今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
20 第11章を読む_後半
前回は、尾崎咢堂が見てきた「明治近代化一代目・二代目の国民のメンタリティ」を確認した。
今回は、その続きをみていく。
危機の萌芽が見られた二代目のメンタリティは三代目においてはどうなったか。
前回同様、本書で引用されている尾崎咢堂の主張を私釈三国志風に意訳してみる(あくまで意訳であり、引用・直訳ではない点に注意)。
(以下、本書で引用されている尾崎咢堂の主張の一部を意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
昭和4、5年になると国民も三代目の時期に入った。
三代目の国民は二代目と比べてもますます浮誇驕慢に陥り、軽挙な妄動が続発した。
その具体例として、暗殺団体の結成、共産主義の激増、軍隊の暴動などが挙げられる。
つまり、どこかの分野において国家の運命に影響を及ぼしかねない暴発が起こりかねない状況となっていた。
そして、川柳が述べるように、「『売家』と唐様で書かなければならない」運命(破産)に到着するまでその驕慢は終わらない状況形勢となった。
日露戦争の開戦に反対した私は、この三代目の国民の驕慢を見ていられなかった。
そこで、八方手を尽くしてこの状況を改善しようと試みたが、明治の時代と異なり、世界との距離が近くなり列強の利害が密接にかかわるようになったこの時代においては国家の大事は列強との連携なくして目的は実現しえない。
そこで、私は列強の視察と列強の有力者と連携すべく、欧米に出向くことにした。
ところが、ところが、アメリカにいるときに満州事変勃発という事実を知って愕然自失した。
私は「この行為は、国際連盟条約違反の行為にして、日本は加盟国から総スカンを食らうであろう。『日本だけで世界を相手にする』という暴挙ほど国難を招く行為はない」と考えた。
予想通り、国際連盟の会議で日本の行為を肯定した国は一つもなく、タイのみが棄権しただけであった。
この点、事件発生以前の日本の信頼はすこぶる高く、中華民国を除いて好意を持たない国はなかった。
だから、名分さえあれば日本を味方してくれる国もいたであろう。
しかし、国際連盟規約と不戦条約という明文がある以上どうにもいかなかったようである。
この点、連盟に加入していなかったアメリカは、不戦条約・九か国条約などにより、満州事変に反対し、イギリスと協議したらしい。
しかし、イギリスはリットン調査団の派遣などにより穏便な解決を考えていた。
そこで、アメリカは「国際連盟に参加しておらず、国際連盟の主要国たるイギリスすら条約擁護のために積極的に動かないなら、アメリカも動く必要はあるまい」と考えなおしたらしい。
このような二代目・三代目の国民感情を見ると、明治の近代化を素晴らしいものとして慶賀したいと考える一方、浮誇驕慢に流れ大国難をもたらす点をおそれるようになった。
そこで、昭和3年、私は維新後三代目の初めに三大国難決議案を出して、衆議院もこれに応えて満場一致で賛成した。
また、満州事変のおりには、天皇陛下に上奏することを決し、上奏文を内大臣に密送り、天皇陛下にご覧あるよう懇請した。
この点、ムッソリーニもヒットラーも武力蜂起の際には列強の顔色を気にしていた。
しかし、我が国の満州事変を座視せざるを得ない列強の対応を見て、ヒトラーやムッソリーニも安心して、自国の利益を図るための武力侵攻を企てる決意を起こさせたように見える。
その後、日華事変や英米開戦をみて、国民は国家の前途を考えず、局地戦の勝利によって終戦への検討を怠り、今日に至っている。
生活の困難はますます増加し、終戦の見通しは全く立たない。
ようやく、「大国難来る」という声が聴けるようになる始末である。
今でも国民の多数は、国難の種子の萌芽は満州事変にあり、その後の軽挙妄動により発育し、今日に至ったことにすら気付かない。
あるいは、昭和初期の三大国難決議も記憶していないらしい。
これぞ、『売家と唐様で書く』と言ってもよろしかろう。
まあ、現代風に改めれば、「国難とドイツ語で書く」と言った方がいいかもしれないが。
(意訳終了)
少し補足しておくと、日本帝国の連盟脱退とナチス・ドイツの連盟脱退は同年だが、日本の方が少し早い。
もっとも、ナチス・ドイツは連盟脱退を行った昭和8年の3年後の昭和11年にラインラント進駐に進めている。
尾崎咢堂が「ヒットラーやムッソリーニはこれを見て安心し、」という感想を持ったのはこのような事情による。
このセッションでは、著者(故・山本七平先生)の1行のコメントにより締めくくられている。
実感としてさもありなんと考えられるため、この部分を引用(意訳ではない)しておこう。
(以下、本文を引用、強調は私の手による)
まことに『貞観政要』で魏徴が主張したように「守成」は難しい。
(引用終了)
さて、前章・本章で見てきた尾崎咢堂による大審院への上申書と昭和天皇の発言を比較すると、様々な共通項が見られる。
本書では、それを要約したものが引用されているのでそれを紹介する。
これは、昭和20年9月9日に昭和天皇が現上皇陛下に送られた手紙の一説である。
(以下、本書に記載されている「昭和天皇の手紙の一節」を引用。強調は私の手による)
