薫のメモ帳

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『昭和天皇の研究』を読む 24

 今日はこのシリーズの続き。

 

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昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

24 第13章を読む_後編

 前回まで、文化的問題から見た場合の天皇について見るため、津田左右吉博士の主張についてみてきた。

 今回は前回の続きである。

 

 

 前回、「日本の上代記には戦争に関する記述が少ない」という主張を確認した。

 この主張から津田左右吉博士は次のように結論付けることになる。

 例によって、本書では公判記録から引用されているため、この引用部分を私釈三国志風に意訳しようとしてみる(意訳であって、直訳や引用ではないため注意)

 

(以下、本書で引用されている公判記録の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

 日本では上代から語り継がれているものが少ないことから、日本は戦争が少なかった、平和だった(という歴史的)事実を示すことができます。

 また、皇室による国家統一に関する上代から語り継がれているものが少ないことから、皇室がその御威光を徐々に広げていくことによって平和的に統合していった(という歴史的)事実が浮かび上がることになります。

 この点、日本が平和的に統合された場合、戦争のような語り継ぐべき話題もなく、日本の上代において語られることが少ないことの説明が可能になります。

 これらの日本の上代史から示される事実は、日本の起源を検討するにあたって極めて重要な事実であると考えます。

(意訳終了)

 

 この点、津田左右吉博士の公判は太平洋戦争前夜の昭和16年11月1日から始まった。

 また、この供述がなされたのは昭和16年12月1日である。

 この時期に次の主張を公判で述べた津田左右吉博士はすごい、と言えよう。

 

(以下、本書で引用されている公判記録の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

 昨今では、日本も闘争心などを大いに向上させなければ世界大戦を切り抜けられないといった状態になっておりますが、日本の上代は今日と全く違った有様であります。

 また、国民性の維持・発展する際には、この点を考慮することが重要なのであります。

 つまり、我々は多くの戦争を経験しなかった民族だったのです

 このような民族が日本に長い間住んでいたのであり、民族的な共同生活を送っていたのです。

(意訳終了)

 

 

 この後、平和な「生活の座」で生きていた日本に中国から文字と思想が入ってきた。

 そして、文字によって『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』などが編纂されるようになった。

 この点、記載された内容はそれまでに語り継がれていた思想を多分に含まれていただろうが、文字が入ってくれば文字に付随して思想が入ってくることになる

 津田左右吉博士は「文字には思想が貼り付いている」という点を強調されている。

 その結果として、仁徳天皇武烈天皇の記述が『六韜』・『韓非子』・『尚書』・『呂氏春秋』・『史記』などからの引用で構成されたり、これらの書物の背後にある思想の影響を強く受けたりすることも当然のこととしている。

 

 しかし、古事記』・『日本書紀』の思想と中華思想は全く異なるものである。

 例えば、「あきつかみ」・「現人神」・「万世一系」という概念は中華思想にはない。

 そこで、津田左右吉博士の関心事たる日本の上代の思想の内容と形成過程をみていくことになる。

 

 まず、津田左右吉博士は上代の日本人は、『人』と『神』をはっきり分けており、自分たちの時代を『神の時代』ではなく『人の時代』だと考えていた」点を指摘する。

 そうでなければ、「神代」と「人代」の区別がなく、現代まで「神代」が続いていることになるのだから。

 この点は本居宣長の発想とは異なり、白鳥庫吉博士の学説(神と人の区別)を継承している。

 もちろん、「人代になってから自らの時代を『神の時代』と表現した例は万葉集の文学的表現に二度登場するだけだ」という指摘を添えて。

 一方、『史記』には神代と人代の区別はない。

 

 次に、天皇が「あらひと」であり、「あらひとがみ」で記されていても、上代の日本人の理解において、天皇と他の神は区別されていた

 この点について、津田左右吉博士は次のように述べている。

 以下、本書で引用されている公判記録の一部を私釈三国志風に意訳してみる。

 

