薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『数学嫌いな人のための数学』を読む 2

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

2 第1章の第1節を読む(前編)

 まずは、第1章である。

 第1章のタイトルは「数学の論理と源泉_古代宗教から生まれた数学の論理」

 また、第1章の扉絵に登場する人間は数学者ガウスである

 

 この点、大学に入るまでの私はいわゆる高校数学、ないし、受験数学においてトップ2シグマに入るレベルであった(でなければ、東大S1に入れない)。

 しかし、数学の歴史についてはほとんど知らなかった

 

 確かに、数学を道具として使いこなす場合、数学史・数学者について知る必要はない。

 しかし、全員が最先端の数学を使いこなすわけではないのだから、より教えるべきは数学史や数学者ではないのか。

 ふと、そんなことを考えた。

 まあ、現段階の義務教育にそれを入れたところで、教え方があれでは意味がないどころか、数学嫌い・歴史嫌いを量産することになりそうなので、現段階でそれを主張していく気はないけれども。

 

 話がそれた。

 元に戻そう。

 

 そして、今回見ていく第1節のタイトルは「神は存在するのか、存在しないのか」

「数学は神の論理である」という冒頭の言葉を引き継ぐ展開となっている。

 

 

 本書で著者(小室直樹先生)は言う。

 代数学は優れた論理学を作ったギリシャから始まった

 しかし、形式論理学と宗教をリンクさせたのは古代のイスラエル人である、と。

 

 数学の話がいきなり宗教へ飛んだ。

 数学と宗教というと、かなりスケールが飛んだ話に見える。

 もっとも、このスケールの広さこそ本書の特徴であるから、このスケールに耐えられないとこの本は読めないだろう

 

『日本人のためのイスラム原論』で見てきたが、ユダヤ教古代イスラエル人の宗教)は「人格を持つ1つの絶対神を仰ぐ宗教」という意味で特異的であった。

 そして、このユダヤ教キリスト教イスラム教をも産み出す土壌になる。

 この辺は次のメモにある通りである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 さて、ギリシャが作った形式論理学と数学を、古代のイスラエル人が思想と宗教に応用させた。

 というのも、古代イスラエル人の宗教的かつ重要な疑問が「神は存在するのか、存在しないのか」であり、その疑問を解決する手段として古代ギリシャ人が遺した「存在問題」を活用したからである。

 

 本書では「こんなことを断言すれば、読者は驚くに違いない」という趣旨のことが書いてあるが、小室先生の本を何冊も読んでいると「ああ、(また)あの話か」ということですんなり入る。

 その辺の話は上のメモで見てきたので、細かい話は割愛する。

 

 

 本書では、ここからユダヤ教の「神」についての説明に移る。

 従前のメモと重複するので、要旨を箇条書きにすると次の通りになる。

 

・当時のメジャーな宗教、自然由来(太陽神など)・変化(成長や死)がある

古代イスラエルの宗教、人格あり・絶対的な支配力を持ち続ける(変化なし)

 

 自然・環境が上か(当時のメジャーな宗教、いわゆる「法前仏後」)、あるいは、下か(イスラエルの宗教、いわゆる「神前法後」)という観点から見れば対照的である。

 ちなみに、日本教や仏教は自然・環境が上になると考えられる一方、キリスト教イスラム教は自然・環境が下になるため、この点でも対照的と言える。

 

 もっとも、自然由来でないと考えたためであろうか、「神は存在するのか」という問題がより重要になる。

 そこで、古代イスラエル人は「神の存在証明」に取り組むことになる。

 

 

 ところで、古代イスラエルの世界において、神が人に対して最も強く言うべきことは「私は存在する」ということであった

 このことを示すのが、神の「私はあってある者」という自己紹介である。

 ここで、旧約聖書からモーセが神の名を尋ねた際のやりとりを確認する。

 

(以下、旧約聖書出エジプト記(口語訳)の第3章第13節から第15節を引用、節番号省略、強調は私の手による、具体的なリンク先は次のとおり)

 モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。

 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

 神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。

(引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 まあ、存在しないものは無視されるし、崇められることも期待できないから、当然のこととも言いうるが。

 

 次に重要なものが、「神と人民の契約(律法)」である。

 人民は契約を遵守しなければならない。

 また、契約は遵守されたのか、遵守されなかったのかが明確でなければならない。

 というのも、遵守されなかった場合、神罰によって民族皆殺しの運命にあうからである。

 この点を示すのが、ノアの洪水(『創世記』の第6章~第9章)であり、ゾドムとゴモラの悲劇(『創世記』の第18章~第19章)である。

 その結果、古代のイスラエル人は思考を論理に向けることになる。

 そして、数学のための論理(形式論理学)を産み出すことになる。

 

 

 以下、数学とその背後にある論理を会得するために、古代イスラエル人の宗教をみていく。

 次に、イスラエルの宗教が古代ギリシャの論理と同じものに収束するさまをみていく。

 というのも、数学において重要なものは「論理」だからである

 この点は、数式をいじくりまわして遊んでいる日本教徒にはわかりにくいかもしれないが。

 

 この点、「論理」という文字は漢字でできているが、この言葉は西洋からきている

 英語で「論理」いうところの「ロジック(logic)」の語源はロゴス(logos)である。

 ロゴスと言えば、「はじめにロゴスあり」という『ヨハネによる福音書』を想像するかもしれないが、そのロゴスである。

 

 ところで、この「論理」とは論争のための道具・手段である。

 では、誰と論争するのか。

 日本教徒であれば、「相手は他人でしょう」と考えるかもしれない。

 しかし、究極的にはこの論争の相手は「神」である。

 つまり、ここで想定しているのは「神と人との論争」ということになる。

 

 この点、日本教徒が「神を相手に論争をする」と考えると腰をぬかすかもしれない。

 しかし、古代イスラエルの宗教は「神との論争」を軸にして展開する

 

 この点、(ユダヤ教の)神は、当時のイスラエルの首長だったアブラム(後のアブラハム)に語り掛ける。

 神に忠実だったアブラハムは神の言葉通りに実行した。

 その言葉がどんなに不合理であっても(例えば、『創世記』の第22章)。

 

 この点、アブラハムは神の僕として模範的な存在であった。

 後のイスラエル人がアブラハムを模範としていれば、問題は起きなかっただろう。

 しかし、歴史は逆の方向に進む。

 つまり、イスラエルの人々は神に反抗し、神の言葉に抗い、抵抗する

 これに対して、神も人間の言い分に反論し、あるいは、新しい命令を出す。

 かくして、神と人間との論争が発生することになった

 

 

 この点、神のメッセンジャーになったのが「預言者」である

 預言者として著名なのが『出エジプト記』のモーセである。

 神のメッセンジャーである預言者この預言者の重要な仕事は神との論争である

 

 また、神との論争で有名なのが『ヨブ記』である

 神に対する信仰の篤いヨブだったが、このヨブにあらゆる苦難が襲う。

 その結果、ヨブは神に論争を挑むことになる。

 このヨブと神の論争を「私釈三国志」風にまとめると次のようになる。

 

(ヨブ)おお、神よ。何故、神は私に危難を与えたのですか?私の何がお気に召さないのですか。その様はまるでオオカミではないですか。

(神)お前の「神を信仰すれば、神は信仰した人間を報いなければならない」という考え方だ。神はお前らの考え・想像に縛られる存在ではない。そのことが分からなかったことがお前の罪だ。

 

「神と人間との契約(人民は契約を守る。神は人民を守護する)」を軸に考えた場合、ヨブと神のやりとりにおける神の主張は契約を反故にしているように見える。

 その意味で神はヨブを論破したとは言えず、強権を発動して黙らせた、とも言える。

 

 ところで、神とヨブとの論争。

 このような「神と人との論争」はヨブだけではない。

 預言者モーセもしっかり論争している。

 また、預言者エレミヤと神との論争は預言者の苦悩を示してやまない。

 

 以下、モーセが行った神との論争、その反面としての、民へ説得について『出エジプト記』からみてみる。

 

