今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
24 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第2節を読む」(中編)
前回、マックス・ウェーバーの研究を見ながら資本主義が興ったメカニズムをみてきた。
今回はこれを前提にイスラム教社会の近代資本主義への移行の可能性についてみてみる。
結論から言えば、イスラム教社会の近代資本主義への移行の可能性は絶望的と言ってもよい。
以下、近代資本主義と近代民主主義に必要な前提を取り上げつつ、それらの前提とイスラム教との適合性のなさ(相性の悪さ)についてみていく。
まず、ヨーロッパの宗教改革から近代資本主義に至ることのできた要素がイスラム教社会にあるかどうかを見る。
この点、イスラム教には「利潤全否定の思想」と「予定説」のいずれもない。
つまり、イスラム教は「規範」ががっちりしているので、利潤の追求について合法的な例外がある。
合法的な例外があるということはその範囲での利潤の追求を許していることを意味しているのだから、イスラム教に「利潤全否定の思想」がないことは明白である。
また、キリスト教は予定説である一方、イスラム教はいわゆる「宿命論的予定説」となっている。
その結果、「宗教が信者に対してもたらす不安感」が劇的に異なることになる。
確かに、プロテスタントに比べれば、イスラム教の方がはるかに精神衛生上よいと言えることになる。
しかし、近代化という観点から見れば、これは大きな障害になる。
「改革のための爆発的エネルギー」が発生しないことを意味するのだから。
さらに言えば、「障壁となる『伝統主義』の内容」という観点から見ても、イスラム教の近代資本主義化は難しいと言える。
この点、ヨーロッパにおける伝統主義はある意味において堕落したカトリック教会や中世であって、キリスト教それ自体でなかった。
これに対して、イスラム教社会にとって「伝統主義=イスラム教とイスラム法」ということになってしまう。
これでは、伝統主義の壁はヨーロッパよりも大きいということになってしまう。
つまり、ヨーロッパと比較すると、イスラム教社会においては伝統主義の壁が極めて大きいうえ、打破するためのエネルギーも大きくならない。
以上より、イスラム教社会においては「『エトスの変換』による資本主義への飛躍は絶望的」ということになる。
次に、資本主義を支えている「契約絶対の思想」の観点からイスラム教社会と近代資本主義の相性の悪さについてみていく。
この点、近代資本主義の裏側に「契約絶対の思想」があることは次のメモなどで確認した。
契約絶対の思想がなければ、「契約が守られること」に期待ができない(この「守られる」には『本契約が履行されなかった場合になされるべきことがなされる』ことも含む)。
契約が守られることが期待できなければ、そもそも合理的経営などおぼつかない。
それゆえ、資本主義において「契約絶対の思想」は大きな要素となる。
この「契約絶対の思想」がヨーロッパやアメリカで確定したのはキリスト教のおかげであった。
この点、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの啓典宗教の基本は「神と人間との契約」であり、「人間は神との契約を守るべし」ということになるからである。
ただ、この「契約」は神に一方的な決定権があり、人間は一方的に押し付けられるものである。
ヤハウェはモーセに律法を与えたが、その規定は極めて詳細である。
また、古代イスラエルの民はこの律法(契約)に対して異議を述べることができない。
もちろん、古代イスラエルの民から見た場合、契約の履行により神は古代イスラエルの民を救済する義務が発生する。
それゆえ、押し付けられたとはいえ、内容を見れば魅力的な契約、と言えないこともない。
もっとも、古代のイスラエルの民はこの魅力的な契約を守らなかった。
神は預言者を派遣したが、預言者の話を古代のイスラエルの民は聴かなかった。
それゆえ、古代のイスラエル王国は滅び、民はバビロン捕囚の憂き目にあう、といった話はこれまでで述べたとおりである。
つまり、聖書のテーマを強引にワンワードでまとめれば、「契約を守れ」に尽きることになる。
この「契約を守れ」というテーマはユダヤ教からキリスト教に受け継がれた。
しかし、キリスト教に受け継がれた際に、重要なことが起きた。
それが「『タテの契約』の『ヨコの契約』への転換」である。
そして、近代資本主義において重要になるものが「ヨコの契約の絶対性」である。
