薫のメモ帳

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『昭和天皇の研究』を読む 19

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

19 第11章を読む_前半

 第11章のタイトルは「三代目・天皇と、三代目・国民」

 尾崎咢堂が見てきた国民意識の移り変わり」についてみていく。

 

 

 この点、尾崎咢堂と杉浦重剛はほぼ同年代である。

 そして、この年代の人々には、「明治時代の憲政は『自分たちが創り出した新しい体制』である」という矜持があった。

 これは、戦後の体制を自ら創出したという意識が持てなかった戦後の第一世代とは対照的である。

 だから、この時代の「憲法絶対」という言葉は戦後よりも強烈だったということができる。

 

 もっとも、一般庶民についてはそうではないらしい。

 著者(故・山本七平先生)によると、一般庶民における憲法の理解は戦後の方がマシであり、戦前の庶民は憲法が何かを知らないのみならず知ろうとすらしなかった、らしい。

 

 ところで、明治時代には決定的な失敗がない

 つまり、明治時代に国勢がにわかに勃発したがために、守成がさらに困難になった。

 この辺は戦後直後の高度経済成長も似ている。

 とすれば、令和のこのご時世、日本はどうなるのだろうか、と考えないではない。

 

 そこで、当時だけではなく「令和の御時勢」を把握するためにも昭和初期に述べた尾崎咢堂の主張を確認する。

 例によって、本書に引用されている尾崎咢堂の文章を私釈三国志風に意訳する(意訳であって、引用や直訳ではないため注意)

 

(以下、本書で引用されている尾崎咢堂の主張の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

 明治の終わりは、天皇は一代目であるが、臣下は二代目であった。

 というのも、三条実美岩倉具視西郷隆盛大久保利通木戸孝允らの一代目は既に世を去り、西園寺公望桂太郎山本権兵衛らの二代目の時代になっていたからである。

 もちろん、これは政界のみならず、財界、実業界、学界も同様である。

 つまり、二代目というのは明治の終わりから大正の終わりまでの約30年間であり、昭和の時代が三代目の時代である。

 昭和の時代は国民も三代目、天皇陛下も三代目であった。

 そして、私が川柳を用いて揶揄したのは「全国民」であって、天皇陛下に対するものと考えるには無理がある。

 その点はさておくとして、時代の変遷によって起きた国民の思想・感情の変化をみていく。

(意訳終了)

 

 ここから話は一代目についての説明になる。

 ここも、本書に引用されている尾崎咢堂の文章を私釈三国志風に意訳する。

 

(以下、本書で引用されている尾崎咢堂の主張の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

 一代目は、中国を盛んに模倣していた。

 具体的に列挙すると、一世一元(元号は代替わりが発生するまで同じ)の採用、四書五経の学習、碑誌銘における難読の漢文の利用、忠臣・義士・孝子・政治家の模範を中国人に求めること、年号や人名を中国の古典から選出すること、死亡を表すための薨・卒・逝の採用などである。

 さらに、新聞の論説は漢文崩しで書かれており、成語は中国人が古来慣用的に使用していたもの以外は使ってはならない、みたいなところもあった。

 加えて、私が在籍していた報知新聞では、中国人を雇って、日本人記者が書いた記事に対してその記事で使われていた成語が適切なものかどうかを確認していた。

 このように、一代目の日本人は盛んに中国を崇拝し、中国のものを模倣していた。

意訳終了)

 

 この点、明治時代は近代化に突っ走った時代である。

 だから、この近代化にまい進した第一世代が中国崇拝の発想を持つ、というのは違和感を持たないではない。

 もちろん、信長・秀吉・家康らの生きた戦国時代・安土桃山時代にはこの思想はなく、この発想は江戸時代から生まれ、発達してきたという事情があるとしても。

 

 なお、著者は、この中国崇拝の国民感情を考慮しながら福沢諭吉の『脱亜論』を読まないといけない旨述べている。

 

 本書は、尾崎咢堂の言葉が続く。

 例によって、本書に記載されたものを私釈三国志風に意訳してみる。

 

