生を知るきっかけとなったもう一つは、私が継続的に視聴しているインターネット番組・丸激トークオンデマンドの次の番組を通じてであった。

 

www.videonews.com

 

 これもかなり昔の番組である。

 この番組は『痛快!憲法学』が下敷きになっている。

 

3 小室先生の書籍を読みまくる

 一時期、私は図書館に通って小室先生の書籍を読み漁っていた。

 読んだ本を片っ端からピックアップすると次のようになる。

 

小室直樹 日本人のための経済原論

小室直樹 日本人のための経済原論

 

 

 

国民のための戦争と平和

国民のための戦争と平和

  • 作者:小室 直樹
  • 発売日: 2018/01/25
  • メディア: 単行本
 

  

日本教の社会学

日本教の社会学

 

  

  

  

日本人のためのイスラム原論

日本人のためのイスラム原論

  • 作者:小室 直樹
  • 発売日: 2002/03/26
  • メディア: 単行本
 

  

信長 ー近代日本の曙と資本主義の精神ー

信長 ー近代日本の曙と資本主義の精神ー

  • 作者:小室 直樹
  • 発売日: 2010/05/28
  • メディア: 単行本
 

 

硫黄島栗林忠道大将の教訓

硫黄島栗林忠道大将の教訓

  • 作者:小室 直樹
  • 発売日: 2007/02/01
  • メディア: 単行本
 

  

日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する (WAC BUNKO 282)
 

 

 改めてピックアップしたが、結構読んでいるなあ。

 図書館にあった小室先生の本は片っ端から読んだからなあ。

 私が興味を持ったらこれくらいは一気に読んでしまうらしい。

 

 あと、忘れていた。

 小室先生のプロフィールは次のとおりである。

 

ja.wikipedia.org

 

4 動画について

 小室直樹先生の話を先行させてしまったが、動画の前半(質疑応答以前)の内容を簡単にまとめると次のとおりになる。

 なお、これらのことは、『痛快!憲法学』から学んだことをメモにする際、改めて触れる予定である。

 

(以下、私による理解、完全にあっている保証はないのでその点は注意)

 共産主義としてスタートしたソビエトは、一時、アメリカと肩を並べる程になった。

 しかし、やがて崩壊した。

 ソビエト崩壊後、ロシアは資本主義を目指したが失敗した。

 その原因は、ロシアに「資本主義の精神」がなかったためである。

 

 資本主義の精神とは何か。

 簡単にまとめてしまうと、①「労働は救済である」という倫理(勤勉さ)と②目的合理的思考である。

 ロシアはこの2点がないために共産主義から資本主義にならず、(小室先生が言うところの)マフィア経済(=資本主義以前の状態)になってしまった。

 

 この「資本主義の精神」がなければ、技術や資本(金)がどれだけあったところで資本主義(システム)にはならない。

 例えば、中国はイギリスに比べればはるかに資本があり、技術があった。

 しかし、上の①と②がないため、資本主義にならなかった。

 

 さて、日本。

 黒船来航以降、日本も資本主義に向けて走り出した。

 ところが、様々な要因により日本は資本主義に見せかけた社会主義になってしまった。

 その結果、、、(現状を見れば説明は不要であろう)。

(以下、まとめ終了)

 

 まあ、こんな感じである。

 ただ、小室先生の講義は非常に分かりやすいので、できれば直接上の動画を聴いてほしい。

 

 

 ところで、最近、山本七平氏や小室先生に興味を持ったため、そっち方面に目がいってしまい、プログラミング関係がなおざりになっている。

 これではあかん。

 自分の行動力を増やすか、バランスを考えて、プログラミング(とそれを用いたアウトプット)にも時間をまわしていかないと。

『憲法義解』を読む

1 大日本帝国憲法の注釈書『憲法義解』

 最近、図書館から借りてきた『憲法義解』を読んだ。

 

憲法義解 (岩波文庫)

憲法義解 (岩波文庫)

 

 

 この本を借りたのは、大日本帝国憲法について興味を持ったためである。

 現在、私は「憲法」について興味を持っているところ、大日本帝国憲法は日本に近代立憲主義を持ち込んだ最初の憲法(コンスティテューション)である。

 本書にも同趣旨のことが書かれていたが、日本の憲法及び日本の憲法の歴史に興味を持ち、それらについて調べようと思ったら、この本(憲法義解)にあたらないという選択肢はない。

 

 ここ数日、最初から最後までざっと読んだ。

 ざっと読んだだけではあり、「理解した」というには程遠い状況だが、それでもかなり勉強になった。

 ただ、ちゃんとこの本の内容を理解するため、近い将来購入しようと考えている。

 

2 読んで得たこと

 当時の日本政府にとって、近代主義を日本にどのように取り入れるかは大きな課題であった。

 つまり、明治憲法は「近代主義を日本に導入しようと試みた結晶」である。

 その苦労を憲法の条文・条文解釈(義解)に見ることができた。

 

 また、司法試験合格のために憲法を学習した際に出てきたいくつかの論点について「この論点にはこんな背景があったんだ」ということも知ることができた。

 具体的な論点を示すと、「特別権力関係」と「委任立法と罰則」についてである。

 論点をめぐる解釈・政治的背景について分かったのは大きな収穫であった。

 

