薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『数学嫌いな人のための数学』を読む 19

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

19 第4章の第2節を読む(後編)

 前回は、帰納法による証明方法とその限界、不完全帰納法による近代科学とファンダメンタリズムを比較することで、様々なものをみてきた。

 今回はこの続きである。

 

 

 前回、近代科学の帰納法は不完全帰納法である旨述べた

 しかし、総ての帰納法が不完全帰納法なのではない。

 このことは「不完全」帰納法という言葉からもわかる通りである。

 そして、完全な帰納法として存在するのが、数学による帰納法、つまり、数学的帰納法である

 

 

 本書はここでコラムに移り、「和の公式」を数学的帰納法を用いて証明している。

 ただ、ここでは数学的帰納法の説明をしておく。

 

 数学的帰納法とは、「すべての自然数に対して~である」という命題に対して次の2点を証明することで、命題が全称命題として真であることを証明する手段である。

 

(1) n=1の場合に命題が成立することを示す

(2) n=kの場合に命題が成立する仮定した場合に、n=k+1の場合に命題が成立することを証明する

 

 この点、(1)と(2)が成立するとどうなるか。

 まず、(1)によって、n=1の場合に命題が成立する。

 次に、(1)と(2)によって、k=1を代入することで、n=2の場合にも命題が成立する。

(2)の前提にある仮定の(1)が正しければ、(2)の結論も正しくなるからである。

 n=2の場合に成立するので、k=2を代入することで、n=3の場合にも命題が成立する。

 n=3の場合に成立するので、k=3を代入することで、n=4の場合にも命題が成立する。

 以下、無限に繰り返すことで、nがすべての自然数において成立する。

 

 数学的帰納法と他の帰納法の違いは、「論証・実証を無限に続けられるか否か」であろうか。

 近代科学の帰納法においては、実験(実証)を無限回数繰り返すことは不可能である

 それに対して、数学の場合、観念的ではあるものの論証を無限回繰り返すことは可能である

 それゆえ、数学的帰納法は全称命題の証明が可能になる

 

 

 このように、数学的帰納法の命題の完全な証明を達成できる。

 これに対して、不完全帰納法は正しい命題を証明できるかは分からない。

 そのため、帰納法は法則の正しさの証明よりも説得の技術として利用されることがある。

 そして、帰納法を頼るがために帰納法的説得の技術には当然に限界がある。

 ここでは、その帰納法的説得についてみていく。

 

 当然だが、もしもすべての項目を列挙することができれば、当該命題の成立は証明できる。

 これは数学的帰納法が完全な帰納法であることからも明白である。

 例えば、ユダヤ教イスラム教の食物規定では、「食べていい食物」と「食べてはいけない食物」を正確に定義し、それらをすべて列挙している。

 そのため、啓典が正しいならば、総てを列挙しているこれらの食物規定は正しいと言える

 

 もっとも、近代科学で見られるように、多くの場合の帰納法は総てが列挙されることはない(未来・未知の物まで列挙できないからである)。

 その結果、これらの帰納法は不完全帰納法となり、それによる論証・説得も限界がある。

 本書では、その例として「標本の観察に基づく一般化」(帰納法的証明・説得)がある

 

 例えば、樽の中のコーヒー豆があり、これらのコーヒー豆が良質か否かを知りたいと考える。

 そのため、樽の中のコーヒー豆を攪拌し、その中からランダムにコーヒー豆を取り出してみたところ、取り出したコーヒー豆は全部良質であった。

 では、樽の中のコーヒー豆の全部は良質であると結論を出す。

 これが「標本の観察に基づく一般化」の典型例である。

 そして、この過程を見ればわかる通り、この一般化には帰納法が用いられている。

 

 標本の観察に基づく一般化における前提と結論の関係は次のようになる。

 

前提、母集団(全部)から抽出した標本(サンプル)の結果はAであった。

結論、母集団(全部)にあるすべての個々の結果はAである。

 

 前提と結論は同一律ではリンクさせられない。

 よって、標本の観察に基づく一般化は不完全帰納法となり、限界があることになる。

 

 では、標本の観察に基づく一般化にはどんな限界があるか。

 まず、標本の個数、サンプルサイズの大きさの問題がある

 つまり、標本の個数が多ければその証明の信頼性が上がる。

 他方、標本の個数が少なければ証明の信頼が下がる

 というのも、標本の個数が低ければ、「その結果はたまたまではないか」といいうるからである。

 そして、この信頼のできる一般化を行うためには不十分な場合のことを「一挙に結論へと飛躍する虚偽」と言われている。

 

 さて、このことを説得の観点から見てみる。

 確かに、この点だけを見れば、標本による観察法はとんでもないまやかしと思えるであろう。

 しかし、この手法は強力な説得力を得ることがある。

 そして、歴史を見ていくと、当局やマスコミはこのような説明・宣伝をして大成果を挙げた例も少なくない。

 本書では、戦前日本の特高警察による共産主義者の人間像を作り上げた宣伝の例、共産主義者による「日本の労働者」の人間像を作り上げて宣伝した例が形成されている。

 

 では、「一挙に結論へと飛躍する虚偽」を回避するためにはどうすればいいか。

 まず、サンプル数の大きさが問題になることは間違いない。

 ただ、もう一つ重要な視点として、「サンプルの偏り」の問題点がある

 

 この点、標本の観察による一般化という手法は全数調査はコストなどの条件から不可能である。

 だから、母集団(全体)から標本(サンプル)を選ぶ必要があるが、選んだ結果が全体をそのまま縮小化したようになることが重要になる。

 このことを「標本が全体を代表する」という。

 

 このことを前述のコーヒー豆の例を用いて考える。

 樽の中にあるコーヒー豆の品質が良質であるという命題を証明する。

 そのためには、コーヒー豆が偏らないようによくかき混ぜることが重要になる

 でないと、偏って良質な豆場から抽出する可能性があるから(もちろん、逆の可能性もある)

 これは、意図的に表面だけ良質の豆をばらまいておくといった悪だくみができることをも意味するが

 

 そして、このような悪だくみによって「偏った統計による虚偽」が出来上がる。

 これも「一挙に結論へと飛躍する虚偽」の具体例である。

 本書では、宗教・人種に対する偏見が具体例として取り上げられている。

 このように、帰納法は説得としての技術としても用いられている。

 このことはアメリカとヨーロッパでは論理は神に対する説得の技術として、中国では論理が君主に対する説得の技術であったことから考えればイメージしやすいであろう。

 

 

 ここから話は権威主義に移る。

 この点、サモンの『論理学』という論理学の著名な教科書がある。

 この教科書では、帰納法による論証法のなかで「権威」について取り上げている。

 

 

 以下、本書では「権威」による論証についてある疑問が提示されている。

 つまり、「権威主義」に対していいイメージを持つ人が少ない。

 これを前提とすれば、「権威による証明」もよろしくないという結論となろう。

 ところが、権威主義」に対していいイメージを持たない人でも権威によって証明された命題を信じることは少なくない

 こはいかに、と。

 

 つまり、人々は自分の主張の正しさを説明する際に権威を用いることが少なくない。

 そして、権威のあるものとしては人物・組織・書物などがある。

 著者は権威を持つ者の具体例として、日本のマスコミ、「東大」、「岩波」、「朝日」を取り上げることがある。

 今から見ると過去の時代の状況が把握できて興味深い。

 

 ところで、権威とは正当性を担保するものである。

 本書では、イエスの例が示されている。

 つまり、「人々はイエスの山上の垂訓に驚嘆した。イエスが律法学者と異なり権威あるもののように語ったから」と。

 ここにはファンダメンタリストと近代科学者の違いが見て取れるがそれはさておき。

 

 つまり、ユダヤ教において権威を持つ者は絶対神だけである。

 また、権威を持って語ることができるのは預言者だけである。

 だから、それ以外の人間には権威はない。

 せいぜい「権威があるように振る舞えるだけ」である。

 よって、律法学者も専門知識とその知識を用いることに長けているとしても、ただの人間、権威はなく「権威があるように振る舞えるだけ」に過ぎない

 そんななか、イエスは権威あるものの如く語り、多くの人々を驚かせた。

 彼は預言者、または、神ではないのか、と。

 

 この点、二ケア信条・カルケドン信条を持つキリスト教では「イエスが神である」と回答することになる。

 ところが、それはイエスが十字架に架けられて250年以上経過した後のこと。

 当時のユダヤの人々はそう考えてはいないから、驚くのも無理はない。

 

 ところで、先ほど述べた通り、ユダヤの人々は権威は神にあり、権威によって語れるのは預言者であった。

 これは預言者が神のラウドスピーカーであることから考えれば妥当である。

(この辺は次の読書メモで言及している)

 

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 この考えはキリスト教にも引き継がれた。

 つまり、キリスト教の権威は全知全能の絶対神キリストに由来する

 そして、その権威がローマ教皇に伝承されている

 この伝承によって成立した組織がカトリック教会である。

 

 それゆえ、ローマ教皇カトリック教会の権威は神から由来した者であり、その秩序は権威主義となる。

 そして、ローマ教皇の権威が西ヨーロッパを支配することになる。

 事実、中世のカトリック教会は庶民の生活を管理し、あらゆることに関与した。

 言い換えれば、カトリック教会の権威がなければ、人は産まれることも、結婚することも、死ぬこともできない状況にあったのである。

 

 

 ここで本書は、「しかし」と話が続く。

 中世ヨーロッパのキリスト教はある種とんでもない欠点があった。

 これについては次の読書メモで述べてきたとおりである。

 

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 つまり、中世カトリック教会は聖書を信者に読ませなかった

 キリスト教はバイブルを啓典とする啓典宗教なのに、である。

 これはイスラム教でクルアーンを信者に読ませること、ユダヤ教モーセ五書を信者に読ませることを重視することを考慮すればよくわかる。

 まあ、日本教ではこのような習慣がないため、ピンと来ないかもしれないが。

 

 こうなった原因として、キリスト教が認定した聖書が確立したのが4世紀末であるところ、その聖書がギリシャ語で書いており、中世ヨーロッパの公用語たるラテン語で書かれていなかったからである。

 また、ラテン語訳の聖書は5世紀初頭になされたが、そのラテン語すら読めない人が多かったからである。

 

 また、もう一つの原因として、聖書を読むことで「カトリック教会がキリスト教の教義を離れていることが判明してしまうから」である。

 さらに、「聖書にはカトリック教会に権威が与えられた伝承がないから」ということもあるかもしれない。

 つまり、聖書を信者に読ませたらカトリック教会とローマ教皇の権威が吹き飛んでしまうから、というわけである。

 

 それゆえ、カトリック教会の腐敗、これに対する、宗教改革や対抗宗教改革といったものが生まれたことは歴史が教えるとおりである。

 もっとも、聖書に由来するプロテスタントの権威もまた存在する。

 さらに、近代に成立した絶対君主も。

 

 こうやってみると、「神に起因する権威」が欧米における権威の模型であり、現代に存在する権威と共通する部分がある。

 本書はこのようにして本節を閉じている。

 

 

 うーん。

 帰納法の限界についてはなんとなくでしか知らなかったが、本書をちゃんと読むことで完璧に理解できた。

 これを20年近く前に読んでいればよかった、そういう感想を抱かずにはいられない。

 まあ、知っていたところで同じ失敗をするとしても。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 18

 今日はこのシリーズの続き。

 

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『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

18 第4章の第2節を読む(前編)

 今回から第2節についてみていく。

 第2節のタイトルは「数学を除くあらゆる科学は不完全である_帰納法

 このセッションでは自然科学にも触れられている。

 

 

 前回、背理法という数学の証明技術についてみてきた。

 そして、数学の証明を踏まえて近代科学の論証を見ていくと、近代科学の限界を知ることができる

 もちろん、この近代科学の中には物理学を含む自然科学も含まれる。

 

 例えば、数学には帰納法という証明方法がある。

 高校の数学で習う「数学的帰納法」がそれである。

 そして、近代科学はこの帰納法を用いて大きな発展を遂げてきた。

 そこで、この帰納法について見ていく。

 なお、この点については次の読書メモで言及している。

 

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 この点、帰納法とは「特殊命題」として得られた命題を「全称命題」として扱う推論技術である。

 つまり、宗教の教義(ドグマ)と異なり、人間の体験は全部が特殊命題である。

 例えば、「カラスは黒い」という命題を考える。

 体験としてみた場合、これは「私が見てきたカラスは全部黒い」になる。

 この場合、総てのカラスのうち「私が見てきた」カラスに限定されているため、これは特殊命題である。

 というのも、その人間が「過去・現在・未来にわたるすべてのカラスを見る」ことは不可能だからである。

 以上より、「体験から得られた命題は特殊命題である」ということが理解できると考えられる。

 

 帰納法とはこの体験上得られた特殊命題を全称命題として変換する推論方法である。

 つまり、「二等辺三角形の二つの角は等しい」という命題は総ての二等辺三角形について述べている全称命題であるが、これと同様である。

 そして、この帰納法的論証は数学を除けば完全ではない。

 もちろん、「必ずしも真ではない」というだけで「必ずしも偽(間違い)でもない」が。

 著者によると、この点の理解が肝要である、という。

 

 例えば、ある人間が「私たち人類が見てきたカラスは全部黒い」と主張しても、これまでの人類は未来のカラス、未知の土地のカラスを見ていない以上、これは特殊命題であって、全称命題ではない。

 よって、これを全称命題の如く扱えば、それは必ずしも正しいとは限らなくなる。

 また、将来、「黒くないカラス」が出現した瞬間、この主張は誤りとして葬り去られることになる。

 

