今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
2 第1章を読む
第1章のタイトルは「天皇の自己規定_あくまでも憲法絶対の立憲君主」。
なお、各章には御歌も掲載されており、全部で15個の和歌が掲載されている。
本章の話は、昭和天皇に対する言及が非常に多いこと、それと比較して「昭和天皇の自己規定の研究に関する言及がないこと」から始まる。
この点、昭和天皇自らが「私はかくかくしかじかの規範に従って、かくかくしかじかの行為を行った」と述べること、かつ、その発言が対外的に公開されることは稀であることを考慮すれば、しょうがないこととも言いうる。
しかし、昭和天皇の発言、公的文書、行動などから「昭和天皇の自己規定」を推測することはできないではないから、言及できないものでもない。
そして、話は「天皇の戦争責任(開戦決定責任)」に移る。
この主張を要約すると、「天皇陛下が『終戦の聖断』を下せたならば、開戦を阻止する聖断も(憲法や法律上)可能であった。したがって、戦争前に開戦を阻止しなかったという意味での(法的な)戦争責任がある」となる。
この主張は、「天皇陛下が絶対君主たるべし」・「天皇陛下が絶対君主であった」という前提を採用すれば、十分成立しうる。
この是非はさておくとして、この主張(「一定の天皇論」に基づいた主張)に対する昭和天皇の返答に「昭和天皇の自己規定」を垣間見ることができる。
本書では『侍従長の回想』における天皇の主張が引用されている。
以下、本書に引用されている昭和天皇の言葉を私釈三国志風に意訳してみた(引用や直訳ではないため注意)。
(以下、本書に引用されている昭和天皇の言葉を意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)
先の戦争は、私が戦争を辞めるべきだと意見を述べることで終わった。
ならば、開戦も阻止できたのではないか、という議論があるらしい。
一見筋が通っているし、もっともにも見える。
しかし、私は憲法によって統治を行うことになっている。
そして、憲法には議会や国務大臣の権限について明記されている。
そのため、これらの権限に対して天皇が介入することは憲法違反にあたり、許されるものではない。
言い換えれば、憲法上の権限を持つ者が慎重に審議を尽くして、私に提出して裁可を求めれば、私に気に入らないものであっても、「よきにはからえ」と裁可するしかない。
それをしないで、「気に入らん」といってちゃぶ台をひっくり返して裁可を拒んでいたら、憲法上の責任者は私の気持ちばかりを気にしてしまい、最善を尽くすことも責任を取ることもできなくなるではないか。
これは憲法を蹂躙するものである。
それは独裁君主がやることであって、立憲君主の私にできることではない。
(意訳終了)
返答を要約すれば、「天皇たる自分は絶対君主ではなく、立憲君主に過ぎないから」となる。
このように、色々な発言を見てみると、昭和天皇は憲法を擁護する発言は多い。
これは「憲法を盾にして身を守る」というよりも、「憲法を蹂躙することは自己否定になる」という感じがするほどであったらしい。
そして、昭和天皇の側近の中には、この昭和天皇の態度に対して消極的評価をする者もいたようである。
では、そのように考えていた昭和天皇が何故終戦の聖断を下せたのか。
これについても前述の『侍従長の回想』が引用されているが、この部分も意訳してみよう。
(以下、本書に引用されている昭和天皇の言葉を意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)
では、戦争を止める際、何故自分の意見が言えたのか。
それは、「戦争を継続するか継続しないか」をめぐる「憲法上の権限を持つ機関の議論」において収拾がつかなかったところ、そのような状況で、首相の鈴木(貫太郎)が最高戦争指導会議で私の意見を求めてきたからである。
だから、私は憲法上の権限を侵すことなく戦争中止の意見を言うことができたのである。
(意訳終了)
