今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
3 第2章を読む
第2章のタイトルは「天皇の教師たち(1)_倫理担当に杉浦重剛を起用した時代の意図」。
この章と次の章は昭和天皇を教えた杉浦博士について述べられている。
まず、本章は昭和天皇の趣味の一つに生物学があったことから始まる。
そして、昭和天皇に生物学好きに決定的な影響を与えたことが昭和天皇の御学問所で博物を担当した服部広太郎博士であることも。
なお、著書では、この生物学研究への飽くなき関心・継続も昭和天皇の自己規定の一つととらえている。
そして、その自己規定の形成に影響を与えたのが服部博士であることも。
このような例を挙げてから、本書は「第1章で述べた『憲法遵守』という昭和天皇の自己規定を形成したのは誰か?」という問いへ進む。
そして、その形成に貢献したのは杉浦重剛博士と白鳥書庫吉博士であると述べ、両名の紹介へと続くことになる。
本書はここから杉浦重剛博士についての紹介へと続く。
本に掲載されている写真を見ると、杉浦博士の風貌からは国士を連想させる。
しかしながら、杉浦氏がイギリスに留学した化学者であり、写真の風貌と結びつきにくい。
さて、杉浦博士は江戸時代に近江で生まれ、藩校で教育を受け、漢学と洋学を学ぶ。
その後、ヨーロッパの言語・数学・自然科学などを学び、最終的には化学と英語を選択することになる。
そして、アメリカを経由してロンドンに留学することになる。
ここで、杉浦博士はアメリカやヨーロッパで大変な文化ショックを受ける。
一般に、当時の留学生がこのようなショックを受けた場合、日本に失望して欧米絶対になるか、逆に、日本人意識が強くなったりするらしいが、杉浦博士は後者だったらしい。
もちろん、前者だろうが後者だろうが心の持ちようが違うだけで、努力する点では変わらないとしても。
ロンドンで、杉浦博士は農芸化学を学ぼうとするが、イギリスと日本の農業の違いからいわゆる化学に進み、大学で努力を重ねて主席にまで上り詰める。
また、当時のイギリスはヴィクトリア女王の時代であり、大英帝国の最盛期である。
しかし、杉浦博士はヴィクトリア王朝から受けた影響を表に出さなかったし、必死で学んだ化学で身を立てようともしなかった。
とはいえ、ヴィクトリア王朝の時代に化学を学んだ影響は『倫理御進講草案』に残っているらしい。
例えば、『倫理御進講草案』には、実験を推奨することやナポレオンの学者を厚遇した話などが書かれている。
以下、本書で引用されている『倫理御進講草案』を私釈三国志風に意訳(あくまで意訳であり、直訳ではない)したものを書いてみる。
(以下、本書で引用されている『倫理御進講草案』を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって本文とは異なるので注意すること)
知識など人から聞く、書籍で読むだけでは意味がない。
自ら経験し、あるいは、実験して、内容の正しさを確認すべきだ。
例えば、政治を行う際には、自ら視察して民情を把握することが重要である。
また、学問を修めるためには、実験調査することが重要である。
(意訳終了)
(以下、本書で引用されている『倫理御進講草案』を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって本文とは異なるので注意すること)
むかしむかし、18世紀のイギリスにハンフリー・デービーという化学者がいた。
この化学者は、ナトリウムやカリウムというに元素を発見した偉大な化学者である。
ところで、この化学者がフランスへ旅行に行ったことがある。
当時、イギリスとフランスはナポレオン戦争の真っただ中である。
しかし、フランス皇帝ナポレオンは、国内を自由に旅行することを許可するだけではなく、この化学者に直接会って話を聴くなどして、この化学者を厚遇している。
(意訳終了)
このように、杉浦博士はは化学やイギリスに関する話題を例の中で自然に述べている。
他方、ドイツやイタリアについては杉浦博士の話にはほとんど登場していない。
ヴィリーことヴィルヘルム二世を反面教師として紹介する程度である。
なお、ヴィルヘルム二世は第一次世界大戦末期に退位、亡命した。
昭和天皇が太平洋戦争後に取った行動とは対照的である。
また、昭和天皇自体、イギリス・フランスに愛着を持ち、ドイツやイタリアをよく思っていなかった節がある。
というのも、ナチス・ドイツがマジノラインを突破し、イギリスをダンケルクから撤退させ、フランスを降伏した段階で「独伊が如き国家と、、、」というような言葉を述べているからである。
この背後にはイギリス王のジョージ五世への親愛感、フランス語の選択といったものも関連してはいるだろうが、杉浦博士の講義の影響があったと言える。