 ちなみに、この点で有名な題材がブラックスワンの問題である

 16世紀のヨーロッパの人間はこれまでの観察の結果、「白鳥は白い」という結論を出していた。

 そして、「黒い白鳥を探す」という言葉が一種の無駄を示す言葉として用いられていた。

 ところが、1697年、コクチョウの発見により「黒い白鳥」が発見され、従来の説がひっくり返ることになる。

 

 以上、帰納法は「多くの部分(一部)で正しいから、全体でも正しくいかもしれない」とまでしか言えないものを、「多くの部分(一部)で正しいから、全体でも正しい」に変換してしまう推論である。

 これを見ると、帰納法は無茶苦茶な推論・すり替えと考えるかもしれない

 ところがどっこい、この無茶苦茶なすり替えの生産性は非常に高かった。

 それゆえ、現在でも近代科学で用いられているし、この帰納法によって近代科学は飛躍的な発展を遂げてきた

 しかし、生産性が高いことは完全に正しいことを意味するわけではない。

 この点は理解しておく必要がある。

 

 本書では具体例として人類学を取り上げている。

 過去の人類学は、現地の駐在員・宣教師、あるいは、探検家の未開地における見聞を資料として築いていた。

 つまり、帰納法によって作り上げられていたのである。

 その後、マリノフスキーというポーランド生まれのイギリスの社会人類学者がフィールドワークを行ったこと、ラドクリフ・ブラウンというイギリスの社会人類学者がデュルケーム社会学の方法を人類学に導入して方法論を確立し、飛躍的に発展させていくことになる。

 

 

 本書はここから「科学における実験」についての話になる。

 科学は「実験(実証)」と「理論(論証)」の統合によって得られる。

 例えば、物理学では実験と理論構築が手を携えて進歩していった。

 このことから、社会科学でも物理学で行われたような実験と理論を方法論として導入しようとした。

 この動きが顕著に表れたのが心理学である。

 

 まず、行動心理学という分野では従来の内観法という手段をやめ、実験だけによる研究方法のみを手段として限定した。

 そして、この手法が全心理学に広まっていくことになる。

 

 もっとも、人間のような複雑な行動を実験するのは困難である。

 そこで、心理学の実験対象は人間から犬・猫になり、さらには、ネズミのような下等動物の行動の研究に移らざるを得なくなった。

 本書では、パブロフの実験がその具体例として示されている。

 パブロフの実験から犬のヨダレを流す行動が生理行動ではないことが示され、生理学から独立した科学としての心理学が確立することになる。

 

 ところで、真摯に実験に取り組む場合も数学的思考法は不可欠である。

 つまり、現実を見ているだけで実験的結果が得られる人間は直観の極めて優れた人間だけである。

 例えば、現実では「八百屋お七の話から、丙午の女は縁起が悪い」と言われている。

 これは現実の観察した結果そのものである。

 しかし、このような観察結果は実験とは言えない。

 実験と言いえるためには変数の分離といった精密化・精錬化か必要になる。

 

 つまり、刺激(S)という「一定の入力」があったときに反射という「一定の出力」(R)が得られたとする。

 このとき、行動関数となる「f(S)=R」における「f」を具体的に特定するのが実験である。

 つまり、入力・刺激のSによって出力・反射のRがどうなるかという因果関係の解明が実験の目的である

 そして、その際に必要な手法が後述の変数分離である。

 

 ただ、このような実験で得られた有用な結果は全部「特殊命題」に過ぎない。

 このことは自然科学の実験(物理実験・化学実験)でも変わらない。

 例えば、ピザの斜塔の上から何回も物体を落とす。

 その結果、物体は毎回同じような経過をたどって落下した。

 しかし、帰納法によってこの結果から全称命題として「物体は落ちる」と結論付けても正しいとは限らない。

 これはこれまで述べてきたとおりである。

 そのため、自然科学などの実験から得られた帰納法による証明方法のことを「不完全帰納法」という。

 

 ところで、このように見ていくと、自然科学的証明は怪しいと思うかもしれない。

 また、科学者としては「これまでこの実験は何度も行われてきたのだから正しい」と反論するかもしれない

 確かに、この科学者の反論は説得的である。

 また、現実においてこれは悪魔の証明を強いるものであることを考慮すれば、これをもって「証明された」と考えるべきとも考えられる。

 しかし、論理的には正しくない

「例外的な場合があったがたまたま実験時から外れていた」という可能性を排除できないからである。

 そのため、既に実験によって確認されたことが、未来において実験によって否定されるということはよくあることである。

 本書では、熱素の例が取り上げられている。

 つまり、18世紀において科学者の中では「熱素」という熱を与える物質が存在すると信じられていた。

 しかし、19世紀にクラウジウスの実験により「熱素」の存在が否定されることになる。

 また、万有引力の法則についても、これに反するのではないかを確かめる実験は今でも(頻度は稀であろうが)行われている、らしい。

 

 以上が自然科学における不完全帰納法の説明である。

 この点は必ずしもピンと来ないかもしれない。

 しかし、この不完全帰納法を逆用して議論を展開する人々がアメリカにいる

 これについて「変数分離」のコラムを見た後にみていく。

 

 

 本書はここでコラムになり、「変数分離」について説明している。

 

 変数分離とは「ある結果」に対して「様々な原因」が考えられる場合に、「ある原因のみを変えて残りの原因を固定して実験を行う」ということを繰り返して、原因を特定する方法である。

 

 本書では、「患者がバタバタ死ぬ病院」という結果の原因を変数分離を用いて特定する過程が具体例として取り上げられている。

 あるとき、ある病院で患者がバタバタ死んだ。

 そこで、病院の環境(立地など)に問題があるのではないか、と考え、その病院に患者を別の病院に転院させた。

 しかし、患者は死に続ける。

 このことから、病院の環境が原因とは言えないことが分かった。

 そこで、投薬を変更したが、患者は死に続けた。

 よって、薬に原因がないことが分かった。

 そこで、医療補助者を全員入れ替えたが、患者は死に続けた。

 よって、医療補助者に原因がないことが分かった。

 そんな中、医者が死んだところ、患者の死亡がぴたりと止まった。

 そこで、医者の腕がヤブだったことが原因であると判明した。

 

 病院で人が死ぬケースを題材にして、かつ、それを現実の問題と考えると(例えば、疫病の問題はこれにあたる)、感情的に耐えられるか問題がないとは言えない。

 しかし、変数分離の方法は上の方法に集約される。

 つまり、原因を特定するために、1つの原因にかかわる要素を変更して、残りの原因にかかわる要素は変更せずに実験を繰り返す。

 そして、実験結果の変更の有無から原因を特定する。

 これが変数分離の方法である。

 

 

 以上、変数分離について見てきたところで、ファンダメンタリストの科学批判についてみてみる

 これについては、こちらの読書メモで述べている。

 

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 この点、ファンダメンタリスト」とは聖書(福音書)に書かれていることを、例外なく、つまり、文字通り、そのまま真実であると信じる(考える)人である。

 日本人でこのファンダメンタリストになる人はあまりいない

 つまり、通常の日本人は奇蹟に関する聖書の記載を「事実」の記載ではなく、なんらかのたとえ話と考えてしまうからである。

 その結果、日本人から見て、「ファンダメンタリスト」を特殊な人のように考えてしまう。

 

 しかし、ファンダメンタリストアメリカでは普通にいるし、また、社会的に尊敬されているファンダメンタリストもいれば、業績を上げている自然科学者のファンダメンタリストもいる。

 その意味で、アメリカではファンダメンタリストの主張は社会的に大きな影響力を持っている

 

 ところで、ファンダメンタリストの「聖書に書かれた奇蹟は例外なく現実に起きた事実である」ということに主張に対して、科学者や日本教徒のような常識人が「これらのことは自然科学の法則に反する」と反論・批判することもある。

 しかし、ファンダメンタリストはその反論・批判が来ても平然としている。

 この平然さを支えている根拠が「自然科学の法則といえども、不完全帰納法に過ぎない」というものである

 

 例えば、「イエスが水上を歩きたもうた(つまり、徒歩で水の上に浮かびたもうた)」という福音書の記載を考える。

 これが自然科学の法則に抵触することは明らかである。

 しかし、このように疑問を出したところで、ファンダメンタリストは驚かない。

 一般に、重力(万有引力の法則)が存在するとしても、その例外がないことまでは証明されていない。

 そこで、「イエスが水上を歩きたもうたとき、一時的に重力が働かなかったと断言できない」と主張すれば、不完全帰納法を理解している科学者からそれ以上の反論を受けることがないからである

 

 このように科学者の反論を退けられることから、ファンダメンタリストの主張は一定の説得力を持つ。

 さらに、「神(イエス)が物理法則を作った」というドグマ(ドグマは全称命題である)を加えることで、さらに積極的な主張に変換できる。

 曰く、「自然法則といっても作ったのは神であるから、神がその法則を変更し、あるいは、一時的に解除することはできる。その結果として人間が水の上を歩いたとしても少しも不思議ではない」と。

 

 なお、彼らの主張を少し細かめに主張していけば、次のようになる。

 

「自然科学の法則の前提となる実験結果は過去と現在の自然科学者たちが行ったことであって、個々の人々がその実験をやったわけではない。言い換えれば、他人のやった実験結果を各人が信じているに過ぎない。また、歴史上、自然科学の法則が後の実験によって破れた例はたくさんある。これらのことを考慮すれば、『自然法則を正しい』と考えることは、究極的には個々の人々が『私は自然科学者を信じます』というのと同じである。ファンダメンタリストたる私は自然科学者たちの出した結果を間違っているとまでは言わないけれども、自然科学者たちよりも絶対神と聖書を信仰します。」

 

 日本教徒から見た場合、「これは信仰告白に過ぎないのではないか」ということになる。

 だから、というべきか、これを理論的に反論することは不可能である。

 自然科学によって導かれた諸法則が不完全帰納法であることは事実であり、それを超えることは現実的に不可能なのだから。

 

 

 本書では、クリスチャン・サイエンスのメアリー・ベイカー・エディ女史の話が紹介されている

 

 本書では、エディ女史のエピソードとして次の話が紹介されている。

 エディ女史のところに重病人がやってくる。

 それに対して、エディ女史が一言「汝は癒されり」と宣言すると、この重病人が回復し、喜んで帰る。

 

 クリスチャン・サイエンスファンダメンタリストである。

 だから、福音書の記載に従って、「汝の信仰、汝を癒せり!」と宣言し、それを実践している。

 また、イエスが病人が治し給えたとき、医者・病院・近代医学を用いず病人を癒した。

 そこで、近代科学による病院や医者を用いないでイエスのなしたままに実践することを旨としているらしい。

 

 ところで、エディ女史の方法はてきめんであった。

 そこで、クリスチャン・サイエンスアメリカに広がっていく。

  

 ここでも自然科学の拠って立つ不完全帰納法の限界を見事についている。

 つまり、近代医学は近代科学の前提に立つ以上、不完全帰納法によらざるを得ない。

 また、実験を頻繁に行うこともできない(人体実験になる以上、頻繁にやるわけにはいかない)。

 よって、真面目な医者であれば、この前提・限界をよく知っている。

 

 本書では、ここで「科学」と「宗教」の違いについてクリスチャン・サイエンスの例を引き出して説明している。

 宗教的な教義は全称命題である。

 それに対して、自然科学の諸法則は特殊命題であって、推論によって全称命題にしているに過ぎない。 

 本書では、「人は死ぬ」という命題を具体例にしている。

 

 クリスチャン・サイエンスは「人の死」を否定する。

 その根拠がキリスト教の「イエスの贖罪により人間の原罪が消えた」という教えからである。

 これはドグマを根拠としているので、「聖書が絶対的に正しい」と考える以上は全称命題である

 これに対して、「現実の人の死をどう考えるのだ?」と反論をするのは科学による批判と同様意味がない。

「あの人も死んだ。この人も死んだ。(以下略)しかし、つまり、個々の人が死んだだけで、それらは特殊命題に過ぎない。」と返されて終わる。

 

 まさに、信仰恐るべし、というべきか。

 また、この不完全帰納法によって立つ近代科学はそれゆえのメリットもあるが、信仰を覆すパワー(不合理性)はない、というべきか。

 

 

 以上、帰納法の限界とファンダメンタリストの主張を論理的観点から見てきた。

 私は部外者だから、という点も軽視できないが、非常に勉強になった。

 

 次回はこの節の後半について見ていく。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 17

 今日はこのシリーズの続き。

 

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『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

17 第4章の第1節を読む

 本読書メモも第4章に入る。

 第4章のタイトルは、「数学の論理の使い方_証明の技術_背理法帰納法必要十分条件・対偶の徹底解明」である。

 また、第4章に登場する学者はカール・マルクスである。

 ガウスアリストテレスからマックス・ヴェーバーマルクスへ続くところを見ると、「この本は文系のための本なのだなあ」という感想を持たざるを得ない。

 

 ただ、数学との兼ね合いで考えると、自然科学より経済学よりになるのはしょうがないのかもしれない。

 自然科学の場合、「自然現象の観察」や「実験」の要素の比重が強く、数学の力は相対化されてしまうので。

 

 本章では、証明の技術として使われる概念、背理法」と「帰納法」、また、「必要十分条件」と「対偶」についてみていくことになる。

 いずれも論理と数学を使いこなす際には重要な概念である。

 

 

 そんなところで、第1節に移る。

 第1節のタイトルは「形式論理学の『華』_背理法(帰謬法)」である。

 数学的証明・統計検定で使われる背理法について見ていくことになる。

(統計検定の場合、証明の強さこそ相対化されているが、この検定の背後にあるのは背理法である)。

 