(以下、本書で引用されている公判記録の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、強調は私の手による)

 上代における神は、宗教的に祈祷を受け、祭祀を受け、供え物を受けられて、その一方で人々の日常生活を支配し、日常生活に対する禍福を与えております。

 しかし、天皇はそのような働きをなされていないのであります。

 天皇は「あきつかみ」であらせます。

 そして、「あきつかみ」の役割は国家の統治にあるのでございます。

 言い換えれば、天皇は供え物を受ける、禍福を与えるといった神としての振舞いをなされないどころか、自ら神をお祀りになられるのであります。

 その意味で、天皇は神に対する人の位置にあらせられるのでございます。

(意訳終了)

 

 現状の説明としてはそうだろう。

 こうやって考えなければ、「拝めば治る」などといって金を巻き上げる新興宗教の教祖の方が、上代における「神々」であって「現人神」にふさわしくなってしまう。

 なお、この新興宗教の教祖のような存在は、ユダヤ教キリスト教においては呪術師や魔女扱いされており、忌み嫌われていた点はこれまで見てきた読書メモのとおりである。

 

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 このように、上代において「天皇が拝礼や祈祷の対象ではなく、呪術的な能力を持つ対象ではなかった」ことを津田左右吉博士は丁寧に説明している。

 

 その上で、津田左右吉博士は天皇は人間であり、かつ、象徴である」と主張している。

 本章では、『中央公論』に所収された論文『元号の問題について』における津田左右吉博士の主張が紹介されている。

 以下、本書で引用されている『元号の問題について』の一部を私釈三国志風に意訳してみる。

 

(以下、本書で引用されている『元号の問題について』の一部を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意

 日本国憲法において「象徴」という言葉が法律上の用語として用いられております。

 しかし、現実では天皇は昔から象徴だったのです。

 その点を考えれば、誰の考えだったかはさておき、よい言葉を選んだと考えております。

 私自身も約30年前の著書で「皇室は国民的精神の象徴、または、国民的結合の象徴である」と述べたくらいですし。

 もちろん、あの憲法に対する意見はあるでしょうし、完全無欠とも思いません。

 しかし、天皇を象徴と規定した点は、歴史的実体に即したものであり、「天皇の地位と性質を最もよく表現したものである」と感服しております。

(意訳終了)

 

 このように、津田左右吉博士は戦前・戦後を通じて「天皇は現人象徴である」旨述べている。

 これに対して、中国の皇帝は天命による地上の支配者である。

 そこで、中国から文字と思想を導入し、中国から圧倒的な影響を受けた日本で「皇帝」の発想が採用されなかったのは何故かが問題となる。

 天皇が中華皇帝にならなかった理由について津田左右吉博士は次の5点に要約している。

 本書では、『世界』の論文の一部を要約した形で記載されている。

 

1、皇室が日本の民族の内にあり、かつ、周囲の勢力を少しずつ帰服させるという形で勢力を拡大したこと(この点はイギリスのノルマン王朝を開いたウィリアム征服王とは経緯が異なる)。

2、異民族との戦争によって自国の政治体制に決定的な影響を及ぼす経験がなかったこと(異民族との戦争自体は朝鮮半島付近で行われたが、自国に攻め込まれた経験はほとんどない)。

3、日本の上代には、政治らしい政治、君主としての大事業がなく、また、そのような政治や大事業が必要なかったこと(その結果、内政において天皇は自ら決断するのではなく重臣と相談して処理するようになった)。

4、天皇には宗教的任務と権威があったこと律令制を導入する際、日本は中国にはない「神祇官」の制度があり、天皇は「神祇官」と「太政官」の双方のトップとなっていたところ、「神祇官」については継続して祭祀を続けてきた、これも政治と宗教の分離という方向に働く)。