 さらに、どんな憲法にも欠陥があるところ(それは現在の日本国憲法にも言える)が、明治憲法に含まれた欠陥を具体的に把握することができた。

「軍部が『統帥権の独立』を悪用して云々」という言葉はよく言われており、私もその言葉は理解していたが、大日本帝国憲法の条文と条文解釈を見ることで「あー、なるほど」と理解することができた。

 

3 ざっと読んだ感想

 以下、私の感想。

 ざっと読んだ印象(あくまで印象であり、正しい保証はない)として、「この憲法天皇陛下(とその藩屏)が主体的に行動することを前提としているな」と感じた。

 極端な言い方をすれば、この憲法では天皇陛下は「君臨すれども統治せず」というスタンスを採れないのではないか、ということである。

 もちろん、天皇陛下御自身が大日本帝国憲法作成直後(日清戦争後)から立憲君主として振舞っていたということは知っているが。

 

 この点、天皇陛下御自身が「君臨すれども統治せず」というスタンスを採られても、周り(元老)が補佐すれば問題がなかった。

 しかし、元老は大正時代に西園寺公(西園寺公望)を除いてほとんどいなくなり、また、それに代わるものもなくなってしまった。

 他方、大日本帝国憲法の議会(国会)の権能はそれほど強くない。

 そのため、憲法解釈を用いてどんなに議会の権能を強めたところで限界がある。

 したがって、昭和に入ってから権力に空白地帯ができ、かつ、その空白地帯に対する議会のコントロールも効かなくなってしまった。

 それがために何が生じたかは説明不要であろう。

 

 次に、「大日本帝国憲法は『外見的立憲主義』である」と言われているらしいが(司法試験の勉強の際に教えられた)、それについて「なるほど」と実感することができた。

 この「外見的立憲主義」という言葉には否定的なニュアンスが含まれている。

 ただ、当時の状況を思うに、キリスト教を背景に持たない我が国においてそれはやむを得ないのではないかという気がする。

 この点、平等という概念は「神の前の平等」というキリスト教を前提としている。

 しかし、キリスト教のない日本にはそんなものはない。

 そこで作り上げたのが「天皇の前の平等」という概念。

 となれば、「天皇による権利保障」という形式をとらざるを得ない。

 私が「やむを得ない」と評価しているのはそう意味である。

 

 さらに、歴史、抽象的には、「時の流れ」を意識しながら理解することの重要性を確認した。

 私は理系の人間ゆえ、「時の流れ」というものを意識することは少ない。

 例えば、数学・物理の定理などは過去でも今でも同様に成立するので、歴史を意識する必要性に乏しい。

 しかし、社会科学はそうはいかない。

 となれば、結論部分を知識として覚えるだけでは「資格試験に受かる」という目的に対して合理的であっても、理解の観点から見て不十分であるように感じた。

 

4 これからについて

 さて。

大日本帝国憲法は欧米で発展した近代主義と日本の伝統を接続する試みの結果できたものである」旨述べた。

 そのため、近代主義、すなわち、キリスト教や日本の伝統についても把握する必要がある。

 次に私が学ぶべき内容は明治憲法を支えたいわゆる「天皇教」になる。

 具体的には、日本の神話と尊王思想(水戸学)に関する入門書を読むことになりそうだ。

 順次読んでいきたい。

マイケル・ムーアの演説に涙を流す

 約5年前、2016年のアメリカの大統領選挙の直前。

 マイケル・ムーアというドキュメント映画監督が「(2016年の)大統領選は、ヒラリー・クリントンではなく、D・J・トランプが勝つ」という趣旨のスピーチをしたことがあった。

 

 私がこのスピーチを知ったのは次のニュース番組を見たとき。

 このニュース番組「丸激トークオンデマンド」は、私が約15年前から見ており、私が長期間継続的に見ている唯一の「番組」でもある。

 

www.youtube.com

 

www.videonews.com

 

 このスピーチはかなり有名なので、知っている人もいるかもしれない。

 もう少し長いバージョンがないか探していたら、次の動画がヒットした。

 ただし、日本語訳はない。

 

www.youtube.com

 

 下の動画(番組のではない方)でマイケル・ムーア本人が述べた演説の要旨を私なりにまとめると次のとおりになる。

 なお、以下の要旨を作るにあたっては、別の動画(それには和訳が付いていた)やスピーチの文字起こし(英語)を参考にしている。改めて探したがリンクが見つけられなかったが、見つけたら追加で貼りなおす。

 

(以下、私の「意訳」である。言葉を省略したり、文章の順番を入れ替えた部分もある。「正確な訳」とは到底言えないので、その点は必ず注意すること)

 私は「トランプに投票しよう」と考えている人たちをたくさん知っている。でも、彼らは必ずしもトランプに賛成しているわけではない。彼らは礼儀正しい普通の人たちだ。

 ただ、私が彼らと話して思ったことがある(のでそれを話す)。

 トランプは大企業の経営者らを前にこう啖呵を切った。「デトロイトの工場を閉鎖してメキシコに移転したら、作った車に関税をかけてやる。そうなれば、車は売れず返品の山だ」と。驚くべき状況だった。かつて、こう言い放った政治家は民主党にも共和党にもいなかったのだから。

 オハイオに住んでるなら私の言いたいことが分かるだろう。トランプがガチかどうかは関係ない。でも、この発言はミシガン・オハイオペンシルベニアウィスコンシンの人たちにとって福音だった。トランプの発言が時代の変化により傷つき、打ちのめされ、忘れ去られた名もなき「没落した中産階級たち」を意識していたことは間違いない。

