今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
21 第12章を読む_前半
第12章のタイトルは「立憲君主の『命令』」。
前章は、「憲法遵守」という昭和天皇の自己規定と同様の自己規定を持つ尾崎咢堂の主張などを見てきた。
本章は、「憲法遵守」という自己規定を持った昭和天皇が、その自己規定を乗り越えようとした事件についてみていく。
本章は、福沢諭吉の『帝室論』を引用することから始まる。
例によって、本書で引用されている『帝室論』の部分を私釈三国志風に意訳しようとしてみる(意訳であって引用や直訳ではないことに注意)。
(以下、本書で引用されている『帝室論』の一部を意訳しようとしたもの、意訳ではあって直訳や引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
皇室は政治の外側にあるものである。
だから、私は「日本の政治について論じるのであれば、皇室の尊厳と権威を濫用してはならない」ことを持論としている。
(意訳終了)
(以下、本書で引用されている尾崎咢堂の主張の一部を意訳しようとしたもの、意訳ではあって直訳や引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
なお、私の持論に対して「皇室を虚構扱いするものである」と疑う者が出てくるだろうが、前にも言ったとおり、皇室は「統治せざるも君臨す」を実践しているからそうではない。
(意訳終了)
著者(故・山本七平先生)は、福沢諭吉の主張を「君臨すれど統治せず」という言葉で要約している。
これも適切なまとめ方ではあるが、ひっくり返した方がいい感じがしないでもない。
というのも、この順番により「君臨している」と「統治しない」のいずれを強調しているかが変わるような気がしたからである。
この点、「君臨すれど統治せず」という状態がどのような状態を指すのかがよくわからない。
例えば、「権力(統治)と権威(君臨)の分離」という言い方もできなくもないが、これまた抽象的である。
そこで、近代において「君臨すれど統治せず」を実施し、また、昭和天皇が模範と考えていた大英帝国時代の国王、ジョージ五世の例をみてみる。
この点、ジョージ五世の祖母たるヴィクトリア女王には子供が多く、かつ、その多くがヨーロッパ諸国の王室と結婚している関係で従兄弟が多かった。
そこで、第一次世界大戦前夜の国王にはジョージ五世の従兄弟というものが少なくなかった。
その一人にロシア帝国のラストエンペラー、ニコライ二世がいる。
この点、ジョージ五世とニコライ二世は親しい関係にあった。
そこで、ロシア革命においてジョージ五世はニコライ二世の身の上を心配し、イギリスに亡命させるように要請した。
しかし、ときの首相は表立ってはこれを実施しない。
やがて、ニコライ一世は一家もろとも虐殺されることになった。
その意味で、ジョージ五世の希望を政府は実現しえなかったことになる(なお、この点、内閣が亡命させようとしたところ、ジョージ五世が反対したという逸話もあるらしい、だが、この点で重要なのはその点ではないため、本書の記載に従う)。
しかし、当時の内閣は責任を問われていない。
内閣の責任を問うのは議会であって国王ではないからである。
同じように、昭和天皇も「要請」(本書では「命令」)を行っている。
これは、「御内意」とか「御希望」と言われているが、正規の命令たる「勅令」とは異なる。
そのため、「御内意」や「御希望」が通ることもあれば、無視されることもある。
しかし、皇室は「一視同仁」である以上、希望を通したか無視したかで対応を変えることは差別にあたる(区別にはあたらない)のでできない。
当然だが、褒章や減俸・降格といった処分もできない。
まあ、昭和天皇は絶対神ではなく、人間の範囲内で最も畏きお方であるから、人間と同様に希望通りにやれば喜ぶだろうし、希望を無視すれば不快になることはありうるとしても。
