薫のメモ帳

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『昭和天皇の研究』を読む 22

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

22 第12章を読む_後半

 前回は、昭和天皇が述べた「御希望」・「御内意」についてみた。

 今度は、逆方向の「内奏」について確認する。

 

 この点、「内奏」とは天皇の側近が天皇を意のままにして天皇の権限を行使することを指す。

 例えば、後醍醐天皇建武の中興における阿野廉子の例が「内奏の弊害」に似たものになる。

 しかし、昭和天皇の周囲に「内奏」によって政策や人事が動いた様子は一切見られない

 その例として、ミッドウェーの敗戦直後になされた高松宮中佐の「内奏」を突っぱねた例がある。

 もちろん、昭和天皇高松宮の言葉を弟の言葉として聴いただろうが。

 

 また、別の「内奏」として事前に内諾を得ておくという慣行がある

 もちろん、これは慣行だからしなければならないものではない。

 ただ、「内奏」における昭和天皇の反対する態度を見て取りやめになったものはそれなりにあるらしい。

 もっとも、このことは昭和天皇侍従長内大臣に話さない限りわからないため、「らしい」と言えるにとどまるわけだが。

 

 本書では、「内奏」の例として敗戦間際の首都移転に昭和天皇が反対された例を挙げている

 つまり、昭和19年7月、東条内閣の次の小磯(国昭)・米内(光政)内閣の時代、陸軍は大本営移転計画を進めており、松代では工事が始まっていた。

 しかし、内奏において昭和天皇は「首都を放棄して松代に移ること」に反対されたらしい。

 これについては、本書は『木戸幸一日記』の文章を引用しているので、この引用されている文章を私釈三国志風に意訳してみる(意訳であって引用や直訳ではないため注意)

 

 

 

 

(以下、本書で引用されている『木戸幸一日記』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意

 私が帝都を離れたら、臣民、特に、都民は不安に思って、戦いに敗れたと思うおそれがある。

 だから、統帥部が統帥の必要上、移転の必要があるとしても、移るは本当にしょうがないときだけだ。

 私はできる限り帝都に残る。

 帝都におられるうちに移転するのは、私はいやだ。

(意訳終了)

 

 その後、昭和20年3月に東京大空襲があった。

 さらに、5月には梅津参謀長が松代大本営ができたので移ってほしいと言ったが、昭和天皇は拒否した。

 この後、5月24・25・26日の大空襲で皇居は消失するわけだが、それでも昭和天皇は帝都にとどまった。

 この態度には「頑固」さを感じた者もいるだろう。

 

 ただ、この「内奏」については気まぐれではなかったらしい。

 というのは、出光侍従武官は自身の講演でこのようなことを述べているからである。

 その部分を私釈三国志風に意訳してみる。

 

(以下、本書で引用されている出光侍従武官の講演内容を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意

 昭和天皇は厳格であって、一度定めたことの変更を容易に認めなかった。

 また、理に合わないこともことのお許しにならない。

 条理に合わない書類は裁可せずに、ずっと宮中とどめておくのである。

(意訳終了)

 

 このように、昭和天皇は納得せずに裁可することはできなかった。

 いうなれば、ハンコを簡単に押す人ではなかった。

 だから、担当の責任者は天皇陛下に「条理に合わない」と判断されれば納得するまで説明しなければならなかった

 まあ、これはどんなに面倒でも責任者にとっての義務であろうが。

 

 この点、「君臨すれども統治せず」とは「手続が合法である以上は裁可はするが、内容を確認せずにハンコを押す」というものでもないだろう。

 また、天皇を納得させることは国民を納得させることである」という立憲君主の本義を昭和天皇は理解されていたものと考えられる。

 そして、「天皇を納得させるまで担当者には説明させる」ということは昭和天皇立憲君主の道と考えていたようである。

 

 

 では、昭和天皇立憲君主の矩を超えようとした例はなかったのだろうか。

 この点、自分が逸脱した旨の認識がある「二・二六事件」と「聖断」は除外する。

 そして、これ以外の例を探すと、昭和8年の「熱河作戦」において中国との衝突をおそれた昭和天皇は作戦中止を命じようとした点が挙げられる。

 

 この点、憲法に対して無知な人間から見れば、大元帥なんだから、『やめられないか』と相談するのではなく、『やめろ』と命令すればいいではないか」と考えるかもしれない。

 これは天皇陛下立憲君主ではなく、絶対君主と考えれば当然に出てくる発想であり、天皇の戦争責任を肯定する立場の発想と同様である。

 

 このとき、昭和天皇は自身が絶対的に信頼している鈴木貫太郎侍従長とも相談している。

 そして、奈良侍従武官長は、「国策決定は内閣の仕事である以上、大元帥の命令でもこれを中止させることはできない。もし、強引にこれを中止させれば、政変・紛争の原因となるであろう」天皇機関説に従えば満点の回答を行っている。

 

 ところで、国策を決定する内閣は国務大臣で構成される。

 また、国務大臣に対して大日本帝国憲法は1条しか規定されていない。

 議会の条文が22条あることを考慮すれば対照的である。

 

 この点、内閣は議会の信任の上で成り立っていた

 特に、大日本帝国憲法64条にあるように、予算を否決されれば政府は何もできない。

 まあ、71条には「予算が成立しなければ、政府は前年度の予算を執行できる」とあるが、現実から見れば予算の否決は内閣不信任に匹敵する。

 そうなれば、総選挙か総辞職の二者択一となる。

 

 昭和12年、林銑十郎内閣(広田弘毅内閣の次、宇垣内閣が流産した直後の内閣)の時代、内閣は予算の承認を受けるや否や議会を解散するという暴挙に出た。

 これは大変に不評だったようで、総選挙を行っても議員の顔ぶれは変わらず、議会の即時退陣要求を前に林内閣はたった四ヶ月で総辞職に追いこまれることになった。

 

