今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
17 第10章を読む_前半
第10章のタイトルは「『憲政の神様』の不敬罪」。
帝国陸軍・大政翼賛会によって作られた東条内閣と戦った尾崎咢堂についてみていく。
この点、本書では「昭和天皇の自己規定の内容」(第1章)、「昭和天皇の自己規定の形成に貢献した教師たち」(第2章から第6章)、「昭和天皇の自己規定に挑戦した者たち」(第7章から第9章)と続いてきた。
この第10章からは「昭和天皇の自己規定に挑戦した者たちに反抗した者たち」に焦点があたることになる。
具体的に取り上げられているのが尾崎咢堂と津田左右吉であり、第10章と第11章では尾崎咢堂についてみていく。
本章は、昭和天皇の自己規定がもたらす微妙な副作用から始まる。
つまり、昭和天皇が天皇機関説に従って行動し、天皇機関説を唱える憲法学者・美濃部達吉への弾圧を惜しまれても、美濃部達吉に対して不敬罪の有罪判決が出れば何も言えない。
これは、天皇機関説に従えば議会に何も言えないように、裁判所にも何も言えないからである。
もちろん、立憲君主としての殻を破って干渉することはできないではないが、干渉によって天皇機関説は葬り去られることになる。
いいとこどりは許されない、というべきか。
この点、美濃部達吉は貴族院議員を辞職させられたが起訴猶予で済んだ。
しかし、尾崎咢堂と津田左右吉は起訴され、いずれも第一審では有罪判決を受けている。
この点、尾崎咢堂については政敵を抹殺するために東条英機首相が行った法の濫用であろう(もちろん、「濫用」とは自由主義・立憲主義から見て、である)。
もっとも、東条英機は司法権に干渉して尾崎咢堂を抹殺することができなかった。
現在ほどではないとしても、大日本帝国憲法にも司法権の独立があったからである。
この点、尾崎咢堂が東条英機を怒らせた理由は、昭和17年4月の『東条首相に与えた公開状』と『最後の御奉公につき選挙人諸君にご相談』という立候補趣旨説明である。
当時、帝国陸軍の敵に社会主義者がいたが、帝国陸軍は社会主義者を転向させて活用していた。
しかし、自由主義者には容赦がなかった。
この点は次の読書メモにあるとおりである。
ところで、尾崎咢堂が東条英機を怒らせたこれらの文章を見ると、つまるところ「東条政治は憲法違反」と言っているように見える。
この点、本書では一部が引用されているので、これを私釈三国志風に意訳しようとしてみる(なお、意訳であって引用や直訳ではないので注意)。
(以下、本書で引用されている『東条首相に与えた公開状』と『最後の御奉公につき選挙人諸君にご相談』の一部を意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
昭和17年の翼賛選挙において、私の選挙区で①自由主義者、②個人主義者、③民主主義者、④平和主義者、⑤新英米派、⑥軍縮論者、⑦翼賛運動反対者等の気配があったら投票するなと遊説している馬鹿がいる。
これは実質的に「私に投票するな」と言っているに等しいわけですな。
しかも、この馬鹿が公費や官僚の直接・間接の援助を受けているのであれば、立派な選挙干渉であり、各選挙法に反するのみならず、憲法にも反することになる。
まあ、明治25年の選挙干渉に屈しないで私を選出してくれた皆さんですから、こんなん全然大丈夫であろう。
でも、馬鹿をのぼせ上らせるのもどうかと思いますので、教育の機会を与えることにする。
まず、こんなことを言っている馬鹿は、自由主義を私利私欲至上主義とでも曲解しているのだろう。
しかし、大日本帝国憲法は、第1章に天皇の大権を定めて、第2章に臣民の権利義務を制定しておる。
そして、第2章の義務規定は2つ(兵役と納税の義務を定めた第20条と第21条)だけであり、残りは臣民の権利と自由を保障している。
念のため、(馬鹿に対して)各条項を述べると、第19条は公務就任権、第22条は居住・移転の自由、第23条は身体の自由、第24条は裁判を受ける権利、第25条は捜査等における住居不可侵の権利、第27条は財産権、第28条は信教の自由、第29条は言論・集会・結社の自由、第30条は請願権を保障している。
これは文字になっているためはっきり見ることができるのだが、自由主義を排斥する人々は、明治天皇の偉業たる大日本帝国憲法を否定するのであろうか。
さらに言えば、自由の反対は不自由であって、奴隷や監獄にいる状況を指すわけだが、これを真に好む人間がいると考えているのか、馬鹿も休み休み言え。
昔、自由主義国家の大英帝国と日英同盟を結んだ時、明治天皇は大いに褒められ、時の大臣は叙爵・昇爵しておる。
今、不幸にしてアメリカ・イギリスと戦っているが、過去の事実は変わらない。
(意訳終了)
