今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
11 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第2節」を読む(前編)
前節(第2章の第1節)で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が奉じる「神」についてみてきた。
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の奉ずる神は「人格をもった絶対神」である点は共通する。
しかし、その性格は大きく違う。
第2章の第2節のタイトルは「予定説と宿命論_イスラムにおける『救済』とは何か」。
「救済」の具体的内容について、ユダヤ教やキリスト教と比較しながらみていく。
彼らが信仰した絶対の神は苦難をもたらす神、必ずしも幸福をもたらさない神であった。
また、この神は自らの民でさえ滅すことを厭わない。
その最たる例が、イスラエルの民がエジプトを脱出してシナイ山の麓で野営しているときにおきたエピソードである。
エジプトから脱出したイスラエルの民はシナイ山の麓で野営する。
その野営中、神から呼び出されたモーセはシナイ山に登り、キャンプを留守にした。
そのとき、イスラエルの民はエジプトに住んでいたころに拝んでいた犢(こうし)の像を作り、その像を拝みだしたのである。
この行為は偶像崇拝であり、律法に反する行為である。
これを知った神は怒り狂い、「このような民は皆殺しにしてくれる」とモーセに告げた。
このモーセの説得により神はイスラエルの民の抹殺を思いとどまった、そう聖書は記している。
なんと神は怒りにまかせて自らの民を皆殺しにしようとしたのである。
せっかくなので、この部分をウィキソースの口語訳旧約聖書から引用してみる。
(以下、『口語訳旧約聖書』の『出エジプト記』の第32章を引用、節番号は省略し改行でで対応、強調は私の手による)
民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。
アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。
そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。
アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。
アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。
そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。
主はモーセに言われた、「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。
彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」。
主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。
それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。
モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。
どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、
あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。
それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。
モーセは身を転じて山を下った。彼の手には、かの二枚のあかしの板があった。板はその両面に文字があった。すなわち、この面にも、かの面にも文字があった。
その板は神の作、その文字は神の文字であって、板に彫ったものである。
ヨシュアは民の呼ばわる声を聞いて、モーセに言った、「宿営の中に戦いの声がします」。
しかし、モーセは言った、「勝どきの声でなく、敗北の叫び声でもない。わたしの聞くのは歌の声である」。
モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。
また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。
モーセはアロンに言った、「この民があなたに何をしたので、あなたは彼らに大いなる罪を犯させたのですか」。
アロンは言った、「わが主よ、激しく怒らないでください。この民の悪いのは、あなたがごぞんじです。