 人々にとってトランプは自分たちを押しつぶしたシステムに復讐するために待ち望んでいた人間爆弾なのだ。

 これまでこのシステムは人々からあらゆるものを奪っていっただろう。でも、そんな人たちでも一つだけ残っているものがある。行使するのに1セントも必要としない、アメリカ合衆国憲法が保障してくれた「一票」だ。

 彼らは金もなく、家もなく、これまでさんざんな目に遭ってきた。でも、投票ではそんな事情は関係ないし、チャラにすることだってできる。何故なら、大金持ちも没落して職がない人も持っている票は同じ1票だ。そして、没落した人の数は金持ちの数より圧倒的に多いのだから。

 だから、11月8日、人々は投票所に行き、自分を滅多打ちにしたシステムに復讐するために大統領を選択するだろう、ドナルド・J・トランプを。

 お偉いさんたちはトランプを嫌っているようだ。もちろん、メディアも。昔は支援していたくせに。でも、トランプは言うだろう。「ありがとう、メディアよ。あなた方の敵が私を投票してくれる」と。

 そう、11月8日、アメリカ人がみんなでこのシステムを叩きつぶしにいくのだ、自分たちの権利を行使して。

 トランプの当選により我々は人類史上最高の「くそったれ」を突き付けることになるだろう。お偉いさんにおいてはなんといいざまであろうか。

(終了)

 

 私がマイケル・ムーアの演説から受け取ったメッセージは要旨のとおりになる。

 この演説を聴いたとき、私は涙が止まらなかった。

 普段意識していない私の傷に触れたのだろう。

 

 この演説を聴いて思った感想は「すげーな」である。

 

 1つ目はこのスピーチの内容。

 心情的にトランプに投票しようとしている人たちの説明として的確であること。

 

 2つ目に合衆国憲法の威力。

「彼らは何もかも失った。でも、合衆国憲法が保障された選挙権が残っている」というように、絶望的な状況でも持ち出せる合衆国憲法に対して。

 

 3つ目はスピーチそれ自体。

 これは私がスピーチを聴く経験が少なく、私が疎いだけかもしれないが。

 

 さて。

 次に思ったことが、「政治に関するスピーチで、日本でこんなスピーチってあったっけ」ということである。

 確かに、私は時事に疎いので、「知らないだけ」ということは十分ありうる。

 ただ、残念ながら私は知らない。

 

 また、「日本国憲法のほにゃららがあり、どうこう」というスピーチってあったっけ、とも思った。

 こちらについては「明らかにない」のではないかと思われる。

 特に最近においては。

 憲法の力を信じている人間はほとんどいないだろうから。

(ただ、あったらコメント欄で教えてくれると助かる)

  

 トランプ大統領については様々な評価がある。

 しかし、それとは別に、このマイケル・ムーアの演説には感動した。

 その感動した事実を記録に残しておく。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 4

 今回は前回までの続き。

 

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 今回も山本七平氏の書籍から学んだことをメモにする。

 

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6 第5章 自己の絶対化と反日感情

 これまで、第2章の「バシー海峡」(失敗分析の懈怠による悲劇)、第3章の「実数と員数」(実態把握の懈怠による悲劇)、第4章「秩序と暴力」(文化的基盤を背景とした集団秩序構築の懈怠による悲劇)と続いた。

 そして、この第5章を私なりにまとめると「コミュニケーション不全による悲劇」になる。

 私はコミュニケーションが苦手であるがゆえか、特にそのように感じられる。

 

 ちなみに、敗因21か条のうち本章に関連する条項は次のとおりである。

 

(以下、敗因21か条より引用)

二十、日本文化に普遍性なきため

十三、一人よがりで同情心がないこと 

(引用終了)

 

 この章の趣旨を『孫子』で置き換えるならこれになるだろう。

 

(以下、『新訂孫子』・金谷治訳注・岩波文庫・2000の52頁から引用)

彼れを知りて己を知れば、百戦して殆うからず。彼を知らずして己れを知れば、一勝一負す。彼れを知らず己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆うし

 (引用終了)

 

 ご存じ「百戦して危うからず」の部分である。

 

 敵と自分の両方を理解して戦えば、負けることはない(明らかに負ける見込みなら最初から戦いに持ち込まないため)

 敵のことを理解してなくても自分のことを理解していれば、まあ勝てないことはない

 敵と自分、両方とも理解せずに戦えば、敗北の山を築くことになる

 

 山本七平氏の書籍を読むと、太平洋戦争時のフィリピンに対する対応において、こちら側は相手(フィリピン側)と自分(日本側)のどっちも理解していなかったのではないか、と思わざるを得ない。

 

 善悪は置くとして、日本は「言語化」を嫌う傾向があるように思われる。

 そのため、自国(日本)の文化を言葉で把握し、言葉を用いて他の民族・国家に対して提示することがうまくできなかった、さらに言えば、そのような発想が最初からなかったのではないか。

 この点、外国の文化を吸収・学習するなど、自国(日本)が下で相手(古代なら中華圏、近代なら欧米)が上という関係であればさほど問題がなかったが、そうでない場合(相手と自分が対等な場合、自分が相対的に上の場合)に悲劇が生じてしまった。

 私はそんな印象を得ている。

 

 

