今日はこのシリーズの続き。
『昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。
25 第14章を読む_前半
第14章のタイトルは、「天皇の『功罪』」。
前章では、津田左右吉博士の主張を見ながら、文化的観点から見た天皇について確認した。
本章では、昭和天皇の「功罪」についてストレートに切り込んでいく。
本章は「歴史上の功罪は難しい」という話から始まる。
というのも、「功」は裏返せば「罪」となり、「罪」は裏返せば「功」になるからである。
そして、何も評価しないわけにもいかない。
たとえ、各々の時代の評価が恣意的になるとしても。
この点、著者(山本七平先生)によると、明治を一代目とすれば、昭和初期が三代目であり、平成の時代は五代目、らしい。
確かに、1870~1900年を一代目、1900~1930年を二代目、1930~1960年を三代目、1960~1990年が四代目と考えれば、平成の御代は五代目である。
さらに、第三世代が「国難とドイツ語で書く」ならば、第四世代は「民主主義を英語で書く」、第五世代は「元禄とローマ字で書く」とのことである。
もちろん、各世代による歴史上の人物に対する評価も千差万別である。
ところで、江戸幕府の三代目は徳川家光、五代目は徳川綱吉である。
そして、「犬公方」・「犬将軍」のレッテルを貼られた徳川綱吉の治世の功罪を論じる人間はいないだろう。
例えば、柳沢吉保が『憲廟実録』において徳川綱吉の治世の評価しても「この側用人あがりのゴマスリめが」で終わりである。
この点、徳川綱吉の治世が評価されたのは明治に入ってからであるが、同時代の人間で徳川綱吉を評価した人間としてオランダの商館医師のケンペルがいる。
もちろん、「ケンペルは元禄日本を別世界のパラダイスのように見ている」と批判することはできるが、当時のヨーロッパと比較すれば元禄以降の日本が平穏無事だったのは間違いない。
この点、ヨーロッパがいかに戦争をしまくっていたかということを映像化した動画に次のものがあるが、これを見ると第二次世界大戦までヨーロッパはあの狭い空間で戦争をしまくっていた。
では、このような平和が実現した理由は何か。
その理由を見ていくため、本書で引用されている『憲廟実録』の部分を私釈三国志風に意訳しようとしてみる(あくまで意訳であり、引用や直訳ではない点に注意)。
(以下、本書に引用されている『憲廟実録』の記載を私釈三国志風に意訳したもの、直訳でも引用でもない点に注意、なお、強調は私の手による)
幕藩体制は家康公の大いなる企てにより始まり、秀忠公・家光公の治世で制度の改良がなされ、制度を見れば十分立派なものになった。
しかし、統治者のメンタリティは未だ戦国の武士のままである。
結局、他人を殺した人間を立派な人間とみなしており、その発想は仁から遠く、人道からも外れている。
そこで、綱吉公は聖人の道を明らかにして・・・
(意訳終了)
つまり、四代目徳川家綱・五代目徳川綱吉の時代も、徳川家康・徳川秀忠・徳川家光による戦国から江戸へという転換により、「歴史的実体」と「幕藩体制下の平和という青写真」に乖離が生じていた。
そこで、徳川綱吉は「生類憐みの令」によって、「人間を殺すと評価される」という世界から「犬を殺しても死刑」という世界への価値転換を図ることになる。
これにより一定の弊害、つまり「罪」があったことは間違いない。
その一方で、平和への価値転換という「功」も発生している。
ここで、話題は決闘に移る。
この点、ヨーロッパでは決闘に対する寛容さが第一次世界大戦のころまであり、フランス首相のクレマンソーはたくさんの決闘を行っている。
それでいて、当時のフランスは言論の自由が保障され、政治システムは民主主義である。
決闘に対する一定の寛容さと言論の自由や民主主義はどういう関係があるのか。
というのも、当時の首相だった原敬が決闘をした、という話は聴かない。
また、明治時代も戊辰戦争や西南戦争があったが、普仏戦争を観戦武官として参加していた大山巌はヨーロッパの戦争のものすごさに驚き、日本の戦争はの大したことがない旨評価している。
そして、明治の時代から大正になることで元禄的風潮がやってくる。
もちろん、戦後は平和主義。