彼らはわたしに言いました、『わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセは、どうなったのかわからないからです』。
そこでわたしは『だれでも、金を持っている者は、それを取りはずしなさい』と彼らに言いました。彼らがそれをわたしに渡したので、わたしがこれを火に投げ入れると、この子牛が出てきたのです」。
モーセは民がほしいままにふるまったのを見た。アロンは彼らがほしいままにふるまうに任せ、敵の中に物笑いとなったからである。
モーセは宿営の門に立って言った、「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。
そこでモーセは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」。
レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。
そこで、モーセは言った、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた。それで主は、きょう、あなたがたに祝福を与えられるであろう」。
あくる日、モーセは民に言った、「あなたがたは大いなる罪を犯した。それで今、わたしは主のもとに上って行く。あなたがたの罪を償うことが、できるかも知れない」。
モーセは主のもとに帰って、そして言った、「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。
今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば―。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。
主はモーセに言われた、「すべてわたしに罪を犯した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう。
しかし、今あなたは行って、わたしがあなたに告げたところに民を導きなさい。見よ、わたしの使はあなたに先立って行くであろう。ただし刑罰の日に、わたしは彼らの罪を罰するであろう」。
そして主は民を撃たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのである。
(引用終了)
「神がモーセの説得を受け入れ皆殺しを思いとどまった」という話は知っていたが、話はこれだけで終わらなかったらしい。
皆殺しにこそならなかったが、相応の騒動にはなったようである。
ところで、このエピソードには古代イスラエル人の宗教センスが反映されている。
そして、この感覚を把握することがユダヤ教・キリスト教・イスラム教を理解するカギになる。
そのカギは二点に集約される。
一つ目は、古代イスラエルの民が奉じた「神」は感情の起伏が激しい人格神である、ということ。
もう一つ、神に対し「人」は「合理的」に対処した、ということである。
つまり、古代イスラエル人の奉じる神は、太陽神や儒教の「天」のような自然界を抽象化した存在ではなく、意思や感情、そして、人格や個性を持っている。
また、感情の起伏も穏やかではなく激しい。
さらに、シナイ山で神はモーセから「ここで自分の民を皆殺しにすれば、エジプトの民から『あの神は自分を奉ずる民を騙して連行し、皆殺しにした』と言われますよ」と言われて、皆殺しを思いとどまった。
このことから、この神様はエジプトの民(自分の民より恵まれている異教徒というべきか)の評判が気になるらしい。
絶対神ともあろうお方がなぜそのようなことを気にしなければならないのか、よくわからないところではあるが。
もう一点、対象を神から人(モーセ)に移すころで別のことがわかる。
モーセは神を「言葉」で説得した。
つまり、神に対して人は合理的な対処をした。
この合理性こそが古代イスラエルの宗教の特徴であると喝破したのが、かの大学者マックス・ウェーバーであった。
この点、古代に遡ってみれば、イスラエル人の存在感はなきに等しかった。
そのことをマックス・ウェーバーは「賤民」という言葉を用いて表現した。
読み方は「せんみん」であるが、「選民」ではない。
事実、イスラエル人はエジプトを脱出してカナンにてイスラエル王国を作るが、のちに分裂、結果的に、バビロン捕囚の憂き目にあう。
その結果、古代イスラエル人の記録は歴史書の片隅に記載されておしまい、ということもありえた。
ところが、この古代イスラエルの宗教センスからユダヤ教・キリスト教・イスラム教といった宗教を生み出し、世界を完全に変えてしまった。
その理由、つまり、古代イスラエル人の宗教の特徴(他の宗教との相違点)は何か。
その特徴こそ「宗教の合理化」である。
話はここで「一神教」に移る。
この点、古代エジプトでは多数の神々が信仰の対象となっていた。
古代ギリシャやヒンディー教、過去の日本のように。
