薫のメモ帳

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『「空気」の研究』を読む 5

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

7 第1章_「空気」の研究_(五)を読む

 第1章の(三)・(四)の内容から「空気」による支配構造をまとめると次のようになる。

 

(「空気」による支配を望む者などが)日本人に対して「ある対象は(絶対)善である」・「ある対象は(絶対)悪である」という2種類の情報(記事)を与える

「物に対する臨在感的把握」という習性を潜在的に持つ日本人がこの2点の情報を受け取ると、絶対化された2つの対象(物神)によって拘束されてしまう

 

 そして、「空気」による支配から逃れる方法は次の2点である。

 

① 我々(日本人)が持っている「物に対する臨在感的把握」について理解する(歴史的に再把握する)こと(「再」がついているのは明治時代の近代化・啓蒙化の流れで把握していたものを放棄してしまったため)

② 対立概念を用いて対象を理解しようとすること

 

 

 さて、このセッション(第1章の「五」)では公害に対する話題からスタートする。

 この点、本書では海軍と公害(に対する対処)を題材に用いることが多いが、それは「(欧州的な意味における)科学的決定」と「日本の空気による決定」の差が分かりやすいからであり、「『空気』による決定」が海軍や公害に対する日本の対応に集中しているからではない。

 本書の目的は「空気」の理解であるから、理解しやすいものを題材に選んでいるだけである。

 

 

 太平洋戦争末期の戦艦大和の出撃に関する決定が実質的に「『空気』による決定」であることは既に述べた。

 しかし、この決定は形式上「科学的決定」とみなされている(だから、「何故、あのような無謀な出撃をしたのか?出撃を決定した根拠は何か?」という質問が出てくるのである)。

 よって、出撃の根拠を提示することができず(根拠となるデータをぶつければ、そのデータに沿った決定でないことが明白になる)、「それについて私は何も弁明しようとは思わない」という回答しか得られないことになる。

「空気」の存在を前提に考えれば、この回答は極めて妥当なものであり、かつ、理解できるだろう。

 

 これに似た話題が本セッションで登場している。

 ここで紹介されているのは『正論』の昭和50年10月号に掲載された『誤ったNO2基準に国際不信広がる_科学的疑惑に回答せよ』という清浦東京工業大学名誉教授の論文である。

 この論文の要旨は、「日本の窒素化合物の規制基準は世界から見てかなり厳しい。そこで、海外の研究者・政府関係者等は日本に対して規制基準の根拠となるデータ・資料を求めているが、日本の関係部署は海外からのこの要請に対して何ら反応がない。日本の環境庁は『日本は公害行政先進国』と称し、『環境白書』では環境科学の国際協力を高らかに謳っているのにもかかわらず」となる。

「空気」を前提すれば「(日本の対応について)さもありなん」となるが、それを知らない人間(海外の関係者)からすれば「なんだ?!」ということになろう。

 

 さて。

 本書では、「海外の要請に対してどう対応すべきか」について著者(山本七平氏)の説明が書かれている。

 それによると、「『国際性を謳い』ながら海外の要請を無視するのは信用を徹底的に喪失するから、さっさと返答するべし。」であり、その返答の内容の要旨は「日本の規制基準は『空気』によって決定されたものである」というものである。

 この場合、海外の関係者から「『空気』とは何ぞや?『KUーKI』で意味が通じるのか?妥当な英訳は何か?」という質問が飛んでくるだろうが、それについては「『プネウマ』(ギリシャ語)・『ルーア』(ヘブライ語)・『アニマ』(ラテン語)に相当するものである」と回答すればよい、というのである。

 

 

「空気」の支配の前提には「感情移入」や「臨在感的把握」がある。

 これらのものは人間ならば持っているものであり、日本人固有のものではない。

 日本と欧米の違いは「『空気』の決定を許容するか、しないか」に過ぎない。

 また、古代の文献を見ると、現代日本でいうところの「空気」に相当するものがよく出てくる。

 つまり、プネウマ・ルーア・アニマの原意は「風・空気」であるところ、古代人たちはこれを息・呼吸・気・精・魂・精神・非物質的存在・精神的対象等に対しても利用した。

 この点を考慮しつつ、文献を読むと日本の「空気」の意味にも使われている。

 

 古代人の文献では、人が宗教的な熱狂状態、いわば、エクスタシーに陥る、あるいは、ブームによって集団的に異常な状態になることは、この空気(プネウマ)の沸騰状態によるものとされている。

 このように、日本の「空気」を意識しながらプネウマに関する古代人の記述を見ると、昔の話とは思えなくなる、らしい。

 つまり、古代人も日本の「空気」のようなものの存在は知っていたことになる。

 ならば、古代人の流れを汲む欧米人も知っているだろう。

 よって、「日本の公害基準はプネウマが決めたものだ」と返答すれば、海外の関係者はこの決定が「宗教的決定」であることも含めて理解することができるだろう。

 同時に、前回述べた北条誠氏の記事「自動車魔女裁判」が欧米の異端審問と類似のものとなったとしてもおかしくないことになる。

 

 

 この点、古代人は「プネウマ(『空気』)に相当する実態のつかめない奇妙なものが自分たちを拘束し、自由を失い、そのまま破滅を導く決定をしてしまう」という奇妙な事実を事実として存在することを認めた。

 つまり、古代人は「プネウマ(『空気』、あるいは、霊)の支配」の存在を認めた上で、どう対処すべきかを考えた。

 これに対して、明治時代の啓蒙主義者たちは、「霊(『空気』)の支配」があると考えることは無知かつ野蛮なことと考え「霊(『空気』)の支配」を無視することが現実的・科学的だと考えた。

 具体的には、「霊(『空気』)の支配」を拒否・罵倒・笑殺すればいいと考えた。

 しかし、主観的に無視したとしても客観的に存在するものは存在する。

 それどころか、無視してしまったがために存在する「空気」の暴走を制御する手段を失ってしまった。

 それゆえ、確固たる「『空気』の支配」を確立し、それにより、大和民族を破滅の淵に追いやってしまったのである。

 

 そして、この「『空気』に対するコントロール」という点から見れば、戦前と戦後で変りはない。

 それゆえ、再び「空気」が暴走すれば大和民族はまた同じ運命に遭うかもしれない。

 

 

 以上が、本セッションのメモの内容である。

 非常にわかりやすかった。

 また、自分自身、思い当たる面もあり、より詳細に理解することができた。

 

 ところで、このセッションを読んでいて、ふと、石原莞爾の「それなら、ペルリ(私による註、黒船を率いて浦賀にやってきて日本に開国を要求したマシュー・ペリーのこと)をあの世から連れてきて、この法廷(私による註、極東国際軍事法廷のこと)で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」という言葉を思い出した。

(上記言葉はウィキペディアの次の文章からの引用)

 

ja.wikipedia.org

 

 当然だが、開国後の日本の決定に関してマシュー・ペリーは関係ない。

 もちろん、日本の近代化にも。

 しかし、「欧米列強の世界侵略がなければ」という感想は抱かざるを得ない。

 この感想が喩え無意味、不毛であるとしても。

 

 また、本書の記載に従えば、日本の「『空気』の支配」の猛威は「明治時代の啓蒙家たちによる啓蒙の副作用」ということになる。

 当時の世界情勢に照らして日本の近代化は至上命題であり、かつ、時間的余裕がないことも明らかであった。

 そのため、この点をとやかく言うことは無意味にして不毛である。

 だが、それでももやもやした感想を持つことは否定することはできない。

 これを否定したら前に進めないだろうから。

『「空気」の研究』を読む 4

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

6 第1章_「空気」の研究_(四)を読む

 第1章の(三)の内容をまとめてみる。

 

・「空気」による支配のメカニズムは①「感情移入の絶対化・日常化(通常化)」→②「臨在感の把握(認識)」→③「拘束」という順序になる。

・「『空気』の支配」が潜在化し、かつ、猛威を振るったきっかけは明治時代の近代化・啓蒙化で行われた「『日本人の臨在感の把握する習性』を否定すること」にある。

・「日本人の臨在感を持つ習性」は伝統・歴史に基づく

・「『空気』の支配」は「『物神化』による支配」と言い換えると理解しやすい

・ヨーロッパ(キリスト教社会)では「『物神化』による支配」から脱却するために多大な努力が払われ、その一例としてキリスト教の異端の問題がある

 

 

 ここまで読むことで、「『空気』の支配による単純な構造」を理解することができた。

 これまでの例は「心理的支配の対象たる『物神』が1つ」という「支配者は1つ」のケースである。

 複数あるわけでもなく、かつ、複数あることによる相互作用もない。

 

 これに対して、現実では支配者たる物神が幾重にも存在することの方が多い。

 つまり、現実において、我々は複数ある支配者にあらゆる方向から支配され、金縛りにあっていて身動きが取れなくなっている、と言える。

 そして、「複数の支配源が混在している状況から受ける拘束力」を「『空気』の支配」と言っていることになる。

 とすれば、幾重にも絡んでいる空気をそのまま分析することは容易ではない。

 そこで、複雑な場合を理解するために、絶対的支配者を1つから2つに増やしてみる。

 

 絶対的支配者を2か所にする、つまり、二方向・二極点への臨在感的把握を絶対化し、その二極点に支配されることで身動きが取れなくなる現象の具体例、これは複数挙げることができる。

 本書では、日華事変・太平洋戦争・日中国交正常化が挙げられている。

 そして、具体的な説明に用いられているのは西南の役西南戦争)である。

 

 西南戦争は、近代日本が行った最初の近代的戦争である。

 また、本書によると、「官軍」・「賊軍」という概念が初めて明確に出てきた戦争でもある、らしい(この点、戦国時代にこの発想はないのは本書の記載の通りである。ただ、戦国時代以前に遡った場合、概念自体はあったのではないか疑問はないではない、ただ、私のこの疑問は横に置く)。

