今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
18 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第3節」を読む(最終編)
ここまで、中国の「刺客」とアメリカ・ヨーロッパの「暗殺者」についてみてきた。
次に、中国とアメリカ・ヨーロッパの「歴史観」についてみてきた。
その上で、キリスト教やユダヤ教における「預言者」についてみてきた。
これらを補助線にして、イスラム教社会における「暗殺者」についてみていく。
まず、ユダヤ教やキリスト教と異なり、イスラム教ではマホメットが「最後の預言者」になっている。
つまり、新たな「預言者」が現れることはなく、また、新たな「啓典」が現れることもないと考えることになる。
その結果、イスラム教では「最後の審判がやってくるまで、この世の秩序(法則)は変わらない」という歴史観を持つことになった。
以上より、イスラム教の歴史観は中国の歴史観に類似することになる。
このことから、世の中が乱れてきた場合、イスラム教では「現在の社会の状態が『(クルアーンとマホメットが示した)正しい状態』から逸脱している」と考えることになる。
これは、「皇帝が天命を忘れている」と考える中国の発想に類似する。
そのため、イスラム教社会の革命は、ヨーロッパの近代革命ではなく中国の易姓革命の方に類似することになる。
例えば、1979年のイラン・イスラム革命についてみてみる。
イラン・イスラム革命前夜、イランを統治していたのはパーレビ政権(パーレビ朝)であった。
アメリカなどの西側の支援を受けていたパーレビ政権は60年代、「白色革命」という近代化政策を行う。
具体的な政策を見ると、農地改革・婦人参政権・工業化・労働者の待遇改善・教育の向上による西欧化、となる。
これらを見ると、いいことではないのかと思うかもしれないが、さにあらず。
イスラム教徒から見れば、これらは近代化という名の世俗化、脱イスラム化である。
当時、パーレビ政権はアメリカの支援を受けていた。
そのことから、イスラム教徒(シーア派)はこの政権をアメリカの傀儡と見る者もいた。
そのパーレビ政権が「近代化といわれる西欧化政策」を行った。
イランのイスラム教徒たちはこの白色革命に伴う一連の政策が「『クルアーン』をゆがめるもの」と評価したことで、イラン革命を誘発することになる。
まず、1978年1月、イランから追放されていたホメイニーを中傷する記事をめぐって、ゴム(コム)という都市で暴動がおこる。
これが発火点になり、反政府デモ運動は全国に拡大する。
また、1978年9月、テヘランでは治安部隊がデモ隊に発砲、いわゆる「ブラックフライデー」という事件が起きる。
この事件で多くのムスリムが命を落とした。
もっとも、イランのイスラム教徒はこのような弾圧をはねのけ、結果、パーレビ政権は崩壊、イラン・イスラム共和国が成立する。
このように、イラン・イスラム革命はイスラム教徒による革命であり、その運動はイスラム教における原点回帰運動である。
また、イラン・イスラム共和国はイスラム教(アッラーの教え)による国家である。
易姓革命の言葉を借りれば、「イラン・イスラム革命によって、天命(ここでは「イスラム教」)を忘れた国王は排除され、再びアッラーに基づく政治が行われるようになった」ということになる。
このイラン・イスラム革命で見られた「イスラムの教えを蹂躙されたら、イスラム教徒は命を捨てることを惜しまない」という姿勢。
この姿は中国の刺客と瓜二つである。
つまり、刺客においては「歴史」という普遍(不変)の存在を信じ、これに殉じた。
これに対して、イスラム教徒はアッラーやクルアーンいう普遍(不変)の存在を信じ、これに殉じた。
また、中国で刺客が永遠に讃えられるように、イスラム教社会ではクルアーン(イスラムの教え)に殉じた者たちは永遠に讃えられる。
共通性の確認はこれで十分であろう。
また、クルアーンは次のように述べている。
(以下、「クルアーン」の第2章第154節から引用、引用元のリンクは後述)
アッラーの道のために殺害された者を、「(かれらは)死んだ。」と言ってはならない。いや、(かれらは)生きている。只あなたがたが知らないだけである。
(引用終了)
イスラム教やアッラーのための戦い、つまり、聖戦(ジハード)で倒れたものは死んでおらず、生きている。
少なくても、「ジハードで倒れた者は緑園(イスラム教のいう「天国」)に行けること」は確定している。
よって、ジハードで倒れた者はイスラム教社会の歴史に名を刻むのみならず、救済まで確定している。
この点、本来のイスラム教は昔のキリスト教と比較すれば、寛容性の高い宗教である。
とはいえ、アッラーの教えを蹂躙されたり、異教徒から侵略されたりしても寛容というわけではない。
そのような場合、イスラム教徒は死を惜しまず戦うことになる。
その姿は『史記』で示されている刺客たちに決して劣らない。
また、2001年のセプテンバーイレブンなどにおいてテロを敢行したと考えられる人間たちは高等教育を受けた者、欧米に留学した者が少なくないと言われている。
これを見て、「このような教育を受けた、知的水準の人間の高い人間たちが、なぜテロという狂気の行為に出たのか」という疑問を持つかもしれない。
この点、真面目なプロテスタントが不安から逃れるためにひたすら労働(による救済)に邁進したように、クルアーンを信じる敬虔なイスラム教徒もジハードに傾斜することになる。
何故なら、「最終的に自分が救済されるかわからない」という点においてはキリスト教徒もイスラム教徒も究極的には変わらないからである。
確かに、キリスト教の予定説と異なり、イスラム教の場合、「善行を行えば行うほど緑園(天国)が近くなる」と述べており、キリスト教よりは安心できる。
しかし、人間である以上、善行を積む一方で悪行もたくさん行っている。
