薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『昭和天皇の研究』を読む 23

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

昭和天皇の研究_その実像を探る』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

23 第13章を読む_前半

 第13章のタイトルは、「『人間』・『象徴』としての天皇

 第12章までは、昭和天皇の自己規定・大日本帝国憲法上の天皇・君主としての天皇についてみてきた。

 これからは、文化としての天皇についてみていく。

 

 

 本章は、前章の最後で述べた「では、天皇とはいったい・・・」という疑問を受けて、昭和21年8月号の『中央公論』で発表された故・高倉テル氏の天皇制ならびに皇室の問題』という文章から始まる。

 この文章の末尾が引用されているので、これまで通りこれを私釈三国志風に意訳しようとしてみる(あくまで私釈であって、引用や直訳ではないため注意)

 

(以下、本書で引用されている『天皇制ならびに皇室の問題』の末尾の結論部分を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

 国民の生活レベルの低さが皇室に対する宗教的崇拝の原因になっている。

 そして、現在では、絶対主義を採用した天皇制による国民生活への圧迫が、かえって皇室への崇拝を生むという循環を生んでいる。

 だから、民主主義の普及により国民生活が向上すれば、皇室への崇拝は当然消失しなければならないことになる。

 この点、この宗教的崇拝が政治に利用されたため、問題はややこしくなり、かつ、面倒になっているが、そもそも天皇制の問題は政治的な問題ではなく、文化的問題、そして、教育的問題である

(意訳終了)

 

 この点、上の文章の前提には昭和21年2月から始まった「天皇ご巡幸」がある

 そして、当時の新聞記事と写真や小・中学生としてその場に居合わせた感想を見ると、この「天皇ご巡幸」に対する国民の「熱烈歓迎」ぶりに驚くことになる。

 この点、「天皇ご巡幸」はマッカーサーの許可、というよりは、積極的賛成の下で行われた。

 というのも、当時の政府は警備に自信がないから反対したし、マッカーサー指令により警察が解体されていたからである。

 

 この点、敵地に乗り込んだ占領司令官たるマッカーサーは「天皇を民衆に放り出したときに何が起きるのか」を慎重に見ていていただろう。

 その結果は、対日理事会や日本の共産党にとって意外な「熱烈ぶり」であった、というわけである。

 特に、対日理事会が感じた不気味さは昭和天皇崩御時になされた470万の「記帳」や「自粛」以上のものだったらしく、対日理事会はマッカーサーに「巡行をやめよ」と申し入れたが、マッカーサーはこの要求を握りつぶすことになる。

 そして、日本の共産党もこの結果を意外であり、その結果として「生活レベルの低さと天皇への崇拝が直結している」といった上述の文章の解釈が生まれたことになる。

 

 この点、経済成長がなされた今の段階で見れば、上の予想は外れることになった

 もっとも、ぽつんと無関係に書かれている天皇制は文化的・教育的問題でる」という指摘は興味深い。

 当時はこのように見られていた、ということを示しているのだから。

 

 このように考えると、政治的問題から天皇を追いかけても、立憲君主という点しか出てこないことになって、よくわからなくなる

 そこで、文化的問題としての天皇を見ていく必要がある。

 本書では、その手段としてこの論文で故・高倉テル氏が批判している津田左右吉博士の主張をみていくことになる。

 

 

 この点、津田左右吉博士は昭和天皇に歴史を教えた白鳥庫吉博士の愛弟子である

 そして、津田左右吉博士の上代史に関する研究は、しばしば東大右翼学生の批判の的になった。

 本書に掲げられた具体例として、国家主義者かつ機関説排撃の理論的指導者だった蓑田胸喜氏が『原理日本』という雑誌に掲載した『津田左右吉氏の大逆思想』という論文がある。

 蓑田胸喜は、津田左右吉氏の主張の「神武天皇から仲哀天皇までの十四代にわたる『古事記』と『日本書紀』の記載は、後世の人々が創り出した説話である」と述べた部分に激怒し、檄を飛ばしている。