 そして、背景に「相手は明治維新の立役者の一人である大西郷であった」という事実もあり、明治政府は「対応如何によっては全国的争乱になる」という危惧を抱いていた。

 また、日本の庶民(農民)は「戦争は武士の仕事で、自分たちとは関係ない」という態度であった(なお、この態度は後の日清戦争でもあった)。

 そのため、明治政府にとってこの戦争は世論の動向が重要であり、かつ、国民の心理的参加が必要だった戦争だった。

 そこで、マスメディアが利用され(マスメディアもこれに便乗して活躍し)、戦意高揚のための創作記事の作成・掲載、「官軍=正義」かつ「賊軍=悪」の図式化が行われた。

 つまり、戦争記事の原型であり、かつ、「『空気』醸成システム」の基本はこの戦争に見ることができると言える。

 

 例えば、西南戦争において、「鹿児島軍(相手方)の絶対悪的把握」・「相手方を絶対悪とするための記事の創作」などがなされている。

 後者については、「メディアがこれをやる(創作した内容を事実として発表する)のは、メディアの自殺ではないのか」との疑問が生じないではないが、本書の記載と私の実感に照らすと、このことは日本のメディアの伝統として100年以上続いているらしい。

 そして、これらの記事が流布された結果として、「鹿児島軍は悪である」という物神化が行われ、所謂「空気」が醸成された。

 そのため、「西郷と調停すべき」・「鹿児島側にも酌量すべき事情がある」と言った主張が事実上不可能になってしまった(膨大なエネルギーと反発を覚悟しなければならない)。

 本書では、「このキャンペーンは『空気』を醸成するために誰かが計画したものだろう」と述べているが、戦争が国家の大事であることを考慮すれば、計画してもおかしくないし、むしろ、やって当然とも思える。

 

 なお、相手(鹿児島側)を絶対悪にするだけではなく、自分たち(政府側)を絶対善にするためのキャンペーンも行っている。

 この二種類の記事を読み、これに感情移入して絶対化すれば、その人は絶対善と絶対悪という二極の方向から支配されて身動きが取れなくなる。

 これが(二種類の物神を用いた)「『空気』の支配」の基本形である。

 そして、この手段はその後も利用され続けることになる。

 

 

 これにより、「『空気』による支配」の特徴がもう一つ浮かび上がってきた。

 それは、「『対立概念で対象を把握すること』を排除すること」である。

 

 現実を見れば分かるが、人間・物・システムには様々な面がある。

「ある面から見れば善く、他方、別の面から見れば悪い」といったことはざらである。

 あるいは、「ある人は非常に優しい面(善い面)があるが、他方で残酷な面(悪い面)もある」といったこともあるだろう。

 そして、このような認識を持つためには「善と悪という対立概念で対象(相手)を把握している」必要がある。

 

 それが排除されるとどうなるか。

 対立概念で用いて相手を理解すれば「この人(対象・現象)には良い面も悪い面もある」と言えるのに対し、対立概念を排除して相手を理解しようとすると、「この人は良い」と「この人の悪い」の二択に限定されてしまう。

 定規でたとえれば、対立概念による把握を排除した定規は「0と1」しか目盛りがないのに対して、対立概念を用いて相手を把握した場合の定規の目盛りは0と1の間に複数の目盛りがあることになる。

 

 これは「善悪の基準(価値観)の違い」とは異なる。

 つまり、対立概念を使って相手を把握する場合は、相手を0(悪)と1(善)の間のどの場所にも評価することができる。

 この場合、「0」と「1」という基準は動かせないが、相手の評価は自由に動かすことができる。

 他方、対立概念を排除して相手を把握すると、「相手=0」か「相手=1」となるので、自由な評価ができなくなってしまうのである。

 これは価値観の方向性を変えても変わらない。

 戦前の天皇主義だろうが、戦後の平和主義であろうが。

 

 

 これを原理を用いて、権力者がマスメディア(情報)を用いて国民を一斉に支配した結果生じるもの、これが「『空気』の支配」となる。

 この「『空気』の支配」がなされれば、誰もその支配から逃れられない。

 

 この結果、「『空気』の支配」からの脱却するためのキーが見えてきた。

 

 一つ目は、臨在感の把握に関する歴史の再び知ること

 二つ目は、対立概念で対象を把握する習慣を身に着けること。

 

 それについては次のセッションでみていく。

 

 

 というのが、本節のお話。

 なるほど・・・。

「『空気』の支配」についてその原型を理解した。

 特に、「2つの対立概念を用いて対象を評価すること」ということの重要性が理解できた。

 この点は自分の中ですぐさま用いることができそうだ。

 対外的な場面で用いられるかはさておき早速利用していきたい。

 

 あと、日本のマスメディアは今も昔も変わらんのだなあ。

 余力があれば(多分ないと思う)、こうなった理由も考えてみたい。

 この問題を抽象化した場合、その抽象化された問題は日本のマスメディア以外にも存在するだろうと考えるので。

『「空気」の研究』を読む 3

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

5 第1章_「空気」の研究_(三)を読む

 第1章_「空気」の研究の(三)はとあるエピソードから話が始まる。

 このエピソードは次のような趣旨の話である。

 

(以下、本書の32ページのまとめ)

 ある遺跡で発掘作業をしていたら古代の墓地が出てきて、人骨がざらざら出てきた。そこで、日本人とユダヤ人が共同で発見された骨を毎日運んでいた。約一週間、骨の投棄作業をしていたら、ユダヤ人の方は何もなかった(終始影響を受けなかった)が、日本人二名は少々おかしくなり、病人同様の状態となってしまった。もっとも、骨の投棄作業が終われば、日本人は病人の状態からケロリと治ってしまった。 

(まとめ終了)

 

 もし、遺跡にあった人骨が物理的・化学的に有害な成分を持っていたのであれば、日本人とユダヤ人の両方に影響があるだろう。

 しかし、ユダヤ人に影響がなく、日本人にのみ影響が出たのであれば、日本人は人骨からなんらかの精神的な影響を受けた、と推測するのが妥当な推論になる。

 これを「空気」という言葉と絡めて述べるならば、「日本人は現場の『空気』にあてられて心身の調子を崩した」ということになり、ここに「空気」の日本人に対する作用の一形態を見出すことができる。

 

 

 日本において「物質から日本人が心理的・宗教的影響を受ける」という状況、より詳細述べれば、「物質の背後に何者か存在(臨在)していると感じて、知らず知らずのうち存在していると感じる何者かの影響を受ける」と言う状況は普通に存在した。

 このことは『福翁自伝』などにも書かれている。

 これに対して、福沢諭吉など明治時代の啓蒙家たちは「物質は『物』に過ぎない。よって、それを拝むことは迷信であり野蛮である。よって、そのような態度は否定されるべきであり、そのために啓蒙的教育が必要だ」と考えた。

 しかし、「日本人は何故、物の背後に何かが臨在すると感じるのか。また、何かが存在すると感じてその影響を強く受けるのか(上の例では体調を崩すレベルの強い影響を受けている)を研究すべきだ」とは考えなかった。

 前者の発想は啓蒙的、後者の発想は科学的である。

 そして、明治時代の啓蒙家が前者の考えを採用し、後者の考えを採用しなかったということは、彼らは啓蒙的ではあったが、科学的ではなかった(科学的観点は重視しなかった)ことを意味する。

 まあ、明治時代の日本の国家的課題は「近代化」だったのだから、やむを得ない面もあるが。

 

 ただ、明治時代の啓蒙主義者たちの教育の結果、「啓蒙化」が「(日本で言うところの)科学的」になってしまった。

 つまり、上の例だと「(物の背後に)何も存在しないと思うことが『科学的』である」、つまり、「啓蒙主義」=「科学」ということになってしまったのである。

 このことは「超能力ブーム」における著者の発言である反発にも表れている。

 

 ここで見るべきは明治時代の啓蒙主義者たちの為した結果である。

 彼らは日本の近代化のために西洋の科学的な知識などを日本に紹介した。

 これらの行為が日本の近代化のために有効だったことは言うまでもない。

 しかし、啓蒙主義は殊更に悪意を込めて言えば「知識の押し付け」でしかない。

 つまり、啓蒙主義によって国民の民度・知力の向上には役に立つが、真実究明には役に立たない。

 そのため、押し付けられて否定されたものは根強く潜在化してしまう。

 その結果、無視している無言の臨在感に最終的決定権を奪われてしまい、身動きが取れなくなってしまうのである。

 

 

 本書では、ある人がイタイイタイ病の取材にきた新聞記者にカドミウムの金属棒を見せると「ワッ」と言ってのけぞる例、ある人がカドミウムの金属棒をナメる例が挙げられている。

 この態度は明治時代の啓蒙家たちと同様、啓蒙的であり、かつ、さらに言えば、親切でもある。

 しかし、これ以上何もしないのであれば「科学的」とは言い難いだろう(もちろん、「科学的」なことをする義務はない)。

「科学的に振舞う」とは、「新聞記者は何故このような反応をするのかを探求する」ことを意味するのだから。

 

 そして、もしも「空気」の支配を断ち切り、「空気」の支配による悲劇を回避したいのであれば、「『空気』は存在しない。『空気』に縛られる事は悪しきことである」などと啓蒙的に振舞うよりも、「何故、人は『空気』に縛られるのか」などを科学的に調査した方がよいだろう。

 これが本書の主張であり、かつ、私が本書を真面目に読み直している理由でもある。

 

 

 さて。

 人が(「空気」やモノの)臨在感の支配を受けて言論・行動が縛られる背景には何があるのか。

 その背景には「感情移入」があり、それによる「臨在間の把握(認識)」がある。

 