 近代数学形式論理学は「矛盾」を許さない。

 そのため、「矛盾」が解消できないと、その説明・論理が破綻する。

 この「矛盾」を利用した実効性の極めて高い証明技術、これが背理法である。

 

 背理法を用いた証明で著名なものに、古代ギリシャピタゴラスが行った「√2(ルート2)は有理数ではない」ことの証明がある。

 この証明は後に触れる。

 

 背理法のロジックは次の形式をとる。

 

1、「AはBである」と証明したいと考える

2、「AはBではない」と仮定する

3、「AはBではない」を前提に論理を進めて矛盾を生じさせ、論理を破綻させる

4、「AはBではない」が誤りである旨の結論を出す

5、「AはBではない」が誤りであることから、「AはBである」である旨の結論を出す

 

 この点、形式論理学では「AはBである」と「AはBでない」という2つの命題がある場合、「どちらか一方が必ず成立する」という帰結になる

「両方とも成立する」・「両方とも成立しない」・「両者の中間である」といった結論は矛盾律排中律によってはじかれるからである。

 そこで、一方の論理を破綻させてしまえば、自動的に他方の結論になる。

 これぞ背理法である。

 

 

 この点、形式論理学を作ったのは古代ギリシャアリストテレスである。

 そのためか、古代ギリシャ人は形式論理学によって作られたこの背理法を好んだらしい

 この「矛盾をついて破綻させる」ということを徹底した背理法形式論理学の華であり、古代数学の華であった。

 さらに、背理法の実効性の高さからこの証明技術は現代にも引き継がれている。

 

 本書では、「プラトンの対話編」にあるソクラテスの問答から背理法の有名例を引き出している。

 簡単に対話の形式を述べると次の形式になる。

 

ソクラテスが問を発する

②相手が答えを出す

ソクラテスが相手の答えを前提に論理を発展させ、不合理な結論となることを示す

④上述の不合理な結論から、②が誤りであることを示す。

 

 これは上で述べた背理法の構造と同様である。

 

 本書では、ここで「ジレンマ(両刀論法)」と呼ばれる論法について紹介されている。

「両刀論法」とは、相手を板挟みにして進退窮まらしめる論法であり、論争・討論で相手の主張をつぶす際に極めて有効な働きをする論証法である。

 本書では、自己矛盾を含んだ契約を結んだ両当事者が互いに互いをジレンマに追いやろうとしている例が紹介されている。

 

 ところで、古代ギリシャ人だけではなく、中世の哲学者も背理法を好んだ。

 例えば、中世を代表する大思想家のトマス・アクィナスは、背理法を用いて神の存在を証明した。

 ちなみに、アクィナスは14世紀にカトリック教会によって聖人に列されているし、彼の教義は19世紀の第二次ヴァチカン会議までカトリックの公式教義にされていた。

 また、アクィナスの神の存在証明の特に優れていると言われている。

 

 なお、第1章で述べた通り、存在問題(存在定理)は数学の根本問題である。

 また、神の存在問題は古代イスラエル人の宗教からキリスト教イスラム教に至るまでの啓典宗教における最大問題である。

 背理法が数学の根本問題と啓典宗教の最大問題でリンクしたことは見ておく必要がある、らしい。 

 

 以上色々と見てきたが、背理法にはすごい威力がある。

 そこで、この背理法の本質を理解し、背理法を使いこなせるようになることが肝要である、と著者は強調している。

 

 

 話はここでコラムに移り、ピタゴラス背理法を用いて証明した「ルート2は有理数ではない」の具体的な証明の話に移る。

 前述の1~5を用いて証明の展開を示すと次のような形になる。

 

(以下、「ルート2が無理数であり、有理数ではない」ことの証明)

1、「『ルート2は無理数である(有理数ではない)』ことを証明せよ」という問を立てる

2、「ルート2は有理数である(無理数ではない)」と仮定する

3、「ルート2は有理数である」を前提として矛盾を発生させる

 具体的には次の方法を採用する。

(1)ルート2が有理数であれば、1以外に公約数を持たない自然数aとbを用いて

 ①、ルート2=b/a

 と表現できることになる。

 なお、このaとbの関係のことを「aとbは互いに素である」などと呼ばれる。

(2)①を乗して式整理すると

 ②、2×a^2=b^2

 となり、bは偶数であることが分かる。

(3)bは偶数であるから、自然数cを用いて「b=2c」と置けるところ、②のbをcで入れ替えて式を整理すると、

 ③、a^2=2×c^2

 となり、aは偶数であることが分かる。

(4)ここで、(2)と(3)からaとbは偶数となっている。

 ならば、aとbは最低でも2の公約数を持つことになるが、この結論は、(1)の「aとbは互いに素である(1以外の公約数を持たない)」と両立しない。

 よって、2の前提によった場合、矛盾が発生する

4、3の結論から「ルート2は有理数である」という仮定は誤りであると言える。

5、4の結論から「ルート2は無理数である」と証明できる。

 

 このような感じで数学において背理法は絶大な威力を持っている。

 また、背理法の手法は現代社会において決定的かつ重要な役割を演じている(統計検定でも証人尋問で証言の信用性を突き崩す場合でも)。

 このことから背理法を理解することの重要性が推測できる。

 

 

 話はここからユークリッド幾何学に進む。

 というのも、ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学への発展にも背理法が決定的な役割を果たすことになるからである

 以下は、非ユークリッド幾何学の発見の歴史である。

 発見者はロシアの天才数学者、ニコライ・イワーノビッチ・ロバチェフスキーである。

 

 この点、ユークリッド幾何学は次の5つの公理からスタートしている。

 

ユークリッド幾何学の公理)

公理1、任意の点とこれと異なる他の任意のテントを結ぶ直線を引くことができる

公理2、任意の線分はこれを両方へいくらでも延長することができる

公理3、任意の点を中心として任意の半径で円を描くことができる

公理4、直角はすべて相等しい

公理5、2つの直線が1つの直線と交わっているとき、もしその同じ側にできる内閣の我が2直角よりも小であったならば、その側へ延長すれば必ず交わる

 

 ここで、公理の補足をしておく。

 まず、公理1から直線を引く手段として目盛りのない定規を利用してよい、と言える。

 また、公理1と公理2をまとめると「二点を通る直線はただ1つである」となる。

 さらに、公理3はコンパスを使ってもよいと言える。

 

 ところで、公理1から公理4は単純であるのに対して、公理5は複雑である。

 なお、公理5は現在では次のように言い換えられている。

 

公理5の変形、任意の直線と直線外の任意の1点が与えられているとき、その1点を通り、かつ、その直線に平行な直線はただ1本に限られる

 

 これは平行線の公理と言われている。

 二次元「平面」上に限定して考えれば、これは間違ってないだろう。

 ただ、そこに単純さはない

 

 そこで、数学者たちは「公理5は公理(仮定・前提)ではなく、公理1から公理4から証明された当然の結果に過ぎないのではないか」という疑問を持った。

 もっとも、公理1から公理4から公理5を導くことは19世紀まで誰もできなかった。

 そのため、「公理5は公理(仮定・前提)なのか結論なのか」という点に結論が出なかった。

 

 こんな状況で、ロバチェフスキーが登場した。

 彼はガウスより22歳年下である。

 ロバチェフスキーは第5公理を外して、「第1公理から第4公理に第5公理と矛盾した公理を追加した幾何学」を作って論理を進めていった。

 第5公理に反する公理を追加して論理を破綻させようとしたわけであり、ここでも背理法が登場する。

 ここで追加した公理は「一直線外の任意の1点を通ってその直線に平行な直線は必ずしも1本とは限らない」というもの。

 ロバチェフスキーはこのような幾何学の体系を作っていった。

 この点、この過程で矛盾が生じれば、第5公理と矛盾した追加した公理が間違いとなって、第5公理が前提であることが確定する。

 矛盾が生じれば証明終了であり、目的は達成される。

 

 ところが、ロバチェフスキー幾何学を発展していっても、矛盾はいつまで経っても出現しなかった。

 その一方で、新しい幾何学体系の推論によって新しい定理はどんどん発見されていく。

 その結果、ロバチェフスキーは新しい非ユークリッド幾何学を作り上げることになる。

 本来の意図がそこになかったとしても。

 

 以上が非ユークリッド幾何学の発見物語である。

 この非ユークリッド幾何学の発見は数学史・科学史に残る大発見であった。

 ただ、ここに形式論理学の華たる背理法があることは確認すべきであろう。

 

 なお、科学の歴史ではよくあることだが、この非ユークリッド幾何学ロバチェフスキーの天才性は直ちに認められなかった。

 もっとも、後にはロバチェフスキーの天才性が認められることになる。

 そして、非ユークリッド幾何学はドイツの数学者リーマンやクラインによって引き継がれ、新たな発展を遂げるのである。

 

 なお、本書では触れられていないが、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の前提における大きな違いは平面を前提とするか、平面を前提としない(曲面をも含むか)となる。

 そのため、非ユークリッド幾何学が出現したからといってユークリッド幾何学によって発見されたものが無用の長物に転化するわけではない。

 

 

 ただ、非ユークリッド幾何学の発見は別のパラダイムをもたらした。

 それは、「公理は絶対ではなく、数学者が作ったものに過ぎない」ということである。

 

 つまり、現代の日本教徒が漠然と思っているように、古代ギリシャの人々は「(ユークリッド幾何学における諸)定理は先だって存在し、かつ、数学者がこれを発見するもの」と考えていた。

 簡単に述べれば、「前提・定理は既に存在し、科学者はこれを発見する」という発想である。

 この発想は古代ギリシャの人々だけではなく、古代ローマイスラム帝国、近代ヨーロッパの人々がそう思っていた。

 

 しかし、非ユークリッド幾何学の創造はこの研究態度を一変させることになる。

 つまり、「前提・定理は既に存在し、科学者はこれを発見する」から「科学者によって前提はいくらでも創造できる。どの前提が『真実か』という問題設定は意味がない」という方向に。

 ちょうど、ロバチェフスキーが非ユークリッド幾何学という前提を設定することで、様々な定理を作り上げていったように。

 

 このパラダイムシフトは幾何学研究法から始まり、現在では様々な科学でも起きている。

 かくして科学者は「真理の発見者」から「(妥当な)理論構築者」へと変化することになる。

 そして、このパラダイムシフトの際に大活躍した論理こそ背理法矛盾律である

 

 

 以上が本節の話。

 うーん、参考になった。

 特に、パラダイムシフトの部分が。

 

 私自身、このメモを作成するまで漠然と「科学者の職務は真理の発見」と考えていた。

 今回、メモを作り直して「真理の発見から理論構築者」の意味が分かった。

 その意味で、読書メモの作成という行為の意義は大きいと考える次第である。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 16

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

15 第3章の第3節を読む

 第3節のタイトルは「中国や日本社会の特性」である。

 前節の最後で江戸時代の日本の商家が登場したが、今回は「中国の人間関係」についてみていくことになる。

 

 これまで見てきた通り、資本主義の所有権はキリスト教と共通する特徴がある。

 例えば、造物主たる神と被造物たる人間の関係、神との契約(形式論理学)、個人救済といった特徴がそうである。

 そのため、キリスト教的な背景がない人々には資本主義的所有権は受け容れにくいかもしれない。

 つまり、中国や日本では資本主義的所有権が受容しがたい原因は、中国人は儒教の国、日本人は日本教の国であって、キリスト教的な背景に乏しいからかもしれない。 

 

 

 ここから話は中国に移る。

 著者によると、中国では資本主義的所有権が確保されないから、近代資本主義が成立しがたいという。

 つまり、近代資本主義では所有権は絶対的・抽象的なものであって、人間関係と社会事情によって左右されない。

 また、事情変更の原則は原則として認められない。

 そうしなければ、経済主体は目的合理的な計画(利潤や効用の最大化)が立てられず、商品・資本の迅速な流通も確保できないからである。

 この「資本主義的所有権」と「市場の自由かつ適正な機能の確保」はコインの両面となっている。

 

 ところで、中国の場合、所有権は人間関係と社会事情によって左右される

 また、事情変更の原則もかなり認められる

 このことは、ヨーロッパの形式論理学では人間関係や権力者の意向によって命題の真偽が変わらないが、中国の論理・説得術では命題の真偽が人間(君主)によって決められることを考慮すると、その違いがイメージできるのではないかと考えられる。

 以下、中国における人間関係についてみていく。

 

 この点、中国の人間関係を見る上で最初に注目すべきものが、「幇会(パンフェ)」という人間関係である。

 この「幇会」というのは「根元的人間関係」・「最も親しい盟友関係」というべきものである。

 この「幇会」の人的結合の硬さは世界無比であり、日本や欧米にこの概念はないらしい。

 その結果、「幇会」内の人間関係たるや「死なばもろとも」と言うべき強固さがある。

 また、「幇会」の規範は公の法律・規範に優先する。

 とすれば、近代資本主義的所有権は産まれそうにない。

 

 なお、著者はこの「幇会」をイメージしたければ『三国志演義』を見ればいいという

 もちろん、この『三国志演義』は羅漢中著でも吉川英治著でも、横山光輝氏の漫画でもいいらしい。

 ちなみに、私は吉川三国志も横山三国志も読んでいる。

 前者は10巻、後者は60巻あるので、結構時間がかかるが。

 

 そして、この三国志演義に登場する劉備関羽張飛の関係、劉備孔明の関係が「幇会」である。

 他方、関羽曹操の関係は「幇会」でない。

 

