今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
20 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第1節を読む」(中編)
前回はイスラム教社会の勢力圏の広さについてみてきた。
今回はイスラム教社会が世界もたらした文化的遺産についてみていく。
まず、本書では、ギリシャ文明とローマ文明の遺産の保護に関するイスラム教社会の功績について触れられている。
つまり、イタリアのルネッサンスは散逸していたギリシャの古典を収集したイスラム教社会のおかげである、と。
以下、イタリアのルネッサンスに至るまでのギリシャ文化の保護についてみていく。
まず、ギリシャが衰退した後、ギリシャの文化的遺産を引き継いだのはローマ帝国であった。
この点、ローマ帝国の公用語はラテン語ではなくギリシャ語であった。
ローマの上流階級ではその子弟にギリシャ語を叩き込んでいたし、ギリシャ語の読み書きができなければ、まともなインテリとはみなされなかった。
もっとも、西ローマ帝国が滅んだ後、ギリシャ文化の遺産はローマからイスラム帝国に移る。
その理由は、西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン人たちがギリシャ文化にあまり価値を見出さなかったこと、また、西ヨーロッパに君臨したカトリック教会もギリシャ文化にさほど関心を払わなったことにある。
この点、ヨーロッパ文明はヘレニズム(ギリシャ文明)とヘブライズム(ユダヤ教・キリスト教)が組み合わさったもの、と言われている。
例えば、ギリシャの「霊肉二元論」はキリスト教やユダヤ教とは無縁であり、キリスト教に流入してきて力を持つのは何世紀も経過してからである。
ところで、ローマ帝国という強大な保護者を失ったギリシャの文化。
このギリシャの文化・思想を保護したのが、アッバース朝のカリフたちである。
「ギリシャ語は知恵の言葉である」というスローガンを打ち立て、散逸していたギリシャ文化の古典の収集と研究を行っていった。
この点に熱心だったカリフが、第五代カリフのアル・ラシードと第七代アル・マームーンであった。
特に、マームーンは「知恵の館」というギリシャ文化の研究施設を作り、組織的にギリシャの古典をアラビア語に編訳していった。
この点、ギリシャ文化の熱心な研究の背景にはイスラム教がある。
というのも、預言者マホメットは学問の重要性を認識しており、イスラム教徒に対して学問を奨励していたからである。
かくして、ギリシャの医学・哲学・天文学・地理学・数学の書物が「知恵の館」に集められ、アラビア語に翻訳された。
そして、アリストテレス・プラトン・プトレマイオス・ユークリッド・アルキメデスなどの書物が読めるようになった。
それに伴い、アラブの学問のレベルがアップし、多数の優れた学者を生み出すことになる。
このことは、現代我々が用いているアラビア数字、「代数学」という表現などに現れている。
また、天文学も高度に発展し、イスラム教の学者たちは実測その他を通じて地球が自転する球体であることを知っていた。
例えば、14世紀の自然哲学者コル・オレームは地球回転説を受け容れて地球の回転運動を計算しているし、15世紀の歴史家・哲学者のイブン・ハルドゥーンは「地球は球形である」と述べている。
このような地動説が自由に語ることができるのもイスラム教ならではである。
というのも、イスラム教ではクルアーンその他を否定しない限りは学問の自由があった。
そして、クルアーンには地動説や天動説に関する言及がない。
それゆえ、観測の結果、地球が丸いといったことが判明しても何ら不都合がないわけである。
このことは、カトリック教会のガリレオ・ガリレイに対する異端審問とは対照的である。
さらに、医学の発達も目を見張るものがあった。
当時のアラビアの医術はあまりに高度だったので、ヨーロッパ人をして「これは魔術ではないか」と思わしめた、と言われている。
これらの文化の発展の背後にギリシャ・ラテンの文化遺産の収集・保護があったことは言うまでもない。
また、イスラム教社会では聖書の研究が行われ、そのレベルは当時のキリスト教社会のそれを圧倒していた。
このことは、キリスト教が興った当時、この地を支配していたローマ帝国の公用語がギリシャ語であったことからみれば、当然である。
また、旧約聖書の方も「七十人訳」と呼ばれるギリシャ語聖書が編纂されていた。
しかし、時代が経るにつれてヨーロッパではギリシャ語が廃れていき、教養人であってもラテン語を読むのがせいぜいになり、聖書を原典で読む人間がめっきり減っていった。