 この点、「感情移入」自体はどの民族にもあることで、日本特有のものではない。

 ただし、①感情移入の絶対化と②感情移入している意識の不存在(無意識化・日常化)によって臨在感を把握・認識するたことになる。

 よって、整理すると

 

「感情移入の絶対化・日常化(通常化)」→「臨在感の把握(認識)」→「拘束」

 

となる。

 

 ここで、本書では「日本人の親切」という随想が紹介されている。

 この随想は、「日本人が親切心からヒヨコにお湯を飲ませ、ヒヨコを殺してしまう。随想の著者はこの行為に日本人の親切が凝縮されている旨述べる」という話である。

 また、これを受けて「保温機に自分の赤ん坊に懐炉を入れて、その結果赤ん坊を死なせてしまって過失致死罪に問われた母親の話」も取り上げられている。

 

 これらの行為(ヒヨコにお湯を飲ませる行為、懐炉を保育器に入れる行為)に日本人の親切心、つまり、善意が凝縮されていることは間違いない。

 そして、新聞の投書にたまにあるように、「善意が通らない社会はよくない」という意見がある。

 しかし、善意による結果を見れば、善意を通していたら命がいくらあっても足りないことが分かる。

 そのため、「そんな善意は通らない社会の方が良い」という反論が出てくるだろう。

 そして、この反論に対しては、「善意でなした行為によって悪い結果が出るようなシステム(社会)が悪い」という再反論が出てくるだろう。

 

  さて、この水掛け論。

 ここで、「行為者に啓蒙(知識)が足らなかった。啓蒙すればこのようなことはなくなる」という主張はあまり意味がない。

 何故なら、このような行為・主張の前提において、自分と相手(第三者)の区別が行われていないからである。

 そして、この区別がついていない状態を絶対化し、区別させようと障害するもの(反論や結果)を悪とする心理状態が感情の絶対化であり、臨在感的把握の前提であるからである。

 なお、この現象は「乗り移し」・「乗り移らす」現象と考えるとわかりやすいだろう。

 

 

 では、①臨在感的把握と②臨在感による拘束は何故生じたのか。

 まず、後者の「臨在感による拘束」は歴史を再把握しなくなったためである、という。

 つまり、明治時代の啓蒙家が「臨在感による拘束は悪しき事であり、拘束されないことが良きことである」と啓蒙した結果、「臨在感による拘束」が潜在化した。

 そのため、「臨在感による拘束」の実態が把握できなくなり、かえって、「臨在感による拘束」を受けることになってしまった。

 

 次に、前者の「臨在感による把握」は日本の歴史的伝統に由来する。

 例えば、上の遺跡のケースであれば、「日本人は遺跡の人骨の背後に何かがあると感じ、その感じに知らず知らずのうちに絶対化され、その結果、人骨に心理的に支配されて病的状態に陥った」ことになるが、この背景にあるのは日本人の伝統だろう。

 本書に記載されている村松剛氏が『死の日本文学史』で指摘している点を踏まえて具体化すれば、「人の霊はその遺体・遺骨の周辺にとどまり、この霊が人間と交流しうる』という日本の伝統的な世界観」がこの背景にある。

 もっとも、この伝統はヨーロッパにはないらしい。

 

 では、カドミウムの例(ある人がカドミウムの金属棒を「これだ」と見せたところ、取材に来た記者たちがのけぞった例)はどうだろうか。

 遺跡の例とそろえて記載すれば、「新聞記者は(カドミウム金属棒を見て)カドミウム金属棒の背後に何かがあると感じ、その感じに知らず知らずのうちに絶対化され、その結果、カドミウム金属棒に心理的に支配されて恐怖感に陥り、のけぞった」となる。

 しかし、人骨と同様、カドミウム金属棒は放射性物質を発しているわけではない(だから、ある人は平然とカドミウム金属棒を記者の前に見せることができた)。

 さらに、「カドミウム」が認知されたのは最近であり、それ自体に伝統的な何かがあるわけではない。

 ならば、記者たちを拘束したのは何なのだろうか。

 それは、「イタイイタイ病の歴史」という「写真と言語で記された描写の集積の歴史」の所産である、という。

 つまり、「新聞記者は(カドミウム金属棒を見て)カドミウム金属棒の背後にイタイイタイ病に基づく悲劇があると感じ、その感じに知らず知らずのうちに絶対化され、その結果、カドミウム金属棒に心理的に支配されて恐怖感に陥り、のけぞった」と言い換えることができる。

 

 

 もちろん、この現象は悪用できる。

 ここで登場した人は「カドミウムは安全であることを啓蒙する」という目的で「カドミウム金属棒」を記者に見せたわけだが、これを支配の手段に用いることもできる。

 これこそ「物神化」であり、「偶像を用いた支配」である。

 つまり、「ある人がカドミウム金属棒を見せたところ、現場の『空気』にあてられた記者は云々」というのはこの言い換えに過ぎない。

 もちろん、現代においてこの例は大量に挙げられる。

 それこそ自動車でもいいし、さらに言えば、「イワシの頭」でも十分なのである。

 

 さて、ここで「物神化」というところで「神」という文字を用いた。

 日本において「神」としてまつるものは基本的に怨霊であり、「恐れ」の対象であった。

 例えば、多くの神社では悲惨な出来事を経験した対象(人)がその悲惨さを世にふりまかないようにその象徴的物質を御神体にして祭っている。

 それに対して、明治時代の啓蒙家の流れを継ぐ者たち「モノはモノでしかない」ことを示すためにご神体をなめたりする。

 新聞記者とある人のやりとりも「空気」の関係に即して書けば、これと類似したものになる。

 

 ただし、「物神化」と「原因の究明」は無関係である。

 本書に書かれていない例を挙げると、菅原道真公は大宰府に左遷され、失意のうちに死亡した。

 その後、左遷に携わった関係者(醍醐天皇藤原時平)が死亡し、また、清涼殿に落雷が襲った。

 人々は落雷や関係者の死亡を道真公のたたりによるものと考え、神として祭った。

 

 この一連の流れで道真公の神格化が行われている。

 しかし、原因の究明と神格化は関係ない。

 科学的に見た場合、「一般的に、人が死後に気象を操ることができる」ことは立証できないので「因果関係はない」とみるのが通常であり、かつ、(科学的に見て)妥当な判断であるが、真実は知らない。

 この点、「因果関係を立証しなければならない」と言いたいわけではない。

 単に、「真に落雷や関係者の死亡が怨霊によるものか否かについて調査する」という科学的作業と「道真公を神格化する作業」は関係ないと言いたいだけである。

 さらに、「無関係であることに問題がある」と主張するつもりもない。

(もっとも、私のこの意見は、先に述べた「事実を事実と述べるなかれ」という道徳律に抵触するかもしれないが)。

 

 

 さて。

「神格化」、その一態様である「物神化」という作業と科学的作業。

 これが無関係であると主張し、「物神化支配から脱却する」するのは容易ではない。

 キリストの異端論争もその背景を見れば、この作業と関連している。

 ここで見られる現象を抽象化すれば、「ある者たちは、その対象を知り、かつ、その対象に熱心であるが故に、その対象を物神化してしまう(と同時に、その対象に支配されてしまった)。それゆえに、ある者たちは異端として排除された」になる。

 カドミウムの例を取れば、「公害の問題を知り、かつ、公害の問題の解決に熱心であるが故に、カドミウム棒を物神化してしまった。それゆえに、問題解決のための当事者から排除された」になる。

「知識があり、熱心だから排除する」というのは私の直感にはピントがあわない。

 しかし、物神化するほど熱心になってしまい、かつ、支配されてしまえば、問題の解決には役に立たず、排除されてもしょうがないとも思える。

 

 

 以上が(三)のお話。

 今回、改めてこの書を読むと参考になることが多い。

 もちろん、この本を昔読んだのは言うまでもないが、ここまで参考になると思ってはいなかった。

 この違いは何なのだろう。

 年を取ったから?

 このブログにまとめようとするほど熱心に読んでいるから?

 うーむ。

『三国志』について知る

 少し前、私は中国の三国志の時代(3世紀)に興味を持ち、関連する小説・ドラマ・漫画を読むようになった。

 

 

 まず、三国志の時代に興味を持つきっかけを与えてくれたのは次のブログである。

 

www5f.biglobe.ne.jp

 

 このブログがなければ、私は三国志の時代に興味を持つことはなかっただろう。

 また、項羽と劉邦」の時代(「楚漢戦争」)に興味を持つこともなかっただろう。

 また、「私釈三国志」に書かれているコミカルな訳に興味を持ち、「自分もできるようになりたい」と書いたのは以前のブログに書いた通りである。

 

 その後、私は『三国志演義』のドラマを見た。

 

www.sangokushi-tv.com

 

 このドラマは全部で95話あり、全部を見ようとすると結構な時間がかかる。

 だが、引き込まれるようにドラマを視聴し、結局、一気に見てしまった。

 主要な登場人物にみんな味があり、非常に面白かった。

 

 また、このドラマに縁があったこともあり、項羽と劉邦_King’s_War」も視聴した。

 こちらも全部で80話あり、全部を見ようとすると結構な時間がかかるが、短期間で見終えてしまった。

 このドラマも非常に面白かった。

 

ja.wikipedia.org

 

 さらに、私はネットカフェに何度か通い、横山光輝の『三国志』(漫画)も全部読み切った。

 こちらも全部読もうとすると60巻もあるので、一回では読み切れなかったが、何度かネットカフェに通って読み切ってしまった。

 

www.usio.co.jp

 

 そして、先日、アマゾンアンリミテッドで借りていた、吉川英治の『三国志_完全版』を読み切った。

 

 

 この吉川英治の『三国志・完全版』、約2年前に読もうと考えて、アマゾン・アンリミテッドに登録した。

 しかし、最近まで全く読んでいなかった。

 小説版(吉川英治)の三国志を読まないうちに、漫画版(横山光輝)やドラマの『三国志』を見終えてしまう。

 

