薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『日本人のためのイスラム原論』を読む 10

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

10 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第1節」を読む(後編)

 前回と前々回は、古代ユダヤ教キリスト教における「神」のイメージを見てきた。

 今回からイスラム教における「神」のイメージをみていく。

 

 

 ユダヤ教キリスト教と異なり、イスラム教における神アッラーは寛大である。

 このことは、クルアーンが「神が慈悲深い」ことを強調していることからも明らかである。

 なお、クルアーンの冒頭については次のウィキペディアの記事が参考になるだろう。

 

ja.wikipedia.org

 

 

 もっとも、アッラーは、過去にモーセ(ムーサー)やイエス(イーサー)などの預言者を派遣した、また、アブラハム(イブラーヒーム)の前に現れた、とも述べている。

 つまり、ユダヤ教の神ヤハウェイスラム教の神アッラーは同じ、ということになる。

 そこで、従来の神のイメージとアッラーの違いに対する説明が必要になる。

 

 では、イスラム教はこの点をどう説明しているか。

 簡単に言えば、ユダヤ教徒キリスト教徒は『神』を誤解している」ということになる。

 

 つまり、「もし、神がユダヤ教徒キリスト教徒が考えているような恐ろしい存在・心の狭い存在・慈悲のない存在だとしたら、ソロモン(ダビデ王の息子)の『異教の神を祀った行為』に対して、ユダヤの民がゾドムやゴモラの民のような皆殺しの結末を迎えていないのは何故だ?」と考えるのである。

 この点、ソロモンの異教の神を祀った行為は十戒の冒頭にある第一条の「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」に抵触する(出エジプト記第20章・第3節、口語訳旧約聖書へのリンクは次の通り)。

 

ja.wikisource.org

 

 異教の神を祀る行為が一神教における大罪であることは言うまでもない。

 その結果、イスラエル王国は分裂し、滅亡した。

 また、イスラエルの民はバビロン捕囚やディアスポラなどの悲劇を味わうことになった。

 しかし、ユダヤ民族は健在である。

 ヨシュア記に出てくるカナンの先住民、創世記に出てくるゾドムやゴモラの結末と比較すれば、「異教の神を祀ったソロモン王の行為に対する処分」としてはかなり寛大である。

 なお、ゾドムとゴモラ偶像崇拝の罪を犯したわけではないのに皆殺しの憂き目にあっている。

 旧約聖書の記載だけではこの程度の処分で済んだ理由が説明できない。

 

 イスラム教ではその理由を「アッラーが慈悲深いから」と説明する。  

 つまり、アッラーは慈悲深い。だから、ユダヤ民族の数々の背信的行為に対して、皆殺しといった厳格な処分ではなく、王国の滅亡と民族離散といった寛大な処分で済ませている。にもかかわらず、それを異教徒たち(ユダヤ教徒キリスト教徒)は『神は恐ろしいもの』と誤解している」と説明するのである。

 まあ、これなら合理的な説明と言いうるし、十分に納得しうるものにはなっている。

 日本教天皇教などから見た場合、別の評価がありうるとしても。

 

 

 ここで、話は神の慈悲深さから教理の整合性・合理性について進む

 つまり、イスラム教はユダヤ教キリスト教と比べて教理の整合性・合理性が高い、という点に進む。

 もっとも、イスラム教はユダヤ教キリスト教の後に生まれた啓典宗教であることを考慮すれば、当然の結果とも言いうるが。

 

 例えば、マホメット預言者であるが、人間に過ぎないと規定した点。

 キリスト教ではイエス・キリストに関する議論が紛糾し、ローマ帝国の皇帝が二ケア公会議が開いた。

 その過程でキリスト教は「三位一体説」を採用していくことになる。

 ただし、二ケア公会議によって事態は収拾せず、その後、カルケドン公会議によって「三位一体説」を確認したことは第1章でみてきたとおりである。

 これに対して、イスラム教では「マホメットは『預言者』だが、人間に過ぎない」と規定し、このような問題が起きないようにしている。

 