これに対して、イスラム教社会はギリシャ語を読める人間は大量にいる。
また、イスラム教の最高啓典は「クルアーン」である一方、福音書・トーラーも以前の啓示として尊重されている。
さらに、クルアーンでは福音書・トーラーがしばしば引用されて、それらに対する「解釈」が述べられている。
つまり、クルアーンは最後の啓示であり、そこで述べられた聖書に対する解釈は「最終解釈」になるわけである。
例えば、パウロは「旧約聖書の楽園追放のエピソードを『人間の原罪の始まりにして根拠』と考え、それゆえに、神の救済を祈る(待つ)しかない」と考えた。
それに対して、クルアーンを下したアッラーは次のように述べている。
(以下、クルアーン第2章第35節から第39節までを引用、引用元は次のリンクの通り、節番号は省略し、各節ごとに改行する)
われは言った。「アーダムよ、あなたとあなたの妻とはこの園に住み、何処でも望む所で、思う存分食べなさい。だが、この木に近付いてはならない。不義を働く者となるであろうから。」
ところが悪魔〔シャイターン〕は、2人を躓かせ、かれらが置かれていた(幸福な)場所から離れさせた。われは、「あなたがたは落ちて行け。あなたがたは、互いに敵である。地上には、あなたがたのために住まいと、仮初の生活の生計があろう。」と言った。
その後、アーダムは、主から御言葉を授かり、主はかれの悔悟を許された。本当にかれは、寛大に許される慈悲深い御方であられる。
われは言った。「あなたがたは皆ここから落ちて行け。やがてあなたがたに必ずわれの導きが恵まれよう。そしてわれの導きに従う者は、恐れもなく憂いもないであろう。
だが信仰を拒否し、われの印を嘘呼ばわりする者は、業火の住人であって、永遠にその中に住むであろう。」
(引用終了)
つまり、アダムとイブは、悪魔(蛇)の唆しに乗せられて楽園から追放された(第2章の第35節と36節)。
しかし、クルアーンにはその後のエピソードがある(第2章の第37節以降)。
つまり、アダムは後悔し、悔悟の言葉を神に届けた。
それに対して、神はアダムらを楽園から追放したが、見放すことはしないことにした、という。
その証がクルアーンである、と。
そのため、イスラム教では「パウロの考えた原罪は存在しない」ということになる。
この点、キリスト教のような原罪を想定した場合、アダムを追放した後の神が人間を放置することなく、アブラハム・モーセ・イエスといった預言者を地上に派遣して啓示を与えた理由が説明できないが、このように考えれば話が通る。
このように、クルアーンには「聖書の読み方」に対する指示が述べられており、この読み方こそ聖書の最終解釈であると強調されている。
その結果、イスラム教社会の文化人も聖書を読み、研究する人も現れた。
そして、その見識・知識は当時のヨーロッパ人を凌いでいたと言える。
また、文化や武力の背後にあって、かつ、忘れていけないのがイスラム教社会の経済力である。
これまでのメモで述べた通り、当時のカトリック教会は「サクラメント」がまかり通る社会であった。
これに対して、イスラム教ではギリシャの文化遺産を収集・研究していた。
また、「マクタブ」という初等教育機関や「マドラサ」といった教育機関の普及があり、中世イスラム教社会の識字率の向上に大きく貢献した。
これでは、オリエントを擁するイスラム教社会から見れば東ローマ帝国の向こうにあったヨーロッパ社会を未開人とみられてもやむないところがあった。
逆に、ヨーロッパ人から見ると、イスラム教社会は圧倒的な豊かさを誇る別世界であった。
東方からもたされた珍品、例えば、織物・金属細工はガラス製品や紙と共に珍重された。
また、当方のアラブ商人がインドの香辛料をもたらしたことも言うまでもない。
この点、イスラム教社会は長年の繁栄の歴史があり、カリフやスルタンは贅沢を追求してきたのである。
ヨーロッパ人がこれを見てイスラム教社会の文物に目の色を変えたのは想像に難くない。
なお、ヨーロッパの「贅沢」と言えば、太陽王ルイ十四世の時代がある。
しかし、ルイ十四世の治世の後、ヨーロッパは近代革命の嵐が吹き荒れることになる。
これでは、19世紀までヨーロッパの贅沢は量も期間もイスラム教社会に及ばなかった、ということになる。
さらに、本書では、ベルサイユ宮殿における逸話が紹介されている。
フランス・ブルボン王朝の絶頂期を象徴するベルサイユ宮殿、この宮殿が完成されたころ、オスマン帝国の大使(イスラム教徒)が招かれた。
ところが、この大使、紹介された宮殿を案内された最後に「え、たったこれだけ?」と言ったそうである。