そのため、自分に関しては最後の審判で緑園に行ける保障はない。
このようにして、真面目な人間ほど不安になる。
これはどの宗教でも同様である。
しかし、ここに大きな特例として「ジハード」が用意されていたら、不安に陥っていた真面目なイスラム教徒がそれに飛びつくことは十分考えられるであろう。
これに対して、「いささか安易ではないか」という疑問が頭に浮かばないとは言わないとしても。
また、「暗殺者やテロリストが異常な精神の持ち主である」という発想が常識となっている社会は欧米の社会のみである。
このことは、前述する中国の『刺客列伝』を見ればわかる。
刺客となった豫譲、聶政、荊軻に「狂気」を見出すことは可能であろうか。
ここから、イスラム教社会における暗殺者(刺客)についてみていく。
この点、イスラム教には暗殺やテロを実践する「過激派」のようなものを産み出す土壌がある。
なぜなら、「『マホメットが最終預言者であり、クルアーンが最後の啓典である』と考えた場合、理想の社会の状態はマホメットの生きた時代であるから、その理想を固守するのがイスラム教徒の責務である」と考えられる一方で、現実の社会は否応なくにも変化せざるを得なくなるからである。
よって、イスラム教の教えに忠実になればなるほど社会の変化に対して抵抗するということになる。
また、その中には「社会の変化を阻止して、マホメットの時代の社会を維持するためには手段を選んでいられない」と考える人間が出てくる。
これが「過激派」になる。
だから、このような「過激派」はイスラム教が始まった当初から存在することになる。
このことをイスラム教社会の歴史から見て取れる。
まず、このような過激派はイスラム帝国発生直後の正統カリフの時代から存在する。
つまり、632年、預言者マホメットがこの世を去り、イスラム教共同体は後継者に関して深刻な問題に直面した。
というのも、マホメットは後継者について何も指示を遺さなかったからである。
そこで、残された信徒は当時のアラブ社会の伝統に従い、「カリフ」としての後継者を選んでいった。
このようにしてカリフが選ばれた時代のことを「正統カリフの時代」と言われている。
この正統カリフの時代に4人のカリフが選ばれたが、4人のうち3人が暗殺されることになる。
では、何故、選ばれたカリフたちが次々暗殺されていったのか。
これは「イスラム教の教え」ゆえであったと言うことができる。
具体的には、シリア・エルサレム・メソポタミア・エジプトを手中に収めていったのである。
その結果、カリフの権力は高まり、また、カリフの財産も増加した。
このことが純粋なイスラム教徒にとって容認しがたいことになった。
というのも、イスラム教において人間は平等であり、また、豊かな人間は貧しい人間に喜捨する義務もあると考える一方、カリフは預言者ですらない一般人に過ぎないにもかかわらず富貴を極めていると考えることになるからである。
もちろん、現実のカリフたちが蓄財を重ねたか、喜捨を惜しんだかどうかは別として。
なお、こうした土壌からかの「暗殺教団」が生まれることになる。
中世のヨーロッパ人が「アサシン」と呼んで恐れたこの教団は、イスラム教イスマイール派から生まれた集団で「ニザール派」と言うべき一派である。
ニザール派は11世紀ころに成立したと言われ、イスラムの教えに対して厳格な集団であった。
また、「暗殺教団」と言われたことから、彼らを狂信者の集団と考えるかもしれないが、そんなことはない。
というのも、ニザール派から著名な学者・思想家が出ているのだから。
もっとも、ニザール派はイスラム教の教えに背くイスラム教徒や権力者には容赦がなかったと言われている。
また、ニザール派はイスラム教に敵対する異教徒に対しても激しく抵抗している。
そのため、モンゴル帝国の攻撃にさらされることとなるわけだが。
話はここでイスラム教の分派について移る。
イスラム教ではキリスト教と異なり、教義上の対立は起こりにくいとされている。
なぜなら、コーランによって確定されている部分が少なくないからである。
それゆえ、イスラム教におけるスンニ派とシーア派の違いもそれほど大きくないと言われている。
簡単に言えば、これは跡目問題である。
つまり、四代目正統カリフであり、マホメットにつらなるアリーの子孫がカリフになるべきだと主張するのがシーア派、それに対して、預言者はマホメットであって血筋は関係ないと考えたのがスンニ派である。
以上、イスラム教において色々とみてきた。
具体的には、イスラム教が異教徒に寛容であること、その寛容さとジハードが矛盾しないこと。
また、イスラム教には既に内部から過激派を産み出す土壌があること。
ところで、イスラム教の「ジハード」の教義。
この「ジハード」の認定もイスラム法による。
つまり、個々のイスラム教徒が「ジハード」と思えば、自動的に「ジハード」になるようなものではない。
イスラム法学者がクルアーンやスンナなどに照らし合わせ、ジハードの宣告をする必要がある。
だから、勝手に命を投げ出しても緑園に行ける保障はない。
そして、「過激派」が少数派にとどまっているのはそこに原因がある。
つまり、「過激派」である彼らが勝手にジハードを宣言しているだけに過ぎないから、多数のイスラム教徒はそれに与していないわけである。
もっとも、このことは、一方でとんでもない事態を引き起こす可能性があることを示唆している。
つまり、イスラム法学者たちがクルアーン・スンナと照合して「欧米との戦いは『ジハード』である」と宣言したらどうなるか、ということである。
現実に考えた場合、この可能性は絶無でないほど、キリスト教とイスラム教の対立は根深い。
さらに、アメリカの対応はこの対立をさらに悪化させている。
そこで、第3章でキリスト教とイスラム教の歴史についてみていく。
以上が第2章のお話である。
イスラム教について見ているはずが、中国の儒教や歴史教へ行ったり、ユダヤ教へ行ったりキリスト教に行ったり。
比較することでいろいろなことが学べて十分参考になった。