その答えを要約すると、「憲法上の権限を侵害することがなく自分の意見を表明できたから」となる。
ここでも、制限君主の矩を超えない昭和天皇の意思を見出すことができる。
もっとも、天皇陛下は「御意見」・「御希望」といったものは述べている。
例えば、昭和14年の「日独伊三国同盟における駐独大使と駐伊大使の参戦表明に対する不満」とか。
こちらは『西園寺公と政局』からの引用であるが、これを意訳すればこのようになるだろうか。
(以下、本書に引用された昭和天皇の言葉を意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)
出先の両大使が余の意志を無視して参戦の約束をしおった。
これは余(天皇)の大権を犯したものではないか。
余は面白くない。
(意訳終了)
この不満が外に漏れれば、右翼がすっ飛んできてもおかしくないように見えるが、当時、これによって誰かが辞職した、という話はない。
結構、あれである。
このように、昭和天皇は几帳面なまでに立憲君主として忠実にふるまった。
「振る舞いすぎた」といえる程度まで。
まあ、「憲法出でて日本帝国滅ぶ」ではあれだから、これに対する消極的な評価はありえないではない。
ただ、昭和天皇は、アメリカで出てきた見方である「ファシズムの民意を背景に絶対君主の如く振る舞ったヒットラーやムッソリーニと同列と評価されること」をことのほか嫌ったらしい。
この点は、本書で引用されている『木戸幸一日記』の一説を意訳してみよう。
(以下、本書に引用された昭和天皇の言葉を意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)
私(昭和天皇)があたかもファシズム信奉者に思われているのは、最もつらいことだ。
あまりに立憲君主として行動しすぎたせいだろうか。
そういえば、先の戦争では、「もう少し主体的に命令してくれ」という意見もなくはなかった。
しかし、私は立憲君主として振舞う予定だったのだが・・・
(意訳終了)
立憲主義的にふるまいすぎた、という部分に関してはやや自己批判的なニュアンスがあるように見える。
ただ、天皇陛下は終戦の聖断でさえやや問題があったと考えているらしい。
あるいは、二・二六事件の際にも。
この点、二・二六事件では、大蔵大臣が殺され、総理大臣は生死不明、軍の首脳は反乱軍に同情的で態度が不明確であった。
そのため、「天皇陛下が憲法の矩を守れば、立憲政治が壊れる」といった緊急事態になった。
その意味で状況は終戦と同じである。
もちろん、終戦も二・二六事件も天皇陛下の政治的判断が適切であったとはいえるとしても、妥当性が違憲性を治癒するわけではないから、憲法から見て疑義があるという判断はあり得ないではない。
ここで、明治時代の統治について注釈が入る。
つまり、「大日本帝国憲法と日本国憲法のルールが違うが、そのことは、明治憲法がにルールがないことを意味しない。当時には当時のルールがあった」というもの。
これはある種当然である。
まあ、「空気主義者」から見れば、「憲法や法律など方便に過ぎない」という暴言が飛んできそうな気もするが。
以上、ここまで本書を見てみると、ある違和感が生じることになる。
「あれ?大日本帝国憲法の天皇陛下って現人神だったのではないの?」と。
つまり、「昭和一桁時代に社会において一般化されていた天皇観」(絶対君主、現人神、絶対神)と「昭和天皇自身の自己規定」(立憲君主、つまりは制限君主)との間にギャップが存在していることが分かる。
このギャップを意識しながら、昭和21年の詔勅、いわゆる『人間宣言』を読むと興味深い。
この点、いわゆる『人間宣言』と同じ内容は、既に戦前たる昭和12年の「文部省通達」でも同じことを述べているらしい。
以下、この「文部省通達」を意訳してみる。
(以下、本書に引用された「文部省通達」を意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)
天皇陛下は皇祖皇宗の御心を受けて我が国を統治する現人神である。
