薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『数学嫌いな人のための数学』を読む 7

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

7 第1章の第5節を読む

 本節(第1章の第5節)のタイトルは、「最高の役人は最悪の政治家である_マックス・ヴェーバーが発見した『解』が存在しない政治の現実」である。

 

 第1章の第1節では、「古代イスラエルの宗教」を通じて「論理学」について見た。

 第1章の第2節では、「幾何学の三大難問」を通じて「数学」について見た。

 第1章の第3節では、「マゼランの大航海」を通じて「存在問題」について見た。

 第1章の第4節では、「方程式の解」を通じて「存在問題」をさらに見た。

 そして、第1章の第5節は、数学を表面的にしか取り扱わない日本社会をみていく。

 

 なお、「最高の役人は最悪の政治家である」社会学マックス・ヴェーバーの言葉である。

 数学(論理学)がここで社会科学(政治学)や現実の政治と交錯することになる。

 

 

 前回、方程式という言葉が日本社会で氾濫しているということを述べた

(なお、本書では「広く用いられている」という表現がなされている)。

 本節ではここから話が始まる。

 

 この点、日本教徒がこの「方程式」を比喩として用いた意図は「その答えとその道筋」を示すことにある。

 そして、方程式に解があること、四次以下の代数方程式において方程式に解法があることも前回示した通りである。

 これらのことを考慮すれば、この比喩が適切でないということは到底不可能である。

 

 しかし、と著者は続ける。

「方程式」などの数学の言葉を比喩に使うならば、「解は存在するのか」とか「解法は存在するのか」というような意味で用いてほしかった、と。

 何故なら、問題の解決において「どうやって問題を解決するのか」という手段よりも、「そもそも『解決できる問題』であるか」とか「『解決できる』としてその方法が存在するのか」という問題の方がより重要であるのだから、と。

 数学の論理を社会に活用するならば、存在問題こそに意味があるのだから、と。

 

 話はここから日本の現状に移る。

 つまり、そもそも日本では「解がない方程式」や「解があっても解法が存在しない方程式」のことを教えたがらない

 これでは、数学を学んだとしても数学を社会に応用できないではないか、と。

 

 著者は話を(日本の)官僚に移して、マックス・ヴェーバーの名言を紹介する。

 つまり、「最良の官僚は最悪の政治家である」と。

 

 この点、近代社会における官僚(依法官僚も同じ)は機械的に法律を適用する機械のようなものである。

 つまり、「法律」や「命令」という解法が存在する状況で、解法(法令)を現実に効率的に適用する存在が官僚である。

 当然だが、法律の適用に間違いがあってはならない。

 その一方で効率性が求められる。

 それゆえ、よき官僚は簡単になれるものではなく、相当の訓練を必要とする。

 しかし、その結果、官僚は「現在する問題には解法が存在する」ことが当然の前提になってしまう

 

 一方、現実の政治では「解がない問題」や「解があってもその解法が存在しない問題」がある

 そして、これらの問題に対処するのが近代社会の政治家である。

 しかし、前述の訓練の結果、近代社会の官僚は「解法は存在する」という前提で政治的な問題をみてしまう。

 そして、政治家がその前提で問題に取り組めば、解がない場合、解法がない場合にとんでもない悲劇を巻き起こしてしまう。

 よって、理想的な官僚は政治家に向かない

 これぞ「最良の官僚は最悪の政治家である」という言葉の意味である。

 

 この点、「日本の官僚を近代主義の官僚とみなせるのか」と言われると少々わからない

(小室先生の時代はさておくとしても、現代に即して考えればさらに考えさせられることになる)。

 ただ、マックス・ヴェーバーの前述の主張に従えば、仮に、近代主義の官僚であると考えたとしても、政治家に向かないことになる。

 そして、日本ではその官僚が(近代主義的)政治家に転身している。

 かくして、「(解のない状況において)問題解決ができない日本」が出来上がった、というのが小室先生の主張らしい。

 具体例として、本書ではデフレ対策について述べられている。

 

 

 本節の話はこれまでの小室先生の本に関する読書メモで出てきている。

 以下は、それらの話を踏まえた感想をまとめておく。

 

 小室先生は数学を社会に生かす場合、重要なのは「具体的な解法」よりも「存在問題」ということを述べている。

 一方、現実では「存在問題」よりも「具体的な解法」の方が重要になっている。

 まあ、この点は私も散々見せつけられてきたので、実感がある。

 このことから「日本には数学それ自体を社会に生かす意思がない」という推測ができる。

 

 また、小室先生が指摘するように、そもそも日本では「解がない方程式」や「解があっても解法が存在しない方程式」のことを教えたがらない

 この原因として、そもそも存在問題それ自体を知らないという可能性がある。

 ただ、「『解や解法がない問題』の存在を認める意思がない」という推測もできる。

 

 と、以上2点の妄想的推測をしてみると、その背後に(小室先生が主張した)日本的・盲目的予定調和説が見える。

 この辺をまとめた読書メモは次のとおりである。

 

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 この点、日本的・盲目的予定調和説の特徴に「自己の所属する共同体の技術信仰」と「自己に所属しない技術などの軽視・無視」がある。

 ならば、数学が自己の所属する共同体との関連性が乏しければ、数学を活用しようという意思が皆無であっても全く不思議ではない

 もっとも、数学との関連性が高ければ問題ないかというとそういうことにもならない。

 この場合は数学に対する絶対信仰が生じてしまうからである。

 

 また、日本的・盲目的予定調和説は「自己の所属する集団の任務の完遂」が目的化するから、「解法が存在しない」とか「解が存在しない」といった事情を認められるわけがない。

 何故なら、解法や解が存在しないことを認めたら前提が吹き飛んでしまうからである。

 

 このように見ると、上に述べた私の二つの妄想的推測はあながちあっているのかもしれない。

 そして、本節が投げかける問題の根っこはかなり深いように見える(もちろん、日本についての言及は後の章でも触れている)。

 とすれば、数学軽視の状況を反転することなど到底無理ではないか、と。

 

 

 次回から2章について見ていく予定である。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 6

 今日はこのシリーズの続き。

 

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『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

6 第1章の第4節を読む

 本節(第1章の第4節)のタイトルは「n次方程式には『解』ある_ガウスが発見した『解』の存在」である。

 

 第1章の第1節では、「古代イスラエルの宗教」を通じて「論理学」について見た。

 第1章の第2節では、「幾何学の三大難問」を通じて「数学」について見た。

 第1章の第3節では、「マゼランの大航海」を通じて「存在問題」について見た。

 第1章の第4節では、「方程式の解」を通じて「存在問題」をさらに見ていく。

 

 

 第1章の扉絵に表示されていたガウス(カール・フリードリッヒ・ガウス

 このガウスは歴史的な数学者のうち群を抜いている。

 これと同等と言える数学者はアルキメデス(紀元前3世紀)やアイザック・ニュートン(17世紀)であろうか。

 

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 さて、このガウス

 逸話も事欠かないらしい。

 本書で紹介されている逸話は次のような逸話である

(なお、この逸話に出てくる具体的な数値にはばらつきがあるらしい、もっとも、ここでは本書の記載に従う)。

 

(以下、ガウスの逸話について、本書38ページの記載の要旨を掲載)

 小学校3年のとき、算数の先生が「50から500までの整数を全部足したらいくつになるか」と出題した。

 先生は「この問題を解くのに30分はかかるだろう。ならば、その間、ゆっくりすることができる」と考えていた。

 もっとも、ガウスはあっさりと回答したため、教師の目論見は完全に外れてしまった。

(逸話の要旨終了)

 

 他にも、19歳のころ、ガウス正十七角形をコンパスと定規のみで作図するという偉業を成し遂げた。

 そして、歴史的発見というべきものが「n次方程式には必ず解が存在する」というものである。

 なお、nは自然数であり、また、解には虚数解(複素数解)も含むものとする。

 

 ここで見ておくべきことは、この数学的な発見だけではない。

 ガウスの発表の方法についても見ておく必要がある。

 

 この点、地動説に対するカトリック教社会の反発についてはこれまで様々なところで言及した(これが記載された重要な読書メモは次のとおり)。

 

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 同じように、ガウスの時代、「虚数」が実在しないと考える学者たちもいた。

 そのため、ガウスは「そもそも虚数を実在しないと『信仰』している学者たちが、自分の説明を理解できるのか」ということを懸念した。

 また、ガウスは「『複素数の導入』によって数学が大きく進歩する」という確信もあった。

 そこで、ガウスはあらかじめ実数に限定した理論を論文にして博士論文を提出した。

 その後、ガウス複素数まで理論を拡張することになる。

 

 ここで、ガウスの発見(証明した)内容をもう一度確認する。

 存在問題に引き付けた場合、次のような内容になる。

 

「n次方程式には少なくても1個以上の解(複素数も含む)が存在する」

 

 ここで重要なのが、「少なくても1個以上」の部分である。

「1個以上存在する」ならば「確実に存在する(存在しないことはない)」と言えるのだから。

 その意味で、ガウスの主張は存在問題に対する証明になっている。

 

 ところで。

 日本教徒がこのガウスの発見を見たとき、次の感想を持つのではないかと思われる。

 曰く、「方程式の解など、実社会生活とは無縁のものではないか」

 曰く、「そのような問題を考え続ける数学者は日本教的に奇妙奇天烈な存在ではないか」

 本書に書かれていないことを追加すれば、「このような証明を称賛する西洋社会は奇妙な社会ではないか」ということも加えていいかもしれない。

 

 この点、最初の感想である「実社会生活との関連性の乏しさ」についてはその通りであろう。

 しかし、ガウスによる代数方程式の解の存在問題を解決(証明)によって数学(代数学)に大きく貢献することになる。

 そして、数学を道具として利用する社会科学や自然科学にも大きな貢献をなすことになる。

 

 この点、ガウスがしたことは「存在するのかしないのかわからない」という状態を「存在する」と確定させたことになる

 これにより、代数方程式の解を求めるための諸々の行為が(とりあえず)無駄でないことが判明したからである。

 とすれば、これにより代数方程式の研究に対する数学者たちの士気は大いに高まったであろう。

 太平洋に乗り出していったマゼラン一行のように。

 