 この点、神から言葉と杖を受け取ったモーセがファラオ(エジプト王)に奇蹟を見せつけ、イスラエルの民の解放に成功する。

 しかし、ファラオはそのことを後悔して、軍隊を用いてイスラエルの民を追撃する。

 イスラエルの民は徒歩、エジプト軍は戦車、その移動力の差は甚大である。

 このとき神はモーセをして紅海を割ってイスラエルの民を救うとともに、エジプト軍を海の藻屑にした。

 このときの神・モーセイスラエルの民のやりとりを旧約聖書で確認しよう。

 

(以下、口語訳旧約聖書の『出エジプト記』の第14章の第10節から第18節までを引用、節番号は省略、強調は私の手による)

 パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、

 かつモーセに言った、「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。

 わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」

 モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。

 主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。

 主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのかイスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。

 あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。

 わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。

 わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。

(引用終了)

 

 興味深いのは、民が「エジプトで死んだ方がマシだ」不平を述べていること、モーセが民を説得していること、また、神もモーセに命令を下していることである。

 なお、エジプト脱出の結果について旧約聖書ではこのように書かれている。

 

(以下、口語訳旧約聖書の『出エジプト記』の第14章第31節を引用、節番号は省略)

 イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた。

(引用終了)

 

 さて、エジプト脱出を通じてモーセと神の奇蹟を見せつけられたイスラエルの民

 しかし、神(ヤハウェ)とイスラエルの民との摩擦はまだまだ続く。

 モーセの胃は悲鳴(!)を上げる一方。

 その辺の記載を旧約聖書から確認しよう。

 

(以下、口語訳旧約聖書の『出エジプト記』の第16章の第1節から第16節までを引用、節番号は省略、強調は私の手による)

 イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、

 その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。

 イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」

 そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。

 六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」

 モーセとアロンは、イスラエルのすべての人々に言った、「夕暮には、あなたがたは、エジプトの地からあなたがたを導き出されたのが、主であることを知るであろう。

 また、朝には、あなたがたは主の栄光を見るであろう。主はあなたがたが主にむかってつぶやくのを聞かれたからである。あなたがたは、いったいわれわれを何者として、われわれにむかってつぶやくのか」。

 モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」。

 モーセはアロンに言った、「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたは主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたからである』と」。

 それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。

 主はモーセに言われた、

「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。

 夕べになると、うずらが飛んできて宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周囲に露が降りた。

 その降りた露がかわくと、荒野の面には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった。

 イスラエルの人々はそれを見て互に言った、「これはなんであろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。

 主が命じられるのはこうである、『あなたがたは、おのおのその食べるところに従ってそれを集め、あなたがたの人数に従って、ひとり一オメルずつ、おのおのその天幕におるもののためにそれを取りなさい』と」。

(引用終了)

 

 荒野をさまようイスラエルの民たちはモーセと神に苦情を述べる。

 これに対して、神は天からパンを降らせ、または、鶉を恵むことによって論争はやんだ。

 

 もっとも、話はこれで終わらない。

 荒野からレビディムに宿営したイスラエルの民は「水がない」ということで神に論争を挑む

 それに対して、神はモーセを通じてイスラエルの民に水を恵む。

 

(以下、口語訳旧約聖書の『出エジプト記』の第17章の第1節から第6節まで引用、節番号は省略、強調は私の手による)

 イスラエルの人々の全会衆は、主の命に従って、シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、レピデムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった。

 それで、民はモーセと争って言った、「わたしたちに飲む水をください」。モーセは彼らに言った、「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」。

 民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」

 このときモーセは主に叫んで言った、「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」。

 主はモーセに言われた、「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。

 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。モーセイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。

(引用終了)

 

 このように神(+モーセ)とイスラエルの民の関係は緊張の連続である。

 しかし、この段階における神(+預言者)とイスラエルの民の関係を知っておくことは重要である

 

 

出エジプト記』の話はここから「十戒」に移る。

 だが、ちょっと長くなりすぎたので、今回はこの辺で。