薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『昭和天皇の研究』を読む 12

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

12 第7章を読む_後半

 前回は、昭和初期の時代背景、革命になびかない昭和天皇、「統帥権の独立」に関する誤解、帝国陸軍連合赤軍の共通性などをみてきた。

 今回は、その続きである。

 

 

 ここから、本書の話題が帝国陸軍の総括的事件ともいえる永田鉄山斬殺事件」に移る。

 そして、ここでは青年将校らの異常心理に注目する。

 

 まず、驚くべきことは、相沢中佐は永田軍務局長を斬殺した後、そのまま福山の連隊に戻り、台湾に赴任する予定でいたことである。

 これ自体も異常であるが、これを正当化するロジックを確認する。

 

 この点、永田軍務局長を斬殺して多少落ち着いてきた第3回目の公判において、彼は「自分の行為は『大御心を体して』行ったので、国法以上である」と述べている。

 本書で引用されている相沢中佐と杉原裁判長の問答を私釈三国志風に意訳してみる(意訳であって引用や直訳ではない)

 

(以下、本書で引用されている杉浦裁判長と相沢中佐の問答を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)

(杉原裁判長)国法以上というが、あんた国法は知っているのか?

(相沢中佐)当然だ。

(杉原裁判長)なら、何故福山に帰る予定でいたのか?

(相沢)何度も言わせるな。大御心を信じない馬鹿どものおかげで青年将校が左遷されたのだ。だから、永田閣下を犠牲にすることで、軍部の幕僚が左遷された青年将校の心情を理解し、大御心の前に懺悔するだろうと考えていたのだ。この予想はそれほど不合理ではない。事実、永田閣下の殺害直後、根本がちゃんと青年将校の心情を察して私に握手を求めてきたのだのだから。だから、他の軍部の幕僚でもちゃんと心情を理解できる。その結果、憲兵隊に捕まっても、司令官と2、3時間話せば、司令官も根本のような気持になり、大御心に懺悔した上で「とりあえず台湾でじっとしておれ」と言われると考えていたのだ。もっとも、この予想が外れたのは私の心得違いであった。

(引用終了)

 

 この点、ここで登場する根本というのは、相沢中佐目線から見た場合、永田軍務局長の殺害後、部屋を出たときに握手を求めてきた男らしい。

 もちろん、根本の方から見れば、根本は相沢中佐を憲兵隊のところに送り届けるためにしたのであろう。

 そこで、相沢中佐は変な誤解をしてしまい、予想が外れることになる。

 

 こう見ると、相沢中佐は確信犯と言えるが、相沢中佐は何を確信していたのだろうか。

 その内容を確認するため、本書で引用されている第1回公判の相沢中佐が述べたことを私釈三国志風に意訳してみる。

 

(以下、本書で引用されている第1回公判における相沢中佐の発言を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)

 私の心情がわからんというのなら教えてやる。私が体操学校にいた昭和4、5年ころ、日本は何とも情けない状態であった。農民は貧困にあえぎ、農村では小作争議が起こり、共産主義への共鳴さえ起きておった。その一方で、大臣へ妙なことをし、大学では国に尽くすことを教えず、まさに万人の万人に対する醜い争いが起きていた。

 さらに、外交も統帥権を犯して国辱的な条約を結ぶなどしておった。

 これでは、天皇のお嘆きはいかほどであろうか、と臣下として大変申し訳ない心情になってしまい、普通の御奉公だけではダメだと思ったのだ

 それゆえ、私は社会を変えるために行動することを決めた。

(引用終了)

 

 この辺は、統帥権の話を除けば、社会革新を志す人間の言葉として少しも不思議ではない。

 そして、メディアが報道したファシズム国家の幻影を見て、ファシズムにすれば問題は解決すると考えたことになる。

 確かに、メディアの報道が幻想であると彼は気づかなかったが、戦後でも似たようなことが起きていることを考慮すれば、これまた珍しいことではない。

 ただ、問題は改革を担うのが青年将校であると考えた点である。

 青年将校の考えを見るために、第1回公判の相沢中佐が述べたことを私釈三国志風に意訳してみる。

 

 

(以下、本書で引用されている第1回公判における相沢中佐の発言を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意、なお、強調は私の手による)