敗因について一言いわしてくれ
我が国人が あまりに皇国を信じすぎて 英米をあなどったことである
我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
(引用終了)
この手紙は9月9日、マッカーサーへ単身で出頭したのが9月27日。
とすれば、この手紙は「皇太子への遺書」だったのかもしれない。
以上、だいぶ横道にそれた。
さて、尾崎咢堂の不敬発言は大審院では無罪判決となった。
ちなみに、第一審の判決は1942年12月21日、大審院判決は1944年6月27日である。
そして、この判決の直前、帝国海軍はマリアナ諸島でアメリカ海軍に圧敗し、サイパンは陥落の危機に迫られることになる(実際の陥落は7月9日)。
このあたりの事情も行政と司法のパワーバランスに影響しただろうから、判決にも影響したかもしれない。
なお、本書では、大審院判決に書かれた尾崎咢堂の主張の要約が引用されている(ただし、原文のカタカナはひらがなに改めてている)。
この判決部分も意訳してみよう。
(以下、本書で引用されている大審院判決の一部を意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意)
三代目は個人にとっても国家にとっても危険になる、これが川柳の趣旨である。
しかるに、日本は三代目になっても衰えることを知らず、ますます隆盛する。
これは明治天皇が誓約した『五箇条の御誓文』の第1条のおかげである。
この点、大日本帝国憲法は天皇の勅命による改正案の提出と議会の議決による改正によって改正できる。
しかし、尾崎咢堂は、「近頃、この改正を軽々しく述べる者があるのは悲しまないではいられない。この憲法や五箇条の御誓文に従って行う政治が『立憲政治』であり、その前提になるのが総選挙である」と訴えている。
彼の主張は、「慎重に検討し、議員の人選を間違えず、それにより、明治天皇の御聖業を維持・発展しよう」というものである。
(意訳終了)
この点、尾崎咢堂の選挙演説は、「憲政の神様」の名のとおり「憲法PR演説」であった。
このことは、当時の国民には「憲政」意識がなかったとも言える。
この点、戦後、「大日本帝国憲法には欠陥があった」と言われている。
ちなみに、私もいわゆる左翼の憲法学者などの文章などから同様の主張を見ている。
しかし、欠陥のない憲法はないだろうし、76条程度の条文ですべてを律しうるわけでもない。
そこで、問題はその運用にある。
このことは、美濃部達吉博士は機関説通りに運用されれば、大日本帝国憲法から日本国憲法への改正は不要であると考えていたことからもわかる。
というのも、機関説通りに運用するならば、天皇との関係で見れば、戦前も戦後も変わらないからである。
この点について本書では美濃部博士の主張が引用されているので、ここも意訳してみる。
(以下、本書で引用されている美濃部博士の主張を意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
議会の最も重要な権限は、内閣に対する信認の付与である。
だから、内閣は衆議院の多数派から組織されることになる。
そして、内閣が衆議院の信を失い、衆議院が内閣に不信任決議を突き付ければ、内閣は自ら総辞職をするか、衆議院を解散して国民に対して内閣への信を問うかの二者択一を迫られることになる。
この点は、明治憲法下においても変わらない。
というのも、議会はいずれも弾劾上奏権があり、不信任決議をなすこともできたのだから。
さらに言えば、内閣がどのような組織であるべきかは時々の政治情勢により、憲法や法律で一定化させることが困難であることを考慮すれば、憲法や法律で内閣のありようを規定するのは避けた方がよかろう。
(意訳終了)
このように見れば、尾崎咢堂の主張も美濃部博士の主張も正しい。
ただ、この正しさを実行するためには極めて重要な条件がある。
これは「国会に信を置けるか」という問題である。
これは戦後の国会内閣を見ればわかるだろうが、著者によると戦前はもっとひどかったらしい。
具体的に言えば、議員の汚職事件は戦前も絶えることがなかった。
したがって、尾崎咢堂の訴えは実を結ばなかった。
その原因は、「憲法の青写真」と「歴史的実体としての『戦前の現実』」との乖離である。
これは昭和天皇の評価にも天皇機関説問題にも横たわる問題である。
そして、この乖離を超える方法は次の2つとなる。
1、戦前の現実を青写真に近づけるように、大きな犠牲を払いながらも愚直に一歩一歩進めていく
2、憲法を無視して「歴史的実体としての現実」に対応できる政治を行うこと、言い換えれば、「憲法停止・御親政」へと進む。
昭和天皇は常に1の選択肢を選んでいた。
もっとも、「1か2か」の岐路に立たされたことはなくはない。
そこで、このときの選択については次章で述べていく。
以上、本章をみてきた。
このようにみれば、「戦前の悲劇と(現在進行形で進んでいる)戦後の悲劇は構造的に同一である」と言ってもよいものと考えられる。
ひょっとしたら、人類の歴史上どこにでもあることなのかもしれない。
それぞれ青写真は異なるだろうし、社会が問題としていた事情も違うだろうか。
次の章では、昭和天皇の「憲政か親政か」の岐路と決断についてみていく。