ただ、ここでいう現人神というのはヨーロッパで登場する「絶対神」ではない。
天皇は皇祖皇宗であり、臣民・国土の生成発展の源泉である。
その意味で、限りなく畏き方であることを示しているだけである。
(意訳終了)
この点、昭和12年というと、2年前に天皇機関説事件・国体明徴声明ががあり、1年前には二・二六事件があった。
それゆえ、動揺する教育現場に対する指針として出されたものではあるが、それでも「天皇陛下は『人』に過ぎない」ことは明示されている。
もちろん、「人に過ぎない」点に対して右翼が抗議してきても、文部省は対応できるだけの論拠を持っていた。
それは、本居宣長の『古事記伝』における「かみ」の定義である。
以下、本書で引用されている古事記伝の一説を意訳してみる。
(以下、本書に引用された「古事記伝」を意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)
そもそも「かみ」とは古典に登場する天地の諸々の神、社に坐しておられる御霊、人、鳥や獣、海山など「通常より優れた、徳のある、畏き物」をいうのである。
だから、「かみ」には尊いもの、賤しいもの、強きもの、弱しもの、善きもの、悪しきもの、さまざまだ。
とても、単純な要素にまとめられるものではない。
(意訳終了)
確かに、この「かみ」では「GOD」とは全然違う概念と言えるだろう。
ここで、本書はやや余談に入り、「現人神」という言葉は、ヨーロッパの「神」の概念の導入により混乱してしまった旨述べている。
そして、「現代におけるカタカナの乱用は問題かもしれないが、こと『神』に関しては、無理やり『神』にしないで『ゴッド』としていた方がよかったかもしれない」とも。
この辺は、次の読書メモで触れたような気がする。
もっとも、本居宣長の定義を忘れ、「かみ」=「GOD」と考えれば、天皇陛下は神権的絶対君主となり、立憲君主たる自己規定とは完全に乖離してしまうことになる。
その観点から見ると、昭和12年の文部省通達はこの点を問題視し、修正を図ろうとしたと言えなくもない。
ただ、昭和21年の『人間宣言』の意図は別のところにあるのではないか、と著者(山本七平先生)はいう。
というのも、この詔勅には「憲法」が登場せず、代わりに『五箇条の御誓文』が登場するからである。
なお、憲法が登場しなかったのは、憲法改正が予定されていたからであろう。
このことから、天皇陛下の「憲法」の背後には『五箇条の御誓文』があることが推測できる。
そして、「天皇陛下=神権的絶対君主」というイメージを横においてこの詔勅を読むと、『人間宣言』に対するイメージはかなり変わったものになる。
さらに言えば、「そもそもこれは『人間宣言』なのか」という感じすらする。
ところで、いわゆる「人間宣言」の段落を意訳するのであれば、次のようになるのだろうか。
(以下、『人間宣言』の「朕ト爾等国民トノ」以下の段落を意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)
天皇たる私と国民をつなぐものは「信頼」と「敬愛」だ。
神話や伝説じゃねえ。
まして、私は絶対神じゃねーし、日本国民だって優性民族として世界を統べる運命にあるわけでもねえ。
(意訳終了)
では、この『人間宣言』の意図は何なのか。
素直に読めば、「『五箇条の御誓文』に誓いを新たとし、日本を再建する」ということになるだろう。
とはいえ、当時のマスコミはそうは受け取らなかったらしいが。
もっとも、「天皇が絶対神であって、(以下略)」という発想は、江戸時代にあった。
天皇家が存続している日本こそが中華であるという『中朝事実』や山崎闇斎一派とか。
これに「GOD」という概念と作用したりして、「天皇陛下は絶対神、大和民族は郵政民族、じゃない、世界を支配すべき優性民族」といったところまでいったのではないかと考えられる。
また、この点はイラン革命におけるホメイニ政権と共通する部分があるらしい。
太平洋戦争敗戦後、マッカーサーのところに乗り込んで「You may hang me」と仰せになられた天皇陛下には、開戦前から敗戦の予感はあったらしい。