 青年将校の考えとは何か。

 一言でいえば、尊皇に純化した存在である

 だから、私欲で動いてはならない。

 次に、青年将校はいかに行動すべきか。

 忠義を持ち、時代の進路を知り、知識に明るい英邁な人となって天皇陛下に奉仕すべきである。

 あと、皇軍がしっかりするためには、将校は一致団結し、合一し、切磋琢磨し、国民とも合一して、昭和維新にまい進する。

 これぞ青年将校の考えである。

(意訳終了)

 

 いうなれば、青年将校は革命の「前衛」といったところか。

 

 ところで、相沢中佐の永田軍務局長の行為は、国法から見てどうなるのか。

 一応、理屈はあるようで、その理屈が「作戦要務令第1条」による法令行為(正当業務行為)なのだという。

 この作戦要務令第1条というのは、危急の際の独断専行を認めるものである。

 もちろん、事後承諾が必要であるが。

 

 というわけで、相沢中佐の頭の中では、「永田軍務局長を殺害する行為は、君側の奸による害悪を排除する行為であるから、作戦要務令1条の適用により無罪になる。それだけではなく、統帥権に則っており、大御心にもかなっている。ならば、左遷することなく台湾に赴任するのは当然」ということになり、「これを有罪にすれば、大御心を蹂躙し、軍人精神を殺すことだ」となるわけである。

 あくまで、相沢中佐の頭の中での話だが

 

 本書はここで「作戦要務令」に関する補足が入る。

 まず、平時の軍隊を規律するルールは「軍隊内務令」である

 そして、作戦要務令は戦時のルールであって、戦時下に入って初めて適用される。

 その結果、戦時下の宣言のない状況で作戦要務令が適用されるわけではない、と。

 まあ、「作戦要務令」と「軍隊内務令」の恣意的混同は二・二六事件にも登場しており、彼らの規範意識が著しく鈍麻されていることを示している格好のサンプルになるのかもしれないが。

 

 ここから、本書の話題は「大御心」に移る。

「大御心」を単純化すれば、「天皇の御意思・御意向」ということになる。

 だから、終戦の聖断の際、徹底抗戦を主張する者たちに対して「大御心がわからぬか」と一喝するのは正しい。

 ここでは「大御心」がはっきり表示されているから。

 しかし、「大御心」は常に公開・確認されているわけではない。

 

 この点、昭和天皇の自己規定を考慮すれば、「大御心」は五箇条の御誓文にある

 あるいは、明治憲法にあったのだろう。

 これでは、錦旗革命どころではないことがわかる。

 

 本書はいう。

「永田軍務局長を斬殺することが『大御心』である」などと昭和天皇が聴けば、驚いて飛び上がっただろう、と。

 そして、青年将校の「大御心」と昭和天皇の自己規定が衝突したのが、二・二六事件である、と。

 

 

 ところで、昭和初期、あるいは、戦前において、帝国憲法と現実の日本が大きく乖離していた

 これは、「大日本帝国憲法に欠陥があった」というどの憲法にも言えるようなことを言っているわけではない。

 問題は、立憲主義憲法と歴史的実体としての日本に大きな乖離があったということである

 

 では、青年将校憲法や「五箇条の御誓文」に代わる明確な理念があったのだろうか。

 おそらくなかったのではないか。

 というのも、第5回公判において「軍民・官民一体の昭和維新」の内容を問われても、相沢中佐の答弁はあいまいであり、はっきりしないからである。

 

 以下、本書に引用されている島田検察官と相沢中佐との問答を私釈三国志風に意訳してみる。

 

(以下、本書で引用されている第1回公判における相沢中佐の発言を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意

(島田検察官)法律は陛下の賜ったものであるから、臣民なら等しく奉戴すべきではないのか?

(相沢中佐)むろん。

(島田検察官)では、法を犯せば大御心に反することにならないのか。

(相沢中座、じゃない、相沢中佐)・・・

(弁護人)異議あり!!裁判は事実を審理すべきもの、法律論を持ち出すのは不当である。

(島田検察官)わかった。では、質問を変えよう。永田局長一人を一刀両断にすれば、昭和維新ができると考えたのか?

(相沢中佐)そうではないが、自分の考えが甘かったとも思う。

(島田検察官)考えが甘いとは何か。今になって永田局長一人を一刀両断しても、昭和維新ができないと考えたのか?