このことを裏付けるエピソードが本書に登場する。
それは上海事変における昭和天皇の御希望とその希望にこたえた白川義則大将の話である。
この点、白川大将は上海事変の増援部隊の司令官であった。
それゆえか、昭和天皇は白川大将に対して「早期終結」の御内意を伝えた。
白川大将はその希望に応え、中国の部隊を蹴散らすや否や停戦協定を結んで撤退した。
もちろん、帝国陸軍は追撃して南京まで進撃する予定だったので、白川大将はその世論(空気)をはねのけて強行したことになる。
その後、白川大将は朝鮮独立派の人間に爆弾を投げられ重傷を負い、死亡した。
本書では、このときの昭和天皇の言動について『木戸日記』の記載を引用している。
これまで同様、本書で引用されている部分を意訳してみる。
(以下、本書で引用されている『木戸日記』の一部を意訳しようとしたもの、意訳ではあって直訳や引用ではないことに注意)
陛下は、白川大将の果断なる処置に大いに喜ばれ、「白川はよくやった」と仰せであった。
(意訳終了)
(以下、本書で引用されている『木戸日記』の一部を意訳しようとしたもの、意訳ではあって直訳や引用ではないことに注意)
白川大将が薨去された際には、未亡人に自身の詠んだ和歌を賜与なされることもあった。
(意訳終了)
このように見ると、「詠んだ和歌の賜与」が個人的な褒章の限度だったのだろう。
このように、公的な差別はないとしても、私的な範囲では「一視同仁」ではなく差別があることもある。
本書では、その例として終戦後の木戸幸一と近衛文麿に対する昭和天皇の態度を挙げている。
まず、昭和天皇は、終戦直後に戦犯として出頭命令が出た木戸幸一に対して次の行動に出る。
本書で紹介されている部分を意訳してみよう。
(以下、本書に示された昭和天皇と木戸幸一のやり取りについて書かれた部分を意訳したもの、意訳ではあって直訳や引用ではないことに注意)
(藤田侍従長)木戸幸一は戦争犯罪者になっている以上、ご遠慮為された方が・・・。
(昭和天皇)アメリカから見れば犯罪者かもしれないが、日本にとっては功労者である。もし、遠慮するようであれば料理を届けてくれ。
(一連の言葉を聴いて感激した木戸幸一さん参上)
(昭和天皇)今回は残念であるが、健康には気を付けてくれ。また、これまで話し合った通り私の心境は承知していると思うから、十分説明してきてくれ。
(意訳終了)
昭和天皇は木戸に対して愛用の硯を賜与し、皇后も様々な品を下賜されている。
また、内大臣府が廃止されたときにも木戸幸一は様々なものを下賜されている。
その意味で、木戸幸一は昭和天皇に対してねぎらわれた人なのかもしれない。
これに対して、同じ出頭命令がきた近衛文麿に対して昭和天皇から何もしなかった。
昭和天皇は近衛文麿が総裁になった大政翼賛会を「幕府」と呼んでいたし、近衛文麿は日華事変の「不拡大方針」を宣言しながら予算を通しているのだから、信頼を失ったとしても不思議ではないのかもしれない。
なお、近衛文麿は出頭前に自殺することになる。
以上は私的な領域の話ではあるが、このような区別から昭和天皇の「御希望」は推察できる。
他方、昭和天皇自身が明確に「御希望」を述べたこともあった。
もちろん、ジョージ五世の場合と同様にうやむやにされたり無視されたりする例は少なくなく、白川大将の例はレアケースであり、だからこそ昭和天皇は和歌を贈られたのであろうが。
まずは、五・一五事件によって犬養毅首相が暗殺された後、次の首相について昭和天皇は次の七項目を具体的な「御希望」として西園寺公に伝達された、と言われている。
このことについて、本書は『西園寺公と政局』から引用されている。
以下、引用されている部分を意訳してみる。
(以下、本書で引用されている『西園寺公と政局』の部分を意訳したもの、意訳ではあって直訳や引用ではないことに注意)
昨夜、侍従長が私(西園寺公望の秘書官の原田熊雄)のところに来て、『陛下の御希望』を伝えた。
いずれももっともなものであるところ、その趣旨は次のとおりであった。
