今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
15 第9章を読む_前半
第9章のタイトルは「盲信の悲劇」。
この点、第8章で二・二六事件について詳しくみた。
なぜなら、この事件が「天皇の自己規定を示す貴重な手がかり」を与えてくれるからである。
ところで、加賀乙彦氏は「北一輝と青年将校たち」という文章の中で、決起将校らの行為を「盲信の悲劇」と述べており、著者(故・山本七平先生)もこれに同意している。
というのも、決起将校たちは、昭和天皇の意志を知らずに盲信したのみならず、北一輝の思想を知らずに盲信していたからである。
そのことは、磯部浅一らが天皇機関説を否定していた一方、北一輝が明確な天皇機関説の信奉者だった事実からも推定できる。
以下、本章では北一輝についてみていく。
まず、加賀乙彦氏は次のようなことを述べている。
この部分を私釈三国志風に意訳してみる(意訳であって直訳や引用ではないため注意)。
(以下、本書で引用されている加賀乙彦氏の記載部分を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意)
ある全共闘系の学生が、北一輝の『日本改造法案大綱』に惚れ込んだ。
つまり、この文章の「天皇」を「革命執行部」に書き換えれば、そのまま革命の指導書として使える、と感心していた。
確かに、この文章には、それだけの筋道と迫力がある。
(意訳終了)
このことは、「北一輝に対する理解」からみた場合、二・二六事件の決起将校と全共闘の学生に大差がないことを示している。
もし、著作にあたったというのであれば、「法華経と革命の結びつき」についてどう考えるのか、答えられなければならないだろう。
以下、本書に引用されている加賀乙彦氏の記述について私釈三国志風に意訳していく。
(以下、本書で引用されている加賀乙彦氏の記載部分を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
この点、決起した青年将校らは北一輝を遠くに見て神格化し、その思想を奉じて決起したものと思い込んでいた。
しかし、実質を見れば、北一輝の思想を一部を極端に拡大解釈し、自身の行動の正当化したに過ぎなかった。
だから、決起将校らの北一輝へのかかわり方と天皇へのかかわり方は同質のものである。
つまり、彼らはまさに雲の上の天皇陛下を信じ、天皇陛下の内心を反映すべく行動していると信じたが、天皇個人の具体的な意思について全く考えていなかった。
(意訳終了)
当然だが、盲信して行動して処刑されることは悲劇である。
しかし、勝手に盲信され、その結果処刑されたとなれば、さらに大きな悲劇になる。
この点、昭和天皇はマッカーサーに「You_may_hang_me」と言ってその処分を委ねているが、もし、処刑されたならこれまた盲信された者の悲劇になるであろう。
ここで、著者の論評が入る。
「功」と「罪」は表裏の関係にあるため、「功も罪もない」という人間を除けば、「功」も「罪」もあることになる。
だからこそ、「盲信された者の悲劇」を除去しなければならない。
なぜなら、盲信された者の責任は盲信した側にあるのであって、盲信された者の責任ではないからである。
そして、北一輝の処刑は盲信された者の悲劇にあたる、と。
以下、本書は「決起将校らの北一輝への盲信」の構造を見ていくことになる。
そして、そのために「北一輝の思想」を見ていくわけだが、本格的に見ようとすると相当複雑になる。
というのも、彼には次の4つの顔があるからである。
1、『日本改造法案大綱』その他の著作の著者
2、法華経を絶対視して、磯部浅一に対して「霊告」を告げた神がかり的人間
3、財閥に右翼の情報を長して多額の報酬をもらう情報ブローカー
4、中国の辛亥革命に参加した「革命経験者」
そこで、本書では「著者」としての北一輝をみていく。
ただ、「著者」としての北一輝自体も複雑である。
そこで、本書では山本彦助検事の『国家主義団体の理論と政策』を活用している。
この書籍は、「国家主義運動をなす団体で、処罰、取り締まりの対象となるもの」の理論と政策を要約したものらしい。
この点、ここで登場する多くの団体の理論は神がかり的無内容となっている。