 今年の7月になり、「小説版も読まないとまずいよなあ。アマゾン・アンリミテッドでこの本を借りてから2年以上経過しているし、このまま借りっぱなしにして借りられる10冊の一角を占めっぱなしにするのもどうかなあ」と考え、散歩の折に読むようにした。

 そして、先週の日曜日に全文を読み終えた。

 もっとも、この小説版の『三国志・完全版』は小説10冊分の分量。

 全部読み終えるためにかなりの時間が必要だったが。

 

 

 さて、これらの一連の作品はどれも非常に面白かった。

 また、非常に勉強になった。

 

 第一に、時系列でみた場合の事実関係に関する私の認識を是正してくれた。

 例えば、厳密な意味で三国が鼎立した(孫権が呉の皇帝になることで、中国に3人の皇帝が存在することになった)のは、黄巾の乱が発生してから45年後の229年である。

 魏の曹丕が皇帝になった(後漢が滅亡した)のは220年、劉備蜀漢の皇帝になったのは221年であるが、これも黄巾の乱から約35年のタイムラグがある。

 さらに、劉備一行が西蜀(益州)を手に入れたタイミング、つまり、魏・呉・蜀の3勢力が出来たタイミングで見ても214年であり、これまた黄巾の乱の30年後である。

 つまり、黄巾の乱により漢(後漢)が大混乱に陥ってから、三国の勢力が確立するまでかなりタイムラグがある。

 このことを私は知らなかった。

 さらに言えば、赤壁の戦い劉備益州を得てから起きたものと認識していたし、袁紹が北方で大勢力となっていたことも知らなかった。

 一応、世界史や漢文でこの時代のことを勉強していたが、ブログ(「私釈三国志」)を見るまでの私の知識などこの程度だったのである。

 恥ずかしい限りである。

 

 また、諸葛孔明五丈原で亡くなった234年から魏の後を継いだ晋が中国を統一する280年まで約40年かかっていることも知らなかった(これについてはブログ「私釈三国志」によるところが大きい)。

 小説・漫画・ドラマの三国志諸葛孔明が亡くなった後はあっさりとしているためしょうがないところがある(孔明の死後については、ドラマは1話分、漫画は1巻分しかないし、小説は補足があるだけである)が、「後漢が滅んでから諸葛孔明が亡くなるまで」(約15年間)よりも「諸葛孔明が亡くなってから晋が3国を統一するまで」(約45年間)の方が長かったのも知らなかった。

 この意味で、大まかな時系列に関する私の認識を修正してくれたのは大きかった。

 

 

 第二に、登場人物について色々と知ることができたのは大きかった。

 もちろん、小説・漫画・ドラマは『三国志演義』が元ネタになっているところ、いわゆる『三国志演義』は「史実3割、脚色7割」と言われており、「内容=真実」と見ているわけではない。

 しかし、内容と真実の精度についてはブログ「私釈三国志」が補っている。

 また、誇張しているところは魅力の部分であるから、多少のぶれは修正をかければいい。

 というわけで、三国志の登場人物について把握できたのは大きかった。

 また、劉備陣営の人物(劉備関羽・趙子龍・諸葛孔明)は皆魅力的であったし、また、曹操や芝居、もとい、司馬懿も魅力的であった。

 さすが、物語として世界に広く伝わっているだけある。

 

 

 第三に、ドラマ・漫画・小説によって記載に異なる部分があるところ、その差異を見られたのは面白かった。

 ぶっちゃけ、ドラマのスケールの大きさはすごいの一言に尽きる。

 このドラマを見ていたころ、NHKの大河ドラマで「真田丸」が放映されていた。

 しかし、スケールの違いを感じざるを得なかった。

 

 

 最後に、歴史を見ることの面白さを実感した。

 去年の11月以降、私は歴史小説に触れる機会が増えた。

 読んだ本を列挙していくと次の感じである。

 

修羅の都

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 これらの書籍も面白かったが、三国志はもっと面白かった。

 これからも、今後も歴史小説を読んでいきたいと考えている。

『「空気」の研究』を読む 2

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 ただ、山本七平氏が冒頭で述べた道徳律について先に考えてみる。

 

 

3 山本七平氏が述べた「日本に存在する道徳律」

 山本七平は第1章(便宜上「第1章」と書いているが、これは三部構成の最初の部分「『空気』の研究」のことである)の冒頭で、いわゆる「日本の道徳」として次のものが存在する旨述べている。

 

 一つ目は「知人はあらゆる手段で助け、非知人は黙殺してかかわるな」という規律。

 二つ目は「規律や事実を言葉にしてはならない」という規律。

 

 そして、第一の規律の存在を立証するための手段の例として「三菱重工爆破事件のときのある外紙特派員の記事」をあげている。

 また、この2つの規律を担保しているものが「空気」であることはこれまでに述べた通り。

 

 ここでは「空気」ではなくこの規律についてみてみたい。

 なお、著者(山本七平)は「これに従え」と述べているのではなく、「上記道徳律に基づいて社会は動いている事実を子供たちに教えよ」と述べていることに注意。

 

 

 なるほど、言われてみればその通りである。

 ただ、憲法(立憲民主主義)が規定する「表現の自由」と二つ目の道徳律(規律や事実を言葉にしてはならない)は相性が悪いなあ、とは考える。

 そして、表現の自由が議会政治において必須の要素であることを考えれば(詳細は『痛快!憲法学』を学んだ際に触れたのではここでは省略)、日本で議会政治を成り立たせるのは難しいなあ、とも考える。

 さらに、山本七平氏は日本軍の捕虜の収容所において暴力政治が出現した原因として「言葉を奪ったこと」を挙げていたことがあった(これもブログで言及した、詳細は省略)が、「言葉を奪った」由来は日本の道徳律に由来しているのだなあ。

 

 そして、一つ目の道徳律(知人と非知人の差異的取り扱い)は憲法の「平等原則」に抵触する。

 もちろん、日常生活など私的な事項であれば憲法の射程は及ばないので問題にならない。

 しかし、この道徳律が統治者(権力者)にも適用されるなら、つまり、国民がこの道徳律を自分の支持した政治家に要求するならば、これはまた困ることになる。

 憲法が要請するのは「異なる取り扱いは知人か否かではなく、憲法と(憲法の平等原則に適合するように作られた)法律に基づいて行え」になるのだから。

 

 もっとも、だからと言って「これらの道徳律とその正統性を支える『空気』を排除しよう」と述べるつもりはないし、言っても意味ないだろう。

憲法出でて日本亡ぶ」では意味ないのだから。

 また、「空気」を取り払うことに成功して、その結果できた集団が「日本文化を持つ人たち」でなければこれまた意味がないのだから。

 

 

  話がそれた。

 主題の「空気」に話を戻すため、道徳の話はこれまでにしよう。

 

4 第1章_「空気」の研究_(二)を読む

 これまでの内容から「空気」について分かったことをまとめる。

 

・「空気」は日本人の意思を拘束する
(日本人は空気の支配から逃れられない、逃れるためには膨大なエネルギーが必要になる)

・「空気」には理論・データ・科学を押し退けて、その反対方向に決定する権力と権威を持つ

・「空気」に抵抗すると「抗空気罪」が成立し、村八分以上の制裁が待っている

 

 さらに、次のことも言えそうである。

 

・空気によってなされた判断過程は公開されない

・日本人は論理的判断基準(合理性基準)と空気的判断基準(空気性基準)の2つを持っている

・日本人の発言は論理的判断基準に従うが、行動の規範は空気性判断基準である

・両者は独立ではない

・発言の内容(表現内容)ではなく発言の交換(表現行為)により「空気」が醸成され、その「空気」により行動の決定がなされる

 

 

 次に気になるのは、「空気」の醸成方法・「空気」が人に作用する態様・「空気」の消滅方法であろう。

 本書のテーマもそこに移る。

 そして、人為的に作られた「空気」を題材にして分析が進む。

 ここで用いられている題材は、「文藝春秋」の昭和五十年八月号に掲載されている北条誠氏の「自動車ははたして有罪か・米国よりも厳しい日本版マスキー法の真意は」という論文である。

 この論文を「空気」の観点から見てみる。

 

 まず、背景として次の事情がある。

 60年代後半、自動車の排気ガスによる大気汚染・酸性雨などの問題に対処するため、これを立法により規制しようという動きがあった。

 その結果、70年にアメリカでマスキー法という法律が作られた。

 

 さて、北条氏の論文によると、日本では人為的に「空気」を作成するための活動が行われ、かつ、「空気」の作成に成功した(逆に言えば、欧米ではそのような行為は特にないということなのだろう)。

 その結果、ヨーロッパでは規制は行われなかった。

 また、アメリカでは法律(マスキー法)は出来上がったが、フォード大統領が「法律を改正して(元の法律の厳しい)基準を緩めてくれ」という趣旨の教書を書いたり、暫定基準を延長したりする(厳しい基準の実施を猶予する)などのことが行われた。

 それに対して、日本は基準は「マスキー法」を引き写したものの、その後は日本化して、完全にマスキー法の状態を達成させた(だから、日本の規制は当時世界で最も厳しい規制になっていた)。

 また、フォード大統領のようなことを言えなくなる「空気」も生じた。

 

 そして、北条氏は「このまま規制が厳しくなれば、日本の自動車産業は他の国と比較して厳しい枷がはめられることになる。そうなれば、日本の自動車産業は外国との競争に敗れて、壊滅的なダメージを受け、その結果、日本経済は破壊されるだろう。」と述べている。

 もちろん、現実に自動車産業が壊滅しなかったことは現在(2021年)を見れば明らかであるが。

 

 