戦国時代から戦後の平和主義の間に、徳川綱吉による意識の大転換があったことは間違いないだろう。
もちろん、徳川綱吉の背後に津田左右吉博士が述べた「建国時の事情」があったかもしれないとしても。
とはいえ、現在において徳川綱吉の意識の大転換を「功」と述べる人はほとんどいない。
「平和が当然のこと」と意識されれば、「功」は忘れられ「罪」のみが記憶されてしまうのだから。
以上、徳川綱吉の功罪を見てきた。
この点、やや偏執狂な点がなくもなかった徳川綱吉と昭和天皇は全く違う。
しかし、こうやって見ることで、「守成」の「功」を評価が難しいことがわかる。
また、これが守成の担当者の運命であることも。
例えば、上の柳沢吉保の表現を明治時代に適用すれば次のようになるだろう。
(以下、本書に引用されている『憲廟実録』の記載を昭和天皇に置き換えたもの)
国家の制度は明治天皇の大いなる企てにより始まり、大正天皇の治世で制度の改良がなされ、制度を見れば十分立派なものになった。
しかし、統治者のメンタリティは未だ江戸時代のまんまである。
そこで、昭和天皇は憲政の道を明らかにして・・・
(記載終了)
つまり、システムは立憲政治が始まったが、メンタリティは明治以前であった。
そこで、尾崎咢堂は憲政擁護に向けて努力を重ねていくことになる。
もちろん、このように憲政擁護に向けて努力を重ねた人は尾崎咢堂だけではない。
もっとも、昭和天皇は「憲政の伝道師」という意識はなく、愚直に憲法を遵守していたように見える。
そして、既に述べた通り、これは極めてレアな現象である。
なぜなら、通常、君主は権力を濫用しがちになるものであり、立憲君主制の模範たるイギリスでさえ、憲政が定着するまでは国王と憲法の衝突は起きているのだから。
まして、実の弟から「憲法停止・御親政」を勧められたのを断固拒否する君主などほとんどいないと言ってよかろう。
また、秩父宮をはじめとしてそれを望む者もいた。
軍部だけではなく、庶民にも。
なぜなら、「大日本帝国憲法という青写真」と「歴史的実体としての日本」には大きな乖離があったから。
この点、磯部浅一の呪詛の趣旨を要約するならば、「昭和天皇、『大日本帝国憲法という青写真』なんか見ないで『歴史的実体としての現状の日本』を見てください。何故、あなたに『歴史的実体としての現状の日本』が見えないのか」という痛切な叫びになる。
事実、磯部浅一の家は非常に貧しく、さらに村人からも阻害されていたところ、磯部浅一本人はその苦境から這い上がっていったのだから。
磯部浅一本人は現状の日本の絶望もよく知っており、それを見れば「大日本帝国憲法という青写真」に一切の価値を見出さなかっただろう。
それゆえ、北一輝の『日本改造法案大綱』によって現実の日本を徹底的に改造しない限り庶民が救われることはない、磯野浅一はこの信念に殉じている。
だからこそ、天皇への呪詛は「『日本改造法案大綱』による日本の改造が可能だったのに、それを実施しなかった」ということになる。
この構造は天皇の戦争責任追及と同様である。
ちなみに、同趣旨の質問を昭和天皇にした人間がいたらしい。
これに対する昭和天皇のコメントは「あいつは憲法を知らん」、それだけである。
ここに昭和天皇の功罪の評価する大きな問題が横たわっている。
その意味では徳川綱吉と同じようなものかもしれない。
なお、近衛文麿は「大日本帝国憲法は天皇親政の建前で・・・」と述べ、現実にもそうだったと考えている人が少なくない。
しかし、憲法が実質的に天皇親政を規定しているならば、権力者にたがをはめる憲法(立憲的意味の憲法)などそもそも不要なことになる。
それゆえ、近衛文麿の発言は語義矛盾を起こしており、それゆえ「責任逃れ」扱いされてしまうことになる。
これでは、昭和天皇が冷淡な態度を示し、不快感を示したのもむべなるかな、という気がする。
いっそ、「憲法を停止せよ」と呪詛する磯部浅一の方がはっきりしている。
言い換えれば、大日本帝国憲法は天皇の権力を制約していないのか。
まとめとして整理してみる。
この点、大日本帝国憲法をそのままの条文で読むと、堅苦しいうえ、いささか仰々しい。
だから、私釈三国志風に意訳するとわかりやすくなる。
例えば、こんな感じである(なお、以下の条文の記載において、カタカナは平仮名に直す)。
