今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
14 第8章を読む_後半
前回は、二・二六事件前夜から二・二六事件の形勢が決まる戦時戒厳令が出るまでをみてきた。
今回は、戒厳令が裁可された後の動きを見ていく。
というのも、磯部浅一は、帝国陸軍の首脳の「皇軍相撃は避けたい」という思惑を逆用しようとしていたのだから、「皇軍相撃になっても討伐する」という強い意志が出てくれば、磯部浅一の前提が崩れてしまうからである。
見方を変えれば、二・二六事件は昭和天皇と磯部浅一の心理戦のような様相になっていると言える。
そして、強硬な意志を示した昭和天皇が決起将校たちに動揺させ、崩壊させたことになる。
とすれば、逆方向の結果もあり得たということになる。
そして、26日の段階では決起将校たちもうまくいったと感じたであろう。
そうでなければ、裁判の途中で磯部浅一が真崎甚三郎などを告発していないからである。
この告発は、「我々が反乱軍であれば、同調した彼らも同じではないか」ということである。
もっとも、彼らは天皇の意志が事件を挫かせたことに気付かなかった。
以下、二・二六事件の終息までを見ていく。
28日、川島陸相ら帝国陸軍の首脳は事件の収拾策としてある提案をする。
『本庄日記』によると、提案に関するやり取りは次のようなものであったらしい。
例によって、本書で引用されている『本庄日記』の一説を私釈三国志風に意訳しようとしてみる(意訳であって引用でも直訳でもないため注意すること)。
(以下、本書で引用されている『本庄日記』の一部について私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
(川島陸相)事態の収拾策として、陸相官邸において決起将校たちに謝罪の自決をさせたい。ついては、天皇陛下の勅使を派遣していただきたい。
(非常に不快になった昭和天皇)・・・自殺するなら勝手にしろ。そんな輩どもに勅使を送れるか。バカも休み休み言え。師団長が討伐する必要がないなどと考えるのは自分の責任を感じていないからだ。さっさと討伐するんだ。
(意訳終了)
ちなみに、この勅使の派遣は山口一太郎大尉からももう一度要請される。
しかし、本庄侍従武官長は天皇陛下に取り継ぐことはなかった。
とすると、勅使の派遣は決起将校らの要請であり、陸軍首脳はこれに便乗したのかもしれない。
ただ、二度目の返事がないことに決起将校たちはどう思ったであろう。
この点、盲信とは不思議なものであって、決起将校たちは天皇陛下自身の意志を見過ごしたらしい。
この盲信と希望的観測があったから、彼らは死刑判決がなされても判決が執行されるとは考えなかったらしい。
この辺は、磯部浅一の「仙台発見遺書」の記載から見ることができる。
(以下、本書で引用されている「仙台発見遺書」の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
帝国陸軍首脳部は、裁判において求刑を極刑にして判決を寛大にし、決起将校と維新を望む国民に恩を売るつもりだろう(この裁判は軍事裁判である)。
日時がたつほど、この予測が正しいと感じるようになった。
例えば、安藤輝三はものすごく楽観していて、4月29日に大赦が出て出所できるとさえ言っている。
私はそうなるとは思わなかったが、出所できないはずはないと考えていた。
(意訳終了)
これは「甘い」というレベルではない。
もちろん、「彼らの頭の中にある天皇像への彼らの信仰」を前提とすれば、天皇陛下が軍人を処刑することはない。
ただ、昭和天皇自身の意志を知っていれば、そんなことにならないことは容易に理解できただろう。
そして、処刑は実行された。
以上の展開に、証人として生かされている磯部浅一は納得できない。
そこで、最初はこの展開は天皇側近の仕業と考える。
以下、本書に引用されている磯部浅一の『獄中日記』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしてみる。
(以下、本書で引用されている磯部浅一の『獄中日記』の一部について私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
(8月6日)
てんのうへいかー!!!!!側近は全員売国奴ですぞー。そのことに気付かなければ日本が大変になりますぞー。本当に大変なことになりますぞー。
明治天皇も天照大神も何をしているのですかー。天皇陛下をお助けする気はないのですかー。
日本の神々は寝ているのですかー。危急存亡のときにいる日本を前にして眠っている神々など神々に値しない。私はそんなナマケ者の神とは縁を切る。そんな神々など日本から追い払ってしまえ。私のいうことをよく覚えておけ、今にみておれ、今に見ておれ。
(意訳終了)
最初の磯部浅一の呪詛は、側近と側近の言いなりになっている昭和天皇に向けられる。
ただし、磯部浅一本人も磯部浅一らの天皇像と現実の天皇像のずれに気付きはじめることになる。
(以下、本書で引用されている磯部浅一の『獄中日記』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
(8月11日)
天皇陛下は15名の忠義者を殺されたのであろうか。それとも、彼らの言いなりになることをよしとしたのだろうか。