「一人よがりで同情心がない」、このことが端的に表れたところは何か。

 いわゆる「切断操作」ではないかと考えられる(自分の理解の正確性に疑問があるので、これが正しい保証はない)。

 簡単に言えば、「相手は自分は別である」、「相手を自分側のものとして認めない」と考える心理。

 

 もちろん、相手と自分は同一ではない。

 しかし、相手を自分側のものとして認めず、それを前提に相手の非をあげつらえば、相手との対話・相互理解は不可能になってしまう。

 

 

 では、どうすればよかったのか。

 その答えは本章に書かれてある。

 やることは2つ。

 

 まず、「相手も自分も同じ人間である、ただし、生き方の基準が異なる」という前提に立って、「相手を知る(理解する)」ことをしなければならない。

 そして、もう一つ、「自分を理解し、かつ、言葉にして相手に対して表現する」ことも求められる。

 

 後者も重要である。

 というのも、自分側が何も主張しなければ、それは相手に対して自分をひたすら順応させることになり、それは「相手を認める」という条件を満たしても、「自分で自分を認める」という条件が満たされず、結局、「自分と相手は同じ側に入らない」ことになってしまうからである。

 

 

 そして、この2つができる人は確実にいた。

『虜人日記』の著者である小松真一氏自身がそうだろうし、他にもできる人がいたことが日記にも記載されている。

 だから、本章では「個人として十分になしうることが、集団になった途端何故できなくなるのか」ということを問題点に掲げて終わっている。

 

 

 私がこの章を見て思うのはいわゆる「外国人技能実習生問題」である。

 約10年前、たまたまではあるが、私はこの問題に取り組む弁護士やその当事者(外国人の方)の話を聴くことができた。

 それを聴くと、ある種の恐ろしさを感じずにはいられない。

 太平洋戦争と技能実習生の問題があまりに重なるので。

 

 もちろん、日本側にも言い分はあるだろう。

 しかし、太平洋戦争の教訓を活かしていれば、と思わずにはいられない。

 それが極めて難しいことではある、としても。

 

 

 この文章を書くにあたり、再び本章を見直している。

 改めてこの章を見ると学ぶ点が非常に多かった。

 

 個人的に、「上に書いた2つが十分にできなかった」と反省せざるを得ない。

 自分の場合に限定してその原因を探ると「自己承認の低さ」にありそうである。

 精神医学者・斎藤環の言葉を借りれば「確固たる自信のなさ」になるだろうか。

 

 自己承認が低いため、太平洋戦争のケースとは逆の意味で「相手と自分が同じ側に入らない」。

 つまり、相手を神の如く扱い、自分の非をひたすら弾劾することで、自分と相手を分けてしまう。

 その結果、「自分を把握して、言語化し、相手に話す」ことをしなくなる。

 

 この場合、神の如く扱う相手と自分しか存在しなければ大きな問題にはならない。

 しかし、「神とみなした人」と異なる第三者が出てきたときに問題になる。

 ここで、自分と「神とみなした人」を同一化すれば、別の第三者に対する対応が上の悲劇と同様になってしまう。

 

 原因は分からないが、最近、自分の欠点も含めて自分が許せるようになった。

 また、「相手を知る」ということ自体、私自身に出来ないことではない。

 だから、この問題については私は克服できそう(まだ克服していない)な気がする。

 この上は実践(その過程でいくらでも失敗するだろうが)あるのみである。

 

 この章に書かれていたこと、これは自分の今後の言動を変え、それを見た上で、改めて考えてみたい。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 3

 今日はこれらの記事の続き。

 

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 前回までと同様、私が『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』から学んだことをまとめる。

 

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5 第4章 暴力と秩序

 この章、書いてある内容は理解できた。

 ただ、最近まで正直理解のピントがあっていなかった。

 

 しかし、最近、人生において様々な経験をしたゆえであろうか。

 理解のピントがあってきた。

 その結果、背筋が凍るのを感じた。

 

 第2章の「バシー海峡」では、「失敗に対して敗因分析を怠り、量を増やしてひたすら突進したことで生じた悲劇」が語られている。

 第3章の「実数と員数」では、「『員数』という虚構にしがみつき、現実という「実数」の分析(把握)を怠ったことで生じた悲劇」が語られている。

 

 そして、第4章。

 この章は「共同体(集団)において自らの文化・思想に基づく具体的な秩序を作ることを怠ったことで生じた悲劇」について語られている、と理解している。

 

 この章、敗因21か条と関連するのは次の2条である。

 

(以下、敗因21か条より引用)

十八、日本文化の確立なきため

十六、思想的に徹底したものがなかったこと

(引用終了)

 

 この章で書かれている内容は、PW(戦時の捕虜)が収容されたキャンプで生じた暴力的秩序に関する話である。

 本で紹介されている『虜人日記』の内容を簡単にまとめると、次のようになる。

 

(以下、まとめ)

① 日本人の収容所において、力で有無を言わせずに人を従わせる傾向がある者が組織運営を行った結果、暗黒暴力政治時代になってしまった。

② 収容所を運営しているアメリカ人側も『さすがにこれはまずい』ということで、暴力政治を仕切っている人間を追い出した。

③ その結果、一見民主主義的な組織が出来上がったが、今度はそれに従わない連中が出てきて、秩序はなりたたない。

④ ああ、日本人は情けない。暴力がなければ秩序は成り立たんのか。 

(引用終了)