(以下、本書で引用されている尾崎咢堂の主張の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

 ところで、私は明治18年に上海へ行き、我々の崇拝する中国と現実の中国との落差に気付いた。

 特に、戦争能力においては皆無であると確信した

 そこで、日本は清国と戦争をすることで、我が国の中国に対する卑屈な心情と中国の慢心とを両方とも粉砕でき、両国の関係が改善するだろうと考え、開戦論を主張した。

 もっとも、当時の知識階級は漢文教育を受けていたこともあって、私を狂人扱いした。

 その後、日清戦争で日本は清国に圧勝したが、彼らにとってこれが不思議なことだったらしく、私に「何故、日本は清国に勝てたのか」と質問する人が多かった。

 もっとも、当時の日本人は三国干渉に屈して遼東半島を返したり、ロシアが旅順に要塞を作り、満州に鉄道を敷設していても、これを黙ってみていた。

 このことからも、一代目日本人の小心さがわかる

(意訳終了)

 

 この点、尾崎咢堂が述べているものを裏付ける記録は様々なところにあるらしい。

 ただ、この卑屈さが一転すると、始末に負えない増長慢になってしまったらしい

 以下、本書に引用されている尾崎咢堂の二代目評を私釈三国志風に意訳してみる。

 

 

(以下、本書で引用されている尾崎咢堂の主張の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

 日清戦争が終わったころから、日本人も二代目に代替わりした。

 このころから、中国崇拝の卑屈心から驕慢心に急変し、ひたすら崇拝していた中国も挑戦も眼中になく、その国民を侮蔑するような言葉で呼ぶようになった。

 また、ロシアに対しても強硬な態度をとるようになり、ある東京帝国大学の博士は、「ロシアを討伐せよ!満州から駆逐するだけではダメだ!バイカル湖まで奪え!賠償金は20億(日清戦争の約6倍)を払わせよ!」などと主張し、世論もこれに喝采するありさまであった。

 恐ろしい大変化であり、大増長である。

 古来の識者は「偉くなればなるほど、増長しないようにしなければならない」というが、この「偉くなるほど増長する」という慢心はこの時代に一気に急成長してしまった。

 清国との開戦に積極的だった私も「これはあかん」と考えて、ロシアとの戦争に反対したが、世論からは大いに非難されることになった。

 日清戦争を勝利に導いた元勲の伊藤博文公も日露戦争に反対したが、時の世論は内閣をたきつけ、日露戦争の開戦にいたった。

 この点、日露戦争は個々の戦場でこそ戦勝が得られたが、補給が続かず、武器・弾薬も不足するようになった。

 このため、総参謀が神風の到来を祈るような状態にまで陥った。

 もっとも、この祈りが通じたのか、ロシアでの内紛やセオドア・ルーズベルト大統領の仲介があり、日本はポーツマス講和会議に参加できることになった。

 このとき、御前会議では「賠償放棄、樺太返還もやむなし」と決定して、小村外相をポーツマスへ派遣したと言われている。

 結果的には、樺太の半分を獲得したが、これは望外の成果ということになる。

 もちろん、この実情が世に知られれば講和どころでない。

 だから、当時の国民は政府の判断や当時の武器・弾薬の払底といった事実を知らなかった。

 しかし、増長した無知な国民たちは、このポーツマス条約に感謝する代わりに、日比谷焼き討ち事件を起こすありさまであった。

 このようでは、国民の増長慢は二代目の時点で危険水域に達していたといってもよい。

 このことは、第一次世界大戦の参戦、対華二十一箇条要求などからも明白である。

 もちろん、この精神状態は軍事・外交だけではなく、様々な業界にも表れていた。

 その意味で、国家が危うい状況にあったともいえる。

(意訳終了)

 

 

 以上、「一代目の国民が見た『一代目の国民と二代目の国民のメンタリティ』」についてみてきた。

 戦後もこれと大差ないような気がするが、どうなのだろう。

 

 以前、『危機の構造』で「日本人のメンタリティは戦前と戦後で変わっていない」旨主張していたが(詳細は次のリンク先にある読書メモのとおり)、さもありなんという気がする。

 

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 次回は本章の後半、三代目のメンタリティについてみていく。