陛下、我々のような忠義者は日本中を探してもおりませんぞー。
何故、いじめるのですかー。
「朕は全く知らぬ」と仰せになって逃げてはいけません。
仮にも、15人の忠義者を殺すのですぞ。
殺すということは簡単な問題ではないはずでしょう。
(意訳終了)
これに対して、「何を言っている。お前は天皇の重臣を簡単に殺しているではないか」という突っ込みは入れまい。
彼らから見れば、重臣の殺傷は一種の「総括」に過ぎないのだから。
(以下、本書で引用されている磯部浅一の『獄中日記』の一部について私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
陛下が私たちのいうことを聴かないのであれば、しょうがありません。
もう一度同じことをして、陛下の御前を血の海に変えるだけのことでございます。
おそらく陛下は御前を血の海に変えなければ気付かないのでしょう。
悲しいことではありますが、仕方がありません。
日本のため、皇祖皇宗のため、私は必ずやりますぞ。
(意訳終了)
事実、彼は事件が終わりを迎えたとき、逃亡による再挙を企てている。
ただ、収監という現状を考慮すれば、これは天皇陛下への脅迫、というか、呪詛に近い。
ところで、彼の遺書は2つある。
一つは、面会に来た彼の妻が持ち出したもので、怪文書のように配布されたものである。
もう一つが仙台遺書であり、こちらのほうが本音に近いのかもしれない。
ただ、磯部浅一は、本庄侍従武官長から山口一太郎大尉を通じて天皇の激怒を知ったのだろう。
以下、本書で引用されている『獄中日記』の部分を私釈三国志風に意訳してみる。
(以下、本書で引用されている磯部浅一の『獄中日記』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
(8月28日)
陛下、私は、陛下が私たちの義挙を国賊の所業とみているというウワサを刑務所で耳にしました。
私は血の涙を流しており、怒りに燃え、私の髪の毛は天を衝こうとしています。
ですので、私はこれから毎日、四六時中、天皇陛下を叱り飛ばすことにいたしました。
お覚悟ください。
天皇陛下、現実を、国家の惨状を覧ください。
なんという御失政でありますか。なんというザマですか。皇祖皇宗に謝りなさいませ。
(8月30日)
私は鬼になる。地獄の鬼になれる自信がある。今のうちに性根をしっかり作って、容赦のない残忍な鬼になるのだ。 涙や血が一滴もない悪鬼になってやろう。
(意訳終了)
磯部浅一から見れば、昭和天皇は(自己のイメージに反する)裏切り者だったのだろう。
その裏切りに報いるべく、怨霊となって憑りついてやると宣言している。
ところで、昭和天皇は断固たる意志で反乱を起こした決起将校を鎮定しようとし、また、磯部浅一も相応の意志を持っていた。
これと比較して、帝国陸軍の首脳は腰抜けで右往左往するだけであった。
この点、二・二六事件を裁いた陸軍法務官・小川関治郎の『二・二六事件秘史』には、事件の概要が的確に要約されている(本書のリンクは省略)。
そこで登場する川島陸相の態度は非常に興味深い。
本書で引用されている部分を私釈三国志風に意訳しようとしてみる。
(以下、本書に引用されている『二・二六事件秘史』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)
26日、決起部隊は陸相官邸を掌握、川島陸相に会見を要請した。
しかし、川島陸相は容易に応じず、夫人が出て応対するなど、ひたすら時間稼ぎをしていた。
その後、川島陸相は決起将校の「閣下」と呼ぶ声を聴いて、「まあ、私に害を加えまい」と考えて会見の準備をしたという。
なお、その間約2時間もかかったとのことである。
(意訳終了)
なお、襲撃された重臣の夫人たちについては次のようなことを残している。
(以下、本書に引用されている『二・二六事件秘史』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)
襲撃された者たちの夫人は、いずれも夫を身を以て守ったという。その度胸には感服するしかない。
(意訳終了)
ちなみに、反乱軍に同情的だった真崎甚三郎大将についてはこんな塩梅である。
(以下、本書に引用されている『二・二六事件秘史』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意)
真崎大将の扱いには、戒護看守もてこずったという。
大将のくせに精神修養の点でなってないと評した者もいた。
(意訳終了)
これと対照的なのが、反乱ほう助の容疑で収監された実業家にして政治家の久原房之介(以前、登場した亀川哲也を匿ったことで起訴されるが、無罪判決を得る)。
本書では「横道にそれる」と断ったうえで引用している。
こちらも意訳してみよう。
(以下、本書に引用されている『二・二六事件秘史』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)
二・二六事件に際して、政治家にして実業家の久原房之介が収監された。
彼は収監前に胃腸を痛め、健康を害していたため、療養するつもりだったらしい。
ところが、収監による規則正しい生活により、たちまち健康を回復した。