 また、「悪魔」に関する扱い方もイスラム教の教義の整合性・合理性を示す根拠になる

 聖書にはいたるところに「悪魔」(サタン)が登場する。

 もちろん、イエス・キリストの前にも悪魔が出現した。

「ルカ福音書」の記載に従うと、悪魔はイエス・キリストに対して様々な誘惑を仕掛けるが、イエス・キリストは悪魔の誘惑を拒み続け、ついには、悪魔は退散する。

 また、イエス・キリストは伝道の途中で様々な奇蹟を起こす一方で、そのたびに「これは悪魔の力を借りたのではない」と釈明する。

 このようにたびたび聖書で登場する悪魔だが、ユダヤ教キリスト教ではこの悪魔の位置づけが曖昧である。

 

 この点、啓典宗教において神は造物主である。

 よって、悪魔も神が作ったことになる

 この場合、キリスト教のようにイエス・キリストが神であれば、「悪魔の力を借りたわけではない」などと釈明する必要はない。

「悪魔であっても所詮は神である私が作った物に過ぎない。神である私が悪魔を操って(命令して)、奇蹟を起こしてやったんだ」と言った方が論理的にすっきりするし、合理的でもある。

 しかし、その神が悪魔との関連性を否定するのは不可解である。

 また、聖書では神が作ったであろう悪魔が神に敵対する

 となれば、「何故、神はそのような悪魔を作ったのだ」ということになり、矛盾しているように見える。

 

 これに対して、イスラム教における悪魔の定義は明快である。

 イスラム教の悪魔は「神が『天使として作った物』が、なんらかの理由で神に罰された結果生まれた者」ということになる

 つまり、「悪魔は神が作った、かつ、悪魔は神に罰せられた。よって、人間は悪魔に近づいてはいけない」ということでこれまた明快な説明がある。

 もちろん、これに対して「では、神は全知全能であるにもかかわらず、結果的であるとはいえそのような失敗作をおつくりになられたのか?」と言いうるとしても。

 

 これまで悪魔の話をもってきたが、天使についても同様である

 ユダヤ教キリスト教では天使について判然としない。

 また、宗教改革の際にルターが天使に関する記載があったものを外典として追放した。

 その結果、天使とは「なんとなく存在していたもの」、「さまざまな傍証から神の召使と推定されたもの」であった。

 他方、イスラム教では天使とは神に仕える清浄な霊であり、六信のうちの二つ目(天使、マラク)になっている

 

 もちろん、後発性を考慮すれば、「そりゃそうだよね」という感想を持つとしても。

 

 

 ところで、ユダヤ教キリスト教と異なり、イスラム教におけるアッラーは慈悲深い神である点が大きく異なることを述べた。

 そのことは「異教徒に対する態度」に現れている。

 

 既に述べた通り、クルアーンでは「宗教に強制なし」と述べている部分がある(クルアーン第2章)。

 特に、啓典の民であるキリスト教徒やユダヤ教徒に対してはより寛大だった。

 少なくても「異教徒は人ではない。むしろ、虐殺することが正義にかなう」といったレベルからかけ離れていることは明らかである。

 

 本書では、歴史的観点からキリスト教徒に対する寛容性を裏付ける事実を二つ挙げている。

 

 一つ目は1453年、コンスタンティノープル(現イスタンブル)の陥落による東ローマ帝国ビザンティン帝国)の滅亡。

 十字軍による一時的な陥落はあったものの約1000年以上続いた東ローマ帝国の滅亡、また、正教会の本拠地であるコンスタンティノープルの陥落がヨーロッパに与えた衝撃は大きかった。

 もっとも、オスマン帝国コンスタンティノープル陥落後もギリシア正教の存続を許した。

 また、キリスト教徒の信仰・教会の自治権も一定の条件付きで認めた。

 現在でもコンスタンティノープル教会は存続しており、正教会の席次においては筆頭の地位を占めている。

 

 

 もう一つの例として書かれているのがコプト教の例である。

 コプト教は三位一体説の解釈において「イエス・キリストは人であり、かつ、神である。ただし、バランスを見れば神性が人性を圧倒している」と考える。

 この発想は三位一体説と矛盾するわけではない。

 この点は「イエス・キリストは偉大なる人ではあるが、神ではない」と述べ、イエス・キリスト教の神性を否定したために異端として排除されたアリウス派と異なる。

 しかし、コプト教会はカルケドン公会議をきっかけに孤立し、一時はエジプト教会からも追放された。

 このまま何事もなければコプト教会は歴史の中に埋没していたことであろう。

 もっとも、イスラム帝国アレクサンドリア征服によって流れが変わる。

 イスラム帝国コプト教アレキサンドリア帰還を許可したのである。

 

