薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『昭和天皇の研究』を読む 13

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

13 第8章を読む_前半

 第8章のタイトルは天皇への呪詛」

 二・二六事件二・二六事件を主導した磯部浅一について語られている。

 

 この点、「昭和天皇の自己規定」から見た場合、二・二六事件昭和天皇天皇を「玉」や「錦の御旗」とみなす青年将校が激突し、後者が敗北した事件となる。

 そして、磯部浅一二・二六事件の首謀者の一人であった。

 本書によると、天皇陛下を呪いに呪って呪い殺しそうな勢いで死んだ人間」として紹介されている。

 

 この点、二・二六事件の首謀者の多くは、事件終息から半年も経過しない7月12日(判決の1週間後)に処刑されてしまった。

 この段階では、決起の熱気も冷めておらず、外部のニュースも入ってこない状況にある。

 それゆえ、この段階で処刑された人たちは、自分たちが昭和天皇の自己規定に敗れたとは気付かなかった。

 だからこそ、処刑前に「天皇陛下万歳」ということができたわけで、その意味では幸せだったのかもしれない。

 

 しかし、磯部浅一と村中孝次は、黒幕や背後にいるものに対する裁判の証人として処刑されずにいた。

 そのため、面会を通じて外部のニュースが入ってくる。

 その果てに、二・二六事件を葬り去ったのが昭和天皇自身であることを知ることになる

 磯部浅一にとってこれがどれほどのショックだったことか。

 その後、磯部浅一昭和天皇に対する祟り神にならんほどの呪詛の言葉を書き連ねることになる。

 

 ところで、磯部浅一などの決起将校たちが「自分たちは昭和天皇の意志を体現している」=「大御心を体している」と確信できたのはなぜなのだろうか?

 直接確かめたわけでもないのに。

 

 この点、彼らが誤解するようなものがなかったわけではない。

 事件直前の昭和11年1月10日、東京日日新聞に山口一太郎大尉(本庄繁侍従武官長の娘婿、二・二六事件では無期禁錮)の演説についての記事が掲載された。

 掲載された記事の概要は、「演説した山口大尉は青年将校の中核的存在であること、言論取締の憲兵は上司にこれを報告、成り行きに関して慎重に注視していくこと」の2点である。

 この点、山口大尉の上司である連隊長の小藤恵大佐はこれを問題としなかった。

 相沢裁判への影響と議会でこの演説が問題化されることを懸念した程度である。

 

 もっとも、この点について亀川哲也氏が次のようなことを述べていたらしい。

 この亀川哲也氏は民間人だったにもかかわらず、二・二六事件に関与し、無期禁錮刑に処せられた人である。

 この発言の出典は次のとおりである。

 これを、私釈三国志風に意訳しようとしてみる(だから、直訳ではない、この点に注意)。

 

 

(以下、本書で引用されている『昭和史発掘』の第8巻の一部についてを私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

 山口一太郎大尉の入営兵とその父兄に対する訓話が問題となり、憲兵隊は山口を逮捕しようとしたが、天皇陛下の一声で逮捕は取りやめになった。

 その際、天皇陛下は本庄侍従武官長に「忠義は大切だから・・・」と言ったらしい。

(中略)

 その後、当の山口大尉は「陛下の一言で逮捕できなかったんだよ」と言って笑っていた。

 彼の訓示は天皇陛下の意をくんだものだったのではないか。

 その結果、青年将校らは、天皇が自分たちの忠誠心を理解されていたのと信じたのだろう。

(意訳終了)

 

 この点、昭和天皇の自己規定に照らせば、山口大尉の逮捕を阻止するということは考えにくい。

 また、憲兵隊が本田侍従武官長の婿であることを考慮して逮捕を取りやめた可能性はあり得ないではないが、これもあまり考えにくい。

 というのも、彼への逮捕は小藤連隊長への連絡なしにはできないところ、連隊長は山口大尉の演説に対してどうこうする気はなかったからである。

 とすれば、憲兵が問題視したのは、演説の内容ではなく、演説が問題行動を起こす前触れではないのか、という点だったと考えられる。

 

 ただ、演説の内容は関係ないとしても、「本庄侍従武官長の婿だった山口大尉への逮捕が昭和天皇の一言で阻止された」は信ぴょう性はないではない

 というのも、天皇陛下と軍人を一種の親子の関係と考えること、そして、親が子を処刑させることを望まないように、昭和天皇が軍人を処刑させることはない」という期待は、多くの軍人にあったからである。

