今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
21 「第3章_欧米とイスラム_なぜ、かくも対立するのか_第1節を読む」(後編)
前回と前々回で、イスラム教社会がユーラシア大陸に長い間大勢力を築いていたこと、その一大勢力を築いていた間にもたらした壮大な文化・学問・経済についてみてきた。
そして、これらのイスラム教社会の文化と学問なくして、イタリアのルネッサンスもなければ、ヨーロッパの近代化もなかった、と。
今回はイスラム教社会が持つ「十字軍コンプレックス」についてみていく。
ここで、イスラム教誕生から十字軍までのイスラム教社会とキリスト教社会の状況を確認する。
なお、以下の部分は本書の記載がない。
前回、イスラム教社会がキリスト教社会を圧倒していたと書いた。
とはいえ、その差が常に一定だった、というわけではない。
この点、イスラム帝国は正統カリフの時代からウマイヤ朝の時代にかけて、その領土を大きく拡大した。
そして、750年のアッバース革命によりウマイヤ朝が崩壊して、アッバース朝になった。
このアッバース朝の政権下でイスラム文化が大いに爛熟した点は前回見たとおりである。
ただ、時が経るにつれて、アッバース朝も衰退する。
まず、9世紀後半、多くの地方政権が成立し、アッバース朝のカリフの権威によって緩やかに統一されるといった状態になる。
そして、10世紀にファーティマ朝が建国され、北アフリカで大勢力を築くことになる。
このファーティマ朝の君主は「カリフ」を自称したため、アッバース朝から独立したようなものである。
こうして、イスラム教社会は分裂の時代に入った。
そして、11世紀のころ、セルジューク朝がアラビア・ペルシャを制し、ファーティマ朝がエジプトやシリアを制しており、アッバース朝は権威だけを維持していた状態であった。
ただ、十字軍前夜、セルジューク朝では内部分裂が起きていた。
他方のヨーロッパ。
8世紀に西ヨーロッパに大勢力を築いたカール大帝のフランク王国はカール大帝の死後に分裂して、混乱の時代を迎える。
しかし、マジャール人と北方のバイキングのキリスト教化によって西ヨーロッパのカトリック教社会は安定の時代に入る。
そして、そのころのいわゆる中世の温暖期の効果もあって、農業生産力が増加し、出生数も増加した。
その結果、11世紀のキリスト社会のエネルギーはヨーロッパ社会の外側、つまり、これまで押されていたイスラム教社会に向けられることになる。
例えば、イベリア半島はアッバース革命の後、コルトバのウマイヤ朝(いわゆる後ウマイヤ朝)が統治していたが、1031年にコルトバのウマイヤ朝が滅亡すると、ヨーロッパのキリスト教徒は反撃に転じることになる。
このような過程で、キリスト教社会はイスラム教社会を侵略することによる経済的利益に注目するようになる。
そのような状況で、カトリック教会のクレルモン公会議でローマ教皇ウルバヌス二世がエルサレム奪還を呼び掛けたことで、十字軍が始まる。
つまり、「ヨーロッパのキリスト教社会によるイスラム教社会への反撃の兆しは十字軍以前にあり、教皇の呼びかけで一気に燃え上がった」と言えばいいだろうか。
以上は中立、いや、日本のような「余所者」から見た場合のものである。
ここから本書の記載に戻る。
前回までに見たように、イスラム教社会がヨーロッパ社会にもたらした恩恵は少なくない。
その結果、イスラム教社会の人間たちが「ヨーロッパ社会にとってイスラム社会は『恩師』である」という意識を持つことは不思議ではない。
また、「その『恩恵』に対するヨーロッパ人の返答が『聖地奪還のための十字軍』という『忘恩』の挙である」とも。
この点、ヨーロッパ社会は混乱が収まって生産力が向上した、とはいえ、戦争ばっかりやっていた連中である。
イスラム教社会から見た場合、ヨーロッパのキリスト教徒は戦争に強い野蛮人といったところであろうか。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教にとっての聖地であるエルサレム。
このエルサレムは、イスラム帝国ができた直後にイスラム帝国が東ローマ帝国から奪取し、その後、イスラム教社会が支配下に置いていた。
もっとも、イスラム教の教義もあって、ユダヤ教徒・キリスト教徒は迫害されていなかった。
しかし、キリスト教徒の野蛮人たち(!)はこの聖地の奪還をもくろんだ。
そして、1099年の第一次十字軍の折、キリスト教徒は聖地エルサレムをイスラム教徒から奪い返す。
さらに、このエルサレムの陥落のとき、エルサレムに住んでいたユダヤ教徒やイスラム教徒は皆殺しの憂き目にあった。
また、一説によると正教会の信者も同様の憂き目にあった、とか。
その様は、「カナンにあるエリコの先住民が皆殺しになった」という旧約聖書の逸話と瓜二つといってもいいかもしれない。
さすがに、このような挙に対して怒らない人間はいない。
また、クルアーンとて一方的に挑まれた人間に対する戦争さえ否定するといった愚かな考えはない。
(以下、クルアーンの第2章190節~193節の日本語訳を掲載、節番号は省略し、節ごとに改行、引用元のリンクは次の通り)
あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは、侵略者を愛さない。
かれらに会えば、何処でもこれを殺しなさい。あなたがたを追放したところから、かれらを追放しなさい。本当に迫害は殺害より、もっと悪い。だが聖なるマスジドの近くでは、かれらが戦わない限り戦ってはならない。もし戦うならばこれを殺しなさい。これは不信心者ヘの応報である。