(相沢中佐)違う。維新は、「悪い考えを持った人が悪い」というところから始まる。

(島田検察官)では、永田局長を斬殺すれば悪い人が良くなるとでもいうつもりか。

(相沢中佐)そうだ。

(意訳終了)

 

 これをどう見るだろうか。

 ちなみに、ドストエフスキーが鋭く見抜いた革命心理から見れば、これは別段不思議ではないらしい。

 つまり、このような問答は、ネチャーエフ事件でも連合赤軍事件でも似たり寄ったりかもしれない。

 彼らは、革命を達成する方法とか、革命達成後の社会の青写真を持っていないのが通常なのだから

 

 

 本書は、ここから北一輝の『日本改造法案大綱』が登場し、その内容への賛否を問われる。

 しかし、相沢中佐はその辺を答えることができない。

 ここには相沢中佐が年をとっている面がある。

 というのも、青年将校ならもう少しましな回答ができた可能性があるからである。

 

 この点、陸軍士官学校では「将校も社会に目を向けなければならない」という考えが生まれ、社会科学を教えることになった。

 しかし、このことが逆効果となり、青年将校が軍部ファシズムに走ることになる。

 また、相沢中佐は社会科学を教わる前の一種の「神がかり的尊皇家」であった。

 

 この神がかり的な尊皇と社会科学のリンクが「青年将校」というタイプを生み出したのだろう

 そして、昭和天皇はこの風潮をちゃんと知っていたのではないか。

 というのも、ちゃんと知っていないと言えないような言葉があるからである。

 

 昭和天皇閑院宮参謀長と親しかった。

 これには、昭和天皇が体験者の言葉に耳を傾ける人であり、閑院宮日露戦争時代の重機関銃隊長だったという事情もあるだろう。

 これに対して、青年将校の間には、「参謀総長としての閑院宮は陸軍のガンである」というような考えがあった。

 そのような考えを知っていたからだろうか、昭和天皇二・二六事件の際に「閑院宮は大丈夫か」という危惧を抱いたらしい。

 もちろん、この背後には、青年将校たちが、真崎甚三郎(皇道派の精神的支柱)が教育総監を罷免させられたのは閑院宮のせいであること、閑院宮が君側の奸として昭和天皇にあることないこと吹き込んでいると考えていたという事情がある。

 

 また、本庄侍従武官長が昭和天皇に色々教えていた、という事情もある。

 本書には、本庄日記に登場する昭和天皇の言葉が引用されている。

 これを私釈三国志風に意訳してみよう。

 

(以下、本書で引用されている『本庄日記』における昭和天皇の発言を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意

 青年将校が農村の悲境に同情し、関心を持つことはしゃーない。

 でも、度を過ぎれば害になる。

(意訳終了)

 

(以下、本書で引用されている『本庄日記』における昭和天皇の発言を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意

 善政は大事だ、だがあせって突っ走るのはダメだ。

(意訳終了)

 

 これらの言葉は昭和9年2月8日(前者)や3月28日(後者)のものであり、「相沢事件」も「二・二六事件」も起きていない。

 ただ、これを青年将校が聴けば、「だめじゃこりゃ」と感じたかもしれない。

 

 さらに、当時の外務次官だった重光葵は次の言葉を述べたらしい。

 

(以下、本書で引用されている『本庄日記』における昭和天皇の発言を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳であって引用や直訳ではないため注意

 私は、軍人どもが昭和天皇への批評をたびたび聴いた。

 さらに、二・二六事件の際、昭和天皇が確信に反対するなら、別の宮殿下を天皇陛下になってもらって革命を断行する言葉も聴いたことがある。

(意訳終了)

 

 別に、この発言があったから天皇陛下にとって代わろうとした宮がいたということにはならない。

 また、この考え方は「やむを得ないときは・・・」というレベルであって、青年将校らの本心ではなかっただろう。

 彼らは、天皇陛下を「玉」や「錦の御旗」のような意志を持たないものと考えており、君側の奸を一掃すればどうにかなると考えていたのだから。

 

 

 以上が第7章の話。

 ちなみに、第8章が二・二六事件の話であって、周辺知識は十分確認できたのではないかと言える。

 

 次回から第8章をみていく。