 例えば、軍法会議で死刑判決を下した裁判長でさえ、陸軍大臣の判決を奏上した日に天皇陛下から死一等を免ぜられるといったことを期待していたらしい。

 また、太平洋戦争敗戦後、昭和天皇自身が「自らのみが敗戦の責任を負う」とマッカーサーに述べている。

 この期待は家族的国家観を前提とすれば十分ありそうな話である。

 ならば、死刑判決を受けた決起将校がそのような期待を持つのは不思議ではない。

 

 こういった一種の「甘え」に似た気持ちと「『皇軍相撃』は起こらない」と確信できたことが、二・二六事件の引き金を引いた重要な要因となったであろう。

 というのは、この2点が成立するならば、「君側の奸」を排除してどこかに籠城すれば、その周囲を包囲されることはあっても皇軍相撃にはならず、その結果、軍の上層部による密談でケリがつくということになるからである。

 事実、昭和天皇がいなければ、このような展開に進む可能性は十分にあっただろう。

 

 ところが、「立憲君主」としての立場を例外的に逸脱した昭和天皇が反乱軍の討伐を厳命したことで、29日の総攻撃が決定される。

 もちろん、決起将校たちも天皇陛下の総攻撃の厳命を信じなかった。

 しかし、総攻撃の準備が着々と進み、いざ「皇軍相撃」となった瞬間、決起将校たちは崩壊し始めることになる。

 

 

 以下、二・二六事件における昭和天皇の言動をみていく。

 まず、昭和天皇に反乱勃発を伝えたのは、当直の甘露寺侍従、時間は午前5時40分過ぎ・・・。

 以下、本書に引用されている次の文献を見ながら、当時の様子を確認する。

 

 

 

 

 以下、本書に引用されている部分を私釈三国志風に意訳してみる。

 

(以下、本書で引用されている『天皇陛下』の部分を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

甘露寺侍従)(事柄が事柄だ、陛下が御休みになっているだろうが、早くお伝えせねば・・・、早く御寝所へ)陛下!

昭和天皇)差し支えない。緊急の用務ならここで聞くぞ。

甘露寺侍従)軍隊が斎藤内府と鈴木侍従長を襲撃、斎藤内府は死亡し、鈴木侍従長は重態とのことです。

昭和天皇)・・・その暴徒はどこへ行った。それから、他に襲撃された者はいないか。

(意訳終了)

 

 ちなみに、「暴徒」という言葉を昭和天皇が用いているのは原文でも同様である。

 また、『木戸幸一日記』には次の指示があった旨書かれている。

 

(以下、本書で引用されている『木戸幸一日記』の部分を引用、強調は私の手による)

 速やかに暴徒を鎮圧せよ

(引用終了)

 

 ところで、本庄繁侍従武官長は、女婿・山口大尉の手紙を見てすぐに参内し、午前6時には到着していた。

 以下、『本庄日記』を追うことで、昭和天皇の周辺についてみていく。

 なお、本書に引用されている部分は私釈三国志風に意訳していく。

 

(以下、本書で引用されている『天皇陛下』の部分を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意

(本庄侍従武官長)このような事件が起こって、非常に恐縮しております。

昭和天皇)・・・さっさと事件を片付け、災い転じて福となせ。・・・お前には「このような事態になりはせぬか」と言ったが、そうなってしまったなあ。

(本庄侍従武官長)ただ恐縮の至りでございます。

(意訳終了)

 

(以下、本書で引用されている『天皇陛下』の部分を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、強調は私の手による)

(26日午前9時、川島陸軍大臣参内)

(川島陸相)事態はかくかくしかじか。なお、決起将校たちはこのような決起趣意書を提出しております。まったく恐縮せざるを得ません。

昭和天皇さっさと事件を片付けろ。

(意訳終了)

 

 このように、昭和天皇は早い段階で鎮圧を命じている。

 もっとも、事態は鎮圧に向かわなかった。

 なぜなら、反乱軍を背景に宮中に居座っていた真崎甚三郎が次のようなことを強硬に主張していたからである。

 ここも私釈三国志風に意訳する。

 

(以下、本書で引用されている真崎甚三郎『天皇陛下』の部分を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

 決起部隊を解散させるなどとんでもない。

 かくなる上は、詔勅をいただくほかはない。

(意訳終了)

 

 これに対する川島陸相や本庄侍従武官長の意見は明らかではなく、また、この意見を昭和天皇に伝えた形跡もない。

 まあ、伝えられるはずもなかっただろうが。

 なお、本書では『本庄日記』の内容が引用されているため、ここも意訳してみる。

 