 コプト教会の教えはイスラム教の「イエス(イーサー)は預言者であるが、神ではない(人に過ぎない)」という発想からすれば大違いである。

 この点については、異端として排除されたアリウス派の発想の方がイスラム教の教えに近い。

 しかし、当時のイスラム帝国コプト教の存続を許した。

 その後、コプト教はエジプトを中心に活動している。

 

 もちろん、歴史を見れば、逆の例も大いに存在するだろう。

 それでも、カナンの例や大航海時代以後に新大陸やアジア・アフリカで行ったキリスト教徒(カトリックプロテスタント)の行為と比較すれば、その差はある程度明らかである。

 そのことは本書の次の話題によって補強される。

 

 

 話題はここからイスラム教からキリスト教に移る。

 これらのイスラム教の態度に対してキリスト教はどのように応えたか。

 これまでの記載、あるいは、17世紀にヨーロッパ内で起きたプロテスタントカトリックの抗争などを見れば、答えは想像のとおりである。

 

 本書ではその例を二つ挙げている。

 一つ目は十字軍である。

 この十字軍はセルジューク・トルコに対して劣勢となっていた東ローマ帝国カトリック教会に援助を求めることで始まった。

 東ローマ帝国の援助に対してカトリック教会は聖地エルサレムの奪還をもくろみ、十字軍を編成することになる。

 この十字軍の一行、または、聖地エルサレム奪還の熱狂に推されて立ち上がったキリスト教徒がやらかしたことは、このメモでは「まあ、お察しのとおりである」と述べるにとどめる。

 本書では、「宗教に名を借りた『ならず者集団』だったと理解した方が、ずっと実態に近い」とまで酷評されている。

 

 これに対して、イスラム側はどうだったか。

 第1回十字軍が編成されたころ、アラビア社会はセルジューク朝が分裂し、相互に争っていた。

 そのため、イスラム社会は大同団結することができず、領主の中には十字軍に降伏・味方する者もいた(まあ、侵攻してきたならず者集団に領土と領民を蹂躙されるよりもマシな道を選んだ、とも言える)。

 その後、十字軍に対する反撃において主導的な役割を果たすのが、サラーフッディーンサラディン)である。

 このイスラム社会の英雄は、第1回十字軍侵攻時にエルサレムを領有していたファーティマ朝(エジプト中心のイスラム王朝)の宰相であり、後のアイユーブ朝の君主である。

 サラーフッディーンエルサレムを奪回、第3回十字軍ではリチャード1世の攻撃に耐え、守り抜いている。

 その態度はヨーロッパ人を驚嘆せしめ、12世紀に戴冠したドイツ王に対してとある詩人がサラーフッディーンの言葉を引用したと言われている。

 また、捕虜の取り扱いも公平であった。

 たびたび休戦協定を破った者(ルノー・ド・シャティヨン)は容赦なく斬首しているものの、捕虜だからといって直ちに処刑するといったことはなかった。

 総てのイスラム教徒がこのような紳士的態度だったかはさておくとしても、両者の違いは雲泥の差である。

 

 十字軍の話はこの辺としよう。

 本書で取り上げられているもう一つの例がイベリア半島(スペイン)でなされた異端審問(宗教裁判)である。

 

 まず、本書に記載がないイベリア半島の歴史を確認する。

 イベリア半島キリスト教西ゴート王国が支配していた。

 その後、ウマイヤ朝の時代にイスラム教勢力に征服される。

 もっとも、11世紀のコルドバウマイヤ朝の滅亡により、それまでのイスラム教とキリスト教のバランスが崩れる。

 そして、13世紀にはグラナダ王国を除いてイスラム教の王国は駆逐され、1492年にはグラナダ王国も滅亡する。

 