 なお、本書では具体例として神学が用いられている。

 神学における存在問題は「神が存在するのか」であるところ、この存在問題は極めて重要になる。

 というのも、神が存在しないなら、神が存在しないと証明されたら、神についてどれだけ緻密な理論を述べたところで無意味であり、砂上の楼閣と化すからである。

 

 そして、実際のところ、この存在問題は身近な例でも置き換えられる。

 例えば、「列車で東京から札幌まで行こう」と考えた場合、仮に、青函連絡トンネルがなければ、列車で札幌まで行く手段は存在しない。

 そのため、そのことを知らずに「列車で札幌まで行く手段」をいくら調べたところで無意味(無駄)になる。

 もちろん、現実では青函トンネルを使って列車で札幌まで行けるわけだが。

 

 以上のように、存在問題は極めて重要な問題になる。

 しかし、人々はその重大さに気付かないし、考えようとしない。

 これぞ一大事である、と小室先生は述べている。

 

 

 ところで、本節では、コラムとして数(自然数・整数・実数など)と方程式の解に関する話が紹介されている。

 少しだけ触れておく。

 

 数の概念を拡張していくと、

 

 自然数→整数(負の数に拡張)→有理数(分数まで拡張)

 →実数(無理数まで拡張)→複素数虚数と実数と虚数の複合体まで拡張)

 

という感じになる。

 そして、一次方程式の場合、自然数・整数・有理数によって解を表示することができる

 他方、二次方程式の場合、複素数まで拡張しないと解が表示できない場合がある複素数を用いれば解を表示できる)。

 

 そして、三次方程式の場合(解法はカルダノが示した)、数を複素数からさらに拡張しないといけないのではないかと考えられたが、複素数の範囲で解が示すことができた。

 四次方程式も然り(解法はフェラーリが示した)。

 いずれも16世紀のお話である。

 

 では、五次方程式はどうか。

 この点、これについてはわからない状態が19世紀まで続いた(前述のガウスにしても、「解法はほぼ存在しない」と考えてはいたらしいが、証明まではしていなかった)。

 そして、1825年、アーベルという数学者によって代数学的に五次方程式は解けない」ことが証明された。

 つまり、「解を求める手段が存在しない」と証明されたのである。

 なお、ここでいう代数学的に」とは「四則演算と根号のみを用いるという制限が課せられている」ことを指す。

 作図の制限と同じようなルールだと考えてもらえればいい。

 

 このように、五次方程式の解法が存在するのかが未確定の状況で、ガウスは「(とりあえず)解が存在する」と証明したわけである

 もちろん、五次方程式だけではなく、n次方程式においても。

 さらに言えば、解は複素数で表現できることも示したわけなので、複素数を構成する虚数についてもその存在価値を高めることになった。

 というのも、それまでは「虚数は想像上の数である」(その名前、IMAGIBARY_NUMBERの通り)という考えが強かったのだから。

 

 なお、アーベルの証明はガロアによってさらに精密化された。

 そのこともあり、現在では「ガロアの定理」と呼ばれている

 もっとも、ここでは歴史的意義から見ている関係でアーベルの名前を出している。

 

 

 さて。

 ガウスが証明した「n次方程式には、複素数の範囲で解が1個以上存在する(重解を複数回カウントすれば、n次方程式にはn個の解が存在する)」ということ。

 また、「五次以上の方程式は代数的な解法がない」という「ガロアの定理」。

 この二つの証明こそ数学の意味・重要性を示している。

 というのも、この二つを組み合わせれば、「答えは存在する、しかし、その答えを我々は知ることができない(方法がない)」となるのだから。

 

 そして、著者は嘆く。

 この事実は念入りに日本教徒に教えるべきであるのに、そのような形跡は欠片も見当たらない、と。

 というのも、日本では「恋愛の方程式」だの「出世の方程式」だの「方程式」という言葉が氾濫している。

 そして、この方程式と代数方程式を関連させるならば、「恋愛」にも「出世」にも「解が存在するが、一般的な解法はない」ということでなければならない(4次以下の代数方程式は全体のn次の代数方程式から見ればごく一部に過ぎない)。

 しかるに、現実はどうか、と。

 この点、「方程式」という言葉を濫用している人間、受け取る人間が「解があるが解法がない」という前提で用いているならばまだよい。

 しかし、現実では、濫用している人間もそれを受領する人間も「解も解法も存在する」という前提で話をしている。

 この前提、果たして現実と適合するか否か。

 しなければ、これほどの茶番(本書では「悲喜劇」という言葉が使われている)もないだろう、と。

 

 

 以上が本節のお話。

 とても面白かった。

 

 なお、「日本教徒」という表現は著者の表現ではない。

日本教徒」というのは私が考えた「典型的日本人」の言い換えである。

 

 それから、最後の悲喜劇は次の節の話とリンクしている。

 ただ、本章の最終節については次回に回すことにする。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 5

 今日はこのシリーズの続き。

 

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『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

5 第1章の第3節を読む

 本節(第1章の第3節)のタイトルは「新航路は果たして存在するのかしないのか_『解』を目的にしたか否かが問題だ」である。

 

 第1章の第1節では、古代イスラエルの宗教を通じて論理学についてみてきた。

 第1章の第2節では、「幾何学の三大難問」を通じて数学についてみてきた。

 第1章の第3節では、「マゼランの大航海」を通じて「存在問題」についてみていく。

 

 

 ヨーロッパの大航海時代キリスト教社会にとって決定的な影響を与えた。

 それはいわゆる「ヨーロッパ人から見た場合の『新大陸の発見』」という意味だけではない。

 世界観ががらりと変わったのである。

 

 この点、地球が丸いらしい、ということは古代のギリシャ人でも知られていた。

 しかし、大航海時代によってそのことを実証してみようと試みる冒険者たちが現れる。

 その冒険者のうち著名な人たちが、かのクリストファー・コロンブスであり、マゼランである。

 

 もっとも、マゼラン一行は別の事実を発見した。

 それは「地球は公転している」という事実である。

 

 もちろん、天文学的な見地から地球が公転していることは、コペルニクス以降の天文学者によって示されていた。

 もっとも、学問を使って証明したところで、その結果を信じない人間がいることは、現代の日本社会を見れば想像できるだろう。

 さらに、中世のカトリック教社会の世界観と地動説の世界観が異なっていた。

 そのため、地動説を信じない人間がいたことは想像に難くない。

 

 そんな状況で、マゼラン一行は地球を一周する(マゼラン本人はフィリピンで死ぬ)。

 そして、帰還した一行の航海日誌を見たところ、日付が1日ずれていた。

 地球が公転していなければ日にちにズレが生じないので、この事実は地球が公転している事実を実証したことになる。

 つまり、マゼラン一行は地球の公転を証明したのである

 そして、この事実(実証)が天文学者を感銘させることになる。

 

 

 ところで、ヨーロッパの大航海時代の前、別の地方で大航海を行った人物がいる。

 明の永楽帝の時代(15世紀初め)に行われた「鄭和による大航海」である。

 鄭和は約3万の水平と62隻の船を使って、南京から長江を下り、アラビアまで至った。

 そして、前後七回、インド洋を縦横無尽にかけまわった。

 これはヨーロッパの大航海時代より約100年早い偉業である

 というのも、ポルトガルバスコ・ダ・ガマカルカッタに到着したのが1498年なのだから。

  

 さらに、バスコ・ダ・ガマの船は100トンクラスなのに対して、鄭和の船は8000トンに及んだとされている。

 その差は圧倒的である。

 

 だがしかし、鄭和の大航海は、その後の明の内向化もあって忘れ去られることになる。

 そして、後年、驚くべき巨大な船が発掘されるまで人々は鄭和のことを「伝説」としても忘れ去られてしまうことになる

 

 この点、ヨーロッパにおける大航海時代はヨーロッパを大きく変えた。

 しかし、中国・鄭和の大航海は、ヨーロッパよりも規模が大きかったにもかかわらず中国を変えなかった。

 この違いの原因は何か。

 

 大きな違いは目的意識の違いである。

 この点、ヨーロッパの大航海時代冒険者たちは新航路の発見を目的としていた

 つまり、ヨーロッパの大航海時代の少し前、コンスタンティノープルオスマン帝国によって陥落させられ、インドの香辛料などが入手しづらくなった。

 そこで、航海者たちはインドへの航路を見つけるために、つまり、インドに至る新航路の存在証明のために海を渡っていったのである。

 目的が存在証明であれば、証明されれば劇的な意味があることになる。

 

 他方、大航海者鄭和には新航路の発見を目指す意図はなかった

 その結果、彼の空前の大航海も歴史的な意味がなく、忘却の彼方に消え去ることになった。

 まあ、中国の状況、ヨーロッパの状況の違いを考えれば、この点はしょうがない面もあるようにみえるが。

 

 

 さて、新航路という「解」を目的としていたヨーロッパの冒険者たち

 つまり、「新航路は存在するのか」という航路の存在問題が冒険者たちを正面から突きつけることになった。

 そして、人々は存在問題を意識することになる。

 

 それゆえ、コロンブス西インド諸島に着いた際、ここはインドの近くであると考えた。

 また、現在のアメリカ人の現地人のことをインディアンと呼んだ。

 

 ただし、その後、アメリゴ・ベスプッチがアメリカ大陸が別の大陸であると示すことになる。

 そして、バルボアがパナマ地峡を横断し、南北アメリカ大陸の向こうに大きな海があることを発見した。

 その結果、南北アメリカ大陸という新大陸の向こうにインドがあると人々は考えた。

 この南北アメリカ大陸の向こうにある海は現在は太平洋と呼ばれている。

 

 このようないきさつにより、冒険者たちはアメリカ大陸から太平洋へ出るための海峡の発見にしのぎを削ることになる

 なぜなら、その海峡を越えてさらに西に進めばインドにたどりつくと考えたからである。

 