つまり、エジプトの王イクナートンは太陽神アテンのみを信仰し、他の神に対する信仰を禁止しようとした。
もっとも、この試みは失敗し、イクナートンの次の次の王であるツタンカーメンは多神教に戻すことになる。
このように、一神教はいきなり一神教ができるのではなく、「多神教における神々が整理されて一つの絶対神に収束する」という形で出来上がる。
そして、そのことは古代イスラエルでも例外ではないらしい。
さて、先ほど述べた「宗教の合理化」。
古代イスラエル人は「人格や意思を有する神」を崇拝するだけではなく、崇拝方法も合理的にしていった。
では、その「合理化」とは具体的に何を意味するのか。
「宗教の合理化」は「呪術からの脱却」という形で具体化されることになる。
この点、宗教と呪術は切っても切れない関係にある。
例えば、呪術というと「黒魔術」とか妖術師といったものを想定するかもしれない。
あるいは、五寸釘とか雨乞いとか。
しかし、宗教学の範囲で見た場合は呪術の範囲はもっと広い。
例えば、神社で手を合わせて神様に大学合格や安産などを祈る。
このような「神に対してよい結果をもたらすようお願いすること」も呪術である。
と、このような結論を示すと「呪術が伴わない宗教なんかあるのか」と疑問に思うかもしれない。
しかし、本来の宗教は呪術は厳禁である。
そのことは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教などの啓典宗教はもちろん、儒教や仏教も例外ではない。
その点について日本人がピンとこないのは、日本がその意味で呪術の園だからである。
そこで、呪術の決別と宗教の合理性について深く見てみる。
この点、まっとうな宗教は呪術を嫌う。
そのことを理解することがイスラム教をはじめとする宗教を理解する大事な鍵である。
では、ここで述べる「呪術」とは何か。
簡単に述べると、呪術とは「人間が神を操ること」をいう。
この点、ユダヤ教の「十戒」に関する部分をウィキソースから引用する(リンク元は上と同じ)。
(以下、『口語訳旧約聖書』の『出エジプト記』の第20章の第2節から第17節まで引用、節番号は省略し、改行によって対応、強調は私の手による、また、強調した部分が十戒の条項である)
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
あなたは殺してはならない。
あなたは姦淫してはならない。
あなたは盗んではならない。
あなたは隣人について、偽証してはならない。
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。
(引用終了)
この十戒のうち、日本人にとってピンとこないのが、3つ目の「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。」である。
何故、神の名前を述べることがダメなのか。
この規定は他の九か条と同様、重要な規定であり、形式的なものではない。
とすれば、逆に、「神の名前を述べることに重要な意味がある」ことになる。
では、神の名前を述べることにどんな意味があるのか?
この点を理解することで呪術の意味が理解できると考えられる。
古代イスラエルの神は自分の名前を明かすのを嫌う。
そのことは、神がモーセに対してエジプトに行ってイスラエルの民を救ってくるように命じた際にもみることができる(『出エジプト記』の第3章)。
最初、神はモーセに対して「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(訳は上のウィキソースより、「出エジプト記」の第3章第6節)と名乗るが、本名を明かさない。
モーセも、エジプトにいるイスラエルの民から「その神の名前は何というのですか?」と質問されて答えられないのも困るので、神の名前を頂戴しようとする。
そうすると、神は「わたしは、『有って有る者』」と返答したりしている。
まあ、神は最終的に自分の本名(ヤハウェ)を明かすわけだが。
もちろん、他にもエピソードがある。
例えば、アブラハムの子孫にしてイスラエルの直接の先祖にあたるヤコブとのやり取りでもそのような傾向を見ることができる。
ヤコブは神と格闘して、神を負かす。
そして、彼は神に「どうかあなたの名前を教えてください。」と尋ねるのだが、神は「なぜ私の名前が知りたいのか。」と言って、本名を教えなかった(『創世記』の第32章)。
では、何故十戒では神の名前を唱えるのを禁じたのか。
それは、「人間が神の名前を唱えることが呪術に、神を操ることにつながるから」である。
例えば、先ほどの神にお祈りをして願いをかなえる例を考える。
神の名前(願いをかなえてほしい人の名前)を述べ、願い事を言い、所定の行為(祝詞を唱える、いけにえを捧げるなど)を行う。
その結果、神がそのお願いをかなえる。
このルーチンワークを見ると、神の名前を呼ぶことは「願いをかなえたい人が神を操って願い事を実現する手段」の出発点にあたる。