 

 

 あと、小室先生は中国原論についての本も書いているので、こちらを参考にしてもいいかもしれない。

 

 

 さて、この「幇会」の外側に「情誼(チンイー)」という人間関係がある。

 この「情誼」は「幇会」の次に重要な人間関係を指す。

 つまり、「情誼」は「幇会」ほどの強固な人間関係ではない。

 

 経済との関係で重要なことは、中国では価格決定などの市場法則が「情誼」によって左右される点である。

 本書では次の書籍を引用して次のように述べている。

 

 

(以下、本書の159ページと160ページにあった上述の書籍から引用された部分を引用する)

 彼らは金だけを追究する商売を軽視する。商売を通じて、豊かな人間関係が成立しないと満足しないのである。

(中略)

 商売は、金や物のやり取りをすることだけではない。人間と人間の付き合いなのだと彼らは固く信じている。

(中略)

 全く同じ品物でも、中国では買い手によって、値段が違う。

(中略)

 商人は、情誼を深めたい相手には安く売る。また、安く売ることによって情誼を持つ相手のネットワークを広げてゆく

(中略)

 中華商人は、買い手によって、価格が異なることを不道徳だとも不当だとも思ってない。むしろ当然の商法だと考えている。

(引用終了)

 

 つまり、中国社会において商売の目的は利潤追求ではなく豊かな人間関係の構築にある、と。

 そして、中国で二重価格などの価格差が生じるのは豊かな人間関係の追求といった目的の実現のために生じるのだ、と。

 

 これは利潤追求(を通じたキリスト教的救済)を目的とする近代資本主義とは違う。

 また、これは伝統主義たる家法(祖法)の墨守を目的とした徳川時代の日本社会とも異なることになりそうである。

 あと、ユダヤ商人(ユダヤ教の商人)やアラビア商人(イスラム教の商人)と比較したらどうなるのかは分からないが(この辺は面白いところであるが、本書に書いてないから分からない)。

 

 さて、近代資本主義における所有権は絶対的であり、また、抽象的であることはこれまで何度も確認した。

 また、この所有権があってこそ、利潤・効用の最大化を合理的に計画し、また、実践できることも。

 しかし、この所有権の絶対性・抽象性がなかったらどうなるか。

 利潤最大化・効用最大化のための合理的計画の実践が不可能となり、資本主義は欠点だらけになるだろう。

 つまり、前期的資本は前期的資本のままで資本主義になることはない

 また、資本主義に必要な依法官僚制が成立することはなく、家産官僚制のままとなる

 家産官僚制のままでは近代システムになりようはずがない。

 もちろん、中国の商売の目的が利潤ではなく豊かな人間関係にあるならば、「資本主義にならないことに何か問題でもあるのか」ということになりかねないと考えられるが。

 

 ところで、資本主義の末期においても同様の問題が生じるらしい。

 これは、次の読書メモで言及している。

 

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 つまり、資本主義が発展すると総てが合理化されてしまい、資本主義に不可欠な「革新」のスピリットが政治・経営両面から抜けてしまう

 その結果、資本主義の精神が消失し、資本主義が滅びてしまう。

 そして、資本主義の崩壊の過程においても、所有権の絶対性と抽象性の希薄化があるらしい。

 今のアメリカ・ヨーロッパ・日本をみているとその様子が理解できないではない。

 

 

 以上が、本節のお話。

 商売の目的の違いがこのような形で現れるとは・・・。

 この発想を知ったのは初めてであり、大いに勉強できた。

 

 次回は第4章に進む予定である。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 15

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

15 第3章の第2節を読む(後編)

 前回と前々回で資本主義社会における「所有権の絶対性・抽象性」について数学と関連させながらみてきた。

 今回は、日本の企業・商家の特徴を取り上げ、これと資本主義社会の企業を比較する。

 

 

 本書は、ここから「所有と経営の分離」へと話題が進む。

 この点、ハワード・ヒューズの例を見ればわかる通り、資本主義社会の企業において最終的な経営権を持つのは所有者たる資本家である。

 所有権の絶対性を考慮すれば、この結果は当然である。

(なお、「最終的な経営権」と書いたのは、具体的な経営を「経営のプロフェッショナル」に委任することもできるからである、資本家が経営のプロフェッショナルとは限らないから)。

 もちろん、法律上は現在の日本の株式会社でも重要事項・基本的事項は資本家たる株主たちが参加する株主総会の決定事項となっている。

 このことは次の条文からも明らかである。

 なお、会社法295条2項にある「この法律に規定する事項」は株式会社の基本的事項・重要事項である(それゆえ、同3項においてそれらの重要事項について取締役会に委任することができなくなっている)。

 

会社法295条

1項 株主総会は、この法律に規定する事項及び株式会社の組織、運営、管理その他株式会社に関する一切の事項について決議をすることができる。
2項 前項の規定にかかわらず、取締役会設置会社においては、株主総会は、この法律に規定する事項及び定款で定めた事項に限り、決議をすることができる。
3項 この法律の規定により株主総会の決議を必要とする事項について、取締役、執行役、取締役会その他の株主総会以外の機関が決定することができることを内容とする定款の定めは、その効力を有しない。

 

 ところが、徳川時代の日本は違った。

 本書によると、所有権を持たない人間が経営を行っていたらしい

 なお、この慣行は戦後の日本(現代)になってからも引き継がれており、創業者といった特別な人間を除き、株主は「物を言わない株主」となっていた

 その結果、取締役(経営の執行を委任された人間)の行為を株主に代わって監視する監査役が従業員(取締役の部下)から選ばれるといった現象が発生した。

 従業員は取締役側の人間であるから、この監査役は従業員・取締役の意向・利益に従って動く。

 そのため、これらの監査役は株主から委託されているという意識、株主の利益の為に働くといった意識に乏しい。

 このことと「物を言わない株主」と相俟って、日本の株主総会は形骸化する傾向があった。

 

 この一種の逆転現象は重要、かつ、興味深い現象である。

 そこで、この点を見ていく。

 

 日本の「物を言わない資本家」の背後にある思想、それは江戸時代の商家の家訓に見ることができる。

 例えば、大商人たる鴻池家の家訓には家督の儀は先祖よりこれ預かり物と心得よ」とあった。

 つまり、所有者は「先祖」であって、企業の資産は資本家個人の物ではなく「家」の所有物であるとされていた。

 そのことが「家産」という言葉にこめられている。

 そして、家督(当主)は「家産」の所有者ではなく、受寄者、つまり、預かり人に過ぎなかった。

 また、家督は預かり物たる「家産」を子孫へ譲り渡していく当番に過ぎなかった。

 これでは、家督の権利など資本家の所有権には全く及ばないことになる。

 

 では、この「家」とは何か。

 この点、「家」には当主と当主の家族、同族だけではなく、奉公人まで含むものと考えられていた。

 これは武士の「一族郎党」をイメージすればいいだろう。

 つまり、武士の当主は一族郎党(当主の家族、同族、それから家来)を率いて戦場で一心同体の働きをした。

 この家の概念が武士から商家へ広がった。

 それゆえ、当主が欠格者とみなされれば廃嫡されて、当主の変更が行われた。

 また、相続人は家族のみならず、同族、果てには奉公人であることもあった(例えば、奉公人が一族の娘に婿入りすることもあった)。

 このような状況であったから、商人の所有権の行使については強い制約が課されていた。

 

 なお、このような家訓は京都の商家でも見受けられる。

 本書では、次の文献の一部が引用されている。

 

 

 上述の文献から本書に引用されている家訓として「夫れ家を起すも崩すも、皆子孫の心得なり。亭主たるもの、其の名跡、財産、自身の物と思うべからず」というものがある(本書152ページ、上述の文献77ページ)。

 

 ところで、江戸時代という時代は日本の前期的資本が大いに発展した

 この発展の一部が明治時代の近代化(資本主義化)に貢献したことは山本七平氏の書籍などからも見ることができる。

 例えば、江戸時代には生活水準が向上し、人口も増えた。

 また、複式構造を持った帳簿を産み出し、現代の株式会社で見られるプロフェッショナルによる経営、いわゆる「所有と経営の分離」も進んでいった。

 

 このように見ると、江戸時代の商業の発展、目的合理性の進歩には目を見張るものがあった。

 しかし、著者によると日本の所有権の形態は資本主義とは逆の方向に向かっていったという。

 このことの背後に所有権の抽象性のなさ、絶対性のなさ、日本の集団主義を見ることができる(当然だが、キリスト教は個人を単位としている)。

 

 ところで、所有権が資本主義的なものになるためには、商品流通(交換)の大規模化・広域化が必須であること、利潤最大化・効用最大化などの目的合理性の浸透が重要であるについては既にみてきた。

 これに対して、江戸中期以降の日本における商品流通には特異的なものがあった

 というのも、日本の商品流通は日本社会全域にゆきわたっていたわけではないし、また、同族企業であっても所有権の在り方が大きく違っていた。

 商業の発展は著しいものがあったのに、である。

 そこで、欧米と日本の比較をしてみる。

 

 まず、欧米では同族のうちのリーダーが経営を引き継いでいくという意志が強い。

 そのため、欧米では、その1人のリーダーが企業の資産を引き継ぎ、自分の意志で経営を行っていく。

 それを支えているのが、資本主義の所有権の絶対性である。

 その結果、「所有と経営の分離」ということはあまり進まなかった。

 これに対して、日本では資本主義の所有権は確立されていなかった。

 そのため、日本では企業(商家)はみんなのものであり、その中で有能な人が経営するという考え方に行きつくことになった。

 

 その結果、日本の江戸時代の商家は名目上家督を相続する当主には必ずしも能力が必要なかった。

 そして、経営は番頭たちに委任され、所有と経営は分離されるとともに、番頭経営が発達した。

 この当主の名目化と番頭経営の発達が、無能な当主の放漫経営などを防止し、商家の長期永続を支える要因になる。

 

 ところで、番頭経営に対する経営委任が行われる場合、その商家には「家訓」・「家憲」・「店掟」・「店制」などが制定された。

 そして、家産維持・運用、相続、帳簿、労務管理、取扱商品などのルールが作られた。

 その際の番頭経営の基礎にあったのが「新儀停止」・「祖法墨守」であった。

 これは、家産は先祖の物という点を考慮すれば想像に難くない。

 

 もちろん、この番頭経営の中でも例外はある。

 具体的には、鈴木商店金子直吉がいる。

 彼は鈴木商店の番頭経営者として事業を拡大させる。

 その意味で、彼は進取性と合理的精神を兼ね備えた日本人離れした経営者であった。

 ただ、鈴木商店は拡張主義がたたり、昭和3年の金融恐慌によって倒産してしまったが。

 

 とはいえ、このような存在は例外。

 ただ、「祖法墨守」・「新儀停止」の番頭経営であっても、目的合理性の推進、所有と経営の分離といったことが行われていたことは興味深い点である

 しかし、日本の商家の目的は「伝統主義」に向かっていき、資本主義の目的たる「利潤追求」に向かわなかった。

 この二律背反には注意すべきである。

 

 また、日本の商家の背後に「伝統主義」があるためか、経営者(支配人・番頭)たちの教育システムもまた伝統主義的であった。

 これを単純なモデルにすると、次のようになる。

 また、これは現在の社内教育システムと類似している。

 まあ、この点は次のメモで言及した通りだが。

 

支配人→番頭(大番頭・小番頭)→手代→丁稚

 

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 つまり、新儀停止の趣旨から過去の経営とノウハウに基づいた奉公教育が行われていた。

 これではどのような思想を持つ経営者になるのか想像するのは難しくないだろう。

 資本主義とはかけ離れた「伝統主義」に縛られた経営者の出来上がりである。

 

 しかも、この経営者には資本主義的な所有権がない。

 このような経営者に資産を合理的に活用して、新規の事業も考慮した利潤の最大化を目指す、といったことは不可能であろう。

 

 

 以上が本節の内容である。

 現代日本の資本主義を見る上でも非常に役に立った。

 また、今回の話から考えると、日本教は個人救済ではなく集団救済なのだなあ、ということが分かる。

 

 続きは次回に。

『数学嫌いな人のための数学』を読む 14

 今日はこのシリーズの続き。

 

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『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

14 第3章の第2節を読む(中編)

 本節は「私的所有権の抽象性や絶対性」についてみている。

 そして、前回は「私的所有権の絶対性」についてみてきた。

 今回はこの続きである。

 

 本書で著者(故・小室直樹先生)は述べる。

 過去はおろか現在の日本でさえ「所有権は絶対」ではない

 このことが日本の市場法則にどれほどの制約を課してきたであろうか、と。

 当然だが、著者の主張は「所有権の絶対が原則に過ぎないとしても、日本にはその例外が山ほどありすぎる」という意味であることには注意が必要である。

 

 

 そして、この制約の背後に日本の腐朽官僚制にあることが述べられている。

 つまり、資本主義体制の官僚制は依法官僚制でなければならないのに、日本では依然家産官僚制のままである、と。

 この点は次の読書メモで触れられている。

 

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 ただ、この腐朽官僚制の背後には所有権の絶対性の欠落という要素がある。

 この点については、次の読書メモが参考になる。

 

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 以下、この点について日本の歴史を遡ってみてみる。

 

 徳川時代は資本主義社会ではないので当然と言えば当然であるが、「所有権の絶対性」に反する例がいくつかあった。

 その例を示すと、棄捐令・闕所・お断り・御用金の4点である。

 