 冒険者たちは必死に海峡を探す。

 しかし、地図を見ればわかるとおり、南北アメリカ大陸は南北に長すぎた。

 そのため、南に行けども北に行けども海峡は見つからない。

 ある者は北を目指して失敗した(例としてフランクリン遠征がある)。

 別の者はひたすらラプラタ川を遡り続けることになった。

 

 そんななかで海峡探しに立ち上がったのが、マゼランである。

 スペイン王はマゼランに5隻の艦隊を与えて、海峡発見に向かわせた。

 マゼランは南へ進む。

 しかし、海峡は見つからず、乗組員たちは疑心暗鬼になり、中には反抗する船長も現れた。

 もちろん、マゼランにも相当の苦悩が襲った

 本当に海峡は「存在する」のか、と。

 

 例えば、南アメリカ大陸南極大陸がつながっていたとしよう。

 この場合、南から太平洋に出る道は存在しないことが確定し、マゼランの目的は絶対に達せられず、総ては徒労に終わりかねない。

 存在問題にぶつかったマゼランはかなり苦しむことになる。

 

 ところで、マゼラン一行が現在のマゼラン海峡を発見する直前、マゼランはパタゴニアで冬ごもりをした。

 パタゴニアマゼラン海峡に近い。

 よって、強行して南下していたらマゼラン海峡は発見されたであろう。

 そして、「海峡は存在する」と述べていたマゼランは預言者の如き威信を高められたに違いない。

 

 しかし、現実はマゼラン海峡は発見されない状況の冬ごもりである。

 だから、冬ごもりのとき、乗組員の反乱がおきた。

 マゼランは反乱を起こした船長を処刑して、春を待ってパタゴニアから南に向かう。

 

 そして、海峡(マゼラン海峡)の発見!

 この点、神の視点(「後付け」と言ってもよい)から見れば、「海峡」は存在した。

 それゆえ、海峡の発生は必然であった。

 しかし、マゼランたちから見れば僥倖・奇蹟と言ってもよい。

 彼らは、彼らの時代のヨーロッパ人は「海峡」があることを知らなかったのだから。

 

 それゆえ、海峡を発見は、マゼラン一行は「神によって天国に召されるほどの感動と喜び」をもたらした

 そして、勇気百倍、未知の太平洋に乗り出していくことになる。

 

 このように、存在問題は極めて重要な意義をもつのである。

 

 

 さて、ここで出てくる存在問題。

 この存在問題のプロトタイプ(原型)は数学にある。

 もし、歴史や政治に存在問題を活用するならば、数学の論理を手本にする必要がある。

 

 まず、数学の論理の標準形をみておく。

 題材としては、方程式の解(根、root)を用いる。

 方程式に関する解の存在問題は次のように与えられる。

 

1、方程式の解は存在するのか、存在しないか(わからない)

2、方程式の解が存在するとしても、解法が存在するか(わからない)

 

 このような状況で、ガウスはn次方程式には必ず「解」が存在することを証明した(1の部分の証明)。

 そして、この証明はマゼラン海峡の発見に匹敵するほどの重要性を示した。

 つまり、この証明により方程式論の基礎が確立された。

 

 しかし、ここで確認すべきは「方程式が解けない」という「言葉の意味」である。

「方程式が解けない」とは「代数的演算のみによっては」ということを指す。

 

 例えば、前節の幾何学の三大難問。

「『これらの三大難問は解けない』ことが証明された」と述べた。

 これもユークリッド幾科学における作図によって」という意味においてである。

 つまり、作図はコンパス(ある点を中心にして一定の半径を描くことのみ可能である)と定規(2点を結ぶ直線を引くためにのみ用いることができる)によって行わなければならない。

 そして、これらの手段だけでは難問は解けない、ということが「解けない」という言葉の意味になる。

 

 そして、この手段の制限は厳格であった

 例えば、古代にも巧妙な学者がいて、定規とコンパス以外の器具を用いることで角の三等分を作図した学者はいた。

 しかし、他の器具を用いた場合、「幾何学上の作図ではない」と判断されてしまう

 そのため、「角を三等分せよ」という命題の答え(証明)にはならなかった。

 

 

 以上が第三節のお話。

 この点、手段の厳格性を見ると、日本人がついていけなくなるのもわかるような気がする。

 また、ここでは、大航海(歴史)と数学・論理がリンクしている。

 これは興味深い。

 

 次節については次回以降にみていくことにする。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 4

 今日はこのシリーズの続き。

 

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『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

4 第1章の第2節を読む

 本節(第1章の第2節)のタイトルは「存在するのかしないのか、それが問題だ_ギリシャの三大難問題」である。

 

 前節(第1章の第1節)は古代イスラエルの宗教を通じて論理学についてみてきた。

 本節(第1章の第2節)ではギリシャで生まれた「幾何学の三大難問」を通じて数学についてみていく。

 

 

 本節はギリシャ幾何学の三大難問」から話が始まる。

 この点、「幾何学の三大難問」とは次の3問を指す。

 

1、角度を三等分せよ

2、円と等面積の正方形を作れ(いわゆる「円積問題」)

3、形が同じで体積を二倍にせよ(立方倍積問題、いわゆる「デロス問題」)

 

ja.wikipedia.org

 

 これらの問題に対し、ギリシャの哲学者や幾何学者は競って挑戦した。

 ところが、どっこい、誰もできない。

 

 例えば、3つ目にある「デロス問題」。

 むか~しむかしっ、プラトンの時代、デロス島で恐ろしい伝染病が流行し、毎日何十人もの人がこの伝染病で死んでいった。

 もちろん、島の医者にもこの伝染病に対して有効策が打てなかった。

 そこで、人々は「アポロン神殿」にお伺いを立てた。

 その結果、アポロンから「この神殿の祭壇を『形は同じままで体積を2倍にせよ』。そうすれば、伝染病はなくなる」との神託を得た。

 そこで、デロスの人々は「形は同じで体積2倍」の条件を満たすためには一辺の長さを何倍にすべきか、幾何学者と相談する。

 結果、その答えが2の3乗根(立方根)であることがわかる。

 

 また、この問題はギリシャ幾何学としての問題である。

 よって、定規とコンパスしか使うことができない。

 また、定規は点と点とを直線で結ぶためだけに利用でき、目盛りがあったとしても目盛りを使うことができない。

 つまり、元の長さを測って、その長さに2の立方根をかけて必要な長さを求めるといったことはできない。

 だから、デロス問題というのは「定規とコンパスのみを用いて、ある長さが与えられたときにその長さに『2の立方根』をかけた長さを示せ」と言うことができる。

 

 さて、島の人々から相談を受けた幾何学者は(2の)立方根の作図(元の長さを1とすれば、2の立方根を作図すればいい)にとりかかった。

 しかし、作図法・解法は思いつかない。

 そして、この難問は19世紀まで多くの数学者の挑戦にもかかわらず解けなかった。

 なお、1837年、むしろ「デロス問題に対する解法はない」ということが証明されることになる。

 

 

 なお、これと似たような問題は他にもある。

 例えば、1つ目の「角の三等分の問題」もそうである

 もちろん、定規とコンパスしか使えないのは「デロス問題」と同様である。

 

 この点、角の二等分なら簡単に可能である。

 算数で習ったとおりである。

 また、二等分が可能なら、四等分・八等分も可能である。

 では、三等分も簡単ではないのか。

 そう思った学者たちは競って問題に挑戦した。

 ところが、この問題も解けなかった。

 

 この点、古代ギリシャにおいて幾何学は学問の華であった

 それは、ユークリッド幾何学が学問の手本となる以前からそうである。

 このことは、プラトンの「幾何学を学ばざる者、我が門に入るべからず」という言葉からも推測できる。

 

 学者ならば、学問の華たる幾何学は得意でなければならない。

 その学者たちが束になって挑んでも、角の三等分は実践できない。

 この問題もヘレニズム世界古代ローマイスラム帝国、近代ヨーロッパの学者たちが挑み続けたが、解法が見つからなかった。

 そして、19世紀、「『解法がない』と証明される」ことによってこの問題は決着することになる。

 前述の立方倍積問題と同様に。

 ちなみに、2つ目の円積問題も「解法がない」と証明されることによって決着がつく

 

 さて、「解法がない」という決着のつき方を見て、「数学って役に立たないな」と考えるかもしれない。

 しかし、数学が教えてくれる最も重要なものは、「一定の問題を思いついた場合、あるいは、問題提起をした場合、必ずしもその解(正解)があるとは限らない」ということである。

 これに対して、「ばんなそかな。数学に正解がないはずないではないか」と反論される方がいるかもしれない。

 日本の初等中等教育を受けた人間がこのような反論をされる、信念を持つこと自体全く不思議ではない。

 しかし、そのような信念は現実とは整合しない

 すると思われるならば、ギリシャの三大作図問題の一つを解決されればよいであろう。

 

 もっとも、日本の数学教育から見れば、この点はむしろ無視されているといってよい

 この無視がどれほどのバグ(虫)になっているか、この点は想像に難くない。

 

 

 類似の例を代数学から見つけてみる。

 代数学における著名な問題は方程式である。

 

 この点、一次方程式はずいぶん古い時代から解くことができていた。

 次に、二次方程式については文明の発達により解けるようになっていた。

 具体的には、古代バビロニアの時代にも解かれていたらしい。

 

 その後、様々な古代文明で見つけ出されていた解法がイスラム帝国に伝わった。

 その結果、方程式の解法はどんどん進化した。

 そして、イスラム帝国で進化した解法がヨーロッパに伝えられる。

 かくして、いわゆる「数学屋」たちによる方程式解法競争が始まった。

 

 この結果、三次方程式はイタリアのカルダノによって解かれた。

 また、四次方程式はカルダノの弟子たるフェラーリによって解かれた。

 その結果、数学者の関心は五次方程式に向かうことになる。

 

 その一方、「そもそも方程式に解(根)はあるのだろうか。あるとして、その解は求められるのか」という問題に立ち向かったのが数学者ガウスである

 ガウスは解法に興味を持つ数学屋を傍目に根本的な問題(解が存在するか、解法が存在するか)に目を向ける。

 そして、「n次方程式には必ず解が存在する」ということを証明することになる。

 

