薫のメモ帳

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『昭和天皇の研究』を読む 8

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

8 第5章を読む_後半

 前回は、太平洋戦争の敗戦直後、マッカーサーとの単独会見に臨む昭和天皇についてみてきた。

 今回は、単独会見を実践した昭和天皇の背景についてみていく。

 

 

 では、昭和天皇は何に基づいてマッカーサーとの単独会見に臨むことができたのか。

 この点、基本の部分に五箇条の御誓文「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」があっただろうし、教育勅語があったと言えなくもない。

 しかし、これでは抽象的すぎて、「捕虜の長」との関連性が薄すぎる。

 

 本書では、杉浦博士の『倫理御進講草案』の「前ドイツ皇帝ウィルヘルム二世のこと」ではないか、と述べている。

 というのも、昭和天皇から見た場合、このヴィルヘルム二世はが反面教師として参考になったと考えられるところが少なくなかったからである。

 以下、本書を通じて『倫理御進講草案』に示されたヴィルヘルム二世についてみていくことにする。

 

 まず、『倫理御進講草案』を引用している本書によると、第一次世界大戦の原因となった中心的人物はドイツ皇帝のヴィルヘルム二世である」と述べる。

 そして、杉浦博士は明治・大正期の法学者たる穂積陳重から『世界戦乱に関して』という書籍を贈られたことから、この書籍を読んで感じたことを話す旨述べ、ヴィルヘルム二世について論評していく。

 この点、『世界戦乱に関して』は、オーストリアハンガリー二重帝国の外務大臣だったオトカル・フォン・チェルニン伯爵が書いたものである。

 

 また、穂積陳重がこの本を杉浦博士に贈呈した理由は明らかではない。

 敢えて推測すれば、杉浦博士にヴィルヘルム二世を「反面教師」として昭和天皇に講義してもらうため、ともいえるが。

 

 まず、本書は杉浦博士が要点として述べたヴィルヘルム二世の特徴を列挙する。

 以下、その要旨(原文は文語のため現代語訳にしたうえまとめてある)を箇条書きにしてまとめる。

 

(以下、本書にあるヴィルヘルム二世の特徴についての要旨、原文ではないため注意)

ヴィルヘルム二世の少年時代より成人に至るまで、常に欺かれていたことを念頭に置かないことはできない。

ヴィルヘルム二世の他に善意を有する王者はおらず、また、善良なる人物でもあった。彼はドイツのためにリソースを集中投下した。

・ヴィルヘルム二世は親近者だけではなく、全ドイツ国民によって誤るように誘導させられた。

・ヴィルヘルム二世は人情を見誤ることを常とす。

ヴィルヘルム二世の周囲の空気は、最も健全な植物でさえ枯死させる。なぜなら、彼の周囲はとにかく称賛する輩しかいなかったから。

(要旨終了)

 

 著者(山本七平)に言わせると、杉浦博士が述べているヴィルヘルム二世の印象は当時の(現在も、というべきか)印象とは全然違う、らしい。

 杉浦博士は以上のヴィルヘルム二世についての特徴を述べてから、自身の感想を述べる。

 

 まず、「ヴィルヘルム二世は決して暗愚ではなく、善良な人物であり、十分名君になりえた人物であったが、周囲の空気が著しく不健全だったため、国を誤り、身を誤った」というオトカル・フォン・チェルニン伯爵を主張を紹介する。

 そして、この意見を用いて、「君主は世の実情から離れていた王宮に起居している。よって、直言・諫言を聴くことを怠ってはならない」と直言・諫言を聴くことの重要性を述べる。

 さらに、「周りにチヤホヤされた君主が暗君となるケースに暇はない。夏や殷の最後の王たちはもちろん秦の始皇帝を継承した二世皇帝の胡亥もそうである」と直言・諫言を退けて自滅した暗君の例を列挙していく。

 そのうえで、「先々代(祖父)の初代ドイツ皇帝のヴィルヘルム一世は、ビスマルクモルトケを重用した。特に、ビスマルクはヴィルヘルム一世への諫言を躊躇しなかったが、それでも遠ざけなかった」と諫言を退けなかった初代ドイツ皇帝を持ち上げる。

 最後に、ロシア帝国ドイツ帝国が崩壊した際、それぞれのラスト・エンペラーに殉じた貴族・臣民はいなかった」と述べたうえ、「このようなことは歴史法則というべき普通のことながら、その結果は自業自得である」と説明する。

 

 

 このように、杉浦博士の『御進講』で述べられたヴィルヘルム二世と昭和天皇を比較すると、ある種対照的に見える面が少なくない。

 例えば、オランダに亡命したヴィルヘルム二世とマッカーサーの元に出頭して「自分を絞首刑にせよ」と述べた昭和天皇とか

 この点、昭和天皇は逃げることはなく在位し、太平洋戦争の約40年後に在位のまま崩御された。

 

 もちろん、昭和天皇が自分の退位を考えなかったわけではない。

 例えば、昭和23年12月24日の朝日新聞に掲載された記事によると、「昭和天皇の退位」について、昭和天皇「個人としてはそう考えることがあっても、公の立場がそれを許さない」とか「退くことも責任を果たす一つの方法と思うが、留まって国民と苦楽を共にすることの方がポツダム宣言の趣旨にかなう」旨のことを述べられた、らしい。

 

 

 ところで、著者によると、日本人の一部には「当時の占領下において、天皇は在位や退位を自由にできた」と考えている奇妙な人たちがいるという。

 しかし、それは違うと著者はいう。

 なぜなら、マッカーサーは占領にあたって日本人全部を捕虜にしたくらいのことを考えており、だからこそ、アメリカの下院にてアメリカは自国の予算を使って敵だった日本人を養うべきである」と述べているからである。

 

 もちろん、マッカーサーが捕虜の長たる昭和天皇を自由にできた。

 日本の占領統治に利用できるなら利用したし、利用できなければ退位させたであろう。

 事実、天皇の言質を取ったから退位させることは自由にできた。

 マッカーサーは、天皇」と天皇が述べた「自由にして構わない」という言葉の言質を利用して占領政策を有利に進めていったのだろう。

 

 一方で、昭和天皇も「自らが人質である」と自覚していただろう。

 さらに言えば、昭和天皇「自らが人質として留意することが日本に尽くすことだ」とも考えていたであろう。

 でなければ、「公人の立場として退位はできない」・「ポツダム宣言の趣旨」といった言葉は出てこないだろうから。

 このような面から見ても、昭和天皇とヴィルヘルム二世は対照的だったと考えることができそうである。

 

 

 以上が第5章のお話。

 次章では、第一次世界大戦以外の点からヴィルヘルム二世を反面教師として参考にした点をみていく。