しかし、北一輝の部分のみがしっかりしている。
そこで、本書で引用されているこの書籍の内容を私釈三国志風に意訳しながら要約してみる。
(以下、本書で引用されている『国家主義団体の理論と政策』の記載部分を私釈三国志風に意訳・要約しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
北一輝の社会民主主義思想は、日本主義運動、つまり、正統派ではない。
(意訳終了)
この点、北一輝の思想に「社会民主主義思想」という言葉をあてるのは奇妙に見えるかもしれないが、時代を考慮すれば不思議なものではない。
というのは、北一輝が『国体論及び純正社会主義』を著したのが明治39年の23歳のとき、『日本改造法案大綱』を著したのが大正8年であるところ、この時代に社会主義の影響を受けなかった者はいないからである。
次に、本書では「その後、彼は自身の思想を変えたのか」についても示されている。
この点、北一輝は「変わっていない」と述べ、山本検事も次のように述べている。
以下、本書の記載部分を私釈三国志風に意訳してみる。
(以下、本書で引用されている『国家主義団体の理論と政策』の記載部分を私釈三国志風に意訳・要約しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
北一輝は自己の思想を変えていない旨豪語している。
つまり、二・二六事件当時において彼の思想に変化がない。
(意訳終了)
昭和初期において「天皇尊崇の念は全くない」と書かれるとは・・・。
ここまで書かれると清々しいというか。
ちなみに、北一輝は処刑される際に、西田税から「天皇陛下万歳」と叫ぼうとしたのをとどめ、黙って処刑されている。
さらに、本書に記載されている北一輝の思想についてみていこう。
例によって、本書で引用されている『国家主義団体の理論と政策』の一部を私釈三国志風に意訳していく。
(以下、本書で引用されている『国家主義団体の理論と政策』の記載部分を私釈三国志風に意訳・要約しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
この社会民主主義とは、自由主義・民主主義を根本指導原理として、国家をその手段とするものである。
だから、国家の存在は認めることには認めるが、上記手段の範囲として認めるに過ぎない。
それゆえ、個人や自由を強調することになるし、議会主義や資本主義とも両立しうることになる。
(意訳終了)
(以下、本書で引用されている『国家主義団体の理論と政策』の記載部分を私釈三国志風に意訳・要約しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意)
『国体論及び純正社旗主義』から北一輝の思想的帰結をまとめれば、次の3つとなる。
1、天皇機関説を採用し、民意に基づく政治を行うこと
2、私有財産制や資本主義を採用する一方で、これらに対して強度の中央集権的制約を加えることも怠らないこと
3、国家改造の手段としてクーデターも認めること
(意訳終了)
このように書かれてしまうと、現代の社会福祉国家と大差ないように見えてしまう。
とすれば、何故北一輝の思想が危険で、かつ、そのような危険思想を何故決起将校らが絶対視したかが問題となる。
さらに、山本検事は北一輝が天皇機関説を採用している旨を明確に述べている。
これでは、決起将校を含む青年将校らは、北一輝の著書を読んだのか、北一輝の思想を理解していたのか、と言われても抗弁できないだろう。
この点、北一輝の著書については「読まなかった」というのが無理のない推測であろう。
なにしろ千ページ近くある大著、要約すら困難である。
ただ、私自身、ちゃんと理解できたか怪しい。
(以下、本書で引用されている「社会民主主義」の定義として書かれている部分を私釈三国志風に意訳・要約しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
社会民主主義とは、社会の利益と個人の権威の両方を主張するものである。これは個人が社会の一分子であるから、個人と社会を一種の同じものとして考えるらしい。
社会民主主義とは、国民が個人主義に目覚めてた結果、民意を反映した政権や国民が国家権力を操縦することを理想とする。