 なお、ガウスが考えたような問題のことを「存在問題」という

 この「存在問題」の重要であることは次の理由からも明らかであろう。

 なお、本節では、「これ(私による注、存在問題のこと)がどれほど重大な問題なのか、古代ギリシャの三大難問を思い出し、近代史にも思いを馳せてもみよ。」と述べるにとどまっているが、以下、重大性について検討しておく。

 

 存在問題は次の意味で重要である。

 この点、「解が存在しない」と証明されているならば、解を求める作業は無意味である。

 逆に、「解が存在する」と証明されていれば、解を求める作業は無意味にならない可能性がある。

 つまり、「解が存在するのか、しないのか」という存在問題はその問題を検討する価値があるのかないのか、という意味で極めて重要な意義があると言える

 

 

 以上が第1章、第2節のお話である。

 三大難問についてはおぼろげながら知っていたが、このような形で(一旦)決着したというのは知らなかった。

 私がいかに数学の歴史を知らないのか、思い知ることになった。

 まあ、これから知ればいいということでもあるけれども。

 

 次回は第3節についてみていく。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 3

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

3 第1章の第1節を読む(後編)

 前回、旧約聖書の『出エジプト記』における神(とモーセ)と古代イスラエルの民との緊張関係についてきてみた。

 今回はその続きである。

 

 

 エジプトから脱出した古代イスラエルの民はシナイ山の麓に到達する。

 シナイ山は、神がモーセ古代イスラエルの民にかの有名な「十戒」を授けた場所である。

 

 しかし、ここで大事件が起きる。

 詳細な記載は旧約聖書の『出エジプト記』の第32章であり、その全文はこちらのメモで引用した。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 事件の概要を示すと、モーセが神から十戒を授かるために山を登っているとき、イスラエルの民は戻ってこないモーセに不安を抱き、エジプトに住んでいた時代に崇拝していた犢(こうし)の像を作り、この像の前に壇を築き、どんちゃん騒ぎを始めてしまったのである

 もちろん、偶像を作ってそれを拝めば、十戒の「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(『出エジプト記』の第20章第3節)に抵触する。

 それを知った神はモーセに対して「このようなかたくなな民は滅ぼしつくしてくれよう」と自分の民を皆殺しにする旨宣言した(『出エジプト記』の第20章第9節・10節、具体的な文章は前述のメモブログ参照)。

 

 ところが、そうはならなかった。

 モーセが必死に神を説得したからである。

 

 とはいえ、民を皆殺しにしたい神と民を救いたいモーセ、両者の意見は真っ向から対立する。

 それゆえ、神と人間(モーセ)の論争は白熱することとなった(と考えられる)

 

 もちろん、モーセも同胞たる古代イスラエルの民の行為を罪と認識している。

 また、ソドムやゴモラは堕落の罪で滅ぼされたのであり、異教の神を拝んでいたわけではない。

 そのことを考えれば、同胞の罪の重さも認識している。

 とすれば、モーセは必死で神を説得したであろう(と考えられる)。

 

 ここで、モーセは論理を用いて絶対神を説得しようとした

 生贄を捧げる、とか、祝詞を述べる、とかではなくて、神を論破しようとした

 

 この点、モーセの例は一例に過ぎない。

 しかし、古代イスラエルの宗教(後のユダヤ教)は「神との論争」を通じて進歩していった。

 つまり、宗教と共に論理学も発展していった。

 そして、古代ギリシャこの論理学と数学が結合することになり、代数学の礎が築かれることになる。

 

 

 この点、古代ギリシャの数学、あるいは、近代数学の大きな特徴として、「数学と論理が一体化している点」が挙げられる。

 しかし、この「論理と数学が一体化する」という現象はギリシャ数学における特徴に過ぎず、他の文明社会で発達した数学にも当然にみられる、というわけではない。

 

 例えば、中国の場合、数学も発展した。

 しかし、中国の数学は実用性と密着したものであって、ユークリッド幾何学で見られるような論証性は中国の数学には欠如していた、らしい。

 また、このことは別に中国の数学に限った話ではない。

 

 そして、この論証性の欠如が一貫した体系的な論理の欠如をもたらした

 わかりやすく言えば、客観性・全体性の欠如と言ってもいいかもしれない。

 その結果、数学の応用範囲が制限されてしまった。

 これに対して、ギリシャ数学は論理学と結合した関係で、一貫した体系的な論理を有する数学を誕生させた。

 このことがギリシャ数学に近代数学への可能性を開くことになる。

 そして、近代数学は様々な科学にも応用することが可能になった。

 

 もっとも、数学の合理性を社会・生活の合理性に転化させるためには、宗教やエートスにおいても合理性がなければならない。

 つまり、宗教の合理化と数学の合理化は近代数学における両翼の翼、ということになる。

 この点、古代イスラエルの宗教が「宗教の合理化」を目指していたことは『日本人のためのイスラム原論』でみてきたとおりである。

 また、キリスト教宗教改革がいわゆる宗教の合理化を目指していたことも。

 この辺は次の読書メモにまとめてある。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

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 ところで、論理学の特徴・強味として「真」と「偽」が一意的に判定できることにある。

 もっとも、この「『真』と『偽』の判定が一意的に判定できる」という論理学の設定は当然に成立していることではない。

 

 例えば、刑事裁判の事実認定(民事訴訟についてもほぼ同じ)について考えてみる。

 次の最高裁判所の判決を読めば、訴訟・裁判の事実認定における論証の精密さが論理学のそれに劣ることは明白である。

 もちろん、「劣るから駄目」ではないし、「劣るとしてもやむを得ない」という面もあるが。

 

昭和23年(れ)第441号窃盗事件

昭和23年8月5日最高裁判所第一小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/546/056546_hanrei.pdf

 

(以下、上記判決から引用、一文毎に改行、強調は私の手による)

 元来訴訟上の証明は、自然科学者の用いるような実験に基くいわゆる論理的証明ではなくして、いわゆる歴史的証明である。

 論理的証明は「真実」そのものを目標とするに反し、歴史的証明は「真実の高度な蓋然性」をもつて満足する。

 言いかえれば、通常人なら誰でも疑を差挾まない程度に真実らしいとの確信を得ることで証明ができたとするものである

 だから論理的証明に対しては当時の科学の水準においては反証というものを容れる余地は存在し得ないが、歴史的証明である訴訟上の証明に対しては通常反証の余地が残されている。

(引用終了)

 

 つまり、刑事裁判にせよ民事訴訟にせよ、証拠から犯罪事実や犯人と被告人の同一性を立証する際には、自然科学のレベルの証明は必要ない、ということになる。

 まあ、このレベルの証明を要求したら、自白(裁判上の自白)や両当事者の合意がある場合を除いて証明(事実認定)が不可能になりかねず、これ自体が不当であることは全くないが。

 

 よって、自然科学における証明から見た場合であっても、民事訴訟や刑事裁判の証明は「絶対に正しい・間違っている」ということにはならない。

 一方、そのレベルの証明をもって「絶対的真実」であるかのように認定し、それらの事実関係に対して法律的な判断を行い、最終的には有罪判決や無罪判決、請求認容判決や請求棄却判決を下している。

 もちろん、その背後には「そうでもしなければ社会が回らない」という事情がある。

 また、法の適用(評価)に対する不服申立てだけではなく、事実認定の不服申立てに対しても、いわゆる「上訴」という手段が認められている。

 そして、上訴によって事実認定がひっくり返り、判断が逆転するということがありうる。

 

 なお、上の判決を見て、安易に有罪判決が出せるのではないかと心配に思うことがあるかもしれない。

 その点については、次の最高裁判決が安易な証明を戒めている点を取り上げておくので、不安を鎮めていただけると助かる。

 

昭和45年(あ)66号現住建造物等放火

昭和48年12月13日最高裁判所第一小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/571/061571_hanrei.pdf

 

(以下、上記判決から引用、一文毎に改行、強調は私の手による)

 ところで、裁判上の事実認定は、自然科学の世界におけるそれとは異なり、相対的な歴史的真実を探究する作業なのであるから、刑事裁判において「犯罪の証明がある」ということは「高度の蓋然性」が認められる場合をいうものと解される

 しかし、「蓋然性」は、反対事実の存在の可能性を否定するものではないのであるから、思考上の単なる蓋然性に安住するならば、思わぬ誤判におちいる危険のあることに戒心しなければならない。

 したがつて、右にいう「高度の蓋然性」とは、反対事実の存在の可能性を許さないほどの確実性を志向したうえでの「犯罪の証明は十分」であるという確信的な判断に基づくものでなければならない。

 この理は、本件の場合のように、もつぱら情況証拠による間接事実から推論して、犯罪事実を認定する場合においては、より一層強調されなければならない。

(中略)

 換言すれば、被告人が争わない前記間接事実をそのままうけいれるとしても、証明力が薄いかまたは十分でない情況証拠を量的に積み重ねるだけであつて、それによつてその証明力が質的に増大するものではないのであるから、起訴にかかる犯罪事実と被告人との結びつきは、いまだ十分であるとすることはできず、被告人を本件放火の犯人と断定する推断の過程には合理性を欠くものがあるといわなければならない。

(引用終了)

 

 少し細かめに見てみたが、同じ「証明」という言葉が使われているとしても、自然科学の証明と法律(訴訟・裁判)の証明はかなり異なることになる。

 もちろん、数学や論理学の証明と法律の証明がかなり異なることをも意味する

 

 なぜなら、自然科学の証明でさえ不完全帰納法に過ぎないのだから。

 この「自然科学の証明でさえ不完全帰納法に過ぎない」という点については、次のメモが参考になる。

 もちろん、この点は後で細かく見ていくことになるが。

 

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 この点、法学(法律学)では「論理が大事」と言われ、「法的三段論法」を大事にしていると言われている。