 この点、イスラム教がキリスト教に寛容だった点はイベリア半島でも同様であった。

 無論、人頭税といった負担や社会的な差別があったことは否定できないとしても。

 もっとも、イスラム教に改宗した人間は少なくなく、レコンキスタが終了した後もイベリア半島にはグラナダを中心にイスラム教徒が残留していた。

 また、レコンキスタが完了するまではユダヤ教徒イスラム教徒に対して寛容であった。

 以上、歴史の確認終了。

 

 しかし、レコンキスタの終了、スペイン王国の成立などによりイベリア半島にとってイスラム教徒の運命は大きく暗転する。

 スペイン王国は、改宗か国外退去を迫るようになる。

 それに対して、ムスリムは表面上の改宗でしのごうとする。

 しかし、隠れキリシタンは不可能でなくても、隠れムスリムというのは不可能である。

 何故なら、クルアーンには様々な行動規範があるので、メッカに向かって礼拝していることを見つかれば直ちにばれてしまうから。

 さらに、本書に記載されていないが、スペインは17世紀に隠れムスリムことモリスコを国外追放している。

 

 この辺の話も、新大陸でスペインがしてきたことを見れば「お察しのとおり」と言うしかない。

 

 

 もちろん、「イスラム教が異教徒に寛容である」といっても、近代社会のような「信教の自由」があるわけではない。

 また、異教徒に対して人頭税が課せられていたこと、社会的な区別ないし差別があったのは事実である(もっとも、イスラム教徒には喜捨の義務があった)。

 さらに、後述する通り「寛容だ」といっても限度がある。

 

 しかし、日本やヨーロッパに流布されているイメージの中では「イスラム教の持つ寛容性」は全く見られないと言ってよい。

 本書では、「コーランか、剣か」を参照しながらその点を紹介している。

 

 著者は「コーランか、剣か」というイメージにまつわる有名な話としてイスラム教徒は剣とクルアーンを引っ提げて、全世界を荒らしまわった。被征服者に剣を突きつけて、『クルアーンを信じなければ殺す』と脅かした」という話からこんなことを述べている。

 この話が正しければ、そのイスラム教徒は両手にクルアーンと剣を携えていたことになる。

 では、クルアーンをどちらの手で持っていたのか

 左手にクルアーン、右手に剣を持っていた場合、イスラム教徒にとって不浄の手でクルアーンを持っていたことになるが、これはイスラム教徒としてあるまじき行為ではないか。

 逆に、右手にクルアーンを持ち、左手に剣を持っていたなら、イスラム教徒はみな左利きになるように訓練していたことになるが、戦争という高い合理性が要求されるところでそんな不合理なことをするのか、と。

 まあ、右手、左手云々は冗談であるし、これを論破することはそれほど難しくないとしても(右手で剣を持ち、コーランは背に担いでいたその他)。

 

 

 もちろん、イスラム教が異教徒に対して寛容だ」といったところで限度はある

 そして、イスラム教が絶対許さないものとして「偶像崇拝」がある

 もちろん、ユダヤ教でも偶像崇拝は宗教的大罪である。

 このことはヤハウェモーセに与えた十戒において偶像を拝むことを禁止していることからも明らかである。

 

(以下、ウィキソース出エジプト記第20章の第4節から第6節まで引用、節番号は省略、文毎に改行、ウィキソースのリンクは次の通り)

 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。

 上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

 それにひれ伏してはならない。

 それに仕えてはならない。

 あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

(引用終了)

 

ja.wikisource.org

 

 よって、古代イスラエル王国でイスラエル人はモーセ十戒を刻んだ石を運んだ箱(聖櫃)を神殿において、それに頭を下げた。

 この点はイスラム教徒も同様であり、イスラム教の聖地、メッカのカーバ神殿に安置されているのは聖なる黒石である。

 ちなみに、クルアーンによると、カーバ神殿を作ったのはアブラハム(イブラーヒーム)とその庶子であるイシュマエル(イスマーイール)であると言われている。

 このイシュマエルの子孫がアラブ人とされている。

 

 

 ちなみに、キリスト教ユダヤ教イスラム教と同じ啓典宗教である。

 しかし、偶像崇拝に対する規範意識が弱い。

 それが証拠に、キリスト教ではイエス・キリストの像や聖母マリアの像があり、それに頭を下げていた。

 これが偶像崇拝にあたることは言うまでもない。

 