 

 ざっとまとめてしまったが、似たような話は今でもありそうな気がする。

 少なくても、私がこの現象について他人事であると思うことは全くできない。

 

 

 そして、こうなった背景について話は進む。

 最初に、山本七平氏が指摘しているのは、この収容キャンプにおいて生じた現象の意味付けである。

 山本七平氏は指摘する。

 これは、日本人たちに対して「最低限の衣食住の保障を与える。労働からも解放する。組織も切り離す。だから、お前らは自分たちの思想・文化に基づき組織を構成して自治をやれ」と言われたときに、集団がどうふるまうか調べた結果である、と。

 もちろん、そんな意図は誰もないだろう。

 だが、意図がなくても、意図があった場合に設定する条件が同じであれば、そのような評価は十分可能である。

 

 そのため、収容キャンプで生じた現象(暴力政治)は「日本人が組織から解放された場合に作り出すであろう秩序そのもの」である、と。

 キャンプの運営者たるアメリカ人は暴力政治が目に余るので排除したが、それ以上の関与はしていない。

 そのため、この結果はキャンプの運営者たるアメリカ人の思想によるものではない。

 つまり、この結果はまさに構成員たる日本人によるものであり、言い訳の余地はない。

 

 さらに言えば、この現象は別に一部の現象ではないらしい。

 とすれば、一部の例外を除き、そこそこの妥当性を有するもの、ということになる。

 そして、例外として「職人集団」があった、と書かれている。

 

 

 以上の評価を前提に、「何故?」という問題に進む。

 山本七平氏は指摘する。

 

 日本軍を維持していた秩序は、日本古来の文化も思想にも根差さないメッキだった、と。

 そして、その原因は「文化の確立」も「思想的徹底さ」もなかったためである、と。

 

 山本七平氏が経験した世界は次のような感じだったようである。

 

 各人は様々な考えを持ち、それに基づいて発言した。

 発言自体に問題はない。

 しかし、各人はその発言に伴う行動はせず、その行動は「人間の本性」のままであった。

 さらに、発言と行動の不一致を指摘される(当然の指摘であろう)と、それを認めずに怒る。

 その怒りは混乱・嘲笑・侮蔑・反発となり、最終的には暴力と暴力の応酬に転化する。

 その結果が暴力政治である、と。

 

 文化の確立があれば、「行動と発言が一致しない」ということはある程度回避できたであろう。

「確立」という過程において、不一致の部分が修正されるだろうから。

 思想的徹底さがあれば、行動と発言の不一致を指摘されたら素直に認めて自省しただろうし、また、不一致の程度も修正されたであろう。

 しかし、その両方がなければ、このような結果が生じたとしても不思議ではない。

 

 さらに、「力があること」それ自体は問題ではない。

 思想も文化も他人を強制する力があるという意味では「力」なのだから。

 そして、「力」がなければ秩序はできないのだから。

 しかし、「力」を制御するものがなければ、生身の暴力がそのまま秩序になってしまう。

 それだけのことである。

 

 

 以上のからくりを理解して、私は背筋が凍った。

 なるほど、これは全く克服できていないと言わざるを得ない。

 収容キャンプにおいて弱き者は既に戦死・餓死していた。

 それがいないキャンプでもこんな結果なのである。

 ならば、弱き者が存在する現在の日本ならどうか?

 言うまでもない。

 

 最近、私の近くでこれに似た現象があった。

 もちろん、収容キャンプではないので、その集団から離脱する自由はある。

 だから、誰かが身体上のケガをした、といったことはない。

 しかし、それを見て溜息をつかざるを得なかった。

「なるほどね」と。

 もちろん、遠くから見ると決めて、介入しない自分自身にも批判の矢は刺さる。

 この現象が生じた原因について責任のいくらかは私にあるから。

 

 現在、私が「死んでいる」と判断し、関心がなくなった日本国憲法を見直そうと思ったのは、日本国憲法の理念である自由主義・民主主義・平和主義・資本主義(これはキリスト教に由来する)が日本古来の思想とどの程度重なり合うのかを確認したかったからである。

「全部重なる」、「全く重ならない」ということはないだろう(ひょっとしたらあるかもしれないが)。

 また、自由主義・平和主義・民主主義・資本主義、それぞれ見ても重なり合う程度は違うだろう。

 だが、その点をちゃんと見ておかないと、それがために悲劇が起きるのではないか。

 

 それから、各学問と日本文化との食い合わせも見たいと思っている。

 これは妄想レベルの話だが、数学のような学問と日本文化も食い合わせが悪いような気がするので。

 

 

 最後に。

「背筋が凍った」のはその通りである。

 しかし、これはしょうがない面もある。

 つまり、日本は植民地にならないために必死で西洋の技術や政治システムなどを取り入れた。

 しかし、太平洋戦争は日本が近代化を初めてから100年も経っていない。

 100年未満で日本文化とヨーロッパの思想・技術とリンクさせよ、といってもねえ。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 2

 今日はこの記事の続き。

 

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 私が『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』から学んだことをまとめる。

 

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4 第3章 実数と員数

「実数と員数」、これまたスパッとした言い方である。

「現実に存在する数」と「帳簿に記載された数」。

 言い換えるなら、「客観と主観」・「現実と演出(虚構)」になる。

 

 また、この章で用いられている敗因21か条の条項は第1条である。

 