 ただ、その実態はこれまで述べた通り。

 そして、論理学から見て不十分に見えるこの「法律における論理」すら、一般人から見れば堅苦しいものとして敬遠されるのである

 ならば、論理学の論理がこれよりさらに煙たがられることは想像に難くないだろう。

 

 

 この(さらに煙たがられると推測される)論理学と結合した数学がいわゆる近代数学である。

 この「論理学との結合」によって近代数学は大きく発展することになった。

 

 では、ここでいう「論理学」とは具体的に何をイメージすればいいのか。

 その対象はアリストテレス形式論理学になる。

 

 この形式論理学の体系はギリシャ、ヘレニズム社会、ローマ帝国イスラム帝国、中世ヨーロッパにおいて論理学そのものと考えられていた。

 そして、そのまま近代まで利用され、19世紀には形式論理学記号論理学・数学的論理学に発展することになる。

 

 この点、この形式論理学形而上学であるとしてマルクスから批判された。

 しかし、アリストテレス形式論理学は完成度において空前絶後であり、中国の論理学とは比較にならない

 というのも、この論理学を用いる最大のメリットは「真偽の判定を一義的に行うことができる」点にあるからである。

 

 

 以上が、本節のお話である。

 第2節については次回に。

司法試験の過去問を見直す8 その3

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成16年度の憲法第1問についてみていく。

 

3 「公共の福祉」によるプライバシー権の制約_規範定立

 前回、本問法律が一定の前科者のプライバシー権を制限しうることを確認した。

 もっとも、プライバシー権が絶対無制約ではなく、「公共の福祉」(憲法12条後段・13条後段)による制限を受けることは、表現の自由・知る権利・営業の自由などと同様である。

 もちろん、「公共の福祉」というカードを掲げれば、どんなにずさんな制限でも正当化されるわけでもないことも。

 そこで、本問法律が「公共の福祉」の制約と言いうるか。

 特に、本問では、制限される具体的なプライバシー権の内容のうち、もっとも重大な情報が前科情報であることから、「前科情報の開示を正当化されるための違憲審査基準」が問題となる。

 

 ここでは、顔写真や住所は特に取り上げていない。

 というのも、前科情報の方が開示されたら困るところ、この開示が正当化されるならば、顔写真や住所の開示も正当化されるからである。

 前科情報とともに顔写真や住所が公開される点については、規範の部分ではなく、あてはめの部分で言及されることになるだろう。

 

 

 前科情報の開示については、いわゆる「前科照会事件」が参考になる。

 重要と思われる部分を引き抜いてみる。

 

(以下、前科照会事件の判決理由から引用、文毎に改行、強調は私の手による)

 前科等の有無が訴訟等の重要な争点となつていて、市区町村長に照会して回答を得るのでなければ他に立証方法がないような場合には、裁判所から前科等の照会を受けた市区町村長は、これに応じて前科等につき回答をすることができる

(引用終了)

 

 この事案は、某市長が某弁護士会からの弁護士照会を受けた際に、前科情報を開示したところ、この開示が国賠法上違法であるとして国家賠償請求訴訟を提起したものである。

 よって、上記判決理由の部分は「政府・自治体はいかなる場合に前科情報の開示が許されるのか」についての規範が示された、といってもよい。

 そして、重要な要素は①使用目的と②代替手段の有無になっている。

 

 これを裏付けるのが、伊藤正己裁判官(学者出身、なお、専門は憲法学)の補足意見である。

 少し長くなるが、こちらも引用する。

 

(以下、前科照会事件の伊藤裁判官の補足意見を引用、各文毎に改行、強調は私の手による)

 他人に知られたくない個人の情報は、それがたとえ真実に合致するものであつても、その者のプライバシーとして法律上の保護を受け、これをみだりに公開することは許されず、違法に他人のプライバシーを侵害することは不法行為を構成するものといわなければならない。

 このことは、私人による公開であつても、国や地方公共団体による公開であつても変わるところはない。(中略)

 近時、国又は地方公共団体の保管する情報について、それを広く公開することに対する要求もつよまつてきている

 しかし、このことも個人のプライバシーの重要性を減退せしめるものではなく、個人の秘密に属する情報を保管する機関には、プライバシーを侵害しないよう格別に慎重な配慮が求められるのである。

 本件で問題とされた前科等は、個人のプライバシーのうちでも最も他人に知られたくないものの一つであり、それに関する情報への接近をきわめて困難なものとし、その秘密の保護がはかられているのもそのためである。

 もとより前科等も完全に秘匿されるものではなく、それを公開する必要の生ずることもありうるが、公開が許されるためには、裁判のために公開される場合であつても、その公開が公正な裁判の実現のために必須のものであり、他に代わるべき立証手段がないときなどのように、プライバシーに優越する利益が存在するのでなければならず、その場合でも必要最小限の範囲に限つて公開しうるにとどまるのである。

 このように考えると、人の前科等の情報を保管する機関には、その秘密の保持につきとくに厳格な注意義務が課せられていると解すべきである。

 本件の場合、京都弁護士会長の照会に応じて被上告人の前科等を報告した中京区長の過失の有無について反対意見の指摘するような事情が認められるとしても、同区長が前述のようなきびしい守秘義務を負つていることと、それに加えて、昭和二二年地方自治法の施行に際して市町村の機能から犯罪人名簿の保管が除外されたが、その後も実際上市町村役場に犯罪人名簿が作成保管されているのは、公職選挙法の定めるところにより選挙権及び被選挙権の調査をする必要があることによるものであること(このことは、原判決の確定するところである。)を考慮すれば、同区長が前科等の情報を保管する者としての義務に忠実であつたとはいえず、同区長に対し過失の責めを問うことが酷に過ぎるとはいえないものと考える。

(引用終了)

 

 前科情報の開示が「公共の福祉」による制約として許されるか、という観点から重要と思われるものを引き抜いてみる。

 

1、前科情報は個人のプライバシーのうちでも最も他人に知られたくないものの一つ

2、国民の知る権利に基づく情報公開請求は、個人のプライバシーの重要性を否定するものではない

3、前科情報を開示してよいのは、①プライバシーに優越する利益が存在する場合で、かつ、②必要最小限の範囲に限つて公開しうる

4、裁判における「プライバシーに優越する利益が存在する場合」とは、公正な裁判の実現のために必須で、かつ、他に代わるべき立証手段がない場合などを指す

5、前科情報を保管する機関には、その秘密の保持につきとくに厳格な注意義務が課せられていると解すべきである

 

 この点、本問法律の目的は裁判とは関係がない。

 しかし、「目的の実現に必須+他に手段がない」と「最小限度の範囲」の2要件には着目すべきだろう。

 また、この判決は補足意見にあるように情報公開の要請を踏まえている

 とすれば、「時代の変化を考慮して基準を変える」といったことは必ずしもしなくてよい、といえる。

 つまり、知る権利・情報公開の重要性と情報の氾濫の両方の事情を考慮して、基準を変えないということは必ずしも不当ではないと考える。

 

 ところで、この事件には環昌一裁判官の反対意見がある。

 この方は最高裁判所裁判官になる前に裁判官・検事・弁護士のすべての職業を経験されている。

 すごい人である。

 この方が述べた反対意見はこちらである。

 

(以下、反対意見を引用、文毎に改行、ところどころ中略、強調は私の手による)

 前科等は人の名誉、信用にかかわるものであるから、前科等のある者がこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有することは、多数意見の判示するとおりである。(中略)

 このような場合にそなえて国又は公共団体が人の前科等の存否の認定に誤りがないようにするための正確な資料を整備保管しておく必要があるが、同時にこの事務を管掌する公務員の一般的義務として該当者の前科等に関する前述の利益を守るため右の資料等に基づく証明行為等を行うについて限度を超えることがないようにすべきこともまた当然である。

 ところで、(中略)右昭和二一年の内務省地方局長通達によれば、犯罪人名簿は選挙資格の調査のために調製保存されるものであるから警察、検事局、裁判所等の照会に対するものは格別これを身元証明等のために絶対使用してはならない旨指示されていること、さらに昭和二二年八月一四日内務省発地第一六〇号による同省地方局長の都道府県知事あて通達によれば、右の警察、検事局、裁判所等の中には獣医師免許等の免許処分や当時における弁護士の登録等に関しては関係主務大臣、都道府県知事、市町村長をも含むものである旨指示されていることが明らかである。

 以上の経緯に徴すると、犯罪人名簿に関する照会に対しその保管者である市区町村長の行う回答等の事務は、広く公務員に認められている守秘義務によつて護られた官公署の内部における相互の共助的事務として慣行的に行われているものとみるべきものである。したがつて、官公署以外の者からする照会等に対してはもとより官公署からの照会等に対してであつても、前述した前科等の存否が法律上の効果に直接影響を及ぼすような場合のほかは前記のような名誉等の保護の見地から市町村長としてこれに応ずべきものではないといわなければならない。

 前記各通達が身元証明等のために前科人名簿を使用することを禁ずる旨をのべているのは右の趣旨に出たものと解せられる。

 そこでこれを本件について考えてみる。 (中略)

 右にのべたところに加えて雇傭契約その他の労働関係についての民事法上の判断に当事者の前科等の存否が直接影響を及ぼすことはありえないとするような見解が判例等により一般に承認されているとみることもできないことを併せ考えると、上告人京都市の中京区長は、照会者たる京都弁護士会を裁判所等に準ずる官公署とみたうえ、本件照会が身元証明等を求める場合に当らないばかりでなく、前記のような事情のもとで本件回答書が中央労働委員会及び裁判所に提出されることによつてその内容がみだりに公開されるおそれのないものであるとの判断に立つて前記官公署間における共助的事務の処理と同様に取り扱い回答をしたものと思われるのであるが、このような取り扱いをしたことは、他に特段の事情の存することが認められない限り、弁護士法二三条の二の規定に関する一個の解釈として十分成り立ちうる見解に立脚したものとして被上告人の名誉等の保護に対する配慮に特に欠けるところがあつたものというべきではないから、同区長に対し少なくとも過失の責めを問うことは酷に過ぎ相当でない。

(引用終了)

 