だから、個人主義が述べるところの国民自体に主権があるわけではない。
つまり、社会民主主義では主権は国民ではなく国家にあると考える。
しかし、国家の主権を維持し、国家の利益を守るために、国家の最高機関を議会とするか、あるいは、議会を最高機関とするように運動を行う。
そして、国家の権力を議会の統制に服させようとするものである。
(意訳終了)
これは議会制国家社会主義というべきものだろうか。
この点、明治39年には、ファシスト党もナチスも出現していないから、北一輝はこれらの影響を受けてはいない。
ただ、日本でこのような主張をするからには、「天皇の位置づけ」が問題となる。
以下、本書の引用部分を私釈三国志風に意訳してみる。
(以下、本書の225ページで引用されている部分を私釈三国志風に意訳・要約しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
現在の国体は、国家が君主の所有物と考えていた時代のものではない。
現在の国体は、公民国家の国体である。
(意訳終了)
(以下、本書の226ページで引用されている部分を私釈三国志風に意訳・要約しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
現在の天皇は昔のような土地と人民の所有者ではない。
美濃部博士が述べているように、国民の中に包含される国家の一分子として他の国民と等しく、国家の機関として特別な地位があるだけである。
明治天皇は、維新革命の民主主義のトップとして英雄のごとく活動為された。
『国体論』において、天皇と国民が貴族階級打破のために手を組んだが、天皇は国家の所有者ではなく、国家の特権ある一分子に過ぎない。
だから、天皇が民主主義の一国民として理想を体現してこそ、理想の国の国家機関となる
国家機関は社会の要請に応じて発生し、あるいは、消滅する。
日本の天皇は、国家の生存進化のために発生・継続する機関である。
(意訳終了)
こうなると、一種の国家法人説をとっており、その意味で美濃部達吉博士と同じ結論になる。
このようは文章を書いてよく右翼に襲われなかったなあ、と感じないではない。
でも、これでは「天皇尊崇の念など全くない」と言われて抗弁できないだろう。
このように、北一輝が天皇機関説の信奉者であることは間違いないだろう。
しかし、二・二六事件の直前、相沢中佐は「永田軍務局長は機関説信者である」ことを重要な理由の一つにして、に永田軍務局長を斬殺した一方、相沢中佐は北一輝の『日本改造法案大綱』をバイブルのように四冊も持っていた。
この辺は、二・二六事件の決起将校も大差ない。
しかし、機関説信奉者であることが殺害=総括の理由になるなら、彼らはまずもって北一輝から討ち果たす必要があったのではないか、と思わざるを得ない。
ここから話は天皇機関説問題に移る。
「天皇機関説」は何故問題となったのか。
この点、天皇機関説を採用した結果を簡単に述べると、「天皇と議会は一種の『機関』という意味では同等」・「立法権における天皇と議会は同等」・「立法権に関して天皇は拒否権を持たない(議会の優越)」ということになる。
これに対して、帝国陸軍が問題にしたのは統帥権に関する部分であろう。
つまり、統帥権は議会のコントロールを受けた内閣の責任とした点である。
いうまでもなく、天皇機関説の帰結は、立憲君主の在り方と大差ない。
それはそうだろう。
立憲君主は制限君主であり、君主の大権が制限されなければ憲法や国会の意味がない。
この点、美濃部達吉博士も「国体」については、「法律上の概念ではなく、歴史的・倫理的の概念に過ぎない」と峻別している。
これに対して、機関説否定派は「『国体』は歴史的・倫理的概念だけではなく、法的概念・政治的概念である」と述べ、そのうえで「神聖にして侵すべからず」(明治憲法)と考える対象に含めたのである。
もっとも、この論争がただの憲法・法律解釈の争いではなく、政争の具になってしまった。
その結果、ただのレッテル貼りになり、実態がつかめなくなってしまった。
なぜなら、北一輝もその著作を見れば明白に機関説を採用しているが、排除・レッテル貼りの対象にはなっていないからである。
さらに、奇妙なことは、昭和天皇自身も天皇機関説を採用していたことである。