 本書で引用されている論文の一部を私釈三国志風に意訳してみよう。

 

(以下、本書で引用されている『津田左右吉氏の大逆思想』を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意なお、強調は私の手による)

 津田氏が主張している「神武天皇から仲哀天皇までの十四代の否定」という抹殺論は、たとえ、科学的推論による合理的な主張であるとしても不敬極まりないものである。

 なぜなら、神武天皇以前の皇祖皇宗から仲哀天皇までの治世の歴史的事実を否定しているからである。

 これに比べれば、不敬極まりない「天皇機関説」でさえマシに見えてしまう。

 何故なら、「天皇機関説」は統治権者としての天皇の否定しているだけで天皇の存在は認めている一方、津田氏の主張は、神代・上代における天皇の統治という歴史的事実を抹殺することにより、現在の天皇の正統性を否定するものだからである

 以上より、津田氏の主張は『国史上全く類例なき思想的大逆行為』である。

 また、この主張に比べればマルキストたちの主張がかわいく見えてしまう。

 全国同志よ、『現日本万悪の淵源』を払うために今こそ立ち上がれ。

 政府各機関は速やかに厳重な処分を下すべきである。

(意訳終了)

 

 檄文というのはこんなものなのだろうか。

 

 ただ、蓑田胸記の「国史上全く類例なき思想的大逆行為」という点は先例があるため、誤りらしい。

 なぜなら、徳川時代にも、山片蟠桃は『夢の代』でこれと同じ見方をし『応仁記』以前を歴史とは見ていなかったため津田左右吉博士のように記載の事実を歴史的事実としてとらえていない人間はいたからである。

 

 この点、蓑田胸記はあらゆる方面に働きかけ、ついに、検事局を動かして津田左右吉博士と岩波茂雄を「出版法違反等」で告発する。

 しかし、当局は乗り気でなかったようで、昭和16年12月に公判が開かれ、第一審は執行猶予付有罪判決(津田左右吉禁錮3か月、岩波茂雄禁錮2か月)がなされ、二人は控訴したが、第二審は「時効完成により免訴」となる。

 この免訴は昭和19年11月、サイパンは陥落し、東条内閣は既に瓦解している。

 法律上これがありうるのか(現行法であれば、公訴時効は起訴状を出すことで停止するため、公判の経過は「時効」に依存しない)は知らないし、また、無罪・有罪判決を選ばなかった理由もよくわからない。

 裁判所の心情を推測するならば、「有罪にするほどでもない、無罪にすると右翼がうるさい、ならば、免訴にしてしまえ」ということなのかもしれない。

 

 ここで、著者(故・山本七平先生)の感想が入る。

 告発した蓑田胸記は敗戦後故郷の熊本に帰って自殺している。

 これを考慮すれば、たとえ「狂信」と評価すべきであったとしても、彼には彼なりの信念があったのだろう

 しかし、他の人間を見れば、戦前は同じような言説を吐きながら戦後にわかに左翼的新法的文化人に変貌した者、戦前は皇国史観を唱えながら、戦後はマルクス史観に鞍替えした学者もいる。

 このような「優等生病」・「一番病」の人間は信用できない、と。

 他方、終始一貫その立場を変えていない津田左右吉博士は信頼できる

 この点は、歴史学を何かに従属させることを厳しく拒否した点で白鳥博士と同様である、と。

 私自身、「一番病」・「優等生病」の範疇に属する可能性を否定するつもりはないが、同感である。

 

 少し話が横道にそれた。

 昭和21年、岩波書店の『世界』は津田左右吉博士に寄港を依頼する。

 これに対して津田左右吉博士が送った現行の見て『世界』の編集部は驚きあがったことになる。

 というのも、そのタイトルは『建国の事情と万世一系の思想』であったからである。

 もちろん、本件については、世情に出回ったものが『原理日本』に掲載された蓑田胸記の告発状だけしかなく、しかも、裁判は非公開だったため(現在ならば、出版に関する裁判の公判手続と判決手続は公開による旨憲法82条2項但書で規定されている)、編集者が「津田左右吉博士はマルキスト以上の天皇制否定論者」と誤信してもやむない面があるとしても。