1、首相は人格の立派な人間を選べ
2、現在の政治の弊害や陸海軍の軍紀を正すには、首相の人格による
3、協力内閣・単独内閣は好きにしてよい
4、ファッショはダメ、絶対
5、憲法は遵守せよ、これを破ることは明治天皇に申し訳が立たない
6、外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑化に努めよ
7、事務官と政務官の区別をはっきりさせよ
(意訳終了)
この点、大正7年の原敬内閣から陸海外務大臣以外の閣僚は政友会の会員であり、このときから議会の多数党内閣に移行したと言われている。
そして、大正2年の山本権兵衛内閣の時代に陸海軍の大臣についても現役軍人で限る必要がなくなっていた。
というわけで、当時は概ね政党政治の原則が守られており、このことは昭和天皇が摂政になってから変わっていない。
この前提で見ると、第3項は政党政治を前提としており、その上で「多数派だけで内閣を作ろうが、挙国一致内閣を与野党で組もうが構わない」という趣旨になりそうである。
そして、この場合、昭和天皇の「御希望」は通らなかったとも言える。
この点、後継首相に奏請された斎藤実は海軍出身ながら昭和天皇の期待に副う人物であった。
その意味で、西園寺公望公が昭和天皇の御希望に沿うように最大限の努力をしたことは間違いないだろう。
ただ、この時点で政党内閣が今後現れないとはだれも考えなかっただけで。
ここで著者(故・山本七平先生)は述べる。
もし、ここで帝国議会が挙国一致内閣を作っていればどうなっていただろうか、と。
他方、昭和天皇の「御希望」がはじめから無視されている例もある。
しかし、「御希望」が無視されたとしても、憲法上の権限を持つ機関の熟慮による決定である以上、「よきにはからえ」というしかない。
この点、昭和8年12月23日、皇太子明仁親王がお生まれになった。
親王の誕生が恩赦のきっかけになるのは世の常である。
そこで、選挙違反や疑獄で引っかかっている代議士は「恩赦」で政府に揺さぶりをかけた。
これに対して、『木戸幸一日記』によると昭和天皇は次のことを漏らされたらしい。
例によって、本書に引用されている『木戸幸一日記』の部分を意訳してみる。
(以下、本書で引用されている『木戸幸一日記』の部分を意訳したもの、意訳ではあって直訳や引用ではないことに注意)
昭和8年12月24日に朝日新聞に恩赦の記事が出たので、昭和天皇は侍従長に対して「政府は恩赦の奏請を行うだろうか、皇太子の誕生で恩赦を出した例はなく、従来の例をみても恩赦をしてもよくないだろうと考える」旨のお言葉があったという。
(意訳終了)
これはどう考えるべきか。
栄典の授与と恩赦は大日本帝国憲法の第15条・第16条によれば、天皇の大権に属する。
では、恩赦は行政権に属するのだろうか。
いわゆる控除説に従えばそうなるが(立法権にも司法権にも属さないため)、その一方で恩赦については天皇に拒否権があってもいいような感じがしないでもない。
その辺を考慮すれば、先に昭和天皇の御意向を確かめるべきだったとも言いうる。
なお、このとき恩赦は実行されたらしい。
あるいは、天皇陛下が自ら提案された時もある。
本書では、二・二六事件などで盛んに引用した『本庄日記』の一部が引用されている。
ここも意訳してみよう。
(以下、本書で引用されている『本庄日記』の部分を意訳したもの、意訳ではあって直訳や引用ではないことに注意)
以前、アメリカから帰国した人から聴いたのだが、イギリスはアメリカにイギリスの文化や実情を紹介・宣伝するための機関があるらしい。
そして、アメリカ人でイギリスのことが知りたければ、その宣伝機関のところへ行けば何でもわかるという。
そこで、日本も自分自身の精神文明の真相を他の国民に伝えるための機関をアメリカ、イギリス、フランスなどの主要都市に設置してみてはどうかと考え、広田弘毅外相に語ってみた。
(意訳終了)
もっとも、この昭和天皇の提案が実現された形跡はみられないらしい。