 この点、国策は「議会の信任を受け、かつ、国策を現実化するための予算を作成し、議会の承認を受ける内閣」の仕事なのである。

 それゆえ、議会が内閣の予算を承認すれば、天皇でもひっくり返せないことになる。

 

 この点、熱河作戦の作戦開始は2月23日、国際連盟満州撤退勧告を政府が拒否した2月17日の直後である。

 たとえ、政府が軍部に引っ張られたとしても、天皇がこれを中止させれば、議会から信任されている内閣の閣議決定天皇がひっくり返すことになる

 とすれば、「天皇の越権行為がどんな紛争と混乱を起こすかわからない」という返答はその通りというしかない。

 歴史上も、ピューリタン革命は、イギリス国王チャールズ一世の提案に対して反対したイギリス議会に不満をもったチャールズ1世が議員を拘束しようとしたことからスタートしたのだから。

 

 だから、昭和天皇がこれを強行したら、立憲君主としての昭和天皇の評価はその瞬間地に堕ちる。

 他方、陸海軍総司令官にして大元帥陛下としての天皇は名前しかなく、何も出来ないことを意味する

 まあ、大日本帝国憲法には「大元帥」という文言はないが。

 

 

 ところで、この熱河作戦は、一つの岐路であっただろう。

 これが日華事変、そして、太平洋戦争へと発展していったのだから。

 では、そもそも昭和天皇立憲君主としての自己規定に背いてまでこの熱河作戦を中止させようとしたのだろうか

 その原因は満州事変にある。

 この点、満州事変を関東軍が目論んだとしても、関東軍しか動かなければ事件は大きくならない。

 しかし、ときの第二次若槻内閣は閣議決定で経費の支出と出兵を認めたため、立憲君主たる昭和天皇はこれを裁可せざるを得なかった。

 さらに、林銑十郎が在朝鮮軍を動かしており、世論はこれに熱狂していた。

 とすれば、熱河作戦で同じ手を使うのではないかと昭和天皇が気にしたのも無理からぬ話である。

 

 ここで、著者(故・山本七平先生)の説明が入る。

 軍隊は予算がなければ動けない、と

 だから、軍と内閣が野合しても、帝国議会の承認がなければ軍が動かせないのである。

 そして、このことをよくよく熟知いたのが帝国陸軍であり、逆にその自覚が全くなかったのが政治家であり、典型的なのは、不拡大方針を口で唱え、拡大予算を組んで議会に承認させた近衛文麿である。

 

 では、思考実験として「ここで昭和天皇立憲君主としての仮面をかなぐり捨てて、作戦中止を強行したらどうなったか」を考えてみる。

 いい方向で考えれば、「陸軍の暴走が昭和天皇の意向で歯止めがかかり、日華事変も太平洋戦争も起きなかった」となるだろうが、著者は「逆により大きな二・二六事件が起きたであろう」という

 現に、二・二六事件がおきているのだから。

 そして、より大きな二・二六事件が起きれば、つまり、皇道派が一体となって決起すれば、あるいは、皇道派と統制派が手を組んで決起したらどうなるかは予想はつかない。

 

 この問題は、満州某重大事件で時の首相の田中義一に対して「説明は聞く必要がない」から始まった。

 もちろん、このときも天皇は激怒しながらも裁可は行った。

 議会の承認を受けた内閣の決定を裁可しないということは、憲法的観点から見れば、天皇と議会、つまりは天皇と臣民の正面衝突を意味するからである

 そして、この問題は終戦まで続くことになる。

 

 

 この点、憲法上、国策決定は内閣の仕事である」と言いながら、現実では軍部の仕事になっていた

 これは、戦後から当分の間(あるいは今も)「現実では国策決定が官僚の仕事である」というのと似ている。

 これに対して、天皇陛下立憲君主の範囲であがくことになる。

 例えば、明治天皇の先例を引いて「御前会議での決定」を採用しようとした、とか。

 ただし、この昭和天皇の提案は西園寺公望すら反対に回った。

 この理由を言葉にすると、「イギリスを模範にしようとしたから」と推測できる。

 というのも、イギリスの国王は閣議に出席せず、首相が国王に上奏し、裁可を請うだけだけだからである。

 もちろん、首相と国王が懇談することはあるだろうが。

 

 この点、イギリスを模範とするのは悪くはない。

 しかし、イギリスと日本では実情がだいぶ異なり、「憲政のノウハウが描くシステム」と「歴史的所産としての日本の実体」との乖離が大きくなれば、うまくいかなくなっても不思議ではない。

 このことは天皇機関説にも言えることで、このイギリスモデルを目指す点を近衛文麿は批判している。

 

 この点、近衛文麿は「最高戦争指導会議」という形で御前会議として会議を開く方式を採用した

 このイギリス方式に異なる方式は、そもそも閣外の人間たる陸軍参謀長や海軍軍令部長が参加しているため、「国策決定は内閣の仕事であって、他の機関の介入は許されない」という原則すら放棄しているように見える。

 ここで、天皇の役割は議長に過ぎず、拒否権はない。

 事実、ここで天皇が発言したのは、終戦の聖断を除けば、開戦直前に明治天皇の御製の和歌を詠み、戦争回避の強い意向を述べた点だけである。

 もちろん、この昭和天皇の意向も無視されたわけだが

 

 こうやって見ると、当然ながら問題が生じる。

天皇とは一体何か」という問題が。

 

 

 以上、立憲主義を維持するために立憲君主の範囲で奮闘する昭和天皇を見てきた。

 次章は、「天皇とは何か」という点を津田左右吉博士の主張を通してみていく。