 そのこともあって、津田左右吉博士の論文の他に「津田博士『建国の事情と万世一系の思想』の発表について」という相当長い「編集者の記」が掲載されている。

 今読めば、何故このような長い文章が必要なのかが気になるが、これぞ当時の「空気」というものなのだろう

 ちなみに、経済評論家たる長谷川慶太朗氏はこの「編集者の記」を戦後ジャーナリズムの原点と言われたところ、著者も「そうかもしれない」旨述べている。

 その意味で、確かにあった「戦前のおかしさ」は戦後になってひっくり返った形で「おかしくなる時期」があった、ということなのかもしれない。

  

 

 さて、津田左右吉博士の主張は現在公表されている公判記録からわかる

 公判廷において、津田左右吉博士は「学問の性質、研究法と問題となっている点について、丁寧に説明しよう」という態度で臨み、裁判官も紳士的な態度で接しているため、公判記録があたかも『上代史および上代思想の講義』のようなものになっている。

 もっとも、公判記録は膨大になっているが、それゆえ上代史及び上代思想史の最高の解説書となっている。

 そして、著者は、古事記』と『日本書紀』を知りたい人に対して、入門書(!)としてこの公判記録を勧めているらしい。

 少々あれである。

 

 

 ただ、公判記録と『建国の事情と万世一系の思想』の内容に違いがない。

 また、「思想」であることを考慮し、本書では「公判記録」を引用して主張の説明をしている。

 そこで、このブログでは例によって、引用された公判記録を私釈三国志風に意訳しようとしてみる。

 

(以下、本書で引用されている公判記録を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意、なお、強調は私の手による)

津田左右吉博士)神代史の性質・精神について話せばよろしいのでしょうか。

(中西裁判長)はい。

津田左右吉博士)一言でいえば、「神代史は説話」です。説話というのは「歴史的に存在した思想から作られた物語」であり、現実において具体的に起きた歴史的事実ではないということです。(中略)つまり、説話は具体的な歴史的事実ではないけれども、完全なフィクションでもないということになります。ですから、説話の存在は、説話に対応した具体的な事実が歴史的に存在することを示すわけではない一方で、「説話の背後にある一定の思想が存在した」という歴史的事実を示しているのであります。

(意訳終了)

 

 この点、津田左右吉博士は「歴史的事実」と「歴史的事件」という言葉を使い分けている。

 つまり、思想などの一定の状態の存在を示す場合には「歴史的事実がある」と述べ、表現内容に対応する具体的な事実があった場合に「歴史的事件がある」と述べている。

 ただ、ここではブログの全体的な表現に従い、「歴史的事件がある」を「歴史的事実がある」とする一方、思想のような存在する場合は「思想が存在するという『歴史的事実』が存在する」と表現することにする。

 

 このように見ていくと、津田左右吉博士の研究方法はいわゆる聖書学の研究方法と同じことを示している。

 だから、『古事記』・『日本書紀』にせよ『聖書』にせよ、書かれている事実を必ずしも歴史的事実とみなしていない

 もっとも、そこに書かれた事実は「その時代に存在した『思想』」を反映させたものであり、思想の存在については歴史的事実として認めている。

 そして、資料の検討を通じてその時代にあった思想を理解することは、『聖書』や『古事記』・『日本書紀』などのの否定・冒涜とは言えないと言えることになる。

 もっとも、この考え方が一般的に受け入れらるかは別問題であるとしても。

 

 

 さて、津田左右吉博士は、「仁徳天皇の御仁政に関する日本書紀記載の本文」に対する研究について説明している。

 この「仁徳天皇の御仁政」というのは、「私が高台を見たら、百姓が貧しいせいか飯場から煙が昇っていない。そこで、三年間税金を免除したら、煙が昇るようになった」という事実であって、昔はこの事実が小学高の教科書に歴史的事実として掲載されていた。