これが「神の名を呼ぶことが呪術につながる」の意味である。
呪術の本質は神をして人間の思い通りの行為をなさせしむることだと述べた。
そして、古来から神を操るための手段として、祝詞だの護摩壇だの生贄などの手段が開発されてきた。
こうした呪術を知っている人間を魔術師などと言ったわけだが、こうやってみれば古代の宗教の神官も似たようなものである。
これらの神官たちは「自分は神のしもべである」といった風な顔をしているが、彼らが重用されるのは人間の都合にあわせて神を操る方法を知っているからである。
もちろん、人の願いを実現するのは神であって神官ではないとしても。
その意味で、古代宗教の神官とは神と交流・会話する存在ではなく、神を操る存在といえる。
この点、このような呪術は世界中にあり、古代エジプトに限った話ではない。
その意味で宗教と呪術は密接な関係がある。
人間のわがままさを考慮すれば、これはしょうがない。
ただ、倫理的な宗教者はこのような呪術を嫌い、なんとか追放しようとする。
この点を仏教を通じてみてみる。
法前仏後で構成される仏教の世界では釈迦といえども世の法則を覆すことはできない。
とすれば、仏や操る、あるいは、法則をねじまげる呪術といったものが存在する余地はないように思える。
しかし、神通力なるものは存在する。
これはテレパシー、未来予知といった超能力のようなものである。
この点、釈迦はこの神通力を持っていた、と言われている。
しかし、釈迦自身は神通力の開発を奨励しなかった。
というのも、神通力は修行をすれば自然と備わると考えられていたところ、神通力の取得を目的とするのは本末転倒になってしまうからである。
もっとも、この釈迦の精神は仏教の普及とともに廃れていく。
本来、仏教では悟りを得るためには出家をしてサンガに入り、修行をする必要があった。
しかし、仏教が広がり、多数の在家信者が生まれることで、「出家しないで悟りを得る方法はないか」という要求が高まることになる。
その結果、生まれたのが大乗仏教である。
そして、仏教の広がりと仏教の大衆化は呪術の発達を促した。
仏や菩薩を動かして人間の願いをかなえる方法が開発されるようになったのである。
その一方で、仏教の普及に神通力を用いるといったことも行われるようになる。
このような宗教に対する呪術の進入は仏教に限った話ではない。
例えば、儒教についてみてみる。
集団救済を想定する儒教でも呪術の出番はない。
このことは、顔回が病に倒れたときに孔子が何もしなかった、つまり、天に対して何もしなかったことからもわかる。
もちろん、他にもエピソードはある。
儒教においては正しい政治を行うことで集団が救済され、その結果、個人が救済されると考える。
その意味で呪術に頼ることに意味がない。
しかし、儒教も時代を経るにつれ、呪術的要素が混入する。
その過程を経て生まれたものの一つに「陰陽道」がある。
このように仏教も儒教も呪術による進入を免れることができなかった。
そもそも、人間の本性から考慮すれば、宗教が呪術の園になるのは不可避的である。
そのことは山本七平がいうところの日本の「雨」を見ればわかるかもしれない。
しかし、古代イスラエル人は呪術への傾斜を徹底的に拒否し、宗教の合理化への道をまい進することになる。
もちろん、その過程に紆余曲折があるとしても。
つまり、神が絶対にして万能であるならば、人間に神が操れるわけがない。
もし、人間が神を操れるなら、むしろその神のレベルはたかがしれている。
そのように考えたのである。
イスラエルの神が自分の名前をいうのを嫌った理由はこのことが背景になっている。
つまり、イスラエルの民が自分の名前を呼び、自分の操ろうとすることを警戒した、嫌った、というわけである。
まあ、絶対の能力を持つ神なら名前を教えたくらいで操られるわけないと考えそうなものではあるが。
このことで「神を名をみだりに呼ぶこと」を禁止した理由も見える。
「神に願い事をして、その願いを聞いてくれる」と考え、また、お願いをすることは不合理な行為である。
というのも、「神に願い事をして、その願いを聞いてくれる」と考えることは「神が人間ごときに動かされること」を意味し、「神は万能・絶対である」ということと両立しないから。
このように徹底して合理的に考えていくことで、呪術を追放していった。
その結果、普通の宗教とは逆の方向に進んでいったのである。
そして、この発想が当時ちっぽけだったイスラエルの宗教が世界を変えた秘訣でもある。
以上がマックス・ウェーバーの主張である。
うーむ、参考になった。
しかし、こう見ると、日本教のモデルタイプは古代イスラエルの宗教のモデルタイプと真逆に位置するように見えなくもない。
合理化を徹底したのが古代イスラエルの宗教なら、不合理を徹底したのが日本教というか。
この妄想(仮説というにもおこがましい超適当な私の思い付き)、暇があったら考えてみたい。
では、今回はこの辺で。