まあ、行政権が何かをやろうとすれば予算がいるところ、予算が議会で議決されない以上しょうがないとも言いうるが。
さらに、日華事変が拡大したころのこと。
当然だが、アメリカ、イギリス、国際連盟は日本に対して中国に対する領土的野心を持つとみる。
これに対して、ときの杉山元陸軍大臣は「日本は自衛のために行っていて、領土的野心は毛頭ない」と述べていた。
当時のことについて、『西園寺公と政局』には天皇と杉山陸相とのやりとりに次のような問答があったと言われている。
例によって、意訳してみる。
(以下、本書に引用されている『西園寺公と政局』の部分を意訳したもの、意訳ではあって直訳や引用ではないことに注意)
(杉山陸軍大臣)アメリカやイギリスに対して『日本は中国に領土的野心がないことを明らかにしたい』ので、外交機関を使ってなんんとかしてほしい。
(杉山陸軍大臣)責任をもって統制します。
(昭和天皇)そうか・・・。
(陸軍大臣退出、武官長を召し出し)
(昭和天皇)陸軍大臣はあれこれ言っているが、それなら、外国新聞の東京駐在者を官邸に呼び、自分で「帝国には中国に領土的野心がない」と説明すればよかろう。
(意訳終了)
想像できる通り、陸軍大臣はこの提案に対して外国人記者を官邸に招く、自らプレスクラブに出向いて「日本に領土的野心がないこと」をアピールした形跡はない。
もちろん、この「御希望」を無視したところで問題はないのだが。
さて、昭和天皇は自身において「立憲君主としての道を二度踏み間違えた」と述べている。
では、それ以外はないのだろうか。
もちろん、「御希望」は関係ないとして。
この点、大英帝国においてもジョージ六世はチャーチル首相に様々な意見を述べている。
しかし、「希望」・「意見」・「提案」がせいぜいであり、政府が異なる決定をすれば、「よきにはからえ」とならざるを得なくなる。
もっとも、「御希望」が「意に沿わないものなら拒否権を発動する」という趣旨になればどうなるか。
これに近い事例が昭和天皇に存在するため、これを見ていく。
独ソ不可侵条約締結により平沼内閣は総辞職した。
このときの間抜けぶりは次の読書メモのとおりだが、この年の4月、大島駐独大使と白鳥駐イタリア大使が、ときの板垣陸軍大臣の意を受けて、ドイツとイタリアがどこかの国と戦争をするときに日本も参戦する旨意思表示し、昭和天皇はこれに対して憤慨されたことは既に述べた。
そこで、次の阿部信行内閣の組閣の際、昭和天皇が述べた発言を『西園寺公と政局』から引用している。
これも意訳してみる。
(以下、本書に引用されている『西園寺公と政局』の部分を意訳したもの、意訳ではあって直訳や引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
それ以外の者を陸軍の三長官が議を決して自分のところにもってきても、私は裁可しない。
それから、政治は憲法を基準にしてやれ。
外交はアメリカやイギリスを利用するのが日本のためにいいだろう。
(意訳終了)
この発言は「拒否権を行使するぞ」という意思表示でもある。
この点、大日本帝国憲法の第10条は次の通りとなっているから、憲法に違反していないとまでは言えないかもしれない。
大日本帝国憲法第10条
天皇ハ行政各部ノ官制及文󠄁武官ノ俸給ヲ定メ及文󠄁武官ヲ任免ス
但シ此ノ憲󠄁法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ揭ケタルモノハ各〻其ノ條項ニ依ル
しかし、憲法による慣習は存在するところ、戦前の日本は内閣総理大臣が閣僚を選定して、そのうえで昭和天皇の裁可を得る、という慣習になっていた。
だから、組閣前に陸軍大臣を指名し、それと異なる人間は認めないとなれば、それは「命令」=「拒否権の行使の予定」と評価してもいいかもしれない。
もっとも、このときは畑俊六が陸軍大臣になっているが。
以上、昭和天皇の「御内意」や「御希望」についてみてきた。
本章の後半は次回に。