 反対意見では、前科情報を開示したことが国賠法上違法でない、または、過失がないことの理由として「『相手はこの内容をみだりに公開しないだろう』という判断がある」という点を取り上げている。

 つまり、「開示した情報がどう扱われるか」という点に具体的に踏み込んでいるということである。

 この部分はあてはめで用いることができる。

 

 あと、補足意見・反対意見共にみられるものとして、「犯罪者名簿を身元証明に使ってはならない」というものがある。

 これまた、重要であると考えられる。

 

 

 以上を見ながら、規範定立までを考えてみる。

 反対利益に配慮しながら、前科情報の開示が許される場合について規範を立ててみよう。

 

 この点、国民主権憲法前文、1条)の下では、国家の情報は国民の情報である。

 また、国民の知る権利の重要性の向上(表現の自由の再構成により憲法21条1項で保障)、政府の情報公開の必要性が上昇した現代的事情を考慮すれば、前科情報の開示を広く認めるべきであると考えることができる。

 この場合、違憲審査基準は緩やかにすべきと考えることになる。

 しかし、前科情報は当該個人にとってもっとも他人に知られたくない情報であり、要保護性は極めて強い。

 また、前科情報の安易な公開は当該個人の更生を損ない、その結果、治安上の不安を増大させるものにもなる

 とすれば、情報公開の必要性は前科情報の要保護性を下げるものではなく、厳格な基準が用いられるべきである。

 具体的には、①情報開示の目的が正当であり、②プライバシーに優越する利益が存在する場合で、③開示の範囲が必要最小限度にとどまっている場合に前科情報の開示する法律が合憲になるものと考える。

 そして、②プライバシーに優越する利益の有無を判断する際には、情報開示が目的の実現にとって必須であるか、代替手段がないかなどを考慮しながら判断すべきと解する。

 

 

 まず、違憲審査基準の定立については、個人的法益だけではなく、社会的法益にも配慮した。

 その人の更生を妨げて再犯させる事態に追い込めば、損するのは社会である、と。

 この視点は軽んじるべきではないと思われる(この点も後述)。

 

 また、プライバシー権を「情報のコントロール」権にしなかったのも違憲審査基準を見据えた結果である。

 本問では、制御できないのが問題なのではなく、開示されることが問題なのだから。

 

 それから、いささかうろ覚えであるが、当時の某司法試験受験参考書で「著しく不合理である場合に限り違憲」という基準であてはめをし、合憲にしているものがあった。

 合憲・違憲の結論はさておくとしても明白性の基準を使うのはどうか、と思う。

 別に、明白性の基準を用いなくても合憲にすることができるのだから。

 

 もっとも、厳格な合理性の基準」によって判断するのも可能であると考えられる。

「具体的な実効性のない代替手段」が存在するとしても、「必要不可欠とは言えない」ということにならないから。

 その辺を考慮すれば、基準自体にこだわる必要はない。

 こだわるべきは事案の適切な法的評価である。

 

 

 さて、違憲審査基準の定立まで進めることができた。

 ここからあてはめに移るが、あてはめについては次回に。

司法試験の過去問を見直す8 その2

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成16年度の憲法第1問についてみていく。

 

2 前科情報などの秘匿と憲法上の権利

 本問法律を一定の前科者から見た場合、いわゆるプライバシー権の制限という点が問題になる。

 そこで、プライバシー権の観点から本問法律の合憲性を審査していく。

 

 なお、問題文を確認する(引用元は前回と同様、法務省である)。

 

(旧司法試験・二次試験・論文式試験・平成16年度・憲法第1問)

 13歳未満の子供の親権者が請求した場合には,国は,子供に対する一定の性的犯罪を常習的に犯して有罪判決が確定した者で,請求者の居住する市町村内に住むものの氏名,住所及び顔写真を,請求者に開示しなければならないという趣旨の法律が制定されたとする。この法律に含まれる憲法上の問題点を論ぜよ。

(問題文終了)

 

 まずは、本問法律によって条件に該当する国民の憲法上の権利が制限されうることの認定から始める。

 つまり、「原則ー例外」における原則論の検討を始める。

 

 

 本問法律を見ると、親権者の請求によって「一定の犯罪を犯した人間の『氏名・住所・顔写真』」が開示されることになる。

 つまり、親権者の請求により、条件に該当する人間の前科情報と住所と顔写真が開示されることになる。

 とすれば、本問法律は「前科情報と住所と顔写真を公開されない自由」が制限されることになる。

 

 もっとも、前科情報などを公開されない自由(権利)は憲法で明示的に保障されていない。

 そこで、この自由が憲法上の権利として保障されうるのかをまず検討する必要がある。

 

 その際、憲法の条文によって明示的に保障されていない権利を憲法上の権利として認めていいのか、という問題もある。

 もちろん、結論から言えば、憲法13条後段の幸福追求権を根拠に肯定するわけだが、なんでもかんでも憲法上の権利に加えられるわけではない。

 そこで、この辺の認定を丁寧にする必要がある。

 

 

 この点、「前科情報・容貌・住所を公開されない自由」は憲法上の権利として保障されるか。

 まず、憲法上に規定されていない権利についても、個人の人格的生存に不可欠な権利憲法13条後段の「幸福追求に対する国民の権利」として憲法上の保障を受けうるものと解する。

 そして、私生活に関する情報をみだりに公開・開示されたら私生活の平穏が害され、個人の人格的生存が脅かされることになる。

 そこで、「私生活に関する情報をみだりに公開されない権利」たるプライバシー権はいわゆる「新しい人権」として憲法13条後段によって保障される

 

 もっとも、大枠としてプライバシー権憲法上の権利として認定されうるとしても、前科情報・容貌・住所といった情報がプライバシー権の範囲に入っていることは確認しなければならない

 そこで、いわゆる「宴のあと事件」の基準を用いて判断する。

 この基準を用いた場合、プライバシー権として保障されるためには次の4点を満たす必要がある。

 

1、その情報が私生活に関する情報であること

2、その情報が真実、または真実と受け取られる可能性が高いこと

3、一般人の感覚に照らしてその情報の公開を欲しないこと

4、その情報が広く知られていないこと

 

 これを本件法律について見ると、開示される情報は「前科情報・住所・顔写真」である。

 

 そして、住所と顔写真については現在の私生活に関する情報である。

 また、前科情報についても過去の私生活に関する情報であることは変わりがない。

 というのも、ある私生活上の行為が犯罪行為にあたり、それにより有罪判決を受けたとしても、その行為が私生活上の行為から公的行為に変換されるわけではないからである。

 

 次に、情報を開示するのが国であることを考慮すれば、この情報が真実と受け取られる可能性が極めて高い。

 

 また、一般人の感覚で考えれば前科情報は公開されることを最も欲しないであると考えられる。

 また、住所や顔写真についても、前科情報ほどではなくても一般人の感覚で考えれば、公開されることは嫌がるものと考えられる。

 

 さらに、有罪判決は公開の法廷で判決が下され、また、場合によっては報道されることもあるので、公開された情報であるとも考えられる。

 しかし、公開された判決を法廷で聴ける人間は少数であるし、また、仮にその有罪判決が報道された場合であっても、一般人は日常のニュースの一コマとして忘れ去られることが通常である。

 それらの事情を考慮すれば、なお、非公知性は認められるものと考えられる。

 

 以上から、本問法律で開示される情報を公開されない権利はプライバシー権として憲法13条後段によって保障されるものと考える。

 

 

 以上、ちょっと長めに書いてみた。

 本番ならば端折って書く・まとめて書くといったことはするかもしれない。

 

 

 なお、プライバシー権を「自己情報コントロール権」と考えた場合、住所・顔写真・前科については自己情報そのものであり、開示されることによりそのコントロールを制限される。

 とすれば、この定義によれば、本問の法律は当然にプライバシー権の制約になる。

 もっとも、この定義で考えた場合、コントロールできない点が問題になる関係で、他の権利との衝突が問題になった場合、要保護性が少し弱くなるように見えた

 そこで、今回は古くから使われている定義を用いることにした。

 

 また、以上の結論は最高裁の結論と同様である。

 顔写真についてはいわゆる「京都府学連事件」で、住所についてはいゆる「江沢民事件」で(この事案は民法709条の適用の問題ではあるが)、前科情報についてはいわゆる「前科照会事件」で、同様の結論を採用している。

 各判決の関連部分を引用しておこう。

 

(以下、「京都府学連事件」から引用、強調は私の手による)

 警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法一三条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。

(引用終了)

 

(以下、「江沢民事件」から引用、強調は私の手による)

 学籍番号,氏名,住所及び電話番号は,D大学が個人識別等を行うための単純な情報であって,その限りにおいては,秘匿されるべき必要性が必ずしも高いものではない。また,本件講演会に参加を申し込んだ学生であることも同断である。しかし,このような個人情報についても,本人が,自己が欲しない他者にはみだりにこれを開示されたくないと考えることは自然なことであり,そのことへの期待は保護されるべきものであるから,本件個人情報は,上告人らのプライバシーに係る情報として法的保護の対象となるというべきである

(引用終了)

 

(以下、「前科照会事件」から引用、強調は私の手による)

 前科及び犯罪経歴(以下「前科等」という。)は人の名誉、信用に直接にかかわる事項であり、前科等のある者もこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有する

(引用終了)

 

 正当性の欠片すらない状況で、これらの情報が暴露されることを指をくわえたまま受忍しなければならないいわれはないだろう(この点については後述)から、まあ、ここまでは当然の結論である。

 もっとも、これらの権利も絶対無制約ではない

 そこで、これらの権利の制限が「公共の福祉」(憲法12条後段・13条後段)による制約として認められるかが問題になる。

 ただ、この点については次回以降で。

司法試験の過去問を見直す8 その1

 これまで「旧司法試験・二次試験・論文式試験憲法第1問」を見直してきた。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 これまで見てきた過去問は、平成3年度・4年度・8年度・12年度・14年度・15年度・18年度の7問。

 今回から平成16年の憲法第1問を見ていく。

 