このことは、昭和天皇自身が「議会は天皇に対して独立の地位を有し、天皇の命令に服さない(議会の立法に対する拒否権がない)」ことを当然のこととしていたことからも明白である。
これを磯部浅一が知ったらどういう反応を示したであろう。
さらに言えば、昭和天皇自体が、天皇機関説論争が正統・異端の不毛な神学論争になることを指摘している。
これについて、本書では『西園寺公と政局』(リンク先省略)の一説が紹介されている。
この部分を私釈三国志風に意訳してみる。
(以下、本書で引用されている『西園寺公と政局』の一部を私釈三国志風に意訳・要約しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
主権が天皇にあるか、国家にあるか、それを検討するならまだわかる。
ただ、機関説の善悪を議論することは無茶な話というしかない。
私は国家主権説(機関説)の方がいいと思うけど、「天皇=国家」と考える日本にとって、どっちでもよかろう。
(意訳終了)
(以下、本書で引用されている『西園寺公と政局』の一部を私釈三国志風に意訳・要約しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意)
君主主権は専制政治に陥りやすい。
だから、君主主権かつ君主機関と両立するような説を立てられれば、専制政治をけん制できるから結構なことではないか。
美濃部博士を不忠者ではないし、あれだけ立派な者が日本にどれだけいることだろうか。
あのような神学論争であのような学者を葬ってしまうことはすこぶる惜しいものだ。
(意訳終了)
つまり、神学論争は政敵へのレッテル貼りになるだけで、現状は変わるわけではない。
このことは、この神学論争の結果、天皇陛下が拒否権を行使するようになってないことからも明らかである。
ところが、天皇機関説論争が神学論争になると、異端へのレッテル貼りとなる。
そうなると、そのレッテル貼りを利用し、政敵の追い落としする手段になる。
もちろん、これは昭和天皇の「大御心」に反するわけだが、こうなると始末が悪い。
この点、『本庄日記』には、陸軍の弁明に対する昭和天皇の意見が述べられている。
以下、本田侍従武官長の帝国陸軍の立場の説明とそれに対する昭和天皇の返答を私釈三国志風に意訳してみる。
(以下、本書の記載部分や本書で引用されている『本庄日記』の一部を私釈三国志風に意訳・要約しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
(本庄侍従武官長)
帝国陸軍は、明治時代からの建軍の立場から天皇機関説に対する信念を述べているだけです。学説についてはどうこういうつもりはありません。
信念で科学を駆逐したら、世界の進歩に乗り遅れるぞ。進化論すら否定せざるを得なくなるぞ。
もちろん、思想・信念は必要だが、思想と科学の両輪をちゃんと生かさねばならん。
あと、憲法4条は「機関説の採用」を意味する。
だから、機関説を否定したいなら憲法を改正してからにしろ。
(意訳終了)
この点で進化論が登場するのは面白い。
なお、天皇と進化論についての話は次の読書メモで見てきた通りである。
さて、この天皇機関説論争は、神学論争を超えて、天皇の戦争責任に及ぶことになった。
つまり、天皇機関説論争によって機関説信奉者を否定しようが肯定しようが、組織の実体は昭和天皇は機関説上の権限しかなく、立法権は議会に制限されていた。
だから、実体を見れば、前述の近衛文麿の言い分はおかしいと言える。
しかし、天皇機関説を葬ったことにより、形式的には昭和天皇は絶対君主(専制君主)になったため、議会に対して拒否権を持つことになる。
すると、議会が持つべき責任が昭和天皇にも及ぶことになる。
もちろん、実体的には拒否権を与えていないのに、である。
この形式と実体の乖離を指摘したのは、白鳥庫吉博士の愛弟子、津田左右吉博士である。
なお、本書では本庄侍従武官長に対する弁護が入る。
曰く、「真面目な本庄侍従武官長の感情を代弁するならば、『腐敗した内閣の命令で死ねるか。冗談じゃない』ということになる。当時は政党が腐敗していたのでこのような感情自体無理もないだろう」と。
以上、本章の半ばまでみてきた。
日本教から見て興味深い点がいくつか出てきて参考になった。
後半は次回に。