 さて、ここで現実で生じなかった仮定の話をしてみる。

 将来、科学的に見て窒素酸化物(所謂NOx)が無害だったことが証明されたとする。

 そうなれば、結果的に見れば、規制をかけなかったヨーロッパは(後付けで)正しかったことになり、現実を見ながら徐々に変化させようとしたアメリカもダメージが少なく、日本だけが過剰な規制によってダメージを受けたことになる。

 そうなったとき、「戦艦大和」のときのような疑問が噴出するだろう。

 そして、その疑問に対する回答は「空気に支配されていたから」になるだろう。

 このことは「戦艦大和」のときと大差ないだろう。

 

 もちろん、今回は仮定の話である。

 また、「空気」の決定だから間違いになるわけではない。

 単に、「空気」が判断を決めるなら、我々は「空気」のことをよく知るべきではないか、というだけである。

 

 

 では、本件(日本版マスキー法の作成)の「空気」はどのように醸成されたのだろうか。

 北条氏の論文はその点について「自動車に対する『魔女裁判』」の形で取り上げられている。

 なお、「魔女裁判」という言葉を用いているのは「『自動車』が必ず有罪でなければならない」からであろう。

 この魔女裁判の図式は非常に西欧的ではあるが、有罪の対象が人間ではなく物(自動車)となっているのが日本的な特徴である。

 確かに、この裁判で人間は登場する。

 例えば、運転手(自動車を用いて便益の提供を受けている者)、あるいは、自動車メーカー(自動車を販売して利益を得ているもの)。

 しかし、ここでは運転者や自動車販売メーカーは魔女の対象ではなく、せいぜい従犯か重要参考人に過ぎない。

 つまり、告発対象は自動車である。

 

 言うまでもないが、刑法の適用対象は原則として人間である。

 あるいは、道徳の適用対象も人間である。

 例えば、細菌が日本国内で日本人を死に至らしめた(病死させた)としても細菌に殺人罪を適用して有罪判決を出すことはあり得ないし、細菌に対して道徳的非難を加えるということもない。

 よって、自動車だって有罪にすることはあり得ない、と考えるのが通常である。

 

 しかし、ここでは「自動車」が人間と同様に有罪にしている。

 この発想はどこにあるのだろうか。

 本書によると、それは「物神論」なのだそうだ。

 つまり、「人間が信ずれば、物も神格や人格を持つ」という考え(信仰)を持っているため、「物」も有罪の対象になるのである。

 

 ただし、西欧の裁判(「近代裁判」と言い換えてもよい)は「告知と聴聞」が前提となる。

 よって、有罪とされた対象の弁明がなければ裁判は成立しない。

 だから、本件のように物(自動車)を相手に近代裁判を仕掛けた場合、物は話せないので、魔女裁判よりもひどい態様になってしまう。

 それは、「車」が仮に言葉を話したらどうなるかを想像すれば、あるいは、本書の記載を見れば明らかであろう。

 

 本件では「車が有罪である」という結果の前提として、「物(自動車)に対して人格を認める」という珍現象(このことは昨今世界中で猛威を振るっているコビットナインティーンに対して「コロナは有罪か」という議論が生じないことを考えれば容易に想像できよう)が起きた。

 もちろん、この現象は信仰がなければ発生しない。

 となれば、今回の決定、より抽象化すれば「空気」の決定は「宗教性」を持っていることになる。

 だから、本件に登場する調査団は肩書こそ「科学者」であるが、その実質は「異端審問官」である。

 北条氏は科学者たちが科学的知識について知らないこと、科学的知識を前提に判断しないことを不思議がっていたが、彼らが異端審問官だと考えれば少しも不思議ではないことになる。

 これは、大和の出撃についても同様のことが言えるのだろう。

 

 

 以上、本件を通じて、「空気」は宗教的絶対性を持つものであることが分かった。

 今回題材にした事件で生じた「空気」は人々が作り出したものであり、かつ、物が対象であった。

 だから、分かりやすかったし、ある意味害も小さいとも言える。

 だが、現世を見れば分かる通り、有罪の対象が「人」になることだってあるだろう。

 さらに、人間ではなく自然的に発生するものもあるだろう。

 その場合はこうもいくまい。

 

 そこで、この「空気」について探求していく。

 キーワードは「臨在感的把握」である。

 

 

 以上が本書の内容であった。

 本書の書き方は非常に面白い。

 特に、自動車と異端審問官のやり取り部分などは笑いさえ起きる。

 

 ただ、一つ気になったのは、異端審問官と自動車とのやり取り、どこかで見たような気がするのである。

 次回はそれについてみて、さらに本書を読み進めていきたい。

『「空気」の研究』を読む 1

 今回から『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモしていく。

 

1 『「空気」の研究』とは

『「空気」の研究』とは「山本七平」氏の著作である。

 また、極めて有名なものの一つとも考えている。

 

 

 この点、「空気」という言葉は「『空気』に流される」・「『空気』に逆らえなかった」といったう形で用いられるときの「空気」である。

 大気(窒素と酸素がおよそ4:1の割合で混ざっているもの)ではない。

 この「空気」の内容、この「空気」について日本を見て得られたものについて書かれたのがこの本である。

 

 

 この本の文章は大きく3つの章からなる。

 

 一つ目は「『空気』の研究」

 ここでは「空気」について分析されている。

 二つ目は「水=通常性の研究」

 これは「『空気』の支配」に抵抗する手段としての「水」について分析されている。

 ここで言う「水」とは、所謂「『水』を差す」という形で用いられる際の「水」であり、物質としての水ではない。

 三つ目は「日本的根本主義ファンダメンタリズム)について」

 ここではアメリカのピューリタンたちがキリスト教(聖書)を信仰しているように「日本人が(当然のこととして)信仰しているもの」について分析している。

 

 

 さて、この本、目次の前にこんなことが書かれている。

 

(以下、『「空気」の研究』の序論部分を引用)

「人は水と霊(プネウマ)によらずば、神の国に入ることあたわず」

 神の国という新しい神的体制(バシレイア・トゥー・テウー)に入るには、この二つによる回心が必要であろう。

 この神の秩序へのイエスの言葉を少し言いかえて、「人は空気と水による心的転回を知るに至らねば、人の国に入ることあたわず」とすれば、それはまさに日本だといえる。空気と水による絶えざる心的転回で新しい心的秩序に入るという、日本的の人間的体制の見本を探ること、それが本書の主題である。

 (引用終了)

 

 故・山本七平氏はクリスチャンだったと言われている。

 そのため、キリスト教(聖書)との比較が幾たびかなされている。

 この方法により日本人の特質が明確になり、また、分かりやすくなっている。

 

 ここから二つのことが分かる。

 まず、キリスト教は「神の国」であるのに対して、日本は「人の国」であること

 次に、日本教の国に入るためには「『空気』と『水』の相互循環」について知らなければならないこと

「空気」のみを理解するのではなく、「『空気』と『水』の両方を行き来せよ」と書いてあるところが興味深い。

 

 ということを確認して、本文に移る。

2 第1章_「空気」の研究_(一)を読む 

「『空気』の研究」というのは本のタイトルであると共にこの本の第1章(書籍では「章」という言葉は用いられていない)のタイトルでもある。

 以下、第1章の『「空気」の研究」について読んでいく。

 

 本章は山本七平氏(著者)がある教育雑誌から「道徳教育」に関する取材を受けたエピソードから始まる。

 これに対して、山本七平氏は現実に即した(妥当な)返答をするのだが、それに対する相手の反応が面白い。

 

(以下、本文の内容の抜粋)

 著者が「(『道徳』というかはさておき、)現実において道徳的規範は存在し、かつ、その規範は田中角栄首相(当時)を辞任に追いやるレベルの威力を有する。よって、子供には『現実の社会には道徳と称される規範があること』ということを教える必要がある。同時に、教師には子供たちにその旨教える義務がある。つか、教えなければ子供たちが可哀想である」と答えると、相手(雑誌の記者)は「では、道徳教育に賛成ですな。今は大体そういった空気ですな」と返答する。

(「道徳教育は何から始めればいいか」という記者の問いに対して)、著者が「現実にある規範(ルール)を『事実』として教えればいい」と答えると、記者は「そんなことを言ったら大変なことになる」・「現場の空気としてはそんなことは言えない」と答える。

(以下、省略)

 

 本書で述べた著者の「道徳律」については非常に興味深いので後で取り上げるが、著者は記者(編集員)の「空気」という言葉に興味を持つ。

 つまり、記者を拘束しているのは著者と記者のやりとり(議論)の結果ではなく、「空気」であり、その「空気」から記者は自由になれない、と。

 そして、決定権を有するものは「空気」であり、それに抗うことも論破することもできない、と。

 

 この「『空気』による人の支配」は日本の至るところで生じている。

 そして、「空気」はある種の絶対的権威の如く振舞っている。

 

 

 次に、話題はアジア・太平洋戦争における戦艦大和の出撃に移る。

 結論を一言で述べてしまえば、戦艦大和の出撃の是非において判断を決める重要な要素となったのは「空気」である、ということになっている。

 つまり、出撃を無謀とする人たちはデータを出して論証している。

 それに対して、出撃を正当とする人たちの根拠は専ら「空気」なのである。

 そして、「空気」と「データ・論証」の対決の結果、「空気」が勝利してしまう。

 

 このことから著者は「日本人が規範としている根拠は『空気』である」と言う。

 つまり、三菱重工爆破事件に対する人々を具体的行為を規律したのは「空気」であり、道徳教育の第一歩として「事実をありのままに言うべき」ということに「できない」と反応した記者の根拠も「空気」である、と。

 そして、様々な事実(例えば、戦艦大和の出撃)を見る限り、この「空気」は「『議論』・『データ』・『科学』も歯が立たない何か」であることが分かる。

 