 今回のテーマは「前科者のプライバシー権と親権者の知る権利」である。

 そして、この二つの権利の調整を本問法律がしていることから、平成14年度の問題と構造が似ている感じがしないではない。

 平成14年度の問題は「『少年の更生の権利と市民の推知報道を知る権利』を図書館運営規則で調整している」という見方ができなくもないので。

 

1 旧司法試験・論文試験・憲法・平成16年第1問

 まず、問題文と出題趣旨を確認する。

 なお、過去問は法務省のサイト、具体的には、次のリンク先にあるものをお借りした。

 

www.moj.go.jp

 

(旧司法試験・二次試験・論文式試験・平成16年度・憲法第1問)

 13歳未満の子供の親権者が請求した場合には,国は,子供に対する一定の性的犯罪を常習的に犯して有罪判決が確定した者で,請求者の居住する市町村内に住むものの氏名,住所及び顔写真を,請求者に開示しなければならないという趣旨の法律が制定されたとする。この法律に含まれる憲法上の問題点を論ぜよ。

(問題文終了)

 

(出題趣旨)

 前科に関する情報を公表されない個人の利益と子供の安全のためにその情報を得る利益が対抗関係に立つような法律が成立したと仮定して,当該法律の憲法上の問題点につき,それぞれの利益の性質やその重要性等を踏まえながら,その立法目的や具体的な利益調整手段の在り方を論理的に思考する能力を問うものである。

(出題趣旨終了)

 

 なお、関連する条文と著名な判例は次のとおりである。

 

憲法12条後段

 国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

憲法13条後段

 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

憲法21条1項

 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 

 また、関連する最高裁判例は次のとおりである。

 

昭和40年(あ)1187号公務執行妨害・傷害事件

昭和44年12月24日最高裁判所大法廷判決

(いわゆる「京都府学連事件」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/331/056331_hanrei.pdf

 

昭和52年(オ)323号損害賠償等事件

昭和56年4月14日最高裁判所判決

(いわゆる「前科照会事件」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/331/056331_hanrei.pdf

 

平成元年(オ)1649号慰藉料事件

平成6年2月8日最高裁判所判決

(いわゆる「ノンフィクション『逆転』事件」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/442/052442_hanrei.pdf

 

平成14(受)1656号損害賠償等請求事件

平成15年9月12日最高裁判所判決

(いわゆる「江沢民事件」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/357/052357_hanrei.pdf

 

 最近の判決は詳しく知らないため、その辺は省略。

 この問題を検討する観点だけから見れば、それほど必要ではないので。

 

 

 本問は、いわゆる「日本で『メーガン法』ができた」と仮定した場合の法令審査を行うことになる。

 具体的に見ていくと、親権者の請求によって一定の前科を有する国民の氏名・住所・顔写真を開示することになるのだから、「『一定の前科を持つ者』として氏名・住所・顔写真を公開されない自由」が制限されることになる。

 そこで、①この自由が憲法上保障されるか、②保障されるなら「公共の福祉」による制限として正当化されるか、という2点を検討することになるのだろう。

 

 ところで、出題趣旨を見ると気になる表現がある。

 それは、「当該法律の憲法上の問題点につき,それぞれの利益の性質やその重要性等を踏まえながら,その立法目的や具体的な利益調整手段の在り方を論理的に思考する能力を問う」という部分である。

 つまり、司法試験委員会は「前科情報が公開されてしまう」という観点だけを問題にしていないように見える

 

 この点、本問法律は「子供に対する一定の性的犯罪を常習的に犯して有罪判決が確定した者」しか開示しない。

 被害者が子供でない場合、常習犯でない場合、一定の性的犯罪でない場合、起訴猶予処分となった場合、親権者の住む市町村の外側にいる場合は開示されないことになる。

 その意味で、本問法律は「親権者の子供を保護するために必要な情報を知る権利が制限されており、違憲である」という主張もできなくはない。

 そして、この場合は、①親権者の国家の持っている前科情報を知る権利が憲法上の保障を受けるか、②開示情報を本問の範囲に限定することが「公共の福祉」による制約として正当化されるか、を検討することになる。

 そして、その意味では平成14年度の過去問に構造が類似することになる。

 

 どうなのだろう。

 この点、司法試験委員の出題趣旨を見る限り、「どちらか一方のみを検討すればいい」とは言い切れないようである。

 また、本問法律を合憲の結論にするなら、両方検討する必要があるとも言いうる。

 何故なら、不満は前科情報を開示される側にも開示を受ける親権者側にもあるだろうから。

 他方、本問法律を違憲の結論にするなら、違憲になる方だけを検討すればいい

 片方が違憲であれば、もう片方が合憲であっても違憲になるから。

 

 

 ただ、親権者と前科者のうち、本問法律が切実になるのは後者であろう

 そこで、前科者のプライバシーを中心に問題を検討していくことにする。

 

 

 具体的な検討は次回から。

 では、今回はこの辺で。

司法試験の過去問を見直す7 その4(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成14年度の憲法第1問についてみていく。

 ただ、問題の検討は既に終了したため、改めて過去問を見て考えたことを書いていく。

 

5 「訴訟にするのは常識的に見て大げさだ。よって、その一点をもって合憲にするのが妥当である」について

 今回の検討では結論を合憲にもっていった。

 もちろん、違憲の主張ができないと考えないわけではないが、違憲にするのはどうかという個人的な感想もあるからである。

 

 ところで、本問を見てこんな感想を持った方はいないだろうか。

「このレベルで訴訟だなんて大げさな」と。

 

 本問は「ある市民Aが図書館で雑誌を閲覧しようとしたが、一見問題のない理由により閲覧ができなかった」ことに対して、訴訟に打って出たということである。

 途中経過が書かれていないので、「雑誌の閲覧を断られる際に暴言その他があった」とか「図書館長Cの判断に著しい過誤があった」といった特段の事情のあった事案ではないことになる。

 少なくても、そのような事情を想定し、それを前提に答案を書けば積極ミスである。

 

 とすれば、「この程度で訴訟をやるの?訴訟で勝てるの(違憲・違法になるの)?」という疑問は、訴訟社会の観点から見ない限り当然の疑問になる。

 そして、日本社会は訴訟社会ではないし、それどころか日本教は訴訟自体を忌避しているところもある(これを支えるのがいわゆる「喧嘩両成敗」の思想である)。

 よって、この疑問は日本において当然の疑問と言え、不自然ではない。

 

 もっとも、この疑問が妥当であっても、この妥当性がそのまま「違憲の判断の不当性」を示すとは限らない。

 どうなのだろう。

 

 

 この点、過去問の検討の際に紹介した船橋市図書館の事件で原告となったのは廃棄された図書の著者たちである。

 そして、この事件は著者一人につき3000円の慰謝料(損害)が認定されて終了した。

 3000円という額はあまりに少ない。

 飲み屋で一杯、とか、焼き肉1回クラスで簡単に飛ぶレベルである。

 もちろん、この訴訟が政治的なものを大いに含むという特殊性があるとしても。

 

 そして、本問の原告(訴えた当事者)は著者ではなく読者である。

 しかも、拒否された図書は雑誌である。

 とすれば、判決の事例よりもさらに軽微、と言える。

 そのため、仮に、図書館長Cの措置が違憲・違法だったとしても、Aに「損害」があるのかという疑問さえ浮かびそうである。

 

 

 この点、試験で答案を作るにあたっては、問題文にある通り「憲法上の問題」を論ずる必要がある。

 また、図書館に蔵書された資料を閲覧する自由・権利が憲法上の権利の延長線上にあるので、憲法上の権利にあたりうることも肯定した。

 そのため、図書館長Cの措置とその根拠となった運営規則について違憲判断を行った。

 

 さらに、結論を合憲にした以上、結論自体は差がない。

 また、答案制作上、憲法上の権利を否定したら答案にならない、といった事情もある。

 さらに、本問ではAの目的が書かれておらず、推知報道以外の記事(例えば、その雑誌に連載されているエッセイ)に興味があったといった事情があれば、著しく不当とまでは言えない。

 

 ただ、どうなのだろう。

 まあ、答案から離れたとしても、図書館の公共性と知る権利が憲法上の権利であることを考慮すると、憲法上の権利を全否定することは難しい。

 また、結論は合憲にしたし、そこに至る過程に不自然なところがあるわけではない。

 ならば、どーでもいいこと、と言いうるのだが。

 

6 その他の審査基準の可能性

 本件では違憲審査基準をいわゆる厳格な合理性の基準に決定した。

 もちろん、いわゆる「合理的関連性の基準」でも構わないと考えているが。

 しかし、他に用いることのできる違憲審査基準はないのだろうか。

 

 

 まず、いわゆる「よど号ハイジャック新聞記事抹消事件」で判示されたいわゆる「相当の蓋然性」の基準が考えられる。

 もちろん、この基準を厳格にすれば泉佐野市民会館事件のいわゆる「『明らかな差し迫った危険』を客観的事実に照らして具体的に予見」という基準(平成8年度の過去問参照)になるし、逆に、緩やかにすれば、「おそれ(一般的抽象的危険)の発生の予見」で足りるといった基準にすることも可能である。

 本問は、雑誌といった定期刊行物の閲覧・閲読を制限するものであり、また、部分的制限でもない点で、よど号ハイジャック新聞記事抹消事件と共通する点がみられる。

 ならば、こちら側の基準を用いたほうがよかったのかもしれない。 

 

 

 もう一つは、裁量論を前提とした審査基準の定立である。

 本問の問題となったのは法律ではなく、運営規則であり、図書館長の措置である。

 ならば、「裁量の濫用・逸脱がある場合に違憲という形に落とし込むのもありかもしれない。

 まあ、濫用は目的に、逸脱は手段(相当性)の問題に変換できるので、言葉遊びに過ぎない、とも言いうるが。

 

 

 などなど、色々考えることができる。

 もちろん、基準を打ち立てるにあたってどのような法的評価を行うのか、事実を規範に当てはめる、という点ではどの基準を用いた場合でも変わりはない。

 だから、具体的な審査基準それ自体は重要な問題になるわけではなく、これまた細かい問題ではある

 