(以下、書籍引用)

一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。(以下略) 

(引用終了)

 

「精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事」から始まる条項は第1条にある。

 つまり、これが「(敗因21か条を書いた人が考えた)最も重要な敗因」になる。

 第一条に大事なものを持ってくるのは「十七条憲法」(第1条は「和を以て貴しとなし、(以下略)」)でも後藤田五訓(第1条は「省益を忘れ、国益を思え」)でも同じである。

 

 その内容は「精兵主義の軍隊に精兵がいなかったこと」。

 結構厳しい言葉である。

 そして、多大な反発を招く言葉でもあろう。

 

 例えば、A国において共産主義が浸透しなかったとする。

 それについて「A国で共産主義が浸透しなかった原因は、A国共産党に真の共産主義者がいなかったからである」などと断定され、A国の国民がこれに納得すれば、A国共産党は死刑宣告を受けたのと同じである。

 とすれば、A国共産党(党員)はこの発言には断固抗議せざるを得ない。

 

 

 注意しなければならないのは、「いなかった」という言葉の評価である。

 この文章から「精兵がゼロだった」という事実を認定するのは妥当ではない。

 何故なら、精兵の存在・存在した精兵の善戦ぶりはこの本に引用されている『虜人日記』にも書かれているし、山本七平氏も認めているからである。

 つまり、「精兵がいなかった」とは、「(全体を見て)『いる』と評価できる程の数が存在しなかった」という意味にとらえるのが妥当であろう。

 

 

 本章では「何故、『精兵主義』を標榜しながら、精兵が存在しなかったのか」という原因の分析に話が進む。

 その原因にある発想が「実数と員数」という言葉に込められている。

 

 例えば、①日本政府が「日本は民主主義だ」と発信すること、②現実において日本が民主主義であること、これは同値ではない。

 ①と②が共に真であることもある(当然ある)が、①が正しく②が誤りであることはいくらでもありうる。

 仮に、①の政府の声明を唯一の根拠として、実情を考慮することなく「日本は民主主義」と認定したら、「おいおいおい」となるだろう。

 

 ただ、世情を見渡す限り、「日本は民主主義だ」と標榜すれば「日本はちゃんとした民主主義システム」であり、「精兵主義」を標榜すれば(全体として見て)精兵が存在することになってしまう。

 それが太平洋戦争のときに起きた現象であり、「実数と員数」に込められた意味である。

 

 

 当然のことだが、事実認定(実態調査)において重要なのは、それを裏付ける事実(間接事実)や現実的状況(証拠)である。

 例えば、「日本に精兵がどの程度いるか」を判断したければ、帝国の軍隊の質を客観的に調べる必要がある。

 その際、政府が「日本には精兵がいる」・「日本は精兵主義を採用する」などと発表しても、判断に影響を与えることはほとんどない。

 さらに言えば、(あり得ない話だが)政府が「日本に精兵がいない」と自省の発言をしたところで、軍隊の質が激変するわけではない(士気が下がる程度の影響があるかもしれないが、火器・大砲の威力が激減することはない)。

 この点、「日本がどの程度民主主義であるか」を判断する際、見るべきものが具体的な政治システム・社会的事実であって、政府の発言ではないと同様である。

 

 事実認定(実態調査)において以上の抽象論に反対する人間はいないだろう(ひょっとしたらいるかもしれないが)。さらに言えば、「事実をどう認定したら〇〇主義者」などと言い出せば、「アホか、こいつ」ということにだってなりうる。

 しかし、どうやらこの現象、最近でも続いているようなのである。書籍の具体例は春闘の参加人数に関する話だが、ここでは別の事例を挙げたい。

 

 

 私が15年以上見続けている番組に「丸激トークオンデマンド」という番組がある。

 これは私が尊敬するお二方、宮台真司先生と神保哲生さんが配信している番組である。

 

www.videonews.com

 

 丸激では過去の番組のいくつかが無料で見られるのだが、その中に次の放送がある。

 

www.videonews.com

 

 この放送回(129回)のPART1の43分43秒あたりから宮台先生が話した内容を聴いてみてほしい。

 要旨をまとめるとこんなことになる。

 

(以下、まとめ、文字起こしではないので注意すること)

・ある人間(近代主義者と言っているが、別に近代主義者である必要はない)が、(一定の事実により)「この作戦は実りが少ないのでやめ、動かないことで臥薪嘗胆を期した方が良い」、「この作戦は負ける可能性が高いので修正したの方がいい」などと言うと、「貴様ぁぁ、帝国陸軍に負けがあるというのかぁぁ」などと怒鳴られる。

・ある人間が、「ここで強硬姿勢を緩めないと相手国は外交交渉を打ち切ってしまうだろうが、それでいいのか」、「仮に、K国が日本の山手線をめがけて50発のミサイルを撃ち込み、そのうち25発くらい命中するとかなったらまずいですよね」などと言ったら、とある論壇では「そのようなことを言うのは敗北主義である」などと怒鳴られる。

・作戦の成功に関する予測や相手の行動を予測するのは、近代主義的国民益(国益)を考えるなら当然のことである。しかし、そのような予測をすると「貴様ぁぁ」となってしまう。

(まとめ終了)

 

 ちなみに、この部分について文字起こしされてないかなと思い、ネットを巡回していたら、面白い文章を見つけた。

 せっかくなので貼っておく。

 

blog.livedoor.jp

 