 この偶像崇拝を嘆いたのが、宗教改革において大活躍した神学者ジャン・カルヴァンである。

 カルヴァンは「聖書に戻れ」と主張して、各地のイエス像やマリア像などの偶像を破壊していくが、いつの間にか尻すぼみになってしまった。

 このカルヴァンの行為は日本社会から見れば文化財破壊運動であり、過激な行為に見える。

 しかし、聖書から考えれば筋は通っている。

 特に、イスラム教では偶像崇拝は徹底しており、神の像はおろか、マホメットの図画・像を作ることさえ禁じている。

 その点は他人や異教徒に対しても容赦がない。

 

 本書では、タリバン政権によるバーミヤン石仏の破壊の事件について触れている。

 この点、文化財の破壊としてみた場合、タリバン政権の行為に対して非難することは十分可能である。

 また、財産権不可侵その他のロジックによって非難することも不可能ではない。

 しかし、タリバン政権から見た場合、石仏を拝んでいる仏教徒に対して、仏教徒がすべきことは『修行による解脱』であり、仏像などといった『ただの石くれ』を拝む必要はないし、むしろ、解脱から遠のくのではないか」などと反論されることにはなろう。

 これに対してどう再反論するのか、あるいは、行動するのか。

 感情的な反発が生じることは十分あり得るし、それは当然である。

 しかし、感情的な反発だけで終えるのであれば、イスラム教に対する理解もイスラム教徒との交流も不可能である。

 もちろん、理解することとそれに対してどう行動するかは全部別問題である

 また、理解する気がない、交流する気がないというのであれば、構わないとも言いうるが。

 

 

 ところで。

 クルアーンには「聖戦(ジハード)」という言葉がある。

 また、イスラム教では、イスラム教の国家を「イスラムの家」、それ以外の地域を「戦争と家」と区別し、「イスラム教徒は戦争の家をイスラムの家に変える努力をしなければならない。それが聖戦の義務である」としている。

 しかし、これまでの歴史を見る限り、イスラム教は「ただひたすら好戦的な宗教」ではない

 また、イスラム教を奉じるイスラム社会が現在押されているキリスト教社会に反撃し、余勢をかってアジア(インド圏・中華圏・日本)に進出したとき、必ずしもアジア圏において大航海時代の新大陸や19世紀のアジアで起きた惨劇が再来するわけではない。

 その意味で、世間のイメージと歴史との間には乖離がある。

 

 もっとも、それは「これまでの傾向」であって、ヨーロッパの侵略に懲りたイスラム社会が方針を調整することはありうる。

 さらに、イスラム社会の指導者によっては例外的に逆のことが起こることもある。

 それゆえ、無警戒でいいということにはならない。

 

 さらに、これまで見てきたように寛容性の基準が違うだけで、「無条件で寛容」というわけではない。

 この点は、日本における八百万の神々とは態度が異なる。

 そして、現在、イスラム社会から自爆テロのようなことをする人間も出てきている

 これらを見て、「信者に対して自爆テロのような殉教を勧めるアッラーは本当に慈悲深いのか?」と疑問が生じることは無理からぬことである。

 

 これに対する回答は「『殉教(自爆テロ)』と『異教に対する寛容』は矛盾しない」となる。

 ただ、これについて理解するためには、イスラム教における「救済」について理解しなければならない。

 そこで、次節からイスラム教・ユダヤ教キリスト教などにおける「救済」についてみていく。

 

 

 以上が、第2章第1節のお話である。

 うーむ、参考になった。

 

 ふと、イスラム教政権による石仏破壊の話題が出たので、少々気になった思考実験を。

 もちろん、これは本書に書いていない私の個人的感想(意見でさえない)である。

 

 現実ではイスラム社会と日本社会の接点は極めて少ない。

 地政学的にも距離がだいぶ隔てられている。

 しかし、仮に、日本教に拠る日本社会がイスラム社会の間近にあった場合はどうだろう。

 仮に、日本社会がイスラム社会に敵対しなかったとしても、イスラム社会が日本社会に対してその寛容性が発揮されただろうか?

 偶像崇拝に対する彼らの態度を見ると正直分からないところである。