大日本帝国憲法第5条
(意訳)→帝国議会の議決がなきゃ天皇は法律を制定できねーよ(帝国議会の議決に拒否権は行使できねー)
大日本帝国憲法第55条第1項
国務各大臣は天皇を輔弼しその責に任ず
→ 国務大臣や(国務大臣で構成される)内閣の同意がなければ、天皇は行政権を行使できねーよ(国務大臣や内閣の決定に拒否権を行使できねー)
大日本帝国憲法第55条第2項
→ 副署がない法律・勅令・国務に関する詔勅は紙切れだ
「単に反対解釈しただけ」とも言えるのだが、この方がわかりやすくなる。
ちなみに、現在の日本国憲法も似たようなところがある。
そして、近衛の言葉は「憲法は一見天皇親政らしい表現を用いているが、内容は機関説と同様である」と修正すると正しくなる。
ところで、熱河作戦の際、天皇は拒否権を行使しようとしている。
これは一種の王様によるクーデターである。
そして、このクーデターを実施した場合、軍部が昭和天皇を失脚させ、幼児の皇太子を即位させ秩父宮を摂政とするというシナリオもありえたと考えられる。
何故なら、江戸時代もこのような大名の押し込めの例はあったし、現に二・二六事件が起きているし、だからこそ、昭和天皇は高松宮を摂政に指名していたのだから。
これに対して、この王様によるクーデターが成功した可能性もある。
この場合、日華事変は起きなかっただろう。
ただ、これを国民が望んでいたのであれば、国民が望んでいたのは立憲君主ではなく、啓蒙的独裁君主ということになる。
事実、磯部浅一もそちらを期待していただろうし。
このように考えると、天皇の戦争責任はこのように言い換えることができそうである。
つまり、「昭和天皇は、大日本帝国憲法に無視してでも『啓蒙的独裁君主になって太平洋戦争などを止めるべき』であり、かつ、『啓蒙的独裁君主になることが可能なほど英明な方であった』にもかかわらず、日本帝国憲法における立憲君主の立場に固執して『拒否権を発動して太平洋戦争を止めなかった』」と。
このように、合憲性を放り投げてしまえば、責任を追及するということは可能であろう。
その責任が法的責任と言えるのかは別として。
なお、これが法的責任と言えるためには、「天皇は立憲君主ではなく啓蒙的独裁君主になるべきである」が憲法を超える規範となるのか、がポイントとなる。
どうなのだろう。
「空気」による、ということになりそうな気がしないではないが。
ところで、「大日本帝国憲法は天皇親政の建前」と述べた近衛文麿は、現実に天皇親政に貢献するようなシステムの変更を行っただろうか。
戦線の不拡大を述べながら、軍事予算を通過させているくらいなので、推して知るべしというべきではあるが、この点をみておく。
これは後の「戦争指導会議」となる。
ところで、「この会議は閣議か」という点が問題となった。
閣議であれば天皇は意見を述べることができない(内閣への権限介入になる)一方、そうでなければ天皇は自由に意見を言えるのだから。
大日本帝国憲法を愚直に守る昭和天皇は西園寺公望に相談したところ、西園寺公望は「御希望」や「ご質問」ならいいのではないか、と返事した。
これに対して、近衛文麿が大反対するのだが、その理由は「天皇は内閣と軍部の連絡の立会人に過ぎないから」というものであった。
一方で「親政できる」と言い、他方で「立会人扱い」、これでは近衛文麿が昭和天皇の信頼を失ったのも無理からぬ話、と言える。
なお、この会議で昭和天皇が発言したのは、開戦前に明治天皇が詠まれた平和への和歌を詠んだこと、そして、終戦の聖断の二度だけである。
ちなみに、二・二六事件後の昭和11年4月26日における昭和天皇のお言葉にそのことを予感させるものがあった旨本書に書かれている。
以下、本書で引用されている昭和天皇のお言葉を私釈三国志風に意訳しようとしてみる。
(以下、本書に引用されている昭和天皇のお言葉を私釈三国志風に意訳したもの、直訳でも引用でもない点に注意、なお、強調は私の手による)
軍部は機関説を排撃している一方で、朕の意志を無視して勝手なことばかりやっている。
これぞ朕を機関扱いするものではないか。
(意訳終了)
以上、本章を読み進めてきた。
次回は、この続きをみていくことで本格的に昭和天皇の功罪をみていく。