今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
5 第4章を読む_前半
第4章のタイトルは「天皇の教師たち(2)」。
この章では、「憲法遵守」という昭和天皇の自己規定の形成に貢献した白鳥博士についてみていく。
この点、前章までの杉浦博士の担当は「倫理」であるところ、白鳥博士の担当は「歴史」である。
本章は、帝国臣民やアメリカ人が天皇陛下をどう見ていたか、という点から話が始まる。
というのも、アメリカでは「日本人は天皇を絶対神と信じ、この絶対神が戦争の開始を命じたから戦争をはじめ、停戦を命じたから戦争をやめた」と考えている人間が少なくない、少なくなかったからである。
本書では、半藤一利氏が雑誌の論文で引用している当時のアメリカ国民の世論調査が紹介されている。
これによると、「日本国民にとって、天皇とは何か」という問いに対して、「唯一の神である」という答えが約44%になっている一方、昭和天皇の自己規定だった「英国流の国王」という答えは約6%しかない。
もちろん、こう信じるのはよその国の勝手であり、かつ、こちらが説明したとしてもその判断を変えないというのであれば「その判断をやめよ」ということもできない。
ただし、昭和天皇がどう考えていたかは別問題である。
さて、昭和天皇の自己規定に「五箇条の御誓文」や「憲法」の遵守があることはこれまで見てきた通りである。
そこで、次に問題となるのは、「昭和天皇が『日本の神話』や『皇国史観的歴史認識』に対してどう考えていたか」ということになる。
この点、杉浦博士は倫理の担当であるから、杉浦博士の『倫理御進講草案』を見てもこの問いの答えは明らかにならない。
というのも、杉浦博士は「三種の神器」をあっさり知・情・意の象徴として神話性を取り除いてしまったし、大嘗祭の説明の際も「稲作民族の農業祭」として扱っており、神話性の要素がなくなってしまっているからである。
また、杉浦博士が、「自分の教えるのは倫理であって、歴史を教えるのは白鳥博士である」と考えたこともあるかもしれない。
この点、天皇は新聞記者からの質問に対して、「購入する本は『生物学と歴史』」と答えておられる。
そして、生物への関心はよく知られている。
ただし、この答えを考慮すれば、歴史に対する関心も薄くはなかったと考えられる。
このことからも、昭和天皇自身の神代史解釈は重要な問題となる。
そして、昭和天皇に歴史を教えたのが白鳥博士であったことから、この白鳥博士の「歴史観」を見ていくことになる。
本章は、ここから白鳥博士の経歴と日本における歴史学を見ていくことになる。
『白鳥庫吉全集』の末尾にある『小伝』によると、白鳥博士は1865年に生まれ、1890年に帝国大学文科大学史学科を卒業するや否や学習院の教授に任じられている。
この背景には、そもそも日本には「歴史学」がなく、中国史は漢学の付属物、日本史は国学の付属物であったという事実がある。
これを受け、著者(故・山本七平先生)は、戦前の日本では「神話を歴史として教えた」というよりも、「歴史を国学の付属物のように扱った」といったほうがより正確である、という。
つまり、白鳥博士が卒業と同時に学習院の教授になった理由は、単に「歴史学を教えられる人間がいなかったから」となる。
それゆえか、白鳥博士は「歴史学を国学から独立した学問にすること」が生涯の目標だったと推測できる。
もちろん、歴史学を国学から独立させるということは、歴史学をマルクス主義の付属物にすることを許容するものではない。
そして、この白鳥博士を継承したのが後に登場する津田左右吉博士である。
以下、本書で引用されている白鳥博士が自ら書かれた「学習院に於ける史学科の沿革」によると、白鳥博士が歴史学の教授となった明治20年の当時、の学習院は新しいエリート教授を教育するため、新しい教育の先端を走っていた。
そのため、当時のカリキュラムは文部省所轄学校とは無縁であった。
というのも、当時の文部省は義務教育に主力を注がなければならなかったこともあって、初等中等教育の普及に注力していたからである。
この点、時代が進んで昭和になり帝国大学が発展していくと、学習院と文部省のカリキュラムは同一になっていき、学習院の存在意義が問われるようになっていた。
しかし、昭和天皇への御進講が始まった明治末・大正初期のころは学習院大学の意義は十分にあったと考えられる。
ただ、白鳥博士が困っていたことに、当時において日本史も東洋史も存在しないため、これらの学問が時勢に先んじていたことにある。
そもそも学問がないなら困るのも無理はない。
ただ、これらのことから、昭和天皇は文部省教育を受けていないことがわかる。
では、白鳥博士は「神代史」をどうみていたか。
また、白鳥博士は自己の歴史認識をそのまま御進講することができたか。
まずは、前者から見ていく。
この点、杉浦博士の場合と異なり、白鳥博士は『歴史御進講草案』といったものを残していない。
そのため、白鳥史観を知るためには内外の学術雑誌に掲載された論文から把握するよりなく、その作業は容易ではない。
本書では、津田博士と白鳥博士の見解は共通する部分があったものの、白鳥博士から見た場合、津田博士の見解にはやや演繹的に過ぎるところがあった旨述べられている。
また、白鳥博士は、漢学者がその専門家であった在来の東洋史に実証的なヨーロッパ史学のメスを加え、徹底して史料批判に基づく近代史学を日本に樹立しようとしたもの、ある意味思想中立的であった、と考えることができる。
なお、この態度は東洋史においては一貫しており、科学的見地を徹底させて研究を進めていった。
なお、明治34年に白鳥博士はヨーロッパに留学し、37年の帰国と同時に東大教授を兼任、大正3年からの御進講で国史・東洋史・西洋史を担当することになる。
そして、白鳥博士がヨーロッパの留学したころ、ヨーロッパでは聖書への高等批評、つまり、聖書に対する科学的分析が始まる。
その結果、白鳥博士は聖書への高等批評の影響を受けたのかもしれない。
もちろん、「聖書を資料別にばらばらにして研究すること、あるいは、その結果、聖書の引用元がエジプトやバビロニアにあることが判明すること」と「聖書が西洋の精神史において貴重な役割を演じたこと」は完全に両立する。
そして、この考え方は白鳥・津田博士に共通するものである。
もちろん、この発想に対する抵抗はヨーロッパにも日本にもあるとしても。
以上、本章の前半を見てきた。
本書によると、明治以前には「日本には歴史学がなかった」という。
現代を見ても「さもありなん」という気がする。
あるいは、戦前が「歴史を国学の付属物のように扱った」なら、現代は「歴史を社会的格付(受験)の道具として扱った」とも言いうるかもしれない。
いずれにせよ、あれである。
ここから、白鳥博士の歴史観に移りたいわけだが、本章は1記事でメモにしようとすると結構な量になってしまう。
そこで、本章については前半後半とに分け、後半は次回に譲ることにする。