「棄捐令」はいわゆる「徳政令」のことで債権(借金)を無効とするものである。

 松平定信による棄捐令により札差(金貸し)が被った損失は約120万両となったと言われている。

 また、「闕所」というのは豪商に冤罪をかぶせて死刑などの重罪にし、財産を没収する制度である。

 さらに、「お断り」とは大名が町人から金を借りてその返済を拒絶することである。

 これによって破産せざるを得なくなった豪商もいると言われている。

 最後に、「御用金」とは富豪税(財産税)である。

 

 まあ、前期的資本による世界であれば、ある種どこでも見られることかもしれない。

 それゆえ、徳川時代のシステムにあれこれ言うのはどうかという感じがしないではない。

 

 

 そして、本書は「所有権の絶対性」とキリスト教の関係について話題に移る。

 ただ、これについては次の読書メモが参考になるため、読書メモへのリンクを貼るにとどめる。

 

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 結論から言えば、所有権の絶対性は「キリストと人間」という「創造者と被造物」の関係を所有に応用することによって生まれたことになる

 

 

 そして、話は「経済学と数学の関係」に進む。

 つまり、現在の経済学(資本主義)に数学(近代数学形式論理学)を導入できたのは「抽象性を獲得したから」である、と。

「抽象性の獲得」は「単純化と言ってもよい。

 なお、「抽象性の獲得」によって数学を導入し、かつ、大成功した別の学問の例としてば物理学がある

 この辺は次の読書メモが参考になる。

 

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 この話は数学との関連性を考えるなら極めて重要である。

 そこで、改めて説明する。

 

 まず、古代ヘレニズムにおいて幾何学と数学が結合した。

 これができたのは点・直線・円などの図形といった諸図形、つまり、幾何学で用いられるパーツが抽象性を獲得したから、となる。

 

 例えば、ここでいう「直線」には長さがあるが太さがない

「点」にはその場所に存在するとされているが大きさがない。

 こんなものが具体的(現実)に存在しないこと、抽象的(架空)の存在に過ぎないことは明白である

 何故なら、現実ではどれだけ小さくすることはできてもゼロにすることはできないからである。

 例えば、絶対零度に到達することができないように、極限値には到達できないように。

 

 このような抽象化・単純化したパーツを用いてユークリッド幾何学は成立・発展した。

 そこで、ユークリッド幾何学は抽象的な架空の世界のお話に過ぎないことになる。

 しかし、この抽象化・単純化により計算コストが下がり、ユークリッド幾何学は飛躍的に発展することになる。

 

 この抽象化・単純化による成功例は物理学に山ほどある。

 例えば、質点が挙げられる。

 この質点は「質量はあるが大きさがない」存在とされている。

 当然だが、現実において質点は存在しえない

 というのも、実在するはずの質点の比重(密度)は無限大となってしまうからである。

 ニュートン力学はこの質点の運動からスタートするので、ニュートン力学ユークリッド幾何学同様、架空の世界の理論に過ぎないではないかと笑い飛ばすこともできるはずである。

 特に、日本教徒のような実利にしか関心がなく、背後の理論・モデルに関心のない人間であれば以上の感想を持つことは全く不思議ではない。

 ところがどっこい、このニュートン力学が物理学の基礎になったことは歴史が示すとおりである。

 このニュートン力学の発展の背後にあったのが「抽象化による数学の全面的活用」である。

 

 当然だが、「抽象化による数学の全面的活用」が成功を保障するわけではない。

 しかし、社会科学でこの「抽象化による数学の全面的活用」によって成功した例が経済学である。

 リカードの理論は表面部分に数学がないだけで、背後には数学が利用されている。

 マルクスは経済学における数学の使用を奨励した。

 ヒックスやサミュエルソン以降は数学の利用は当然となっている。

 なお、本書にない巨匠にレオン・ワルラスを入れてもいいかもしれない。

 

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 では、この経済学とは何を研究する学問か。

 これは次のメモで述べた通り、資本主義社会の経済法則と言われている。

 この観点(単純化したものとの批判がありうるが)から見ると、研究対象がかなり絞られているなあ、という感想を持つ。

 この対象の限定に「抽象化による数学の全面的適用」の副作用を感じなくもないが。

 

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 この限定は他の社会科学と比較すればわかる。

 例えば、政治学古代ギリシャの政治哲学からスタートしている。

 また、法学もローマ法が重要な基礎テーマとなっているし、古代中国やソビエト法さえ研究対象となる。

 このように政治学や法学においては資本主義社会以外の社会でさえ研究対象になる。

 もちろん、社会学も然り。

 というか、社会学では人間社会だけではなくサル社会を研究することだってある。

 また、心理学は人間の行動ではなく、ネズミの行動が研究中心となっていた。

 さらに、人類学では単純社会の研究で画期的な業績を上げ、方法論が確立された。

 その観点から見れば、資本主義社会は複雑すぎて研究が困難である。

 このように、他の社会科学と比較すれば経済学の研究対象はかなり限定されているということになる

 

 とはいえ、例外的であってもいいので、他の社会の経済研究をすることはないのか、という疑問が頭に浮かぶかもしれない。

 本書ではその点について補足されている。

 つまり、旧ソ連では社会主義経済に関する経済研究がなされていた。

 しかし、その方法論を見るや資本主義の経済学、いわゆるブルジョワ経済学に過ぎなかった、と。

 まあ、マルクス自身の目的が資本主義社会の経済法則にあった以上、これはしょうがないことなのかもしれないが。

 

 

 以上、経済学が数学を全面的に導入できた背後に「所有権の抽象性」があることを見てきた。

 この所有権の抽象性は資本主義社会に見られる特異的な現象であることはこれまで見てきたとおりである。

 

 なにしろ、現代でさえ動産、特に、不動産以外の物で登録制度のない動産については「占有」の力が大きいのだから。

 このことは日本の民法に「占有権」という章が「所有権」の章よりも前にあることからもわかる。

 あるいは、民法192条の即時取得の条文からもわかる。

 この条文は「物の占有」に所有権があると信頼・誤信して動産の譲渡を受けたときに所有権が取得できるという条文である。

 ちなみに、不動産には同様の条文はない(民法94条2項類推適用という類似の手段があるだけである)。

 

民法192条(即時取得

 取引行為によって、平穏に、かつ、公然と動産の占有を始めた者は、善意であり、かつ、過失がないときは、即時にその動産について行使する権利を取得する。

 

 そして、中世においては「現実の占有」と「所有」が不可分だった

 言い換えれば、中世においては「具体的な占有が必要」という意味で所有権は抽象的ではなかった、ということになる。

 そして、日本ではこの傾向が強いことはこれまでの読書メモで述べてきたとおりである(リンク先は上に述べた『危機の構造』に関するメモの12と13)。

 

 そして、所有権に抽象性がないということは「現実支配イコール所有」となる

 本書では、この具体例として旧大蔵省の役人たちの「金融市場は自分のモノ」という例を出している。

 また、ソ連の役人が現実的に支配していたソ連社会主義経済を私物化してソビエト連邦と社会経済を滅ぼした例を示し、「資本主義の精神の欠如は社会主義すら滅ぼす!」と締めくくっている。

 この辺のことはあちらこちらで繰り返されていることではあるが。

 

 

 本書はここで「高級ブランド品を買う自由」というコラムが紹介されている。

 これは「所有権の絶対性」に関連する話である。

 

 この点、「高級ブランド品にお金を持っている若いOLが詰めかけた」という事例に対して、「これは資本主義だからできること」と説明している。

 もちろん、古い考え方から見た場合、「若い女性が何十万もするバッグを買うとは何事!」などと目の色を変えることはできる。

 しかし、所有権の絶対性から考えれば問題ないのである。

 ちょうど新たな事業に打って出ようとしたハワードのケースのように。

 

 逆に、これは資本主義でなければできないことであるともいえる。

 中世の村落で同じことができたかと言われれば、かなり微妙であるのだから。

 

 もっとも、「資本主義的な思想」と「現実の社会システム」のどちらが先だったのかは気になるところである。

 産業革命自体はこの思想や社会システムができた後らしいが。

 

 

 さて、コラムはこの辺で終わり、話は「所有の抽象性と数学の関係」に移る。

 この点、所有権の絶対性と同様、所有権の抽象性は商品交換から生まれた

 

 この点、この「所有権の抽象性」とは「所有権は具体的な占有・現実的な支配と関係なく、観念的に成立する」ということである。

 また、この抽象性があってこそ、所有権に対する数学的な処理(合理性計算)が可能となった。

 なぜなら、抽象的な所有権があるからこそ、所有権の有無に対して同一律矛盾律排中律としての性質を持つことになるからである。

 そして、この所有権の抽象性が資本主義社会以前の所有権に存在せず、資本主義社会特有のものであることはこれまで述べてきたとおりである。

 

 この近代資本主義においては、所有権(法律上の権利)と占有(現実の支配)が完全に分離している。

 いわゆる「ゾレン(当為)」と「ザイン(存在)」が分離しているというべきか。

 もっとも、この二律背反的二元主義は、日本の伝統的所有権意識には決定的に欠けている

 いや、現在の日本でさえ欠けているかもしれない。

 

 そして、このような所有権の抽象性は資本主義社会のなかで形成されていった

 つまり、資本主義において富は「商品」としての性質を持つ。

 そのため、それらの富は財貨と「交換されるもの」として把握される。

 そして、富が「交換されるもの」として把握されれば、重要な要素は「物の価値」であって、「現実の支配」はそれほど重要にならない

 さらに、富を交換過程で把握する場合、商品の価値のみを抽象化しても差し支えない。

 かくして、所有権は抽象性を獲得していった。

 

 なお、復習になるが、商品の交換過程をスムーズにするためには所有権が包括的・絶対的である必要がある

 というのも、中世のように複数の所有権が複雑に絡み合っていたら、目的合理的(形式合理的)企業活動はおぼつかないからである。

 

 以上、近代社会における所有権の抽象性と絶対性に確認したところで、話は徳川時代の日本の商家に移る

 筆者は興味深い特徴として、徳川時代の日本の商家において財産は家(全体)に帰属する」という点を取り上げている。

 もちろん、近代資本主義社会ならば財産は個人に帰属する。

 その意味で、近代資本主義経済と徳川時代の経済は正反対である

 

 筆者によると、この「家」(全体)の範囲は経営者一族に限るのではなく、従業員まで及ぶことがあるという。

 以前、ライブドアが買収を仕掛けたときに「会社は誰のものか」なる言葉が流行ったが、この言葉の背後には徳川時代からの伝統があるのかもしれない。

 

 

 本書は、ここから話が「所有と経営の分離」と「徳川時代から現代まで続く日本の商家(企業)の特徴」についてみていく。

 しかし、既に相当の分量になってしまっているため、これ以降は次回に。

司法試験の過去問を見直す11 その2

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成13年度の憲法第1問についてみていく。

 

4 本問の論じ方

 まず、問題文を再掲する(引用元は前回と同じ、リンク先などは省略)。

 

(以下、過去問の問題文を引用)

 法律上強制加入とされている団体が、多数決により、特定の政治団体に政治献金をする旨の決定をした。この場合に生じる憲法上の問題点について、株式会社及び労働組合の場合と比較しつつ、論ぜよ。

(引用終了)

 

 問題文に「比較しつつ、論ぜよ。」とある以上、論じ方に気を付ける必要がある。

 そこで、本問の論じ方は、①株式会社が政治献金をする旨決定したケースを論じ、②労働組合が政治献金を決定したケースを論じ、③両結果と比較しながら、強制加入団体が政治献金を決定したケースを論じる、という方法になる。

 

 また、前回述べた通り、本問の強制加入団体の決議の有効性についても、決議の内容が法人の「目的」(民法34条)の範囲内にあるかどうかについて、民法34条の「目的」の解釈にあたって憲法の人権規定の趣旨を解釈するべきである

 この指針に従って、決議の有効性を見ていくことになる。

 

5 株式会社と労働組合の場合

 前回の過去問で見てきた通り、八幡製鉄事件では株式会社の政治献金を適法とし、国労広島地本事件では労働組合への政治献金を違法とした。

 両者は結論が分かれるので、対比に用いやすい。

 そこで、両者の場合について考えてみる。

 

 

 まず、株式会社の場合から。

 南九州税理士会事件において最高裁判所は次のようなことを述べている。

 前回は省略した部分であるので、改めて引用する。

 なお、判決文中の民法43条は現在の民法の34条のことである。

 

(以下、南九州税理士会事件より引用)

 民法上の法人は、法令の規定に従い定款又は寄付行為で定められた目的の範囲内において権利を有し、義務を負う(民法四三条)。

 この理は、会社についても基本的に妥当するが、会社における目的の範囲内の行為とは、定款に明示された目的自体に限局されるものではなく、その目的を遂行する上に直接又は間接に必要な行為であればすべてこれに包含され(中略)、さらには、会社が政党に政治資金を寄付することも、客観的、抽象的に観察して、会社の社会的役割を果たすためにされたものと認められる限りにおいては、会社の定款所定の目的の範囲内の行為とするに妨げないとされる(中略)。

(引用終了)

 

 この点、八幡製鉄事件において最高裁判所は株式会社では「目的」の範囲を広く解釈した。

 その上で、株式会社による政治献金・多数決による意思決定による決議を肯定した。

 ただし、その実質的根拠は別途検討する必要がある。

 というのも、最高裁判所が肯定したから」というのは実務上のワイルドカードであっても、論文試験での実質的根拠として採用するには根拠として弱い(形式的に過ぎる)からである。

 

 この点、株式会社の「目的」の範囲を広く解釈する実質的根拠は、①株式会社は営利を目的とする私的な団体(営利社団法人)であること、②構成員には脱退の自由が広く保障されていることの2点になる。