 さて、戦艦大和の件について、戦後になされた決定権者(最高責任者、連合艦隊司令長官)の言葉を見る。

 その言葉は「『当時ああせざるを得なかった』と答うる以上に弁疎しようとは思わない」である。

 そりゃそうであろう、何故なら決定の理由が「空気」なのだから。

 だから、著者は「『軍には抗命罪があり、命令には抵抗できないから』という議論は少々あやしい。むしろ日本に『抗空気罪』という罪があり、これに反すると最も軽くて『村八分』刑に処せられるからであって、これは軍人・非軍人、戦前・戦後に無関係」と述べる。

 それゆえ、著者は「『空気』とはまことに大きな絶対権をもった『妖怪』である」と述べる。

 また、「この『空気』なるものの正体を把握しておかない」といけない、とも。

 そりゃ、「空気」は専門家がなした科学的分析・専門的分析を一蹴して、それとは逆の方向の決定にもっていけるのだから。

 リヴァイアサンすら勝てるかどうか怪しい。

 

 さらに、戦後の様子を見て、著者は「戦後にもこの『空気』は猛威を振るっている」と言う。

 その証拠として公害問題に対する専門学者の「いまの空気では、到底こういうことはマスコミなどでは言えない」という趣旨の発言を取り上げる

 このことから、ますます著者は「空気」の実体の解明の必要性を感じることになる。

 

 

 また、「空気」に関する興味深い点として、「『空気』が消え去ってしまうと『空気』があった状況を再現できず、空気に抗った一連の行為が奇妙に見える」点がある。

 本書では、著者が校正した「実験用原子炉導入の必要を説いた論文」が題材(例)に挙げられている。

 この論文では「実験用原子炉と原爆は関係ないこと」が痛ましいレベルまで強調されている。

 痛ましく見えるのは見直した段階では「空気」がないためであり、換言すればこの論文が発表された当時、(実験用原子炉の導入に反対する趣旨の)「空気」があったことの証明になっている。

 だから、仮に「空気」を負かすことができたとしても、「空気」を負かすために必要なエネルギーは膨大であることもわかる。

 

 

 以上、本書の第1章の一を読んでみた。

 本書における「空気」は現在においても十分に存在していることは「顕著な事実」(民事訴訟法179条)である。

 ならば、「空気」を知ることは今でも極めて重要である。

 まあ、だから、私はこの本を丁寧に読むことにしたのだが。

 

 

 さて、次は「第1章の二」に進む予定だが、その前に、山本七平が冒頭で述べた「道徳」の具体的な内容についてみたい。

『痛快!憲法学』を読む 17(最終回)

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことや考えたことをメモにする。

 

 

 なお、各章を1行にまとめた結果は次のとおりである。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている

第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する

第9章_平和憲法では平和を守れない

第10章_経済不干渉の夜警国家大恐慌ケインズによって積極国家(福祉国家)となった

第11章_日本は民主主義・資本主義を根付かせるために「天皇教」という宗教を作った

第12章_日本の『空気』支配が憲法を殺した

第13章_ 日本のリヴァイアサンを操る官僚の弊害、戦後改革がもたらした自由と平等に関する誤解、天皇教による権威の崩壊によって日本は沈没する

 

16 これから

 本書の最終章(13章)の「日本復活の処方箋があるか」で著者の小室直樹先生(本書の先生役)は「(日本は)このまま進み続ければタイタニックのように沈没するしかない」、「今のままの日本には希望はありません」と断言する。

 それに対して、生徒役のシマジ君は「とっておきの処方箋を先生だったらお持ちでしょう」と言うものの、それに対して、小室先生はこれに対して「この大バカモノ!」と一喝する。

 そして、「この現実を直視しなさい(そこからすべては始まる)」と諭す。

 さらに、「『一刻も早く日本を立て直す』と覚悟を決め、本書に書かれたことをヒントにして自分なりに考えて第一歩を踏み出すこと」を勧める。

「民主主義をめざしてのヒビの努力の中に、はじめて民主主義は見出される。」という丸山眞男(東大の教授)の言葉を紹介しながら、「それが正しいか、間違っているかは気にする必要はない」という言葉を添えて。

 

 

 本書において、憲法の前提や憲法の成立過程(歴史)について詳しく書かれているのは、(近代)立憲民主主義の前提を示すためであろう。

 また、日本で憲法を蘇生させるためには、その前提も復活させなければならない。

 そのなかには資本主義の精神(勤勉の精神・目的合理性追求の精神)なども含まれる。

 

 この作業は容易ではない。

 非キリスト教国で実質的に民主主義の国になれたのは本当にわずかである。

「日本は一度は成功しかけたのだから、前回の失敗を活かしてもう一度チャレンジすれば成功する可能性が高い」とは言えても。

 

 ここで、近代革命の革命者たちが持っていた精神を列挙してみる。

 

(神の前の平等)の精神

勤勉の精神

目的合理性の精神

契約遵守の精神

 

 こんなところか。

 そして、明治政府はこれらを導入しようと試みた。

 よって、これらの精神を日本に導入するために、明治政府が試みたこと・その背景思想について知る必要がある。

 例えば、天皇教のルーツや二宮金次郎(日本における勤勉の精神)とか。

 そこで、山本七平の書物にあたる必要がある。

 

 また、導入される側についても知らないとダメだろう。

 導入される側の事情を無視することは、いわゆる「敗因21か条の『敗因三、日本の不合理性、米国の合理性』」に該当する。

 そこで、古来の日本人のメンタリティについて知る必要がある。

 以前、日本神話に関する本を図書館から借りて読んだが、この周辺をより深く知る必要があるかもしれない。

 

17 憲法に再び関心を持った理由

 最後に。

 以前、私は「憲法に対する関心を失った」と書いた。

 理由は2つ。

 1つは、「日本国憲法は死んでいるとの小室先生の見解に同意するところ、憲法に関心を持つのは墓守をやるのと大差ないから」。

 もう1つは、「国民が憲法の蘇生を望むのか分からないから」である。

 

 私が「国民が憲法の蘇生を望むのか分からないから」と述べるのはなぜか。

 それを裏付けると考えられるエピソードが山本七平の次の書籍に書かれてあるので紹介する。

 

 

 最初のキーワードは「大に事(つか)える主義」である。

 この「大に事える主義=(事大主義)」について要約すると次のようになる。

 

(以下、『下級将校の見た帝国陸軍』の16・17ページの一部の要約)

 日本人はある状態で「ある役つきの位置」に置かれると一瞬にして態度が豹変する(現象)がある。例えば、とある学生が○○委員長などと言った肩書がつくと教授に対する態度が変わる。就職活動のタイミングになればまた態度が変わる。卒業してある会社の社員になればまた態度が変わる。この現象は日本人において不思議なものではなく、また、タイミングによって態度が変わることについて当の本人は全く矛盾に感じていない。なお、この特徴は戦後以降のことではなく、戦前も同様である。

 ところで、この態度が立場によって豹変する現象、態度が一貫しないため無原則のように見える。しかし、この背後には「事大主義(大に事える主義)」という原則があり、この原則を通じて一貫している。つまり、自分の立場が「大」側であれば横柄な態度となり、お得意様であるなど相手の立場が「大」であればこれに阿っているだけである。

 この「事大主義的態度」ないし「事大主義的態度の豹変」は日本人捕虜に見られたし、日本軍の捕虜の扱い方に見られている(『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』にて引用されている故・小松真一氏の日記にもそれを示唆する記述が見られる)。

 

 この事大主義、言い換えれば、「大に媚び諂う態度」は立憲主義とマッチするだろうか。

 立憲主義は大(権力者)を縛って小(個人)の権利・自由を擁護する考え方である。

 ならば、事大主義は立憲主義にマッチしないのではないか。

「私が立憲主義が日本人にマッチしないだろう」と考えている重要な理由はこの点にある。

 

 他の理由としてつぎのことも挙げられる。

 例として、上で紹介した山本七平の書籍からエピソードを引っ張ってくる。

 参照する部分は291ページからの「言葉と秩序と暴力」である。

 ただ、類似の記述は前回に読んだ『日本はなぜ敗れるのか_敗因21か条』にもある。

 この箇所についてはブログの次の記事で紹介している。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 簡単に事実関係を確認する。

 太平洋戦争末期、または、終了後、フィリピンに日本軍の捕虜収容所がつくられ、捕虜となった日本人(山本七平や故・小松真一氏)はここに収容された。

 この収容所、米軍の指導下で最低限の衣食住と民主主義的自治機構が与えられたが、一部の例外を除いて暴力支配が発生し、それによって収容所内の秩序が確立してしまう。

「暴力支配はいかん」と米軍が介入して暴力団が排除されると、収容されている日本人は解放を大いに喜ぶが、直ぐに秩序にガタがくる、と。

 なお、このような暴力支配は日本人が作った外国人(アメリカ人・イギリス人など)の捕虜収容所では見られなかった(このことについて書かれた書物として次のものがある)。

 

 

 では、日本人と外国人の違いは何だったのか。

 山本七平によれば、「『秩序は自分たちで作る』という考えがあったか」だという。

 憲法の言葉に引き付けるならば、「自治意識の有無」と言ってもよい。

 

 そして、山本七平は重要な指摘を加える。

「言葉の有無」も重要な違いだという。

 つまり、キリスト教国家が「はじめに言葉ありき」ならば、日本は(権力者=大によって)言葉が奪われており「はじめに言葉なし」の世界であった。

 言葉がなければ「力がすべて」の世界、暴力支配の世界にならざるを得ない。

 

 ここで挙げた具体例は捕虜収容所である。

 しかし、「似た例を現代の日本で探せ」と言われれば、山ほど見つけられるだろう。

 だから、この現象は過去の現象でもなければ、特異的な現象でもない。

 