7 運営規則の(手段の)相当性再考

 最後に、前回の「手段の相当性」についてもう少し踏み込む。

 前回、この部分で問題点を3点あげた。

 

1、図書館長の裁量に委ねる点

2、雑誌の問題となった記事以外の記事が見られなくなるという弊害

3、閲読と更生の関連性の希薄さ、という問題

 

 この3つをクリアする際の背景に、「図書館内で制約されるにすぎず、他の手段で情報にアクセスすることは自由である」というものがある。

 これこそ、情報の内容を理由としたいわゆる内容規制であっても最も厳しい審査基準を用いなかった根拠でもあり、運営規則を合憲を導いた重要な理由でもある。

 もちろん、図書館の公共性を考慮すればこの背景の適用に限界があるとしても。

 

 

 ただ、ここで気になるのは「更生との関連性」である。

 つまり、前回の検討では、図書館は情報の保存期間が市場で流通する期間よりも長いことを理由に閲覧禁止にしないことを弊害が大きいと述べた。

 また、少年法61条に抵触する記事はそもそもアクセスできないから敢えて閲覧させる必要もないじゃないか、といったことも述べた。

 この発想は少年法61条に忠実ともいえる

 

 もっとも、少年法61条の妥当性に疑義を唱える見解もある。

 さらに、少年法61条には罰則がない

 また、少年法61条に違反して実名報道推知報道された場合、報道された少年は出版社に損害賠償請求できるわけではない。

 これは少年法61条違反を根拠にした賠償が認められないという意味だけではなく、社会的に認められないという意味でもそうである。

 これらのことを前提とすれば、閲覧できないことの不当性を述べることも可能であり、それは本問の措置の違憲性を支える根拠にもなる。

 

 日本教的観点から見れば、ここで述べた2点は共に成立しうる。

 それゆえ、どちらか一方の結論に引っ張れるわけではない。

 実際のところ、どうなのだろう。

 

 

 以上で、本問の検討を終了する。

 次回は、平成16年の過去問をみていく予定である。

 ちなみに、この過去問、私が司法試験の勉強を始めた年(初めて受験した年ではない、その年はこの翌年)だったりする。

司法試験の過去問を見直す7 その3

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成14年度の憲法第1問についてみていく。

 

4 「公共の福祉」による制約_あてはめ

 前回までで、権利の認定と違憲審査基準の定立が終わった。

 よって、今回はあてはめである。

 なお、問題文を再掲載する。

 

(以下、平成14年度の司法試験・二次試験・論述式試験・憲法第1問の問題文)

 A市の市民であるBは,A市立図書館で雑誌を借り出そうとした。

 ところが,図書館長Cは 「閲覧用の雑誌,新聞等の定期刊行物について,少年法第61条に違反すると判断したとき,図書館長は,閲覧禁止にすることができる。」と定めるA市の図書館運営規則に基づき,同雑誌の閲覧を認めなかった。

 これに対し,Bは,その措置が憲法に違反するとして提訴した。

 この事例に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

(終了)

 

 この点、図書館長Cは運営規則に基づいてAの雑誌の閲覧を制限している

 また、問題文には、規則を適用に関する具体的な事情、例えば、雑誌の具体的な内容についての言及がない。

 よって、本問で検討すべきは「A市の図書館運営規則」ということになる

 そして、運営規則が合憲ならば、特段の事情のない本問においてはCの措置は合憲ということになる。

 

 以下、この運営規則の違憲性について検討する。

 また、審査基準は厳格な合理性の基準(目的が重要で、手段が目的との関係で実質的関連性を有する場合に合憲)を用いる。

 

 

 まず、目的について

 この点、少年法第61条の内容は次のとおりである。

 

少年法第61条

 家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容貌等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない

 

 いわゆる「少年事件に関する推知報道の禁止」と呼ばれているものである。

(なお、「少年」と書かれているが、これは少年法2条1項の「少年」、つまり、20歳未満の者を指し、いわゆる少女も含まれる)

 そして、その趣旨は、審判などに付された少年(以下、「当該少年」と言う。)のプライバシーを保護して、当該少年の更生をはかることにある

 少年法61条それ自体には議論がないわけではないが、この点は当然の前提としてよかろう。

 

 そして、少年法61条の趣旨に照らして考えると、図書館運営規則による閲覧禁止を定めた目的は、当該少年のプライバシーを保護して、更生を容易ならしめることになる。

 この点、当該少年のプライバシーは憲法13条後段の幸福追求権を解釈することによって保障されるし、また、当該少年の更生させることは当該少年の幸福追求権の実効化に寄与する。

 さらに言えば、社会防衛の観点から考えても、少年を更生させることが治安維持に寄与し、その他国民の人権の保障を促進することも明らかである

 よって、閲覧制限を定めた運営規則の目的は公共の利益を促進させる観点から重要である。

 

 まあ、目的が是認されないことはまずないから、ここまではよかろう。

 どこまで細かく書くかは状況その他によるが、目的と憲法の関係に触れながら述べる必要はある。

 

 

 次に、手段の実質的関連性について

 

 この点、推知報道が掲載された雑誌の閲覧を制限しなければ、当該少年に関する情報が図書館において自由にアクセスでき、結果として、少年の更生を妨げることになる。

 特に、図書館の役割の一つに「時事に関する情報及び参考資料を紹介し、及び提供すること」があるところ(図書館法3条7号)、この「時事に関する情報」には過去の情報も含まれるため、図書館がこれらの情報を保存する期間は一般に市場に流通する期間よりも長い。

 とすれば、雑誌の閲覧を制限しなければ、長期間にわたって推知報道にアクセスできることを意味するため、その結果、当該少年の更生をより妨げることになる

 このことを考慮すれば、推知報道が掲載された雑誌を閲覧を制限することは、当該少年の更生との間に具体的な関連性があり、有効な手段であると言える。

 

 関連性(手段の実行可能性)について言及する際には、図書館の特殊性に言及した。

 図書館の資料を収集・保存する役割に照らせば、図書館でこの情報にアクセスできる期間は雑誌が販売され、市場で費消される期間よりも長くなることは明白であるからである。

 

 

 もっとも、過剰な制約ではない点(必要性)についても考えなければならない

 また、その際には具体的に見ていく必要がある。

 

 問題点を列挙していくと、次のようなことが挙げられるであろうか。

 

1 規則に「判断したとき」とあるが、その判断の合理性・妥当性は担保されるのか

2 雑誌には推知報道以外の記事もあるが、推知報道以外の記事を閲覧したい人間にとって雑誌を閲覧できないのは過剰な制約ではないか

3、閲覧する人間が当該少年との関係が乏しければ、閲覧したところで更生を妨げないのではないか

 

 順にみていこう。

 

 この点、運営規則は図書館長の判断に委ねているが、その結果、推知報道ではないものを推知報道と判断される可能性があり、この点で広範で過剰な制約になるのではないかという疑念がある。

 しかし、図書館長を含む職員は公共性のある図書館の役割を従前ならしめるよう図書館業務にあたるべき職務上の義務を負っていることを考慮すれば、恣意的な判断が許されるわけではない。

 また、図書館の公共性などについては図書館の事情に通じた者の判断が不可欠であることは否定できない

 さらに、本問で問題になっているのは「公立図書館の資料へのアクセス」であって、通常の表現の制約とは事情を異にする。

 よって、図書館長などの判断に委ねた点自体は過剰な制約とは言えない。

 

 次に、当該雑誌の推知報道以外の記事を閲覧したい場合、その雑誌の閲覧を制限されることになるので、その意味で過剰な制約になりうるのではないかといった疑念もある。

 しかし、通常、このような雑誌を閲覧する場合、その表紙には推知報道のタイトルがでかでかと掲載されている。

 そして、仮に、閲覧開始前に推知報道への関心がなく、別の記事の閲覧が当初の目的であったとしても、表紙を見た閲覧者が推知報道に関心をひかれ、当該記事を閲覧してしまう可能性は十二分にある。

 そのため、推知報道へのアクセスができてしまい、当初の目的を妨げてしまうことになる。

 また、他の記事のみにしか興味がない場合、その部分の謄写の依頼をするといった手段もありうる

 よって、他の記事が見られない部分をもって過剰な規制ということはできない。

 

 さらに、当該少年との関係がほとんどない人間の閲覧を許しても、当該少年の更生とは無関係であり、その意味で過剰な規制になるのではないか、といった疑念もなくはない。

 しかし、雑誌を閲覧する人間と当該少年のかかわりをその都度調査するというのは事務的作業として煩雑になるし、将来において当該少年とかかわりを持つことになることも否定できない。

 また、本来、推知報道は知られるはずではなかった情報であると言いうるので、推知報道へのアクセスを保護する必要性も高くない。

 さらに、図書館運営規則による制限はこの図書館以外の場所の情報のアクセスを規制しているわけではない

 以上を考慮すれば、この点において過剰な規制であるということはできない。

 

 以上の3点を考慮すれば、運営規則は手段として十分適切であると言える。

 したがって、運営規則による制限は目的との関係で実質的関連性を有すると言える。

 

 以上より、図書館運営規則は合憲である

 そして、特段の事情がない本問において図書館長Cの措置は合憲であると言える

 以上から、Bの訴え(取消訴訟、または、国家賠償請求訴訟)は認められない。

 

 

 一気に結論まで書いてしまったが、これを違憲にするのはちょっと、という感じがする。

 確かに、少年法61条の実効性・合理性の問題、少年法61条が少年の「法律上の権利」を保護しているのか、といったことなどから、違憲に引っ張ることもできなくはないだろうが・・・。

 

 あと、必要性(相当性)の検討の際に重要なのは②と③であろう。

 ①は細かく触れる必要がない(規範定立の部分で触れている)し、明確性の原則について触れるなら別個の主張を立てる必要があるとも言いうるので。

 

 

 さて、一応、本問の検討をした。

 しかし、私の目的は過去問それ自体の検討ではない。

 そこで、次回、「私のしたかったこと」についてみていくことにする。