なお、ここで注釈が入る。
つまり、選挙民にはこの全文が配布されたわけではない。
例えば、上に意訳した後半の「これは文字にしてはっきり見ることができるのだが、」以下の部分はほとんどが削除されている。
消された部分を見ると、「五箇条の御誓文」の第1条や「自由憲法の否定は明治天皇の偉業に反することになる」点が消されている。
逆に言えば、東条内閣は憲法無視や公論無視を持ち出されることに相当警戒していた、と言える。
この点、尾崎咢堂は立憲民主主義の立場でものを言っており、その発言内容は憲法遵守を自己規定としている昭和天皇とさほど差がない。
しかし、昭和天皇と同じ意見を述べると「不敬罪」になるわけである。
もちろん、この文章では不敬罪にできないため、東条内閣はそのチャンスを狙っていた。
そして、尾崎咢堂の田川大吉郎の応援演説での発言をやり玉に挙げて追い落としにかかる。
なお、ここで当時の報道等に関する著者(故・山本七平先生)の注釈が入る。
著者は起訴された旨の新聞記事を読んだ直後に軍隊に入ったため、詳しいことを知らなかったが、「三代目」という部分を見て「尾崎咢堂が何を言ったのか」を想像したという。
しかし、戦後相当立って原資料を読み、その想像が相当間違っていた、報道が相当歪曲されていたことを知った、と。
以下、「三代目演説」に該当する部分が引用されているため、ここも引用してみる。
(以下、本書で引用されている尾崎咢堂の演説の一部を意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
偉大なる明治天皇の『五箇条の御誓文』、これを暗記してない輩は日本人ではないと言われても抗弁できないでしょう。
また、この『五箇条の御誓文』の精神こそ日本が発展した理由です。
つまり、明治時代以前は、いくら素晴らしい天皇がおっても善政は一代限り、次の天皇が劣っていれば善政は止まってしまう。
他方、我が国は明治天皇、大正天皇、昭和天皇と続き、国はますますよくなっておる。
ちなみに、『売家を唐様で書く三代目』という川柳があるが、これは世界の真理を端的に表現したものである。
素晴らしい人が一代で財産を築いても、二代・三代のうちに財産を手放すことはある、その際、手習いだけは立派に習ったため立派な文字で「売家」と書くことになる、ということなのだから。
例えば、ドイツ帝国の最後の皇帝(ヴィルヘルム二世)は、ドイツ帝国の初代皇帝のヴィルヘルム一世の孫である。
つまり、おじいさんが立派な帝国を作ったのに、孫の三代目が世界を相手に戦争を仕掛けてガタガタになってしまった。
イタリアが統一されたのは先々代の時代、だから、今の皇帝は三代目であるが、この皇帝はムッソリーニの影に隠れてしまって、誰にも名前を覚えられていないありさまである。
以上のように、個人に限らず、国家も三代目になると初代の良さを維持できないわけである。
ところが、日本は大正天皇、昭和天皇と続いても、ますますよくなっている。
(意訳終了)
さらに、尾崎咢堂の発言は過激になる。
つまり、「ヒットラーやムッソリーニがやっていることは秦の始皇帝と大差なく、このような全体主義的独裁政治など過去にいくらでも例があるから、今さら称賛する必要もなかろう」と言いつつ、日本の全体主義的政治を否定する。
これらの部分も意訳してみる。
(以下、本書で引用されている尾崎咢堂の演説の一部を意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
ヒットラーやムッソリーニのやり方を一番立派にやったのは秦の始皇帝である。
秦の始皇帝が採用していた法家の思想の実現のために、儒者らを皆殺しにしたうえ書物を焼いたのだから。
もっと言えば、始皇帝は強い軍隊を作って天下を統一した。
むしろ、ヒットラーやムッソリーニはこの真似をしていると言ってもよい。
だから、ヒットラーやムッソリーニのやっていることが最先端の手法であり、これを日本でも採用しようわめている知識階級の連中は自身の無知を無意識に自白しているに等しい。
開いた口がふさがらないとはこのようなことをいうのだろう。
そういえば、私は近衛文麿に「天皇陛下がいる以上、全体主義に基づく独裁政治はできない」と質問したが、近衛文麿はろくな返答ができなかった。
念のために説明すると、日本の天皇陛下が「朕は始皇帝のようにふるまうぞ」と憲法を放り投げてしまえば、秦の始皇帝のような独裁政治ができる。
しかし、日本の天皇陛下は明治天皇の子孫であるところ、その明治天皇が「わが子孫は永遠にこの憲法に則って政治をしろ」と憲法発布勅語で述べている。
だから、明治天皇の遺訓に背かぬ限り、昭和天皇は秦の始皇帝のような政治ができないことになる。
では、昭和天皇の代わりに臣民が独裁者になって、ヒットラーやムッソリーニの真似事ができるか。