 さて、ここで取り上げた自治の不在」と「言葉の不在」

 前者には「権力を操縦しよう」という意思がない。

 後者は「言葉がない」のだから、言葉で書かれる「契約」など存在せず、当然、「契約遵守」の思想もない。

 この2つを併せて考慮すれば、ジョン・ロックの社会契約説を日本で実践するのは無理ではないか。

 

 また、自治を行うか」・「言葉を持つか」という問題は能力の問題ではない。

 意思の問題である(宮台真司先生の言葉を用いれば、「知性の問題」ではなく「感情の問題」である)。

 つまり、自治をしない」・「言葉を持たない」という現象は大和民族の民族的自己決定の結果ではないかと考えられる。

 ならば、日本人は社会契約説による憲法など実践できないし、また、する気もない、ということになる。

 

 以上から、私は憲法的なものに関心をなくしていた。

 もっとも、近い将来、憲法が機能不全であること理由にとんでもない惨禍が日本を襲うような気がする。

 既に、コロナ禍がそうではないかという思うところもないではないが、コロナ禍程度で済むものではないと考えている。

 そのため、「大和民族がやりたくないというのなら、それでいい」と言ってられなくなってしまった。

 だから、憲法に関する諸々について関心を持つことにした。

 悲劇を回避できればそれもよし、悲劇が回避できなければ原因となった事情の手がかりを見つけ、それを後世につなげていくために。

 

 

 以上で、本書に関するメモ書きを終える。

 次は、日本人の気質について知るため、『空気の研究』を見ていこうと考えている。

 

 

『痛快!憲法学』を読む 16

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことや考えたことをメモにする。

 

 

 なお、各章を1行(正確には「1文」か)にまとめた結果は次のとおりである。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている

第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する

第9章_平和憲法では平和を守れない

第10章_経済不干渉の夜警国家大恐慌ケインズによって積極国家(福祉国家)となった

第11章_日本は民主主義・資本主義を根付かせるために「天皇教」という宗教を作った

第12章_日本の『空気』支配が憲法を殺した

第13章_ 日本のリヴァイアサンを操る官僚の弊害、戦後改革がもたらした自由と平等に関する誤解、天皇教による権威の崩壊によって日本は沈没する

 

15 私の感想(後半)

 前回は、第8章までを読んだ私の感想を書いた。

 今回は、第9章以降の私の感想を書く。

 

 第9章は平和主義について。

 大日本帝国憲法と異なり、日本国憲法では9条にて平和主義を謳っている。

 これは戦争がもたらす惨禍を考慮すれば、または、太平洋戦争がもたらした惨劇を考慮すれば当然とも思える。

 ただし、日本国憲法のような「平和主義で戦争が防げるか」と言われるとそうもいかないようだ。

「平和(戦争の回避)が大事なら戦争について徹底的に研究しろよ。『平和主義を唱えれば平和になる』という発想でいるなんて日本は呪術国家かっ」というのが著者(小室直樹先生)の主張である。

 ただ、この「平和主義を唱えれば平和になる」という点と「平和を希求する」という点、これは日本の古来の伝統とかなりマッチしていそうな気がするので、この点は「さもありなん」ということなのかもしれない。

 

 第10章は経済について。

(立憲)民主主義と資本主義は双子であるところ、資本主義、特に、古典経済学において「国家は経済にタッチすべからず(自由放任)」というドグマがあった。

 もっとも、20世紀の大恐慌がそのドグマにヒビを入れる。

 その結果、ケインズ主義が生まれ、国家が経済政策を行うことがよしとされた。

 しかし、日本では立法・行政を動かす連中が資本主義の精神やケインズの思想を理解していないようで、実効性のある公共投資ができていない。

 日本が員数主義的なところ、表面的な部分しか理解できていない部分がここに現れている。

 

 

 と、憲法に関する基礎知識が得られたところで、日本の近代化の歴史について話題が移る。

 それが第11章と第12章、そして、第13章である。

 

 明治時代における日本の近代化は日本の自衛、つまり、日本が植民地にならないためになされた。

 欧米列強の侵略から日本を防衛するためには、日本は欧米列強と対等に渡り合えなければならない。

 欧米と対等に渡り合うためには近代的な軍隊を持つ必要がある。

 近代的な軍隊を持つためにはそれに見合う経済力が要る。

 その経済力を維持するためには日本を資本主義の国にしなければならない。

 日本を資本主義の国にするためには、国家の統治システムを立憲民主主義のシステムにし、国民には資本主義の精神を植え付けなければならない。

 そのために、明治政府は二宮金次郎を使って勤勉の精神を国民に植え付け、さらに、天皇教を使って平等の精神を植え込もうとした。

 この2つの精神は近代革命を起こした人たち(新教徒)が持っていた精神と類似のものである。

 

 その結果、日本は帝政ロシアとの間で戦争をして戦争目的を達成した上、欧米との不平等条約を改正し、大正デモクラシーを実現させて、さらには、国政連盟の常任理事国に就任する。

 すさまじい成果である。

 

  しかし、日本の伝統に基づく民族性は明治時代の政策だけでは昇華させられなかった。

「時間が足りなかった」と言うべきかもしれない。

 大恐慌に対する政府の無能から議会政治に対する不信が生じ、ナチス・ドイツの躍進や大日本帝国憲法の欠陥などから政党政治・議会政治はとどめを刺される。

 そして、第二次世界大戦終了後、アメリカの占領政策によって「日本を近代化させようとしたシステム」を潰され、日本国憲法が死ぬことになる。

 

 

 さて。

 私が感想として持つのは、立憲主義にせよ民主主義にせよ、運営・維持するのは大変なのだなあ」ということである。

 確かに、身体の自由がある状況・信仰の自由等がある状況・(一定の財産がある状況で)自由が保障されているというのは素晴らしい。

 しかし、共同体内においてそれらの自由を維持するのは大変なのだなあ、と思わされる。

 そして、戦後、それがいかに大変であるかということを次世代に伝えなかったのはとんでもないことだなあ、とも考える。

 

  もう一つ、「歴史って大事だなあ」ということも実感させられる。

 この点、自然科学法則の場合、外部条件が同じであれば生じる結果は同じである。

 例えば、惑星の位置関係が同じであれば、地球の公転軌道は変わらないし、重力も同じである。

 人間の都合によってニュートンの運動法則の中身が変わったり、地球の公転軌道が変わったりしない。

 よって、自然科学法則や自然科学を学ぶ際、歴史を参照する必要はそれほどない。

 

 しかし、社会科学や人文科学はそうはいかない。

 これは「立憲民主主義の成り立ちにいかにキリスト教の影響が入っているか」などを見ればそれは火を見るよりも明らかである。

 

 以上の2点が本書の感想である。

 次回は、「本書の内容を将来にどう生かすべきか」について私の考えたことを書いてこのシリーズを終えることにする。 

『痛快!憲法学』を読む 15

 今回は前回のこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『痛快!憲法学』を読んで、学んだことをメモにする。

 

 

14 私の感想(前半)

 各章を1行でまとめると次のとおりになった。

 

第1章_憲法は慣習法であり、簡単に死ぬ

第2章_憲法は国家権力に対する命令書である

第3章_憲法と民主主義は無関係である

第4章_民主主義はキリスト教の聖書を背景に成立した

第5章_キリスト教の予定説は民主主義と資本主義を同時に生み出した

第6章_憲法ジョン・ロックの社会契約説が背景にある

第7章_憲法と民主主義はキリスト教の契約遵守の教えが支えている

第8章_民主主義が独裁者を生み、憲法を抹殺する

第9章_平和憲法では平和を守れない

第10章_経済不干渉の夜警国家大恐慌ケインズによって積極国家(福祉国家)となった

第11章_日本は民主主義・資本主義を根付かせるために「天皇教」という宗教を作った

第12章_日本の『空気』支配が憲法を殺した

第13章_ 日本のリヴァイアサンを操る官僚の弊害、戦後改革がもたらした自由と平等に関する誤解、天皇教による権威の崩壊によって日本は沈没する

 

 これまでは、「本書を読んで私が学んだこと」を書いてきた。

 ここからは、「各章を読んだ私の感想」をつらつらと書いていく。

 

 

 まず、第1章は「日本国憲法は死んでいる」という話であった。

 つまり、「近代憲法が機能しているかは『実質的に』判断すべきところ、日本国憲法は実質的に見て機能していない。よって、日本国憲法は死んでいる。」ということになる。

 私はこの見解に同意する。

 しかし、この「実質的に判断すべき」という点が日本人の感覚にマッチするかは分からない。

 つまり、典型的日本人がこの話を聴いても、「本章は我々日本人の判断基準と異なる基準で判断しているに過ぎない。我々の基準では『形式的』に判断すべきところ、日本国憲法は失効していない。以上より、憲法は別に死んでいない」で終わるのかもしれないなあ、と考えた。

 なにしろ、日本は「員数主義」の国であるところ、「員数主義」とはつまるところ「形式主義」であり、実質的判断とは対極の位置にあるのだから。

 

 そして、第2章。

 この章では近代憲法の常識中の常識、つまり、憲法は国家権力に対する命令書である」と言うことについて書かれている。

 もちろん、「近代憲法がそういうものと定義されている」というのは分かる。

 しかし、この権力を縛らなければならない(けん制しなければならない)という発想が「事大主義(大に仕える主義)」を採用する日本人の感覚に適合するのかなあ、と考える次第である。

 

 さらに、第3章。

 この章では「民主主義の象徴たる議会」・「『権力を縛る』という立憲主義の発想がどこから出現したのか」を見るために、中世ヨーロッパの歴史を振り返る。

 こう見ると、立憲主義の端緒にしても議会にしてもキリスト教の影響は大きいなあと考える次第である。

 例えば、国王が当事者(貴族)を集めて一括して契約を締結する(改訂する)場として議会を用意するなんて、キリスト教の「契約」の発想がなければあり得ない。

 また、中世の国王の立場の弱さを示す、「国王は人の上に、神の下に」という発想だって絶対神の存在を前提とするキリスト教が必要だろう。

 この辺りは、中国と対比してみれば理解が深まるだろう。

 

