薫のメモ帳

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『昭和天皇の研究』を読む 10

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

10 第6章を読む_後半

 前回は、杉浦博士による「外国の皇帝の紹介」と「創業と守成」についてみてきた。

 今回は、昭和天皇を「守成の君主」にするために杉浦博士が行った教育の内容についてみていく。

 

 

 この点、『倫理御進講草案』の表題には、織田信長豊臣秀吉徳川家康は登場しない。

 しかし、徳川家光が登場する。

 というのは、徳川家光昭和天皇も三代目であり、杉浦博士は徳川家光を通じて三代目の在り方を説明しようとしたからだろう。

 

 このように、杉浦博士はしばしば「三代目」について語っており、かの有名な川柳「売家と唐様で書く三代目」も紹介している。

 そこで、昭和天皇はいわゆる「三代目問題」について熟知していたと考えられる。

 

 この点、いわゆる「三代目問題」は、「初代以来の功臣との関係」についての問題であり、二つの面から見ることができる。

 

 第一の点は、三代目自身が位負けを感じる創業の功臣を退けてしまう点

 典型例を探せば、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世が功臣ビスマルクを遠ざけて、周りを若い連中で固めてしまった点がこれにあたるだろう。

 そして、もう1つの点が、創業の功臣による若き三代目に対する面従腹背

 徳川家光昭和天皇も似たような問題を抱えていた。

 

 

 では、この「三代目問題」に対して徳川家光はどのように対処したか。

 この点、若いころの家光は酒井忠世を嫌っており、彼の家を通る際に顔を背けて通るありさまであった。

 しかし、ある日徳川秀忠から呼ばれて、「お前(家光)は忠世が気に入らないという。しかし、忠世は東照宮(家康)からの重臣で、能力もあるから、私(秀忠)が将軍職を譲る際に、彼もおいていったのだ。それを気に入らぬとは、あんたの自分勝手というものである。天下人に自分勝手はまかりならぬ」と注意された。

 そこで、家光はこれまでの態度を後悔して、忠世を厚遇したと言われている。

 

 これに対して、昭和天皇が厚遇したのは、明治維新の経験者や日露戦争の経験者であり、慎重な意見の持ち主であった

 具体例を取り上げると西園寺公望鈴木貫太郎であり、後者は聖断を下すときの内閣総理大臣である。

 その意味で、昭和天皇はヴィルヘルム二世の逆であって、天皇と同年代の青年将校に担がれるようなことは絶対になかったと言える。

 

 では、先代の功臣らの面従腹背についてはどうか。

 徳川家光の場合、伊達政宗のような曲者が健在であったので、特に警戒が必要だっただろう。

 この面従腹背への対処が、かの有名な「生まれながらの将軍」宣言である。

 また、寝室に諸大名を呼び出し、座ったままの家光が諸大名に佩刀を与え、「切れ味を試してみよ」と語るという点もそうであろう。

 その場で家光を殺そうとすれば殺せる状況に自身を置くのだから。

 しかし、その結果、諸大名は家光の広い度量に服することになる。

 

 このように見ると、「守成の勇気」と「創業の勇気」は異なることがわかる

 この点、信長は勇敢だったが、その勇気の質は家光の勇気と同質ではない。

 そして、家光の勇気なくして守成は難しい。

 この守成の勇気とは、単身マッカーサーの元に行って「You may hang me」と言える勇気と同じである。

 つまり、昭和天皇がこの種の勇気を持っていたのは、杉浦博士の教育のたまものと言える。

 

 さらに、昭和天皇は大正10年にヨーロッパ視察に出かける。

 この昭和天皇に大きな影響を与えたのが、イギリスのジョージ5世である。

 昭和天皇はジョージ5世から立憲君主のあり方の模範や確立された憲政の運用を学び、それを理想とされたのだろう

 

 

 この点、昭和天皇立憲君主として」憲法の命ずるところにより」という言葉をしばしば口にされている。

 また、私生活は教育勅語のとおりに実践し、政治の基本を「五箇条の御誓文」に置いていた。

 この杓子定規とも感じる昭和天皇の「憲法遵守」に対して近衛文麿はある種の不満を述べている。

 

 ところで、杉浦博士は『倫理御進講草案』において、昭和天皇に『教育勅語』の解説を行っている。

 その際、「国憲を重んじ、国法に遵い」の部分で、杉浦博士は文化年間の蝦夷地奉行に対する関守のエピソードを紹介している

 

 このエピソードの概要は次のとおりである。

 文化・文政時代、欧米列強の船が日本近海をうろつきだしたころ、蝦夷地奉行に任命された武士が武器や供を連れて関所を通過しようとした。

 しかし、この奉行は急いでいたため、通行券を置き忘れてしまった。

 そこで、奉行は、関守に事情を話して関所を通してもらおうとしたが、関守は許可しなかった。

 また、奉行は、江戸に引き返して通行券を持ってこようと考え、荷物を預かってくれるように交渉したが、関守はこれも規則に反すると言って許可しなかった。

 やむなく、奉行は供(と武器)を連れて江戸に帰り、通行券を持って関を通過した。

 