これもできない。
なぜなら、帝国臣民の上に天皇陛下がおり、明治天皇の定められた大日本帝国憲法があるのだから。
これは憲法に書いてあることをストレートに読めばわかることである。
なお、最近の憲法軽視は、明治天皇時代の御偉業が世に示されていないことの現れなのだろう。
だから、私、尾崎咢堂は最後の御奉公として、この大義を明らかにしたうえで、この道を進んでいきたいと考えております・・・。
(意訳終了)
しかし、ここまでストレートに言えることはすごい。
さすが、辛勝とはいえ日露戦争を勝利に導いた桂太郎を大正政変において弾劾演説を行い、退陣させただけはある、というべきか。
なお、尾崎咢堂は起訴されても東条内閣に対する批判はやめなかった。
そして、『憲政以外の大問題』を公表した。
その趣旨は、①国務大臣の責任感が欠乏していること、②戦争の終結に関する成案や研究をしていないことの2点である。
なお、「これだけのことを言ってもガス室送りにならなかった」という事実から、日本はナチス・ドイツよりましだった、とも言えそうである。
当然、昭和天皇が立憲君主として質問した事項と尾崎咢堂の発言に共通点があることも。
以下、本書で引用されている『憲政以外の大問題』で示された問題点を意訳してみる。
(以下、本書で引用されている『憲政以外の大問題』の一部を意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
盧溝橋事件が起こるや、彼ら(筆者註、政府関係者)は戦争と言わず、事変と称し、開戦の詔勅を請うことなく、大軍を動かしている。
さらに、彼らは短期間で片付くと誤信していたらしく、『速戦即決』を唱えているが、5年経過しても収拾することができていない。
(意訳終了)
(以下、本書で引用されている『憲政以外の大問題』の一部を意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
万一、ドイツやイタリアが敗れて、イギリスやアメリカに降伏した場合、我々は一国でアメリカ・イギリスと戦えるだろうか。
愛国を唱える者こそこの場合にどう対処するのかを研究しなければならない。
無責任にスローガンを濫発するのは、忠臣のやることではない。
ドイツやイタリアでは、敗戦の可能性も考慮し、その際の対処も研究しているようである。
これに対して日本は報道に酔いしれて何も考えていないらしい。
これこそ、私が国のついて憂慮する原因である。
(意訳終了)
(以下、本書で引用されている『憲政以外の大問題』の一部を意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意)
ところで、我が国には、共産主義・全体主義に基づく独裁政治を新秩序、自由主義に基づく民主政治を旧秩序と呼んでこれを廃棄せんと実行しているが、両者の両体制の長短や得失を十分研究したのだろうか。
まともな人間が冷静に研究・検討すれば、両者の利害得失はわかりそうな気がするのだが。
(意訳終了)
いま読めば「普通のこと」に見える。
しかし、当時の戦争礼賛の空気でこれだけのいうことがどれだけ大変かは、戦後の日中友好ブームや文化革命の際の毛沢東ブームのときにこれに水を差そうとすることの困難を考えれば想像に難くないだろう。
あるいは、戦後よりも戦前の方がもっと大変だったであろう。
というのも、ドイツ・イタリアの快進撃は毛沢東の大躍進や文化革命のように、いや、それ以上に絶対化されていたからである。
そして、尾崎咢堂は結論として次のように述べる。
(以下、本書で引用されている『憲政以外の大問題』の一部を意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
国家の危機的状況において、ドイツ・イタリア・ソ連は、共産主義・全体主義といった珍しい名前を掲げながら、古来の独裁専制主義を実行している。
もちろん、これらの独裁専制主義によっても一時的な成功は実現できるし、まさに、彼らは実現させている。
しかし、文化が大いに進歩した今日においては、これらの独裁体制は長続きしない。
平時に戻れば、ソ連はともかく、ドイツ・イタリアは独裁専制主義の欠陥を悟って、自由主義の復権を図るだろう。
なぜなら、彼らが個人を否定するが、個人なくして国家も世界も成立しないからである。
自由や権利が保障されない社会がどんな社会か、このような社会は3,400年前にはざらにあったから、歴史を紐解けばすぐにわかる。
いわば、「斬捨御免」・「御手打御随意」の世界である。
ドイツ・イタリア・ソ連がやっていることはこれに過ぎない。
そして、これは自由主義体制以前にあったアンシャン・レジームそのものである。
(意訳終了)
以上、尾崎咢堂の戦いについてみてきた。
残りは次回に。