 もちろん、この前提として、法人の人権享有主体性の問題、つまり、法人にも性質上可能な限り人権規定の適用があるという点もある。

 

 ここも一気に答案形式で書いてしまおう。

 

(以下、答案形式での論述、後に比較する箇所は協調で示す)

 では、株式会社が、多数決により政治献金をする旨の決定は有効になるだろうか。

 決議の有効性は決議の内容が株式会社の「目的」の範囲内にあるかどうかによるところ、この株式会社の「目的」(民法34条準用)の範囲内にあるかを考慮する際、法人の性格と構成員の寄付を強制されない自由を保障した憲法19条の趣旨を考慮しながら検討する。

 この点、営利社団法人たる株式会社は性質上可能な限り人権規定の適用があるところ、株式会社の目的は営利追求にある以上、その手段は広く認められるべきである。

 また、株式会社の構成員たる株主は原則としてその所持する株式を自由に譲渡することができる(会社法127条)ため、構成員の脱退の自由は基本的に肯定されている

 そこで、意に沿わない決議がなされた場合、反対に回った少数者は「株式を譲渡することで参加しない」という手段を採用できる。

 したがって、株式会社の「目的」の範囲内は、寄付を強制されない自由を考慮したとしても広く解釈すべきと考える。

 そして、この前提に立って客観的・抽象的に観察した場合、政治献金は自分の支持する政策を実現する政党を財政的に支持し、よって、営利追求の実効化を図る手段ということになる。

 そこで、政治献金は「目的」の範囲と言える。

 以上より、株式会社の場合、本問のような決議は有効となる。

 

 

 次に、国労広島地本組合費請求事件を参照しながら、労働組合のケースを考える。

 国労広島地本事件では政治献金については決議の効力を否定した。

 それについては、前回のメモで参照した通りである。

 そこで、論述形式で労働組合の場合を考えてみる。

 

(以下、答案形式での論述、後に比較する箇所は協調で示す)

 では、労働組合の場合はどうか。

 確かに、労働組合も団体としての人権享有主体性が肯定され、その結果としての政治的表現の自由も肯定されうる。

 しかし、労働者にとって組合に加入することは重要な利益をもたらすものであることから、組合脱退の自由も事実上大きな制約を受けている。

 とすれば、労働組合には様々な政治的思想・信条を持った人間がいることが想定できる。

 そして、政治献金のような政治的事項は投票の自由と表裏をなすものとして各々の組合員がその政治的思想・信条によって決すべきものである。

 また、労働組合は劣位ある労働者と使用者を対等な地位に立たせるための組織であって、公共的な面と労働者の権利を擁護する面の双方の面がある。

 そのため、労働組合の「目的」の範囲は株式会社の場合ほど広く肯定されず、労働組合の政治的活動において組合員の意に反する活動を強制することは「目的」の範囲外になるものと考える。

 以上より、労働組合の場合、本問のような多数決による政治献金の決定は、少数者の政治的思想・良心の自由を過剰に制限するものであり、「目的」の範囲外のものとして無効となる。

 

 

 以上、比較元の二者について検討した。

 これを用いて、強制加入団体の場合を検討する。

 

6 法律上の強制団体の場合

 では、強制加入団体の場合はどう考えるか。

 まあ、判例上の結論は無効であるから、労働組合と同様に考えていくのが妥当であろう

 そこで、以下、論述形式で考えていく。

 キーワードとして用いるべきものは、「同様に」と「異なり」である。

 

(以下、論述形式、一部強調)

 以上のケースを前提にして、法律上の強制加入団体について検討する。

 この点、強制加入団体の場合、法律上加入の条件が示され、構成員には脱退の自由が実質的に認められない。

 そこで、労働組合と同様に、強制加入団体にも様々な政治的思想・信条を持った人間がいることが想定できる。

 また、株式会社と異なり、法律上の強制加入団体の存在意義は公益目的の実現にある以上、その「目的」を広く解釈する必要もない。

 したがって、強制加入団体において「目的」の範囲は限定的に解釈すべきであり、意に沿わない政治的活動を強制することは「目的」の範囲外になるものと考える。

 以上より、強制加入団体の多数決による政治献金の決定は、少数者の政治的思想・良心の自由を過剰に制限するものであり、「目的」の範囲外のものとして無効となる。

 

 

 今回は判例と結論がそろっているので、結論の妥当性は吟味しなくてもいいだろう。

 

 以上で問題の検討は終わり。

 次回は、本問(平成13年度)と前回(平成20年度)の過去問を見ていて気になった点について見て、本問の検討を終了する。

司法試験の過去問を見直す11 その1

 これまで「旧司法試験・二次試験・論文式試験憲法第1問」を見直してきた。

 

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 これまで検討した過去問は、平成3年度・4年度・8年度・11年度・12年度・14年度・15年度・16年度・18年度・20年度の10問。

 今回は平成13年度の過去問を見ていく。

 

 今回この問題を取り上げたのは、この問題が前回(平成20年度)の過去問とテーマが極めて類似しているからである。

 ズバリ、今回のテーマは「強制加入団体の構成員の寄付を強制されない自由」である。

 

 なお、判例については前回見たものと重複するところが多いので、その点についてはリンクを貼る一方で結論を簡単に述べるにとどめる。

 

1 旧司法試験・論文試験・憲法・平成13年第1問

 まず、問題文を確認する。

 なお、問題文は司法試験の勉強の時にお世話になっていた「司法試験対策講座_憲法」(リンク先の通り、なお、リンク先は最新版だが、私が引用しているのは当時の物)から引用している。

 

 

(以下、過去問の問題文を引用)

 法律上強制加入とされている団体が、多数決により、特定の政治団体に政治献金をする旨の決定をした。この場合に生じる憲法上の問題点について、株式会社及び労働組合の場合と比較しつつ、論ぜよ。

(引用終了)

 

 前回で取り上げた「南九州税理士会事件」と極めて類似している。

 ただ、「株式会社及び労働組合の場合と比較しつつ、論ぜよ」とあるため、「論じ方」について制限がある。

 そこで、関連判例を見ながら検討することになると考えられる。

 

 

 まず、本問に関連する条文と判例を確認する。

 

憲法19条

 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 

憲法21条1項

 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 

民法34条(旧・民法43条)

 法人は、法令の規定に従い、定款その他の基本約款で定められた目的の範囲内において、権利を有し、義務を負う。

 

民法90条

 公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。

(当時の条文は「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス。」)

 

昭和43年(オ)932号労働契約関係存在確認請求事件

昭和48年12月12日最高裁判所大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/931/051931_hanrei.pdf

(いわゆる「三菱樹脂事件最高裁判決」)

 

昭和41年(オ)444号取締役の責任追及請求事件

昭和45年6月24日最高裁大法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/040/055040_hanrei.pdf

(いわゆる「八幡製鉄事件」)

 

昭和48年(オ)499号組合費請求事件

昭和50年11月28日最高裁判所第三小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/203/054203_hanrei.pdf

(いわゆる「国労広島地本事件」)

 

平成4年(オ)1796号選挙権被選挙権停止処分無効確認等事件

平成8年3月19日最高裁判所第三小法廷判決

(いわゆる「南九州税理士会事件」)

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/864/055864_hanrei.pdf

 

 

 まず、本問の憲法上の問題点を確認する。

 法律上強制加入とされている団体が、多数決によって特定の政治団体に政治献金をする旨の決定をした場合、反対に回った人間(少数派)は多数派の決定に従うこととなり、その結果、特定の政治団体への寄付を(一部)強制されることになる。

 この点、総ての決定に全会一致を要求すれば団体の機能性は大きくそがれる(この点は次のメモにて触れられている)ので、決定自体は否定できない。

 しかし、脱退の自由が大きく制限されている強制加入団体の場合、多数決によって強制できることに限界はないのか、また、政治団体への寄付を強制することはその限界を超えるのではないのか、というのが本問の問題点となる

 

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 この点、憲法上の権利の問題を検討する場合、論述の骨格は基本的に同じである。

 そこで、原則論と例外の一般論(規範定立)までの部分を一気に見ていこうと考える。

 

2 憲法上の権利の認定

 まず、原則論を確認しよう。

 答案形式にして一気に書き上げると次のようになる。

 

 

(以下、答案形式の論述)

 本問の団体の決定により、多数決に反対した団体の構成員は、特定の政治団体への政治献金を団体の一員として強制されることになる。

 そこで、本問の団体の決定は「政治献金を強制されない自由」を侵害するものとして無効とならないかが問題となる。

 

 まず、構成員の「政治献金を強制されない自由」は憲法上の権利として保障されるか。

 この点、政治献金を行うことは特定の政治団体を経済的に援助することになり、ひいては、その政治団体を支持することを意味する。

 とすれば、財産権(憲法29条)のみの問題として考えることは妥当でない。

 なぜなら、どの政治団体を支持するかといった政治的活動は、個人の一定の政治的思想、見解、判断等に結びついて行われるものだからである。

 そこで、政治献金を行う自由とその裏返しである政治献金を強制されない自由は、思想・良心の自由を定めた憲法19条によって保障されるものと解する

 よって、団体の構成員の政治献金を強制されない自由は憲法19条によって保障されうるものと考える

 

 

 この辺は、前回の問題とほとんど同じことを書いているため説明は省略。

 なお、言い回しについては「国労広島地本事件」を参考にしている。

 

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 以上が原則論である。

 ここから例外の話に移る。

 

3 憲法上の規定の私人間適用について

 この部分も一般論の部分までは、前回と同様なのであっさり進めていこう。

 

 

(以下、答案形式の論述)

 もっとも、本問で構成員の権利を制約している主体は「法律上強制加入とされている団体」(強制加入団体)である。

 そこで、憲法の人権規定がこのような法人・団体にも適用されるか。

 憲法の人権規定の私人間適用について問題となる。

 

 この点、国家権力に匹敵する社会権力が発生した現代社会においては、社会的権力から個人を守るべく人権規定を私人間にも適用する必要がある。

 そのため、私人間にも人権規定を適用するべきとも考えられる。

 もっとも、人権規定を直接適用すると、私法上の一般原則たる「私的自治の原則(契約自由の原則)」に反することになる。

 そこで、人権尊重と私的自治の原則の調和の観点から、私法の一般条項に憲法の人権規定の趣旨を解釈・適用して、間接的に私人間の行為を規律すべきであると考える。

 したがって、本問でも強制加入団体の決議の有効性についても、決議の内容が法人の「目的」(民法34条)の範囲内にあるかどうかについて、民法34条の「目的」の解釈にあたって憲法の人権規定の趣旨を解釈するべきであると考える

 

 

 ここも前回と同様である(前回の検討部分は次のリンクのとおり)。

 この点の核となる判例がいわゆる三菱樹脂事件である。

 

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 以上、原則と例外の一般論まで一気に進めてきた。

 次回から本格的な決議の有効性についてみていくことになる。

司法試験の過去問を見直す10 その6(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

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 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成20年度の憲法第1問についてみていく。

 なお、今回が最終回である。

 

 今回は、まず、本問結論の方向性を最高裁判所判例から見直す。

 その上で、少し気になったことを記す。

 

10 過去の最高裁判例から見た本問結論の方向性

 最初に、問題文と出題趣旨を確認する。

 

(以下、旧司法試験・二次試験・論文式試験・平成20年度・憲法第1問を引用、強調は私の手による)

 A自治会は 「地縁による団体 」(地方自治法第260条の2の認可を受けて地域住民への利便を提供している団体)であるが,長年,地域環境の向上と緑化の促進を目的とする団体から寄付の要請を受けて,班長らが集金に当たっていたものの,集金に応じる会員は必ずしも多くなかった。そこで,A自治会は,班長らの負担を解消するため,定期総会において,自治会費を年5000円から6000円に増額し,その増額分を前記寄付に充てる決議を行った。この決議に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

(引用終了)

 

(以下、出題趣旨を引用、強調は私の手による)

 自治会のような団体が寄付に協力するために会員から負担金等を徴収することを総会決議で決めることは会員の思想信条の自由を侵害しないかについて,関連判例を踏まえつつ,自治会の性格,寄付の目的,負担金等の徴収目的,会員の負担の程度等を考慮に入れて,事案に即して論ずることができるかどうかを問うものである。

(引用終了)

 

www.moj.go.jp

 

 この事案を見ればわかるように、本問事案はいわゆる社会福祉法人への寄付が問題となっている。

 つまり、寄付先の団体が政治団体(政党)でもなければ、(別の地方にある)同業のギルドでもない。

 そのため、本問事案はこれまで見てきた最高裁判所判例と関連性が薄いということもできる。

 

 しかし、これらの事件は「団体のよる寄付」と「構成員の寄付しない自由」の調整をしている点で参考になる点が多いと考えられる。

 そこで、これらの事件と本問の対比をしながら、本問の結論の妥当性を再考してみる。

 

 

 まず、本問の自治会(地縁による団体)の性格を考えてみる

 地方自治法260条の2の各項によれば法律上の強制加入団体でないことは明白であり、この点において司法書士会や税理士会とは異なる。

 しかし、同じ地区に複数の自治会があるということは現実的に考え難い。

 このことは地方自治法からも読み取ることができる。

 また、自治会に関与しない場合、その人がその地区の共同体の一員として生活するのは難しいことになると考えられる。

 そこで、「脱退の自由が事実上大きな制約を受けている」と考えるのが自治体の性格として無理がないのかな、と考えられる。

 つまり、自治会の性格については労働組合のようなものと重ねて考えるのが無理のないことであろうかと考えられる。

 