 これに対して、津田左右吉博士は『六韜』・『韓非子』の引用で構成されていること、中国の天子の聖業を描く際の常套的手法が用いられていることをこまかく論証し、この事件を説話である旨認定している。

 

 他方、津田左右吉博士は、武烈天皇が暴虐な天子として記載されていることに対して、『尚書』・『呂氏春秋』・『史記』の紂王の記述などからの引用で構成されていることを事細かに説明している。

 つまり、中国の「理想的天子もいれば、暴虐な天子もいる」という中華思想をそのまま受け入れていること、及び、表現も引用であることを論証している。

 

 これらの論証が「天皇制の否定」にあたるということはないだろう。

 そして、津田博士の関心たる「日本がいかにして形成されたか」への研究に進むが、その見方は「生活の座」と「古事記日本書紀に示された事実の背後にある思想的性質」という形になっている

 

 ここで、また著者の感想が入る。

 戦前の教科書は、仁徳天皇のことは歴史的事実として掲載され、武烈天皇のことは掲載されていない。

 他方、戦後では「とある雑誌が武烈天皇のことを歴史的事件として掲載する」といった事案が発生する。

 このような態度では、戦後は戦前の皇国史観の裏返しに過ぎず、説話を歴史的事実として扱っている点では変わりはない。

 これもまた信用できない、と。

 この点も同感である。

 

 さて、津田左右吉博士の研究に戻る。

 津田左右吉博士の関心は、「圧倒的な中国の影響を受け、かつ、その思想を導入しつつ日本の国家を形成しながら、なにゆえ『万世一系という思想』を形成されたのか」という点にある。

 この点について、本書では、公判記録における津田左右吉博士の供述が引用されているが、この部分を私釈三国志風に意訳してみる。

 

(以下、本書で引用されている公判記録を私釈三国志風に意訳しようとしたもの、意訳ではあって引用ではないことに注意

 過去、皇室がどのようにして日本の国家を統一したかについての説明が少ないこと、この事実が当時の国民生活と関連していると考えられます。

 例えば、世界の様々な国や民族を見てみると、上代人間について後代の人間が語ることは戦争についてであり、どの国・民族の上代の歴史に書かれていることは戦争の物語ばかりなのです。

 戦争の話は非日常の事件であるから上代の人間の話として後代の人間に語り伝えるわけであり、日常的な事件は当たり前すぎて語り伝えられることもなくなってしまうわけです。

 しかし、日本の上代においては戦争について語れる内容がないのです。

(意訳終了)

 

 これは面白い見方である。

 つまり、通常の「建国史」・「王朝創立史」はみな「戦争物語」であるところ、日本についてみればそれが圧倒的に少ない

 この点、「神武天皇の御東征」には航海があったはずだがその航海記がないことやその他のことを論証して、津田先生は「神武天皇の御東征」が歴史的事実ではない旨論証されている。

 

 そして、この御東征の物語は「神代」と「人代」を区別するために存在する旨だと説明する。

 この点、多くの国の神話・伝統では、「神代」と「人代」は分けられており、それを分けるのが洪水である。

 例えば、旧約聖書のノアの洪水はこの例である。

 これに対して、日本の場合、東征という航海で海を越えた結果、神武天皇が日本を治めることになり、ここから日本書紀は神代から人代に入ることになる

 そして、津田左右吉博士は第10代天皇の祟神天皇が「ハツクニシラス」と記されている点を指摘する。

 つまり、日本では、「(神の代)→神武天皇の東征→(人の時代・伝説で語られる時代)→崇神天皇の時代→(人の時代・歴史で語られる時代)」という流れになっていると説明している。

 

 

 以上、津田左右吉博士の学説を見てきた。

 私も入門書として公判記録を見ようかなあ。

 まあ、上下段で約700ページもあるものを読み切れるか、非常に怪しいところであるが。

 

 本章の残りは次回見ていくことにする。