つまり、聖書の契約は上位者・神と下位者・人間との間のいわゆる「タテの契約」である。
そして、この「タテの契約」はユダヤ教にもイスラム教にもある。
他方、「ヨコの契約」とは人間同士が対等な立場で結ぶ契約を指す。
この点、ヨーロッパでは「ヨコの契約の絶対性」という考え方が中世ヨーロッパの時代から成立していた。
それを示すのが、国王と諸侯(臣下)との契約である。
国王と諸侯との契約が成立したのはタテの契約がヨコの契約に転化したおかげである。
そして、ヨコの契約への転化やヨコの契約の絶対性が近代資本主義を支える重要な要素となる。
では、この「ヨコの契約の絶対性」という観点からイスラム教を見るとどうなるか。
まず、イスラム教に「ヨコの契約」が存在するか。
その答えは基本的に「ノー」である。
つまり、イスラム教には「タテの契約の絶対性」があっても、「ヨコの契約の絶対性」は弱い。
この点、キリスト教は予定説であり、また、信仰のみを問う宗教である。
その結果、キリスト教徒にとって人間同士の契約を重視しようが軽視しようが関係ない、ということになった。
しかし、「人間同士の契約などどうでもよい」と開き直ると様々な弊害が生じる。
そこで、キリスト教社会では「神との契約を守るように、人間同士の契約も守る」という発想が生まれた。
つまり、「規範がないので信仰を規範に転用した」ことになる。
この転用の際に重要になったのがキリスト教のドグマである「神を愛し、隣人を愛せ」である。
この「神を愛し」において要求される「愛」はアガペーであり、そのレベルは無条件かつ無限である。
キリスト教では「人間は神の無条件かつ無限の愛によって救われる」と考えるので、「人間も神や隣人に対して無条件かつ無限の愛を注がなければならない」と考えるわけである。
ここから隣人愛の思想が生まれ、タテの愛(人間と神と間の愛)がヨコの愛(人間同士の愛)に転化された。
この発想が「『タテの契約』から『ヨコの契約』への転換」に大きな影響を及ぼしていることは言うまでもない。
そして、隣人愛を媒介として「タテの契約の絶対性」が「ヨコの契約の絶対性」にスライドすることになる。
では、イスラム教の場合はどうか。
まず、イスラム教では宿命論的予定説を採用している。
つまり、イスラム教徒の現世での振る舞いは神が「天命(カダル)」として決めていて、そこから逃れることはできない。
その一方で、イスラム教徒の来世は現世での振る舞いによって決められると考える。
また、アッラーはイスラム教徒と共にあり、その行動を全部見ていると考える。
このことは「アッラーは頸動脈よりも近くにいる」というクルアーンの表現にも表れている。
その結果、タテの契約がヨコの契約に転化する余地がないことになる。
つまり、我々が「ヨコの契約」として見ている契約も、イスラム教徒は「タテの契約」としてみていることになる。
例えば、ビジネス上の契約、あるいは、日常的に我々が買い物をする際の売買契約。
これらは我々の感覚から見れば「ヨコの契約」である。
しかし、イスラム教徒から見ればこれも「タテの契約」としてみていることになる。
これに対して、日本教徒たる日本人は「ばんなそかな」と叫ぶかもしれない。
しかし、これは「タテの契約」の概念が存在しない日本教徒だから感じること。
「タテの契約」と「ヨコの契約」が錯綜する場面は色々な場所である。
その代表的なものが結婚である。
この点は次のメモで触れている。
つまり、結婚では、夫は「妻を愛する」と誓約(契約)し、妻は「夫を愛する」と誓約(契約)する。
対等な文言であることから、この誓約(契約)は「ヨコの契約(誓約)」に見える。
しかし、ここで二人が誓っている相手はそれぞれの結婚相手ではなく「神」である。
もし、結婚相手に誓うだけであれば、神の面前でやる必要がないからである。
つまり、教会、つまり、神の面前でやる誓約(契約)は「神と夫の誓約(契約)」・「神と妻の誓約(契約)」という「2つのタテの誓約(契約)」ということになる。
ちなみに、このように考えるため、カトリック教会では離婚が禁止されていることになる。
もし、この契約が1つの「ヨコの誓約(契約)」である場合、夫婦が契約の改定をすればなんら問題がない。
つまり、離婚合意によって離婚ができる、ということになる。
しかし、「タテの誓約」と考えれば、離婚は神に対する誓約の違背になってしまう。
だから、カトリック教会は離婚を禁止しているのである。
このように、「タテの契約」と「ヨコの契約」の境界線は信仰によって異なるといってもよい。
日本教の場合、「タテの契約」がない一方、「ヨコの契約」がある。
