今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
7 第5章を読む_前半
第5章のタイトルは、「『捕虜の長』としての天皇」。
前回まで、「憲法遵守」という昭和天皇の自己規定を基礎づけた杉浦博士と白鳥博士についてみてきた。
今回から、敗戦直後の昭和天皇の行為についてみていく。
本書は、昭和天皇が天皇家の神祇のまじめに実施されていたことから話が始まる。
このことは、大宝律令において「天皇が太政官と神祇官の長であった」という伝統に基づく。
なお、ここで見ておくべきことは、天皇は祀る側の人間であって、祀られる側の人間ではない、ということである。
このことを、杉浦博士は「大宝令」という章で説明していた。
この点、武家政権以前の天皇制と明治維新以降の天皇制は分断されていること、明治維新以降の天皇制が「五箇条の御誓文」に始まる(と昭和天皇の教師たちがみてきた)ことは、前章までで確認してきた通りである。
このことは、五箇条の御誓文の前に明治天皇が示した「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」にも示されている。
ちなみに、「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」というのは明治元年3月14日に明治天皇が皇祖神に誓ったもので、「誓った」という点では「五箇条の御誓文」とも共通する。
そのことを考慮すれば、いわゆる「人間宣言」の背後には、「五箇条の御誓文」のほかに「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」があると言える。
なお、著者(山本七平氏)は、いくつかの書籍で「『天皇は現人神である』と述べてはないから、『天皇は人間である』と述べる必要はない」と述べており、ここでもその旨を述べている。
この点も踏まえて、著者は「いわゆる『人間宣言』の背後にあるのは、『五箇条の御誓文』とそれに基づく『明治憲法』である」と述べている。
ところで、本書では、いわゆる『人間宣言』は、マッカーサーとの単独会見がなされた直後に公布されている点に注意する必要があるという。
というのも、当時のアメリカの世論などを見ればわかる通り、戦勝国における敗戦直後の昭和天皇に対する態度は極めて厳しいものであり、マッカーサーとの単独会見によって昭和天皇の身に何が起きるか、昭和天皇と同視されたヒトラー・ムッソリーニ等の最期などを見れば、容易に想定できることだったからである。
さて、昭和天皇は昭和20年9月27日、マッカーサーを訪問し、会談された。
この点、この会談の内容は明らかにされていない。
というのも、マッカーサーと昭和天皇は先だってここでの内容を外部に漏らさないという約束に基づいて実施されたからである。
この点、マッカーサー(と昭和天皇)には会談の結果による戦勝国の世論への影響を考慮しており(アメリカもイギリスも民主主義国家である)、そのことの懸念もあったと考えられる。
そして、昭和天皇は昭和52年8月23日の記者会見における質問において答えたように、この約束をまじめに履践した。
もちろん、マッカーサーの方はある程度内容を漏らしているため、そこからこの会談の内容を察知することはできる。
ただ、日本側にも会談の趣旨に関する藤田侍従長のメモがあり、そのメモから昭和天皇がマッカーサーに述べたことが判明している。
その内容の趣旨は次の3点(第1点と第2点を一括化すれば2点)である。
・戦争責任は全て私(昭和天皇)にあり、昭和天皇が任命した部下に戦争責任はない
・よって、私をいかように裁いていただいても差し支えない
・国民の生活を困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい
日本側にはこれ以外に資料らしき資料はない。
そこで、マッカーサーの記した『回想記』からこの3点の裏付けをとっていく。
まず、『回想記』によると「会談時の昭和天皇は非常に憔悴して落ち着きがなかった」と述べている。
当時の人々が昭和天皇の憔悴ぶりから見れば、これは事実であろうと著者は述べる。
次に、マッカーサー側から見て、次の信頼できる趣旨の記載があったらしい。
以下、その趣旨を箇条書きにして列挙する。
(以下、本書に書かれた『回想記』の内容の趣旨のまとめ、原文そのものではないため注意)
・昭和天皇を戦争犯罪者に含めるよう求める国にソ連と英国があったが、このようなことをすれば、日本に百万の将兵を駐留させた上で軍政を布かねばならないこと、アメリカは日本においてゲリラ戦が始まると(マッカーサーは)予想していた。
・結果的に、天皇を戦争リストから除外された。
・しかし、昭和天皇はこのような戦勝国間の思惑を知らなかった。
(趣旨のまとめ終了)
両当事者には異なる部分もなくはないが、少なくても昭和天皇が自らが責任を取り、その処分を連合国に委ねた点においては間違いない。
なお、マッカーサーの雑談の中には「『自分はどうなってもいいが、国民を食わせてやってくれ』いう趣旨のことを昭和天皇が述べている」というものがある。
この点を考慮すれば、「国民に対する生活援助の要請」も相当の信頼性があると言えよう。
なお、私見ではあるが、「マッカーサーの昭和天皇に対する感想」に対して、「黒船を率いたマシュー・ペリーの吉田松陰に対する感想」との共通性を感じないではない。
しかし、この方向についてメモを進めていくと話が脱線するため、感想を述べるにとどめる。
ところで、以上の昭和天皇の発言に対するマッカーサーの回答はない。
マッカーサーの自己顕示欲を考慮すれば、『回想記』にその回答があってもよさそうなのに、である。
回答のない理由は、昭和天皇の言葉が予想外だったというのもあるかもしれないが、もっと重要な理由に「この昭和天皇の言葉を外部に漏らさないようにしなければならない」ということもあったからであろう。
確かに、この昭和天皇の言葉がアメリカのメディアに情報されれば、ソ連やイギリスは「天皇を処刑せよ」と言い出すだろうし、アメリカの世論も昭和天皇の処刑に傾きかねない。
そうすれば、マッカーサーは収拾できない事態が生じると感じたのだろうから。
ところで、昭和天皇からすれば、「自分が裁かれればそれでいい」という発想があったらしい。
そのことは、『木戸(幸一)日記』の終戦間もない時期に同様の趣旨があるからである。
また、本書では、マッカーサーのリークとして半藤一利氏が記されているヴァイニング夫人の記述が紹介されている。
そこには、「あなたが私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。私を絞首刑にしてもかまわない(You_may_hang_me)」とある。
ところで、この昭和天皇の決意に際して助言した者はいなかったと考えられる。
なぜなら、昭和天皇に対して「マッカーサーのところへ行って、『自分を戦犯として自由にしてください』と言ってください」と言えた側近はいないだろうから。
そして、会談はぶつけ本番であった。
では、天皇には何かの計算があったのだろうか。
おそらくなかったのではないかと考えられる。
というのも、マッカーサーはこれに対して「骨のズイまでも揺り動か」されたと述べているからである。
また、マッカーサーはこの昭和天皇の発言に対して、「よろしい、その通りにする」とも「断る。あなたを訴追しないが、国民の生活にも責任は持てない」とも言えなかったであろう。
そのため、マッカーサーは感動をする一方で困惑もしたであろう。
まことに、「捨て身の相手は扱いに困る」というべきか。
このような事情からも、マッカーサーの応答が記されていないのももっともなことと言える。
話は、ここから昭和天皇がこのような会談に及んだ背景に進む。
しかし、分量がそれなりになっていること、きりがいいことを考慮し、今回はこの辺で。