 そして、第4章と第5章。

 国王(とそれに接近した商工業者)VS貴族・教会の戦いは国王の勝利となり、国王による絶対王権が誕生する。

 そして、この王権の持つ権力は現在の国家権力とほぼ同質である。

 つまり、「権力は領土内にいる国民に何でもできる。伝統主義をも考慮する必要もない」というもの。

 しかし、国王は貴族と教会を蹴散らし、絶対王権として権力を行使しようとしたが、今度は国王を援助していた商工業者たちが国王と対立することになる。

 さらに、この商工業者が新教徒(教会ではないキリスト教徒)であり、民主主義(平等)と資本主義の精神(勤労と目的合理性の精神)を持つ人たちであった。

 この商工業者(新教徒)たちが革命を起こし、国家権力を縛り上げることになる。

 

 となると、「近代革命は新教徒が起こした」と言える。

 少し抽象化すれば、「近代革命は『契約主義・平等主義・勤勉主義・合理主義の精神』を持つ人たちが起こした。」になる。

 この前提を見落としてはいけないように思われる。

 

 さらに、第6章と第7章。

 ここから近代革命を起こした人間たちが絶対王権から自分たちの身を守るために作ったシステム(憲法と民主主義)とその背景について話が移る。

 まず、近代立憲民主主義を支えているジョン・ロックの思想について。

 ジョン・ロックの社会契約説には「人間は理性的存在である」・「人間は(勤勉性と合理主義的精神を持っており)労働を行うことで富を無限に増やせる」・「人間は契約をほぼ守る」という前提があることが分かる。

 もちろん、これらの前提は新教徒(ピューリタン)であれば概ね持っている発想である。

 しかし、これらの前提がない状況で、ある集団が表面的にこの社会契約説に従ったらどうなるか、それはヨーロッパ以外の国々を見れば分かるように思われる。

 

 あと、ロックの説は「富は無限である」という前提がある。

 ただ、富の大きさは「現実の物量と人間の数」の相関によって評価される。

 大航海時代以降、ヨーロッパ各国(ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス)は世界を席巻したので、この前提がある意味成立していた。

 もっとも、中国はもとよりこのような前提はなかった。

 また、現代の世界もこの前提はなくなっているように思われる。

 そうなってもロックの思想が成り立つのか、その辺は分からない。

 

 

 そして、第8章。

 この章は民主主義の持つ憲法破壊の危険性について触れられている。

 民主主義的決定により「権力者を拘束する必要はない=憲法は要らない」となったら憲法は死ぬ。

 例えば、ナチス・ドイツで議会が可決した全権委任法。

 別に、これによってワイマール憲法が失効したわけではない。

 しかし、行政府の処分をけん制する道具である「法律」、これを作る権限を議会(立法機関)が放棄することでワイマール憲法は死んだ。

 

 また、ヨーロッパを見ると大衆の歓呼の声に支えられて独裁者は現れた。

 アドルフ・ヒトラー然り、ナポレオン三世然り、ナポレオン然り、カエサル然り。

 もちろん、民衆の幸福にとって独裁政治がいいのか悪いのかは分からない。

 ただし、第9章で見た通り、「歴史的に見て独裁政治が人権(生命・自由・財産)を蹂躙しやすい・憲法を蹂躙しやすい」のは確かである。

 立憲民主主義を引き受けるならばそのコストも代償も引き受けなければならない、ということなのだろう。

「国民にその覚悟はありや」、この章の最後の質問はそう問いかけているようである。

 

 

 そして、第9章へ、、、といきたいところだが、本ブログの文字数が2000文字を超えてしまった。

 その辺で、次章以降は次回に回す。

RUBYでFIZZBUZZプログラムを書く

0 はじめに

 約4か月前、「FIZZBUZZプログラムを書く」という課題にチャレンジしたことがあった。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 前回は、第一段階として自分が使用・学習した経験のある言語(PERL・RUBY・PYTHON・C++)でFIZZBUZZプログラムを書いた。

 そして、第二段階として自分が使いこなしていたPERLで応用問題に挑戦した。

 

 もっとも、今後の私が用いるだろう言語はRUBY・PYTHON・C++である。

 PERLではない。

 よって、前回、PERLでやったことRUBY・PYTHON・C++でもできるようになりたい。

 

 

 そして、私は次の2冊の教科書でRUBYを勉強した。

 そこで、RUBYを用いて前回の応用問題にチャレンジしてみる。

 

  

 

 今回の課題は次の3つ。

 

① 何も見ないでFIZZBUZZプログラムを書く。

② 1行でFIZZBUZZプログラムを書く

③ 「%」を用いないでFIZZBUZZプログラムを書く

 以下、チャレンジする。

 

1 チャレンジの結果

 まず、①の条件で書いたプログラムは次のとおり。

 

def fizz_buzz ( n )
    if n % 15 == 0 
        "FIZZBUZZ,\n"
    elsif n % 3 == 0 
        "FIZZ,"
    elsif n % 5 == 0 
        "BUZZ,"
    else
        "#{n}," 
    end
end

(1..50).each do |n|
    print fizz_buzz(n)
end

 

 次に、②の条件(1行以内に収める)で書いたプログラムは次のとおり。

 

(1..50).each{|nprint n%15==0?"FIZZBUZZ,\n":n%3==0?"FIZZ,":n%5==0?"BUZZ,":"#{n},"}

 

 次のサイトで文字数をカウントしたところ、上のプログラムの文字数は90文字以下になっていた。

 これならまあ及第点と言ってもよいだろう。

 

http://www1.odn.ne.jp/megukuma/count.htm

 

 最後に、③の「%」を用いないで書いたプログラムは次のとおりである。

 

def fizz_buzz(x)
    y = x
    while 1 
        if y > 15
            y -= 15
        elsif y == 15
            return "FIZZBUZZ,\n"
        elsif y == 3 || y == 6 || y == 9 || y == 12 
            return "FIZZ,"
        elsif y == 5 || y == 10
            return "BUZZ,"
        else
            return "#{x},"
        end
    end
end

(1..50).each { |nprint fizz_buzz(n) }

 

 もう少しコンパクトにできそうではあるが、まあこんな感じか。

 

 今回書いた3つのプログラムの実行結果は次のとおりである。

 

PS C:\Labratory\LessonLab\ruby\RubyPro1_1> ruby rubypro02_084.rb
1,2,FIZZ,4,BUZZ,FIZZ,7,8,FIZZ,BUZZ,11,FIZZ,13,14,FIZZBUZZ,
16,17,FIZZ,19,BUZZ,FIZZ,22,23,FIZZ,BUZZ,26,FIZZ,28,29,FIZZBUZZ,
31,32,FIZZ,34,BUZZ,FIZZ,37,38,FIZZ,BUZZ,41,FIZZ,43,44,FIZZBUZZ,
46,47,FIZZ,49,BUZZ,
PS C:\Labratory\LessonLab\ruby\RubyPro1_1> ruby rubypro02_085.rb
1,2,FIZZ,4,BUZZ,FIZZ,7,8,FIZZ,BUZZ,11,FIZZ,13,14,FIZZBUZZ,
16,17,FIZZ,19,BUZZ,FIZZ,22,23,FIZZ,BUZZ,26,FIZZ,28,29,FIZZBUZZ,
31,32,FIZZ,34,BUZZ,FIZZ,37,38,FIZZ,BUZZ,41,FIZZ,43,44,FIZZBUZZ,
46,47,FIZZ,49,BUZZ,
PS C:\Labratory\LessonLab\ruby\RubyPro1_1> ruby rubypro02_086.rb
1,2,FIZZ,4,BUZZ,FIZZ,7,8,FIZZ,BUZZ,11,FIZZ,13,14,FIZZBUZZ,
16,17,FIZZ,19,BUZZ,FIZZ,22,23,FIZZ,BUZZ,26,FIZZ,28,29,FIZZBUZZ,
31,32,FIZZ,34,BUZZ,FIZZ,37,38,FIZZ,BUZZ,41,FIZZ,43,44,FIZZBUZZ,
46,47,FIZZ,49,BUZZ,
PS C:\Labratory\LessonLab\ruby\RubyPro1_1>

 

 要求通りの結果が出ている。

 これならミッションクリアと言ってもよかろう。

 

 

 以上、RUBYの学習成果を試すため「FIZZBUZZ問題」にチャレンジした。

 プログラミングの勉強は「『今年やるぞ』と決めたことのうちあまり進んでいない部分」である。

 これからどんどん進めていきたい。

 

2 RUBYの教科書を写経する

 RUBYを身に着けるために上の2冊の教科書を読み、コードの写経を行った。

 結構、疲れたー。

 

 疲れただけあって一通りの知識は得られたのではないかと考えられる。

 また、以前、C++を学んだときはちんぷんかんぷんだったことも、RUBYの教科書を読んだことで、分かったこともあった。

 丁寧に読み、また、写経した価値はあったのだろう。

 

 もっとも、知識を得ただけでは使えない。

 これから色々なプログラムを書くことで学んだ知識を定着させていきたい。

 でないと学んだ意味がないので。

 

 

 それから、RUBYに関しては次のような資格があるらしい。

 

it.prometric-jp.com

 

 この点、私が今年・来年に取ろうと考えていた資格は

 

FP_2級(今年取る)

数学検定1級

統計検定1級

応用情報技術者

英語検定1級(TOEIC)

 

などであり、RUBY技術者認定試験は考えていなかった。

 ただ、将来的には考えてみてもいいのかもしれない。

 仕事でRUBYを使う予定がない以上、どれだけプログラムを書いて公開しても自己流を超えることができないので、客観性を身に着けるという観点から。