このことは次のメモで確認した。
キリスト教の場合、隣人愛を媒介にして「タテの契約」から「ヨコの契約」への転化が行われた。
これに対して、イスラム教の場合、神の絶対性のみが強調されるので「タテの契約」しか存在しない、ということになる。
この「ヨコの契約」の不在について、単純な売買契約という具体例を出して考えてみる。
つまり、「AがBが持っているりんご1個を100円で購入する」という売買契約(民法555条)を考える。
Aは「りんご1個の代金として100円をBに渡す」ということを誓約し、Bは「持っているりんご1個をAに引き渡す」ということを誓約する。
その結果、売買契約が成立する。
契約が成立した結果、「AはBに100円を渡す」、「Bはりんご1個を引き渡す」という債務(義務)が発生する。
それぞれの債務(義務)を履行すれば、契約は履行されたことになる。
さて、日本人、ないし、資本主義の発想で見れば、この売買契約は「ヨコの契約」ということになる。
というのも、日本人や資本主義の発想で見た場合、Aが誓約した相手はBで、Bが誓約した相手がAと考えるのだから。
この点は、上述の結婚の例とは異なることになる。
しかし、イスラム教徒の場合、仮に、このような売買契約が結ばれた場合であってもアッラーに対して誓うのである。
つまり、我々から見て「ヨコの契約」と見える契約も、イスラム教徒から見た場合は2つの「タテの契約」としてみることになる。
結婚の場合と同じような形で。
これが「タテの契約」であって「ヨコの契約」ではない、という意味である。
このことを示しているのが、「売買契約を履行した場合、日本人(資本主義の人)は相手(契約相手)に『ありがとう』という。しかし、中東の人(イスラム教徒)はアッラーに対して『ありがとう』と言い、相手(契約相手)には言わない」という表現である。
ところで、ここまで進むと「それならば・・・」ということで次の疑問が浮かぶだろう。
「我々から見て『ヨコの契約』と考えているものをイスラム教徒が『タテの契約』と思っているならば、イスラム教徒は契約を遵守するので『契約の絶対性』が実現するのではないか」と。
確かに、カトリック教会の離婚禁止の例をイメージすれば思い浮かぶであろう当然の質問である。
しかし、イスラム教の「宿命論的予定説」が契約の遵守の絶対性を薄めてしまっている。
つまり、イスラム教では人の人生は「天命」(カダル)によって神が決めていると考える。
その結果、「タテの契約」が遵守されるか否かも神が「天命」によって決めていると考えることになる。
よって、「『契約を履行できない何らかの事情』が発生した場合、それは神の思し召し、つまり、『天命』である。だから、人間の力でどうにかなるものでもないし、(人間の力でどうにもならない以上)私の責任でもない」と考えてしまう。
そのことが現れているのが「インシャラー」と言う言葉らしい。
この点、イスラム教でも「タテの契約」を履行するか否かという結果は「救済」の有無に影響するから、イスラム教徒も契約を履行するよう努力はするだろう。
その意味で、「最初から履行の努力をしない」わけではない。
しかし、「何がなんでも契約を履行しなければならない。履行できなければ違約罰を覚悟する必要がある」という切迫感がない。
キリスト教徒の場合、神は恐ろしい神であったから「契約に違背すればとんでもない罰が待っている」と考える。
また、予定説の場合、「契約を履行しない、つまり、隣人愛を実践しない輩を神が救済リストに入れているはずがない」と考える。
さらに、日本教徒の発想なら、一定の場合には「我が身に誓約した以上、契約を履行しなかった場合、自分で自分を処断しなければならない」という発想が生まれる。
このことは次のメモに紹介したとおりである。
以上、イスラム教と資本主義の相性の悪さをみてきた。
なお、このメモでは、本書に記載のない点についても別のメモから補っている。
以前述べた通り、このメモは学習メモであって、本書のコピペではないからである。
また、イスラム教社会が近代資本主義になるのは絶望的に難しいので、別の方策を考えたほうが良いのではないか、という感想を持たざるを得ない。
その方策が具体的にいかなるものになるのか、また、その方策はキリスト教社会(近代資本主義社会)に対抗できるものなのか、という問題があるとしても。
あるいは、近代資本主義社会の自滅を待つ、という戦略で考えるべきか。
資本主義社会による環境破壊その他を考えるとこの手段もありうるかもしれない。
もっとも、グローバル経済の大きさを考えれば、資本主義社会の自滅によりイスラム社会も共に滅んでしまう可能性もあるが。