ベルサイユ宮殿が当時のヨーロッパで一大センセーションをわき起こしたことは間違いない。
もっとも、オリエントで覇を唱えていたオスマン帝国のトプカプ宮殿には負けてしまう。
それくらいオリエントを抑えていたイスラム教社会には富があったわけである。
そのことを示しているのが「オリエント急行」である。
この急行列車ができたのは1883年であり、ヨーロッパが世界に覇を唱えており、イスラム教社会とキリスト教社会のパワーバランスは傾いていた。
しかし、それでもオリエントに行くために、ヨーロッパの富豪たちはこのオリエント急行のチケットを買った。
このことは「オリエントに行く」ということに特別な意味があったことを示している。
さて、このような文化的差があれば、ヨーロッパ人のなかにもイスラム教社会で本物の学問を学ぼうと志す人間が出てくる。
その結果、10世紀ごろからイスラム留学を志願する僧侶たちが現れた。
その人たちが留学先に選んだのがイベリア半島にあるコルトバへの留学である。
というのも、アッバース朝の首都のバグダッドは遠いが、スペインなら近いからである。
そして、キリスト教(カトリック)の僧侶たちもコルドバにあった大学に留学し、ギリシャ哲学その他を学んだのである。
これらがルネッサンスへの導火線になったことは言うまでもない。
というのも、ギリシャの古典を入手しようとしてもヨーロッパ社会にはなく、アラブ社会へ行ってアラブ語訳のそれ、または、ギリシャ語の原典を入手することから始めなければならなかったからである。
また、原典があっても、学問それ自体が廃れてしまった以上、学問の復興にも時間がかかった。
例えば、アリストテレスの原著をラテン語に訳すだけでも大変な時間がかかった、と言われている。
ちなみに、このアリストテレス翻訳の作業を行った人にトマス・アクィナスがいる。
トマス・アクィナスの神学は二十世紀になるまでカトリック教会の支柱となった。
その背景にアリストテレスがある。
このようにイスラム教社会の豊かさから生まれたものはキリスト教社会にも波及していった。
まあ、中国と日本、明治維新以降の欧米と日本の関係を考えれば、当然とも言いうるが。
さらに、本書ではヴァスコ・ダ・ガマの冒険についても紹介されている。
オスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落させてから、ヨーロッパには東方の物産が入手できなくなった。
そこで、レコンキスタによってイベリア半島からイスラム教徒を追い出したポルトガルやスペインは「陸伝いではなく、海上貿易によってインドと交易できるようにしよう」と考えて、大航海時代が始まる。
そして、ヴァスコ・ダ・ガマはアフリカを経由してインドに行こうとした。
もっとも、インド洋はアラビア商人が盛んに交易をおこなっていた。
そこで、ヴァスコ・ダ・ガマは自分たちがキリスト教徒であることを隠して、イスラム教徒の案内人を雇ってインドに行った、それゆえ、大したことがない、と本書では書かれている。
この点、アラビア人はインド洋を使ってインドや中国と交易を行っていた。
また、中国でもヨーロッパの大航海時代以前の明の時代に鄭和が大艦隊を率いてアフリカに達する旅行を行っている。
つまり、インド洋における海上インフラは整っていたわけである。
これに対して、「イスラム教社会の下地を利用してインドに行ったのだから大したことがない」などと言い出すとキリがないように見えるが。
なお、本書では、アラビア社会のイブン・バトュータという大冒険家が紹介されている。
彼は、モロッコからエジプト・シリア・デリーを経由して、当時の大都(北京)まで言ってきた。
さらに、彼は故郷に戻るや否や、スペインのグラナダを訪問したり、サハラ砂漠の横断・ニジェール川上流域の探検も行っている。
これはヨーロッパのマルコ・ポーロを圧倒していると言える。
と、本書ではイスラムのすごさをこれでもかというばかりに紹介している。
そして、このようなことを理解しないとイスラム教徒のクリスチャンに対する優越感ともいえる感情、劣等感の小ささの背景が理解できない、という。
まあ、事実はそうであり、また、当時のイスラム教社会はすごかった。
ただ、これを基軸にして優越感だのなんだの、と言われると、これはいわゆる「老害」のそれと同種ではないか、という感想を持たざるを得ない。
もちろん、「老害」であることと「過去の栄光」は両立する。
また、仕方のない面があることはあるとしても。
今回はこの辺で。
次回は、これに対するキリスト教徒の行為とその結果生じた「十字軍コンプレックス」についてみていく。