5、皇室は中国の先進文化の導入によって、新しい文化の指導的地位を担うことになったところ、これにより武力とは異なる尊さと親しさを周囲に与えたことこと(この事情は武家が政権を奪取しても皇室に対する敬意・あこがれを失わなかった理由であると考えられる)。

 

 以上が、津田左右吉博士が示した「天皇が中華皇帝にならなかった5つの事情」である。

 そして、日本の上代によって形成された文化の継続を願う気持ちが「万世一系」という思想になった旨述べている

 したがって、「このような思想を生み出したという歴史的・社会的・政治的事実に重みがあることを理解する必要がある」旨述べている。

 

 なお、津田左右吉博士は天皇は国民統合の象徴のみならず、民族の継続性の象徴でもある」旨述べている。

 中央公論に掲載された論文ではその観点から元号について述べているが、元号については割愛する。

 

 

 以上を踏まえて、「天皇とは何か」と考えてみる。

 津田左右吉先生の戦前・戦後の一貫した主張に「日本の社会構造・精神構造は昔も今も変わっていない」という故・小室直樹先生の主張(参考となる読書メモは次の通り)を加味して考えれば、昔も今も天皇日本民族の統合・継続発展の象徴」ということになる。

 

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 そして、天皇は象徴である」という思想は、「上代の日本人の生活の座」と「国家形成時における非軍事的・非政治的、つまり文化的統合」によって生まれていると言える。

 

 では、昭和天皇自体はどう考えていたのだろうか。

 この点、昭和天皇は生物学の御研究の成果は発表されている。

 また、読む本は「生物学と歴史」と答えている。

 しかし、歴史についての発言はない。

 もっとも、生物学者歴史観を思わせる発言があり興味深い点がある。

 例えば、昭和天皇と本庄武官は天皇機関説をめぐって議論をしているが、その中に次のような発言があるらしい。

 

(以下、本書の記載を引用)

 自分の位はもちろん別なりとするも、肉体的には武官長と何ら変わるところなきはずなり

(引用終了)

 

 つまり、昭和天皇は自分自身を「現人(あらひと)」だと考えていた。

 そこで、人間たる昭和天皇が象徴であり続けたのは文化の問題ということになるだろう

 

 人間は政治的存在だけでとらえることはできない。

 そうであるからこそ、ソビエトがいかに強権をふるって継続的文化や生活の座を共有する者たちによって作られた民族を消すことができず、一定期間締め付けても何かあればすぐ民族問題が噴出するありさまである。

 

 ちなみに、このような結論に至ったのは津田左右吉博士だけではない。

 へブル大学の日本学者のベン=アミ・シロニー博士も同様の結論になっているらしい。

 

 

 ここから話は、杉浦重剛博士の講義でなされた「武力と文化の持つ力」に移る。

 

 この点、杉浦博士は武力の必要性は肯定する一方で、戦争が一国にとっていかに危険で悲惨なものかを説明していた。

 このことは、杉浦博士が幕末に生まれ、戊辰戦争西南戦争日清戦争日露戦争を経験しており、また、講義の時期は第一次世界大戦のころと重なっていた。

 そう考えれば、当然ともいえる。

 

 この点、杉浦博士は「兵」の章で「千葉周作に死に方を習いに行った茶坊主の話」を紹介している。

 この話を私釈三国志風に意訳すると次のような話となる。

 

(以下、本書に記載されている「千葉周作に死に方を習いに行った茶坊主」の話を私釈三国志風に意訳したもの、直訳でも引用でもない点に注意、なお、強調は私の手による)