このように、イギリスと化学は杉浦博士自身に十二分に根付いていたようである。
法学者の穂積陳重のようにイギリスかぶれにもならなければ、「日本化学の祖」にもならず、一種の出世し損ねた感じがあるとしても。
なお、杉浦博士が「日本化学の祖」にならなかった理由は彼の病気にあった。
杉浦博士は完璧主義的なところがあって猛勉強したが、その代償に健康を害することになる。
その結果、杉浦博士は帰国を余儀なくされ、その後の紆余曲折を経て、日本中学校の校長となって教育の言論の世界に身を置くことになる。
そして、杉浦博士は教育者としての才能を開花させていくことになる。
ただ、明治の終わるころ、杉浦博士は忘れられた存在になっていた。
このような杉浦博士を昭和天皇の教師の一人に選んだのが、東大総長や文部大臣を経験した浜尾新である。
そして、浜尾は大学教授が務まる中学教師で経験豊かな杉浦博士に白羽の矢を立てることになる。
もちろん、これは浜尾一人の独断ではなく、山川健次郎が杉浦博士の著書などを審査している。
また、この背後には、昭和天皇に対する期待も影響している。
昭和天皇が無政府主義者や神がかり的超国家主義者になってはまずいだろうから。
では、杉浦博士はどのような思想を持っていたか。
この点、杉浦博士はヨーロッパの近代思想を学んでいないため、「何々派」といった言葉で杉浦博士の思想を要約することはできない。
しかし、杉浦博士の『倫理御進講草案』などを見てみると、彼の思想は「日本的儒教」と「ヴィクトリア朝下のイギリス思想」の混合形と考えることができるらしい。
この点、当時の日本人の留学生で進化論の影響を受けなかった者はいない。
例えば、法学者の穂積八束はスペンサーの社会進化論的考え方の信奉者であり、彼自身は、「個人の淘汰により民族は優秀な適者だけになり、その結果、世界との民族競争にも勝利する」という発想を持っていた。
これはこれで危ない発想だが。
ところで、この場合に問題となるのが、「『適者』はいかなる要素を持つか」という点である。
この点、杉浦博士は「力とは道徳である」という一種の道徳至上主義的発想を持っていた。
この背後には、「徳」に絶対的価値を持つ儒教だけではなく、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』などに見られる道徳的退廃が民族を滅亡に追い込むといった発想にも影響を受けている。
なお、この道徳至上主義的発想は明治時代に共通してみられる。
例えば、内村鑑三は道徳的退廃が衰亡につながると考えていた。
さらに言えば、尊王思想を形成していった学者の一人栗山潜鋒も『保建大記』において天皇(当時の後白河天皇)の道徳的退廃が武家政権の誕生へとつながった旨述べている。
この『保建大記』は一応『倫理御進講草案』にも登場する。
また、杉浦博士は「日本は道徳的な力において最高になることで世界の中心的勢力になるべき」とも考えていたらしい。
この発想は先の『保建大記』の発想と似ている。
というのも、『保建大記』では、朝廷は「失徳」によって政権を失ったのだから、政権を取り戻すためには「徳」を極める必要がある、と述べられているからである。
その結果、杉浦博士は「天皇は模範的な道徳的人間になるべきで、そうならなければ日本は衰亡に向かう」と考えていたと推測できる。
また、杉浦博士はベンサムの「最大多数の最大幸福」のことを「仁」と言い換えている。
この部分について本書に引用されているところを、私釈三国志風に意訳してみる。
(以下、本書で引用されている『倫理御進講草案』を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって本文とは異なるので注意すること、なお、強調は私の手による)
トマス・ロバート・マルサスと同時期、ジェレミ・ベンサムという大学者がいた。
このベンサムは「最大多数の最大幸福」という主張を行った。
この「最大多数の最大幸福」は、人口の増加という社会的現象において、その増加する人間を治めるためには、結局その多数に対してより大きい幸福を提供することにならざるを得ない、ということになる。
これは、東洋における「仁」そのものである。
(意訳終了)
儒教的思想と近代思想を組み合わせた興味深い主張である。
では、杉浦博士の昭和天皇への影響はどのようなものであったか。
その結果は、さまざまな機会に昭和天皇がなされたお言葉などから見ることができる。
なお、昭和天皇の東宮学問所の講師たちはイギリスに留学した者が多かった。
当時は第一次世界大戦前夜であり、時勢も影響したが、昭和天皇のイギリスへの親近感はこのようなところにも影響を受けているのかもしれない。
以上が本章のお話。
次回は、杉浦博士が神話と科学に対してどのように考えていたかを具体的に見ていく。