彼は「収監による規則正しい生活により健康が回復できた。温泉に行く必要もなく、ここは温泉以上だ」とか「夏になったが、ここは風通しもよく、閑静で、これ以上の避暑地はない」と言っているらしい。
監獄を理想郷のごとく感じたのは彼くらいであろう。
(意訳終了)
川島陸相や真崎大将と久原房之介は比較の対象にならないというしかない。
ちなみに、『木戸日記』(リンクなどは省略)によると、岡田内閣総辞職における川島陸相の辞表を見た天皇陛下は次のようなことを述べたらしい。
(以下、本書に引用されている『木戸幸一日記』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)
陸軍大臣の辞表が他の大臣と同じだが、これで責任を取ったつもりなのか。
だから、ダメなのだ。
(意訳終了)
決起将校たちも「これだから川島陸相はよろしくない」ということで信用できなかったのだろう。
ところで、『二・二六事件秘史』には「参内しようとした香田・村中・磯部らが平河門で阻止された」一件について記載されている。
本章に記載されている部分を私釈三国志風に意訳してみる。
(以下、本書に引用されている『二・二六事件秘史』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)
26日、決起将校の要求を受けて、陸軍大臣が参内したが、陸相はなかなか帰ってこない。
そこで、将校たちは、次官に対して速やかに参内して陸相から「決起部隊を義軍を認めろ」と要請していたところ、山下奉文がやってきて、陸軍大臣の五箇条の告示を述べた。五箇条の趣旨は次の通りである。
一、決起の趣旨は天皇陛下に届いた
二、決起の行動は国家への忠誠に基づくものと認める
三、国体の現状はひどいというしかない
四、各軍事参事官は決起の趣旨の実現にまい進することで合意した
五、あとは大御心に従う
ところで、「要求に対する返答がこれでは抽象的すぎる」と感じた決起将校は、さらに「具体的な決定を行うこと」と要請するとともに、宮中にて陸軍首脳に意見を上申しようと山下奉文らの車に続いて参内しようと試みたが、平河門で阻止されて参内できなかった。
なお、参内した後は、要求を貫徹するための非常手段として「天皇陛下に銃を突き付けてでも承諾させる」とか「自分たちは足利尊氏になっても目的を達成する」といった暴言を放っていた旨の証言もあるようである。
(意訳終了)
この二・二六事件の最大の失敗はこの「平河門の阻止」であろう。
というのも、磯部浅一は、天皇陛下に銃を突き付けて承諾するように脅迫し、それにも応じなければ天皇陛下を射殺する覚悟を持っていただろうから。
また、2月26日に決起をしたのは、同志の一人たる中橋基明中尉がこの日に赴援隊にあたっていたため、そのための布石も打っていた。
つまり、決起により緊急事態になって赴援隊が皇居に駆けつけるところ、その赴援隊に同志がいることとなり、内通者を用意したことになる。
もっとも、彼に高橋是清を襲撃させたため、素知らぬ顔で、、、というわけにはいかなくなった。
その結果、赴援隊が皇居に駆けつけたときに怪しまれることになり、警視庁に向けて信号を送ることができず、中橋中尉の部隊は撤退することになる。
その際、彼が恐れたのは「皇軍相撃」であろう。
この点、近衛部隊には独特の近衛意識があり、一種の誇りと使命感があった。
だから、皇居の守備隊司令官が近衛以外の部隊を引き入れることはまずない。
そして、皇居にいれば、情況も昭和天皇の意志も明らかになる。
そんななかで、強行すれば皇軍相撃、先手を打った攻撃軍は逆賊の烙印を押されてしまう。
これらの不安感と孤立感から中橋中尉は脱出した、と著者(故・山本七平先生)は解釈している。
ここで気になるのが、磯部らが通用門たる坂下門ではなく、平河門に誘導された点である。
とすれば、山下奉文は平河門で磯部らを阻止させるために誘導した可能性もないではない。
ただし、中橋中佐が素知らぬ顔で坂下門を警護することができ、また、磯部らが坂下門を抜けたところで、磯部らの目論見は成功しなかっただろう、と著者はいう。
というのも、終戦直前の宮城事件において昭和天皇は平然としていた。
また、マッカーサーとの単独会見においても見られたように、昭和天皇には妙に度胸が据わっているところがある。
そうだとすれば、三名の将校が押し入ったとしても逮捕されるのが落ちだっただろう。
最後に。
獄中日記で書いたように、磯部浅一は昭和天皇には憑りつこうとした。
確かに、昭和天皇には憑りつくことができなかった。
しかし、磯部浅一が昭和天皇の周辺、政府、議会を憑りついたことにより、「これでは部下が収まりません」で沈黙させることができたのである。
ある種、昭和天皇を真綿で首を絞めるに等しい行為を死後も続けることができ、その意味で彼は重臣たちに勝利したと言える。
しかし、昭和天皇自身には憑りつけなかった。
それゆえ、昭和天皇と安藤大尉が止めを刺せなかった鈴木貫太郎によって、悪鬼は調伏させられることになる。
また、帝国陸軍において皇道派と対立していた派閥に統制派がある。
統制派は本事件を通じて昭和天皇の自己規定をまざまざと見せつけられることになる。
その結果、統制派は、天皇を奪取するのではなく、政府と議会を奪取するという合法的な手段で目的を達成しようと考えることになる。
以上が本章の話。
なんとも恐ろしい話であった。
また、昭和天皇の意志の強さを感じざるを得なかった。
では、続きは次回に。