 幕末、土佐に土方なにがしという茶道の奥義に達したある茶坊主がおった。

 殿様はこの者のお茶しか飲まないほどのお気に入りであった。

 その後、参勤交代の折、殿様はどうしても茶坊主のお茶が飲み続たかったので、茶坊主を武士に取り立て江戸に連れて行った。

 しかし、この茶坊主は見た瞬間武士ではないことがわかるありさまであった。

 江戸でのある日、この茶坊主はある剣客から「真剣での勝負」を申し込まれた。

 この茶坊主は刀を抜いたこともなかったので、非常に驚いた。

 そこで、「私は主命を奉じている。それが終われば勝負しよう」と約束し、直ちに剣聖・千葉周作を訪れた。

 茶坊主は病床で面会を断っていた千葉周作に強いて頼み込み、事情を説明して「私は剣道について何も知らないので、討たれることは覚悟している。ただ、みっともない死に方はしたくないゆえ、その方法を教えてほしい」と頼み込んだ。

「死に方を教えてくれ」と言われた経験のない千葉周作は非常に驚き、その旨を告げた上で茶坊主に茶を所望した。

 茶坊主は茶を点てたところ、千葉周作から見てこの態度は死を目前としたものに見えないものであった。

 そこで、千葉周作は、「勝負になったら剣を大上段に構えて目を閉じよ。閉じた目は開いてはならない。そのようにしていれば、腕なり頭なりにひやりとする感覚がするだろうから、その瞬間、力の限り剣を振り下ろせ。これにて相手は必ず傷つき、あるいは、相討ちにもちこむことができる」と茶坊主に教えた。

 茶坊主千葉周作に丁重に礼を述べ、勝負の場に戻った。

 そして、待っていた剣客にあいさつし、勝負が始まった。

 茶坊主は言われたとおりにしたところ、剣客は驚いた。

 確かに、剣客は茶坊主に致命傷を与えることができるが、その瞬間、頭上の刀が振り下ろされるうえ、目を閉じているから相手の動きがつかめない。

 結果、剣客は茶坊主に土下座をして「恐れ入った。この勝負は私の負けである。そこで、私の身はいかようにもされたい」と負けを認めた。

 茶坊主は「降伏した人間を切るつもりはない」と述べたところ、剣客は茶坊主の流儀などを問うた。

 これに対して、茶坊主は勝負を申し込まれて千葉周作に会い、死に方の教訓を受けたことをすべて話した。

 その剣客は茶坊主の態度に感心し、千葉周作の元へ行って総てを話すとともに兄弟の約を定め、親交を重ねることになった。

(意訳終了)

 

「勝ちたいという欲望は捨て身にかなわない」ということであろうか。

 あるいは、「茶道の奥義という文化の力が剣を圧倒した」というべきか。

 この話は丸腰の朝廷が武器を持った武家に対してどのように応じるべきかの重要なヒントとなったのだろう。

 昭和天皇は皇室の人、杉浦重剛博士は幕末の武士だったのだから。

 

 

 では、昭和天皇はこの「民族の文化の力」を信じていたのだろうか。

 この点、敗戦直後、昭和天皇は自ら単身でマッカーサーのところに乗り込んだ。

 これも「捨て身」である。

 

 他方、帰国後にアメリカの大統領になりたいと考えていたマッカーサー

 両者の関係は微妙に変化していく。

 

 具体的には、第三回の会談で昭和天皇は自身の御巡行についてマッカーサーについて意見を求めたところ、マッカーサーは次のように述べたといわれている。

 ここは意訳ではなく、本文を引用してみる。

 

(以下、本書に記載されている半藤一利氏の記載を引用したもの、各文毎に改行、なお、強調は私の手による)

 米国も英国も、陛下が民衆の中に入られるのを歓迎いたしております。

 司令部にかんするかぎり、陛下は何事をもなしうる自由を持っておられるのであります。

 何事であれ、私に御用命願います

(引用終了)

 

「なんという日本の継続的文化の力よ」というべきか。

 

 

 以上、津田左右吉博士の主張を見てきた。

 なかなか納得させられる主張だったと感じている。

 その一方で、「蓑田胸記のような存在は日本文化においてどのような意味があるのか」と感じなくはないが。

 

 次は、天皇の「功罪」について本格的にみていく。