 杉浦博士は、この関守の態度を「『遵法』の道を守りし者」として絶賛している。

 この点、「こんな杓子定規に規則に拘泥してロシアに択捉島を占領されたらどうなるのだ」という非難は「乱世の論理」・「創業の論理」として十分成立しても、「守成の論理」ではない

 そして、昭和天皇はこの関守のように明治憲法を遵守して動こうとしなかった。

 この点を見ても、昭和天皇は「憲政の王道を歩む守成の明君」ではあって、「覇王的な乱世の独裁君主」ではなかったと言える。

 

 

 この「憲法遵守」という昭和天皇の態度、大正デモクラシーが続くのであれば、昭和天皇にとっても日本にとってもよきことであっただろう。

 しかし、昭和天皇が摂政に就任された時点ですでに乱世の兆候は表れていた。

 まず、摂政になられた大正10年、平民宰相たる原敬は暗殺された。

 この原敬の暗殺から二・二六事件まで、暗殺者や背後にいた勢力は共通した一つの思惑、というか誤認があった

 それは「天皇陛下は『君側の奸』に操られているロボットである」という点である。

 

 この天皇に対する不敬極まりない態度を津田左右吉博士は鋭く批判している。

 著者(故・山本七平先生)も「人格に対するこれ以上の侮蔑を私は知らない」と述べているが、それはそうだろう。

 

 この点、暗殺者とその背後にいる勢力は、天皇絶対」を標榜する一方で、天皇陛下を「玉」とか「錦の御旗」などと表現して、平然と「物扱い」していた

 言い換えれば、彼らは昭和天皇が明確な自己規定があることを知らなかったし、あるいは、知ろうともしなかった。

 よもや、昭和天皇重臣たちの意見を尊重しているのは、昭和天皇の意志によるものとは気づかなかった。

 そして、暗殺者とその背後にいる勢力が「昭和天皇がかつがれるロボットではない」ことを知らされたのが二・二六事件、ということになる。

 

 では、この「天皇は意思なきロボット(「玉」や「錦の御旗」)である」という見方はいつ頃始まったのか。

 筆者が調べた範囲、あるいは、世に知られた範囲であれば、室町時代南北朝時代)であろう。

 つまり、足利尊氏が京都から九州に敗走する際、赤松円心が「こちらには『錦の御旗』がなかったから負けた。だから、光厳上皇を『錦の御旗』にして戦うように」と助言したと言われており、これが天皇を「錦の御旗」や「玉」とみなす始まりであると言われている。

 後醍醐天皇以降の天皇がロボットだったかはわからない。

 しかし、明治天皇はロボットではないし、その明治天皇を模範とする昭和天皇もロボットではなかった

 もちろん、明治天皇は創業の時代の君主であり、昭和天皇は守成の時代の君主である、という時代の違いを感じていたとしても。

 

 

 ところで、昭和天皇徳川家光と同様、三代目の苦労をさせられている。

 これは、昭和天皇が即位したのが25歳だったことを考慮すれば無理もないことなのかもしれない。

 

 昭和3年、関東軍の策謀により、満州某重大事件、いわゆる張作霖爆殺事件が起こる。

 そして、翌昭和4年、帝国議会中野正剛がこの件を田中義一首相を追及すると、出先軍部(関東軍)の暴走を懸念した昭和天皇田中首相に対して関係者の処分・軍紀の粛清を命じた

 しかし、田中首相帝国陸軍の反対にあって、軍法会議さえ開けず、行政処分で済ませようとした。

 その報告を受けた昭和天皇田中首相に対して激怒し、面目を失った田中首相は内閣を総辞職せざるを得ず、田中首相自身もまもなく世を去った。

 ちなみに、昭和天皇はこの件についても「立憲君主の道を踏み誤ったのではないか」と考えていたらしい。

 ただ、戦前において昭和天皇自身に対して陸軍が不忠であったということは覚えておいて損はないように思われる。

 昨今の世情を見ていると、、、それはやめておこう。

 

 なお、昭和天皇が摂政についてから、東京大震災、大恐慌といった不吉な予兆がやってきた。

 昭和天皇の自己規定に対して、昭和天皇に与えられた運命は過酷であった。

 ただ、重要なのはその運命に対して「自己規定」をどれだけ貫けるか、と述べて本章は終わっている。

 

 

 以上が本章のお話。

 昭和天皇に刻み込まれた自己規定の堅固さを感じざるを得なかった。

 

 第7章からは天皇の自己規定に挑戦した者たちの事件についてみていく。