 つまり、「作戦の見込みを(事実関係から)予測し、リスクを評価して修正案を提示すること(作戦中止を進言すること)」が、その内容如何によらず「皇軍を侮辱すること」になるらしい。

 また、自分側に不利益な結果を予測し、その旨発言すると、「敗北主義」となってしまうらしい。

 一瞬、「言霊思想か」と思ってしまった。

 多分、そうなのだろう。

 

 もちろん、山手線にミサイル云々というのはいささか非現実的である(この放送は2003年9月5日、拉致問題で世論が沸騰していたころ)。

 よって、「その仮定は現実に発生する可能性が極めて低く、考慮の必要はない」という反論は十分可能であり、そこそこの説得力がある。

 そのため、「敗北主義」を持ち出して批判を封じる必要はどこにもない。

 

 このような現象を見てしまうと、「ああ、昔も今も変わってねーわ」と言われても抗弁できないように思われる。

 まあ、この放送自体約20年前なんだが(というか、こう書いてその時間の隔たりに驚いている)。

 

 最近だと、データ改ざんの問題が挙げられるだろうか。

 でも、これは「実数と員数」以前の問題かな。

 精神構造は類似のものではないかと思われるが。

 

 さて、山本七平氏は春闘の参加者数に関する話を題材にしている。

 ある春闘における参加者数について、主催者発表によると20万、警察発表によると約3万。

 

 では、実際の参加者は?

 メディア(事実報道のスペシャリスト)は何故それを調べないのか?

 このメディアの姿勢は非常に問題であると思われるが、本論から離れるのでこれ以上は触れない。

 

 さて、参加者数(事実)をどう認定するかを踏み絵(資格の問題)にしている。

 曰く、「警察発表を信じるようでは労働記者の資格はない。」など。

 しかし、そんなことをすれば、誰も事実が把握できなくなってしまう(警察側が敢えて虚報を流す動機はなさそうなので、警察が発表した数値が真実に近い値であろう)。

 実態が把握できなくなれば、それは大問題を引き起こすであろう。

 

 その結果、どんな悲惨な結果になったか。

 詳細は本に書いてあるが、おおむね想像のとおりである。

 

 さて、本章のまとめ部分を引用しよう。

 

(以下、本文97ページ以下引用)

「ない」ものを「ない」と言わずに、「ない」ものを「ある」というかいわないかを、その人の資格にしたことであった。

 一言にして言えば「精兵主義はあっても、精兵はいない」という事実を、一つの「事実」としてそのまま口にできない精神構造にあった。

 最後の最後まで「員数」すなわち「虚数」を「実数」としつづけ、そして「実数」として投入された「員数」は、文字通りの「員数」として、戦闘という実質の前に、一方的に消されていったわけである。 

(引用終了)

 

 私は「ない」ものはあっさり「ない」と言ってしまう傾向がある。

 さらに、「実態調査をやろう」と思ったらあっさりとやってしまう。

 最近も、精神的混乱から色々な記録を録りだして態勢を立て直したように。

 少し昔も、あることに興味を持ったが、データがないため、重要なデータも重要ではないデータも片っ端から取りまくったことがあった。

 そのため、「実数」と「員数」を混同してダメージを負った経験はあまりない(細かいダメージはいくらでも負っているだろうが)。

 

 また、自分には「完璧主義」の傾向があったが、だからといって「自分が完璧である」と思うことは全くなかった。

 むしろ、いかに「自分がダメか」を痛感し続け、それがメンタルを崩す原因にすらなっている。

 

 とすれば、この章は、私にとって考え方を明らかにする上で非常に有益であるが、何かを変えなければならないということはあまりなさそうである。

 

 

 ところで、「精兵主義はあっても、精兵はいない」という事実を一つの「事実」としてそのまま口にできない精神構造、これはどこから由来するのだろう。

 これを起源とする背景は、「言霊思想」であろう。

「言葉にしてしまうと、それが実現してしまう。だから口にしない」という発想である。

 

 よく「願い事があるなら、何度もそれを口に出して言え」と言われている。

 これは「口に出すこと」がトリガーになって「願いの成就」に貢献するからである。

 だから、「言霊思想」それ自体が荒唐無稽だとは思わない。

 事実として日本人は言霊に引きずられる(私だって言霊に引きずられることがあるし、それがために失敗したことだってあるだろう)

 さらに言えば、そこから脱却するのは不可能だと考える。

 

 しかし、それゆえ現状を調査させない、または、調査した結果の発表を許さないということになれば、共同体主体で見れば情報が共有されず、惨状を招くことになる。

 共同体統治システムとして民主主義を採用しているならなおさらである。

 

 そう考えると、日本人が持つ言霊思想、これは近代立憲主義とは喰い合わせが悪いのかもしれない。

 もちろん、それは単に評価として「マッチングしねー」と言っているだけであって、「日本人が悪い」ということではない。

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』を読む 1

1 太平洋戦争の日本の敗因がコンパクトにまとまっている名著

『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』という本がある。

 

 

 最近、私は山本七平の書籍を読み漁っている。

 その上で振り返ってみると、この本は「太平洋戦争における敗因分析」が綺麗にまとまっている。

 

 ちなみに、2021年4月4日現在、この本はアマゾン・アンリミテッドに入っている。

 興味のある人は読んでみるといいかもしれない。

 ただし、読めば読むほど暗澹たる気分になるかもしれないので、その点はご注意を。

 