地方自治法第二百六十条の二

 町又は字の区域その他市町村内の一定の区域に住所を有する者の地縁に基づいて形成された団体(以下本条において「地縁による団体」という。)は、地域的な共同活動を円滑に行うため市町村長の認可を受けたときは、その規約に定める目的の範囲内において、権利を有し、義務を負う。
② 前項の認可は、地縁による団体のうち次に掲げる要件に該当するものについて、その団体の代表者が総務省令で定めるところにより行う申請に基づいて行う。
一 その区域の住民相互の連絡、環境の整備、集会施設の維持管理等良好な地域社会の維持及び形成に資する地域的な共同活動を行うことを目的とし、現にその活動を行つていると認められること。
二 その区域が、住民にとつて客観的に明らかなものとして定められていること。
三 その区域に住所を有するすべての個人は、構成員となることができるものとし、その相当数の者が現に構成員となつていること。
四 規約を定めていること。

(中略)

⑥ 第一項の認可は、当該認可を受けた地縁による団体を、公共団体その他の行政組織の一部とすることを意味するものと解釈してはならない。
⑦ 第一項の認可を受けた地縁による団体(以下「認可地縁団体」という。)は、正当な理由がない限り、その区域に住所を有する個人の加入を拒んではならない
⑧ 認可地縁団体は、民主的な運営の下に、自主的に活動するものとし、構成員に対し不当な差別的取扱いをしてはならない
⑨ 認可地縁団体は、特定の政党のために利用してはならない。

 

 

 次に、寄付の目的(目的の合理性)をみていく

 本問事情を見ると、寄付する相手は「地域環境の向上と緑化の促進を目的とする団体」である。

 つまり、寄付の目的は「地域環境の向上と緑化の促進」となるであろう。

 また、地方自治法260条の2第2項第1号に自治会(地縁による団体)の目的として「良好な地域社会の維持及び形成に資する地域的な共同活動を行うこと」を要求している。

 ならば、寄付の目的は自治会の設立・運営目的とほとんど重なる

 とすれば、寄付の目的の合理性を否定することはかなり困難であると考えられる。

 

 

 その上で、決議の目的(手段の合理性)についてみていく

 決議によって徴収手段を班長による集金から強制徴収に切り替えることになる。

 これによって班長の負担は軽減でき、効率的に徴収することができる。

 よって、「寄付」という目的から見た場合、この決議が合理的であることは明白である。

 しかし、「地域環境の向上と緑化の促進」という根本の目的から見た場合、「団体への寄付」がどの程度合理的か(促進しているのか)は不明である

 そのことを裏付けているのが、「長年,地域環境の向上と緑化の促進を目的とする団体から寄付の要請を受けて,班長らが集金に当たっていた」のに対して、「集金に応じる会員は必ずしも多くなかった。」という事情である。

 もし、班長の集金に対して積極的であったのであれば、別の問題点、例えば、「時代の流れによって不在の人間が多くなり、集金に手間がかかりすぎるようになった」という事情の方が重要になるところ、このような事情の記載がないからである。

 つまり、決議の合理性は寄付に対しては合理的だが、自治会設立・運営目的との関係では微妙ということになる。

 

 ただ、国労広島地本事件の最高裁判決から見た場合、この辺の合理性はいずれも、また、あっさりと肯定されるのではないかと考えられる。

 というのも、国労広島地本事件の最高裁判決には次の反対意見があるからである。

 

(以下、国労広島地本事件の天野武一裁判官の反対意見を引用、一部中略、各行毎改行、強調は私の手による)

 原判決の確定するところによれば、本件において、このD資金は、「(中略)D組合員の争議中の生活補償資金や支援団体の活動費に充てる目的で徴収されたもの(中略)」、かつ、その徴収は、「組合員の労働条件の維持改善その他経済的地位の向上」のために直接間接必要のものとはいえない、というのである。

 そしてまた、上告組合がDの政府に対する政策転換闘争を支援することは、国鉄G鉱業所売山反対の争議解決に必要な行為と解することはできるが、(中略)一方が労働者に有利に解決したからといつて、他方についても労働者に有利な解決を直接間接にもたらすだけの関連性があるとは解し難い、というのである。

 そうであれば、原判決が、いわゆるD資金の拠出を組合の目的の範囲外のものと判断したこと、(中略)は、まことに正当であつて、何らの違法はない。

 しかも、原判決は、企業間の労働条件の連動性、人員整理の波及効果などの主張は、一般論としては首肯しうるにとどまり、「本件に関し具体的な蓋然性の存在を証するに足る証拠はない」旨を判示しているのである。

 しかるに、多数意見は、これに対して具体的な根拠を示すことなく、単に「Dの闘争目的から合理的に考えるならば」として、その石炭政策転換闘争と企業整備反対闘争とは決して無関係なものではなく、企業整備反対闘争の帰すうは石炭政策転換闘争の成否にも影響するものであることがうかがわれる旨、独自の推断を施したうえ、組合員には支援資金の納付義務がある、と断定するのであるが、不当というほかはない。

 この場合に、多数意見は、右の結論に至る前提として、「多数決原理に基づく組合活動の実効性と組合員個人の基本的利益の調和という観点から、組合の統制力とその反面としての組合員の協力義務の範囲に合理的な限定を加えることが必要である。」と説く。

 しかし、この一般論が、本件において原審及び第一審の判断を誤りとする右の結論といかなる関連をもつのか、その判文上はなはだ明確を欠き、とうていその見解を維持するに足りないのである。

(引用終了)

 

 つまり、国労広島地本事件では、具体的な関連性を考慮して協力義務を否定した原審を最高裁判所が破棄しているわけである。

 ならば、この判決を下敷きにした場合、本問においても寄付自体の実効性を考慮することなく、合理性が肯定されるのではないかと考えられる。

 

 

 そして、国労広島地本事件において事実上の強制団体であっても近隣団体の支援について協力義務を肯定し、かつ、本問の寄付先が社会福祉法人であって政治団体ではないことに加えて、「地域環境の向上と緑化の促進」という事情はどの思想にも肯定されやすい要素であること、負担額が年間1000円である(月間にして缶コーヒー1本分)ことを考慮すれば、最高裁判所の寄付に関する判例を下敷きにすれば目的は有効、決議は違法ではない、ということになりそうな気もする

 もちろん、平成20年4月3日に最高裁判所(第三小法廷)が類似の事案で違法の判断をした大阪高裁の判決を追認した(上告を棄却した)ため、現状では異なる判断が可能であるし、正直この辺はよくわからないが。

 

 

 以上で本問事情の検討は終わる。

 ここからは本問を見て考えたことを述べていく。

 

11 憲法の私人間効力に関する一般的議論について

 本問において、憲法の人権規定の私人間適用が問題となった。

 原則論を述べれば「憲法の人権規定は私人間に直接適用されない」ということになる。

 つまり、「私人の私的行為はどれだけ犯罪的であろうが憲法違反になることはない」ということになる(罪にあたる場合に法律により国家権力によって刑罰権を行使されるだけ、損害賠償などの義務を負うだけである)。

 このことは、本問の結論が合憲・違憲ではなく、合法・違法となることからも明らかである。

 

 

 ところで、この「私人の行為は憲法違反になることはない」ということは巷でもよく言われている。

 この点、「憲法は法律の親玉(法律と同種のもの)」などと考える人たちに対し、憲法は権力を縛るもので国民を縛るものではない」という立憲主義の大原則を主張する目的があるならば、別に問題ないどころか、積極的に主張すべきとさえ言える。

 しかし、私自身、この「私人の行為は憲法違反にならない」という文言には違和感がある。

 上述の目的がある場合であっても、その実効性を理解しながらも。

 

 確かに、憲法は国民に対して納税などの義務を課している(憲法30条、26条2項、27条)が、納税の義務を怠ること(税金が払えないこと)が憲法30条違反となるわけではない。

 憲法30条は国家権力に対して「国家運営に必要な財産などを集めるために、法律を定めて国民に税金を納めさせるシステムを作れ」と言っているに過ぎない。

 税金を納めなければ、税法その他によって相応の処分を受けるだけである。

 そして、この税金滞納のケースを私人による大量・大規模な宗教弾圧(言論弾圧でも可)などに置き換えれば、「私人の行為は(どんだけ人権規定を蹂躙するようなものであっても)憲法違反になることはない」の出来上がりであり、これが間違いでないことも明白である。

 ここでは、言論弾圧・宗教弾圧に置き換えたが、財産犯や殺人・傷害に置き換えても同じことである(財産権の侵害は憲法29条、生命・身体に関する権利は13条と18条にある)。

 

 しかし、現実では憲法によって授権された国会の制定する法律(刑法その他)により「国家がやれば憲法違反になりうる行為」の一部が制限されており、これを強行すれば罪に問われる。

 また、間接適用説によった場合、私法の一般条項を介して人権規定の趣旨が適用される。

 この状況において、「私人の行為は憲法違反になることはない」と強調することは逆にまずい誤解を与えるのではないか。

「間接的に制限されているのは、憲法に反するからじゃないのか」と。

 それが私の違和感を持つ理由である。

 

 

 この件と関連して気になる論点が、国民の憲法尊重擁護義務に関する論点である。

 憲法99条は憲法尊重擁護義務の名宛人に国民を入れていない。

 そこで、国民はどう考えるべきなのかが問題となる。

 

憲法99条

 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 

 これに関する見解は3つあったと記憶している。

 1つ目は、「国民を名宛人から除外したことに特別な意味がない。ただ、憲法が社会契約である以上、国民は当然に憲法尊重擁護義務を負う」と考えるもの。

 もちろん、憲法・契約は改定を予定している以上、個々の条文に反対することそれ自体に問題はないのは明白であるが。

 2つ目は、「国民を名宛人から除外したことに特別な意味がある。よって、日本国憲法は国民に対して憲法尊重擁護義務を要求しない」というもの。

 憲法99条を反対解釈することで出てくる解釈である。

 そして、3つ目が「国民を名宛人から除外したことに積極的な意味がある。つまり、日本国憲法はドイツのような『戦う民主制』のような憲法忠誠を国民に対して要求しない」というもの。

 

 もちろん、どの見解に立っても権力者が憲法の縛りにかけられることは変わりがない。

 また、どの見解も一長一短であり、どの見解が絶対というものでもない。

 

 この点、従前の私はあまり意識することなく2つ目の見解に立っていた。

 3つ目の見解は積極的であるが、少々無理があるのではないか、と。

 ただ、最近は1つ目の見解に立っている

 というのも、「あまりに当然なものは明文化されない」し、フィクションとはいえ「社会契約説」の発想からすれば、1つ目の見解がもっとも整合的であると考えるからである。

 憲法キリスト教由来であり、かつ、憲法が(社会)契約であれば、「契約は守れ」、つまり「憲法は守れ」というのが当然の前提になるだろう。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 そして、この発想から見た場合、「私人の行為は憲法違反になることはない」という発言に違和感を持つことになる。

 さすがにこれは言い過ぎではないか、と。

 実質的に見れば法律を通じて制約を受けている以上、形式的に過ぎないか、と。

 

 まあ、憲法違反と認定されることがないのは明白であるし、「憲法は国家権力を縛るもの」という部分に反対するわけではない。

 逆に、国民の憲法尊重擁護義務を悪用すれば、それはそれで困ったことになることもある

 なので、違和感があるからといって「やめろ」という気は全くないのだけれども。

 

 

 以上で本問の検討を終える

 なお、「私人間適用それ自体」と「寄付を強制されない自由」については日本教的観点から気になる点があるのだが、それらについては次回以降に言及する予定である。

 また、次回は平成13年度の過去問を見ていく予定である。

司法試験の過去問を見直す10 その5

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成20年度の憲法第1問についてみていく。

 今回も前回と同様、本問に関連する判例をみていく。

  

8 南九州税理士会事件最高裁判決を見る

 最初に見るのが南九州税理士会事件である。

 国労広島地本事件は「組合費払え」という団体が個人を訴えた事件だったのに対し、南九州税理士会事件は「決議は無効だ。それから、決議によって不利益(団体の役員選挙に参加できなかった)を被ったので慰謝料払え」という個人から団体を訴えた事件である。

 

平成4年(オ)1796号選挙権被選挙権停止処分無効確認等事件

平成8年3月19日最高裁判所第三小法廷判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/864/055864_hanrei.pdf

(いわゆる「南九州税理士会事件」)

 

 まず、事実関係をチェックするため、判決文を引用する。

 なお、本文中、「K税政」とあるのは政治資金規正法上の「政治団体」である。

 

(以下、南九州税理士会事件から引用、節番号などは省略、各文毎に改行、ところどころ中略、強調は私の手による)

 被上告人は、昭和五三年六月一六日、第二二回定期総会において、再度、税理士法改正運動に要する特別資金とするため、各会員から本件特別会費五〇〇〇円を徴収する、納期限は昭和五三年七月三一日とする、本件特別会費は特別会計をもって処理し、その使途は全額K税政へ会員数を考慮して配付する、との内容の本件決議をした。

 当時の被上告人の特別会計予算案では、本件特別会費を特別会計をもって処理し、特別会費収入を五〇〇〇円の九六九名分である四八四万五〇〇〇円とし、その全額をK税政へ寄付することとされていた。

 上告人は、昭和三七年一一月以来、被上告人の会員である税理士であるが、本件特別会費を納入しなかった

(中略)

 被上告人は、(中略)、本件特別会費の滞納を理由として、昭和五四年度、同五六年度、同五八年度、同六〇年度、同六二年度、平成元年度、同三年度の各役員選挙において、上告人を選挙人名簿に登載しないまま役員選挙を実施した