(以下、本書で引用されている『本庄日記』の部分を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

 決起部隊の鎮圧に向けた陸軍の動きは遅かった。

 この遅さに対し、昭和天皇「もういい。私が近衛を率いて鎮圧する」とまで言い放った。

 私は「そのようなことは畏れ多い。我々でやりますのでしばらくお待ちくださいませ。重ねてお願い申し上げます」と申し上げるのが精いっぱいだった。

 こうなったのも、戒厳司令官が慎重すぎて、手心を加えるのではないかと懸念あそばされたからであろう。

(意訳終了)

 

 この点、皇軍相撃を回避すべく、あれこれ策を練っていた点もあるだろうし、逆に、決起を利用して権力を奪取しようとした者もいた。

 しかし、真崎甚三郎は天皇の意志の固さを聞いて、あっさりと決起部隊を見捨ててしまう。

 その意味で、本庄侍従武官長は気の毒な位置に立たされることになった。

 

 この点、本庄侍従武官長が侍従武官長になったのは、関東軍皇道派の大物である荒木貞夫の推薦によるものである。

 この推薦の背後には、本庄侍従武官長を通じて昭和天皇を操る意図もなくはなかっただろう。

 また、女婿の山口一太郎大尉も皇道派に属しており、本庄侍従武官長は「皇道派」に属する位置にいた

 しかし、侍従武官長として昭和天皇に仕えているうちに、昭和天皇が操られるような存在ではないと悟ることになる。

 

 また、彼は正直な人柄であり、彼が書いた『本庄日記』は別の侍従武官が見ても正確なものであったと言われている。

 以下、『本庄日記』の内容を通じて昭和天皇の言動を確認する。

 

(以下、本書で引用されている『本庄日記』の部分を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

 27日、誰かが「決起部隊の行為は、陛下の軍隊を勝手に動かしたものであって統帥権を侵す到底許しがたい行いであるが、その動機においては忠義しかないので、その点は咎めないようにしてほしい」などと奏上したようだ。

 そこで、私が呼ばれて、昭和天皇から「余の信頼している重臣を殺戮するような凶暴な将校らの精神のどこに手心を加える余地があるのだ」と仰せになられた。

 また、あるときは、「余の信頼している重臣を悉く倒すのは、真綿で余の首を絞めるような行為である」と内心を漏らされた。

 私は、「老臣の殺傷は最悪の行為であり、また、その動機に誤信があったとしても、彼らが国家のために行った点に誤りはない」と申し上げたところ、昭和天皇「ただ、それは私利私欲で行った行為ではないと言えるにすぎん」と仰せられた。

(意訳終了)

 

 上に引用・意訳した問答はよく知られているものである。

 この点、昭和天皇は、反乱軍のみならず、皇軍相撃を回避する陸軍首脳に対しても怒りを感じている。

 

 この点、本庄侍従武官長に出身母体である陸軍や皇道派の決起部隊を擁護したい気持ちはなくはなかっただろう。

 その一方で、昭和天皇の意志の固さも理解しており、彼らへの弁明が意味をなさないことも理解していたであろう。

 にもかかわらず、このような弁解を述べたのは、皇軍相撃の回避という意図があったものと考えられる。

 

 本書では、二・二六事件でなされた戒厳令に注目している。

 この事件で、戒厳令は二回出されている。

 1回目は「平時戒厳令」で、災害時のときの戒厳令と同様である。

 いわば警察だけでは対応できないので、軍隊が機動隊のような役割を果たすものである。

 他方、2回目に出されたのが「戦時戒厳令」でこれが反乱への対処となる。

 この戦時戒厳令が日本で公布されたのはこのときだけである。

 この戦時戒厳令こと「奉勅命令」は27日の午前8時ころに裁可される。

 これで、やっと昭和天皇は満足することになる。

 

 なお、本庄日記には次のように書かれている。

 これも私釈三国志風に意訳してみる。

 

(以下、本書で引用されている『本庄日記』の部分を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意

 27日、ようやく、戒厳司令官は、決起部隊を武装解除し、できない場合は鎮圧する旨の勅令をいただいた。

 また、鎮圧のタイミングは戒厳司令官は、委ねられた。

 司令官は鎮圧の準備をはじめる一方、説得による武装解除をあきらめなかった

(意訳終了)

 

 昭和天皇のいらだちは続く・・・と言いたいところだが、この瞬間、磯部浅一らの決起将校らの計画は挫折することになる。

 

 

 なお、本章はまだまだ続くが、分量も相当量になってしまったので、今回はこの辺で。