というのも、日独伊三国同盟を締結する旨の奏上に対して天皇陛下は「アメリカとことを構えた場合、本当に大丈夫なのか?」といった趣旨のことを言われているからである。
ここで、本書の話は『真相箱』に掲載されたある記述に移る。
本書によると(以下、『真相箱』という著書からの引用)には次の趣旨のことが書かれているらしい。
もちろん、この表現は一度英訳されて再び和訳されているため、ニュアンスはよくわからないとしても。
(以下、本書に示されている『真相箱』の記述として本書に掲載されたものの引用、なお、強調は私の手による)
天皇陛下が、マッカーサー元帥を御訪問になったとき、『なぜ貴方は開戦を許可されたのですか」というマッカーサー元帥の問に対して、元帥の顔を見つめられた陛下はゆっくり、『もし、私が許さなかったら、きっと新しい天皇が建てられたでしょう。それは国民の意志でした。こと、ここに至って国民の望みにさからう天皇は、恐らくいないでありましょう』と言われたのであります」
(引用終了)
では、ここにいう「新しい天皇」とは何か。
本書によると、「天皇を退位させて、大日本帝国憲法を停止し、ファシズムによる独裁を始めること」ということであり、別の皇族を天皇に立てる話ではないらしい。
というのも、大政翼賛会が実質的にそうした性質を持っていたし、近衛文麿が大政翼賛会的を作ったとき、昭和天皇は「こんな組織をつくってうまくいくのかね。まるで、これはむかしの幕府ができるようなものではないか」と皮肉な返答を返し、近衛を絶句させているからである。
確かに、翼賛会が議会をおさえ、その翼賛会を軍部が支配すれば、ナチスのような独裁政権ができるため、幕府の出現と言っても大差ない。
そこで、この幕府を「新しい天皇」ということならありうる、と著者は言う。
というのも、「幕府」って言ってもマッカーサーには伝わらないだろうから。
以上、開戦前夜から終戦までの昭和天皇の言動から昭和天皇の自己規定を推論すると「『五箇条の御誓文』と『憲法』の遵守」といった規範が見えてくる。
このことは、大政翼賛会を「幕府」と言い、五・一五事件後の首相選定へのご希望にもみられる。
もちろん、天皇陛下は大日本帝国憲法を不磨の大典にしようとした、わけではない。
しかし、その場合であっても、憲法改正手続に則って行うべきであると考えていた。
このことは『木戸幸一日記』にも示されている。
これを意訳するならば、「天皇の権力は祖先から子孫に続いていく。私(明治天皇)と私の子孫はこの憲法に従って政治を行え」といったところになるだろうか。
以上、昭和天皇の自己規定に「憲法と五箇条の御誓文の遵守」があることを見てきた。
もっとも、この他にも自己規定があったらしい。
例えば、昭和天皇にはナポレオン一世やフリードリヒ大王のような「英雄」になる気がない、とか。
もっとも、太平洋戦争を始める昭和天皇を外から眺めれば、ナポレオンやフリードリヒ大王に見えたであろうが。
このように、昭和天皇になんらかの自己規定があったとは言える。
以下、この自己規定について色々見ていく。
以上が第1章のお話である。
興味深いと考えるのは、「君主が『立憲君主』を是と考えていること」である。
御存じの通り、立憲主義とは「リヴァイアサンとなった権力者を『憲法』という鎖で縛り付けることにより、国民の権利・自由を擁護する思想」である。
そして、立憲主義の背後には「権力者は暴走し、国民の権利・自由を蹂躙する方向に走る」ことが当然の前提(事実関係)となっている。
しかし、昭和天皇が憲法絶対を掲げてしまえば、この当然の前提が成り立たなくなってしまう。
まあ、この場合、暴走はなくても堕落といった問題が生じるだろうが。
ところで、これって政治的にいいことなのだろうか。
「権力者が暴走しないでくれるならば、いいではないか」と考える一方、「暗愚は暴君に劣る」という見解もある。
また、宮台先生風に表現するところの「まかせてぶーたれる日本国民」から見て「良い」と評価するかは微妙である。
この辺はよくわからない。
次回は第2章についてみていく。