(引用終了)

 

 そして、原審たる福岡高等裁判所は次のように述べて税理士の協力義務を肯定した。

 

(以下南九州税理士会事件から引用、節番号などは省略、各文毎に改行、ところどころ中略、強調は私の手による)

 被上告人が、税理士業務の改善進歩を図り、納税者のための民主的税理士制度及び租税制度の確立を目指し、法律の制定や改正に関し、関係団体や関係組織に働きかけるなどの活動をすることは、その目的の範囲内の行為であり、右の目的に沿った活動をする団体が被上告人とは別に存在する場合に、被上告人が右団体に右活動のための資金を寄付し、その活動を助成することは、なお被上告人の目的の範囲内の行為である

 K税政は、規正法上の政治団体であるが、被上告人に許容された前記活動を推進することを存立の本来的目的とする団体であり、その政治活動は、税理士の社会的、経済的地位の向上、民主的税理士制度及び租税制度の確立のために必要な活動に限定されていて、右以外の何らかの政治的主義、主張を掲げて活動するものではなく、また、特定の公職の候補者の支持等を本来の目的とする団体でもない

(引用終了)

 

 以上の原審の判断と次の国労広島地本事件の判示は重ならないではない。

 

(以下、国労広島地本事件の最高裁判決から引用、各文毎に改行)

 労働者の権利利益に直接関係する立法や行政措置の促進又は反対のためにする活動のごときは、政治的活動としての一面をもち、そのかぎりにおいて組合員の政治的思想、見解、判断等と全く無関係ではありえないけれども、それとの関連性は稀薄であり、むしろ組合員個人の政治的立場の相違を超えて労働組合本来の目的を達成するための広い意味における経済的活動ないしはこれに付随する活動であるともみられるものであつて、このような活動について組合員の協力を要求しても、その政治的自由に対する制約の程度は極めて軽微なものということができる。

 それゆえ、このような活動については、労働組合の自主的な政策決定を優先させ、組合員の費用負担を含む協力義務を肯定すべきである。

(引用終了)

 

 上の判示を南九州税理士会の事案にあてはめた場合、「税理士会の外側に税理士会の目指す政策を実現することを目的とする政治団体がいたため、『政治団体への寄付』という形をとった。よって、政治団体への寄付に対する協力義務も肯定してもよい」ということになるだろう。

 原審の考えたことを国労広島地本組合費請求事件の最高裁判決に引き付けるならこのようになる。

 まあ、この政治団体は「本当に」そのために使ったのか、それを税理士会が制御できるのか(使わなかったらどうするのか)、という問題があるとしても

 

 

 これに対し、最高裁判所はこの原審の判断をひっくり返した

 キーワードは「強制加入団体」「寄付先が『政治資金規正法上の政治団体』であること」の2点である。

 

 まず、最高裁判所は次のように結論を述べる。

 

(以下、南九州税理士会事件最高裁判決から引用、ところどころ中略、強調は私の手による)

  税理士会が政党など規正法上の政治団体に金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する政治的要求を実現するためのものであっても、(中略)税理士会の目的の範囲外の行為であり、右寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の決議は無効であると解すべきである。

(引用終了)

 

 そして、いわゆる株式会社と税理士会の違いを強調する。

 重要な部分を引用すると次の通りとなる。

 

(以下、南九州税理士会事件最高裁判決から引用、節番号など省略、各文毎改行、ところどころ中略、強調は私の手による)

 しかしながら、税理士会は、会社とはその法的性格を異にする法人であって、その目的の範囲については会社と同一に論ずることはできない。

(中略)

 税理士会は、税理士の使命及び職責にかんがみ、税理士の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、会員の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的として、法が、あらかじめ、税理士にその設立を義務付け、その結果設立されたもので、その決議や役員の行為が法令や会則に反したりすることがないように、大蔵大臣の前記のような監督に服する法人である。

 また、税理士会は、強制加入団体であって、その会員には、実質的には脱退の自由が保障されていない(中略)

 税理士会は、以上のように、会社とはその法的性格を異にする法人であり、その目的の範囲についても、これを会社のように広範なものと解するならば、法の要請する公的な目的の達成を阻害して法の趣旨を没却する結果となることが明らかである。

(引用終了)

 

 そして、強制加入団体における個人の協力義務について次のように述べる。

 

(以下、南九州税理士会事件最高裁判決から引用、節番号など省略、各文毎改行、ところどころ中略、強調は私の手による)

 法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている

 したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。

 特に、政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。

 

 そして、政治団体への寄付については次のように述べている。

 

(以下、南九州税理士会事件最高裁判決から引用、節番号など省略、各文毎改行、ところどころ中略、強調は私の手による)

 なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり(規正法三条等)、これらの団体に金員の寄付をすることは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである。

 法は、四九条の一二第一項の規定において、税理士会が、税務行政や税理士の制度等について権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとしているが、政党など規正法上の政治団体への金員の寄付を権限のある官公署に対する建議や答申と同視することはできない。

(引用終了)

 

 つまり、政治団体への寄付した場合、それを政策実現目的に使うか、政党支援・候補者支援の目的に使うかは完全に政治団体の自由であり、税理士会政治団体への寄付と官公署への建議・諮問に答申することは同じではないと述べている。

 ついでに、最高裁判所は次のように述べ、「結果的に見た場合、この献金がトンネル献金になってしまったことは原審も認めているじゃねーか」と述べている。

 

(以下、南九州税理士会事件最高裁判決から引用、節番号など省略、各文毎改行、ところどころ中略、強調は私の手による)

 原審は、K税政は税理士会に許容された活動を推進することを存立の本来的目的とする団体であり、その活動が税理士会の目的に沿った活動の範囲に限定されていることを理由に、K税政へ金員を寄付することも被上告人の目的の範囲内の行為であると判断しているが、規正法上の政治団体である以上、前判示のように広範囲な政治活動をすることが当然に予定されており、K税政の活動の範囲が法所定の税理士会の目的に沿った活動の範囲に限られるものとはいえない。因みに、K税政が、政治家の後援会等への政治資金、及び政治団体であるE税政への負担金等として相当額の金員を支出したことは、原審も認定しているとおりである

(引用終了)

 

 

 以上が、南九州税理士会事件の最高裁判決である。

 最後に、群馬司法書士会事件を見てみる。

 

9 群馬司法書士会事件最高裁判決を見る

 この判決には補足意見がない。

 そして、多数意見の概要を見ると、「寄付金として額が多すぎると言えなくもないが、阪神大震災という未曽有の事態に対する支援目的であり、(会員の)負担が重くない以上は無効とまでは言えない」という感じである。

 

(以下、群馬司法書士会事件最高裁判決から引用、節番号などは省略、各文毎に改行、ところどころ中略、強調は私の手による)

 原審の適法に確定したところによれば,本件拠出金は,被災した兵庫県司法書士会及び同会所属の司法書士の個人的ないし物理的被害に対する直接的な金銭補てん又は見舞金という趣旨のものではなく,被災者の相談活動等を行う同司法書士会ないしこれに従事する司法書士への経済的支援を通じて司法書士の業務の円滑な遂行による公的機能の回復に資することを目的とする趣旨のものであったというのである。

(中略)

 その目的を遂行する上で直接又は間接に必要な範囲で,他の司法書士会との間で業務その他について提携,協力,援助等をすることもその活動範囲に含まれるというべきである。

 そして,3000万円という本件拠出金の額については,それがやや多額にすぎるのではないかという見方があり得るとしても,阪神・淡路大震災が甚大な被害を生じさせた大災害であり,阪神・淡路大震災甚大な被害を生じさせた大災害であり,早急な支援を行う必要があったことなどの事情を考慮すると,その金額の大きさをもって直ちに本件拠出金の寄付が被上告人の目的の範囲を逸脱するものとまでいうことはできない。

 したがって,兵庫県司法書士会に本件拠出金を寄付することは,被上告人の権利能力の範囲内にあるというべきである。

(中略)被上告人は,本件拠出金の調達方法についても,それが公序良俗に反するなど会員の協力義務を否定すべき特段の事情がある場合を除き,多数決原理に基づき自ら決定することができるものというべきである。

 これを本件についてみると,被上告人がいわゆる強制加入団体であること(同法19条)を考慮しても,本件負担金の徴収は,会員の政治的又は宗教的立場や思想信条の自由を害するものではなく,また,本件負担金の額も,登記申請事件1件につき,その平均報酬約2万1000円の0.2%強に当たる50円であり,これを3年間の範囲で徴収するというものであって,会員に社会通念上過大な負担を課するものではないのであるから,本件負担金の徴収について,公序良俗に反するなど会員の協力義務を否定すべき特段の事情があるとは認められない。

(引用終了)

 

 この事件については、「未曽有の大震災で、スピード感のある対応が必要だった以上、寄付額が大きくてもしょうがない」という事情が見える。

 補足意見がない以上、「しょうがない」という消極的な肯定にとどまるのか、それを超えて積極的な肯定まで含むのか、よくわからないところであるが。

 

 

 ところで、この事件では反対意見が2件ある。

 まず、深澤裁判官(弁護士出身)の反対意見をみてみる。

 

(以下、裁判官深澤武久の反対意見から引用、節番号などは省略、各文毎に改行、ところどころ中略、強調は私の手による)

 被上告人は,司法書士になろうとする者に加入を強制するだけでなく,会員が司法書士の業務を継続する間は脱退の自由を有しない公的色彩の強い厳格な強制加入団体である

(中略)

 本件決議当時,被上告人の会員は281名で年間予算は約9000万円であり,経常費用に充当される普通会費は1人月額9000円でその年間収入は3034万8000円であるから,本件拠出金は,被上告人の普通会費の年間収入にほぼ匹敵する額であり,被上告人より多くの会員を擁すると考えられるD会の500万円,E会の1000万円,F会の1000万円の寄付に比して突出したものとなっている。

 これに加えて被上告人は本件決議に先立ち,一般会計から200万円,会員からの募金100万円とワープロ4台を兵庫県司法書士会に寄付している。

(中略),本件拠出金の寄付は,その額が過大であって強制加入団体の運営として著しく慎重さを欠き,会の財政的基盤を揺るがす危険を伴うもので,被上告人の目的の範囲を超えたものである。

(中略)

 本件決議は,本件拠出金の調達のために特別負担金規則を改正して,従前の取扱事件数1件につき250円の特別負担金に,復興支援特別負担金として50円を加えることとしたのであるが,決議に従わない会員に対しては,会長が随時注意を促し,注意を受けた会員が義務を履行しないときはその10倍相当額を会に納入することを催告するほか,会則に,ア 被上告人の定める顕彰規則による顕彰を行わない,イ 共済規則が定める傷病見舞金,休業補償金,災害見舞金,脱会一時金の共済金の給付及び共済融資を停止し,既に給付又は貸付を受けた者は直ちにその額を返還しなければならない,ウ 注意勧告を行ったときは,被上告人が備える会員名簿に注意勧告決定の年月日及び決定趣旨を登載することなどの定めがあり,また,総会決議の尊重義務を定めた会則に違反するものとして,その司法書士会の事務所の所在地を管轄する法務局又は地方法務局の長に報告し(司法書士法15条の6,16条),同法務局又は地方法務局の長の行う懲戒の対象(同法12条)にもなり得るのである

(中略)友会の災害支援という間接的なものであるから,そのために会員に対して(2)記載のような厳しい不利益を伴う協力義務を課すことは,目的との間の均衡を失し,強制加入団体が多数決によって会員に要請できる協力義務の限界を超えた無効なものである。

(引用終了)

 

 この点、深澤武久裁判官(弁護士出身)は、額の過大さだけではなく、手段の不相当性にも言及している

 

 

 次に、横尾裁判官(行政官出身)の反対意見を見てみる。

 重複する部分を除くと次の部分が参考になると考えられる。

 

(以下、横尾裁判官の反対意見から引用)

 原審が適法に確定した事実関係によれば,①本件決議がされた前後の被上告人の年間予算は約9000万円であった,②本件決議以前に発生した新潟地震や北海道奥尻島地震長崎県雲仙普賢岳噴火災害等の災害に対し儀礼の範囲を超える義援金が送られたことはない③被上告人の会員について火災等の被災の場合拠出される見舞金は50万円である(共済規則18条)というのであり,(中略)

 原審が適法に確定した事実関係によれば,①(中略)本件決議案の提案理由の中には,「被災会員の復興に要する費用の詳細は(中略),最低1人当たり数百万円から千万円を超える資金が必要になると思われる。」との記載があり,被災司法書士事務所の復興に要する費用をおよそ35億円とみて,その半額を全国の司法書士会が拠出すると仮定して被上告人の拠出金額3000万円を試算していること等からすると,本件拠出金の使途としては,主として被災司法書士の事務所再建の支援資金に充てられることが想定されていたとみる余地がある,(中略)③本件拠出金の具体的な使用方法は,挙げて寄付を受ける兵庫県司法書士会の判断運用に任せたものであったというのであり,このような事実等によれば,本件拠出金については,被災した司法書士の個人的ないし物理的被害に対する直接的な金銭補てんや見舞金の趣旨,性格が色濃く残っていたものと評価せざるを得ない

(引用終了)

 

 

 以上、関連判例を前回と今回でみてきた。

 ただ、判決を見るだけで相当の分量になってしまった。

 そこで、次回、本問の結論の妥当性を再考し、同時に、憲法外の事情を含めて諸々の気になったことを確認して、本問の検討を終了する。