 さて、この本の章を見てみよう。

 

(以下、書籍より引用)

 第1章 目撃者の記録

 第2章 バシー海峡

 第3章 実数と員数

 第4章 暴力と秩序

 第5章 自己の絶対化と反日感情

 第6章 厭戦と対立

 第7章 「芸」の絶対化と量

 第8章 反省

 第9章 生物としての人間

 第10章 思想的不徹底

 第11章 不合理性と合理性

 第12章 自由とは何を意味するのか

 (引用終了)

 

 この章立てを見るだけで、どのポイントで見ればいいのかの起点になっている。

 詳細は本を読んで、、、と言いたいところだが、私が理解したことを示す観点から、各章の要点をまとめてみる。

 

2 第1章 目撃者の記録

 本書では、多くのところで故・小松真一氏の『虜人日記』の記載が参照されている。

 

虜人日記 (ちくま学芸文庫)

虜人日記 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:小松 真一
  • 発売日: 2004/11/11
  • メディア: 文庫
 

 

 この点、敗因に関する解説は2章以降であり、この章では敗因について触れていない。

 ただ、「信用できる記録とは何か。それは(『見』と『聞』になれ合いのない)『虜人日記』である。」ということを通じて、現在の記録(目撃者の記録)に対するマス・メディアのありようを批判しているように感じる。

 そして、外国の権威を笠に同胞に高圧的に接する日本人にも。

 この辺は私自身にも心当たりがあるので、機会があれば、そのときの私の経験とその背景を探ってみたい。

 

3 第2章 バシー海峡

 実を言うと、私は「バシー海峡」の意味を理解するのに時間がかかった。

 ただ、その意味を理解したときに背筋が凍る思いをしたことは覚えている。

 

 小松真一氏も山本七平氏もバシー海峡に日本の敗滅の原因を置いている。

 

(以下、小松真一氏が掲げた敗因21か条より引用)

 十五 バアーシー海峡の損害と、戦意喪失  

(引用終了)

 

 バシー海峡は太平洋戦争当時、いや、現在においても重要なルートである。

 日本と南方を結ぶためのルートとして。

 

 よって、太平洋戦争(特に、末期)においてはアメリカの潜水艦が待ち構えており、通行する輸送船などを次々と沈没させていったのである。

 この海峡を「魔の海峡」・「輸送船の墓場」というのはそのためである。

 

 ところで、「バシー海峡の損害と戦意喪失の背景」に何があるのか。

 それについて書いてあるのが、第2章である。

 

 乱暴にまとめてしまえば、次のようになる。

 

「失敗したときに、ただただ量を増してやり直すだけで、(目的を再確認して)代替手段を検討しないメンタリティ」

 

 この意味が分かったとき、私は背筋が凍るのを感じた。

 私にも似た経験があるからである。

 私の場合、量を積み重ねるだけで複数の難関を突破しており、成功体験がある分、さらに質が悪いのかもしれない。

 

  

 また、この章ではバシー海峡以外に2つのことに言及している。

 一つは「目的不在」、もう一つは「技術的知識」の軽視である。

 

「目的不在」とは何か。

 これは、第二次世界大戦の枢軸国、ドイツと対比させることではっきりわかる。

 

 第二次世界大戦のとき、ドイツは明確な目標を以てヨーロッパ各地に攻勢を仕掛けた。

 その所業をどう評価するかはさておき、明確な「目標」と目標を達成するための「手段」があったことは否定できない。

 さらに言えば、第二次世界大戦で連合国側になったアメリカ(フランクリン・ルーズベルト)・イギリス(ウィンストン・チャーチル)・ソ連ヨシフ・スターリン)・中国(共産党毛沢東)の指導者は、皆、目的意識がはっきりしていた。

 

 しかるに日本はどうか。

 日華事変こと日中戦争以降、対外的な目的・目標はなかったのではないか、と思われる。

 その意味では日露戦争とは大違いである。

 

 目的が不在・不明確であれば、手段の合理性など検討しようがない。

 手段の合理性は目的との兼ね合いで決まるのだから。

 

 この「目的不在」、これも私にとって耳の痛い話である。

 目的が明確な場合はうまくいったが、それが漠然となった途端にうまくいかず破綻してしまうのである。

 また、漠然と持っている程度では、日常生活に紛れて消えてしまい、不明確になって雲散霧消してしまう。

 それゆえ、最近では常に「今行っている行為の目的が具体的にどこにあるのか」を意識しているようにしている。

 そうすることで、手段の合理性も検討できるし、リソース配分も検討できるので。

 

 あと、この章で現れるものとして、「技術的知識」の軽視がある。

 ただ、この話は第11章にも触れられているので、ここではこれ以上触れない。

 

 

  山本七平氏は戦後の色々な場面でも同様のことが起きている旨書いている。

 そして、私が改めてみるに、現在の政治でもなんか似ている印象を受ける。

 とすれば、書籍でも書いてある通り、この点は克服されていないのだろう。

 

 もちろん、「克服すること」は簡単な話ではない。

 克服できない点をとがめるつもりはないし、私にはそんな資格はない。

 

 だから、将来のために記録を遺そうと思っている。

 それが変えられなくても、「我々にはこういう傾向がある」ことを知っていれば、対処しうる可能性も増えるのだから。