だがかれらが(戦いを)止めたならば、本当にアッラーは、寛容にして慈悲深くあられる。
迫害がなくなって、この教義がアッラーのため(最も有力なもの)になるまでかれらに対して戦え。だがもしかれらが(戦いを)止めたならば、悪を行う者以外に対し、敵意を持つべきではない。
(引用終了)
かくして、「十字軍」という侵略とエルサレムの虐殺を起点として、イスラム教徒たちはクルアーンの教えに従って行動することが求められることとなった。
つまり、聖戦の完遂である。
現代におけるイスラム教徒のキリスト教徒に対するイメージはこの十字軍の経験が大きく影響しており、今なお中心的な地位を占めている。
では、この「十字軍コンプレックス」というべきものはなんであろうか。
その十字軍コンプレックスを見るために、十字軍の歴史を確認する。
キリスト教徒による聖地奪還作戦は1096年の第1回十字軍に始まる。
このときに、ユダヤ教徒やイスラム教徒が大量虐殺の憂き目にあったことは前述の通り。
もっとも、当時のセルジューク朝は分裂状態にあり、十字軍に対して直ちに有効な手が打てなかった。
イスラム教社会が反撃に出るのは、エルサレムが陥落して数十年が経過してからである。
これに対して、1147年、キリスト教社会は第2回十字軍を送り込むことになるが、この十字軍は「ローマ教皇が主導した十字軍のなかで最も成果のない十字軍」だったらしい。
その後、イスラム教社会は着実に勢力を盛り返す。
そして、アイユーブ朝のサラディンは1187年に「ジハード」を宣言、10月にエルサレムの奪回に成功する。
これに対して、キリスト教徒は奪還された聖都を取り返すべく、第3回十字軍を派遣する。
この第3回十字軍でサラディンと相まみえたのがイギリスのライオン・ハートことリチャード一世である。
リチャード一世はエルサレムの奪回はできなかったが、非武装のキリスト教徒の聖地巡礼という条件を認めさせることになる。
なお、このリチャード一世には弟のジョン王がおり、このジョン王はマグナ・カルタを押し付けられたことで有名である。
このように、イスラム教徒は約90年かけて聖地を奪還したわけだが、十字軍は第3回で終わったわけではない。
その後もキリスト教社会による波状攻撃は続き、1229年にはエルサレムがキリスト教社会側に奪われてしまう。
これをイスラム教徒が取り返すのが1244年。
つまり、イスラム教徒は十字軍の戦いに約150年もの間費やされることになる。
そして、疲弊したイスラム教社会はモンゴル帝国による侵略により不可逆的な大ダメージを被ることになる。
さて、結果だけを見れば、イスラム教社会はヨーロッパの十字軍による侵略を跳ね返した。
事実、エルサレムはイスラエルが建国される20世紀までイスラム教社会が支配することになる。
にもかかわらず、十字軍の記憶が「十字軍コンプレックス」となるほど生々しいのはなぜか。
逆に、アッバース朝を滅ぼしてアラビア地方に「イル・ハーン」国を打ち立てたモンゴル人に対してコンプレックスを持たなかったのはなぜか。
この点、13世紀の初め、アジア地方ではモンゴル帝国が大勢力を築いていた。
そして、このモンゴル帝国はアラビア社会に雪崩れ込んできた。
1219年にはペルシャ地方に君臨していたホラズム朝が崩壊した。
その後、1258年、バグダッドが陥落し、アッバース朝は滅亡する。
このとき、バグダットは第1回十字軍によるエルサレムと同様の憂き目にあった。
アッバース朝のカリフは処刑され、多数のイスラム教徒が虐殺される。
バグダッドは廃墟と化し、繁栄を極めたアラビア文化も崩壊した。
ところで、モンゴル人はこの地に「イル・ハン」国を建てた。
君主になったのは当然モンゴル人である。
もっとも、時間が経過するにつれ、モンゴル人もイスラム文化に感化され、自らもイスラム教徒となってしまう。
例えば、イル・ハンを建てたフラグ(モンゴル帝国の建国者チンギス・ハンの孫)の孫である第7代国王ことガザン・ハンはイスラム教徒であることを告白して即位することになる。
この意味でモンゴル帝国の武力もイスラム教に降った、ということになる。
この点、イスラム教には国境はないし、人種の壁もない。
確かに、正統カリフ時代の次に興ったウマイヤ朝はアラビア人のイスラム帝国という面がなくはなかった。
しかし、アッバース朝はアラブ人の特権を廃止していったので、そのようなこともなくなった。
つまり、アッラーを信じ、クルアーンを信じ、六信五行を実践すればイスラム教徒として扱われることになる。
このイスラム教社会のセンスは中国にもある。
何故なら、中国人の条件も「中華文明を受容する」点にあるからである。
この点、中国は何度か異民族による支配を受けている。
例えば、モンゴルの元、女真族の清などがこの例である。
もっとも、中国人たちはこのような異民族を教化して(中華文明を受容する)中国人にしてしまった。
これが最もうまくいったのが清朝である。
このように教化してしまえば、異民族の征服王朝といってもどっちが支配者でどっちが被支配者か分からなくなってしまう。
現実において清朝を動かしていたのは科挙に合格した中国人官僚であり、女真族はお飾りに過ぎなくなっていたのだから。
イスラム教のセンスも中国のそれに準じて考えることができる。
つまり、支配者が他所の民族であっても、その民族がイスラム教徒になってしまえば、それほど深刻なダメージは受けない。
また、イスラム教の場合、イスラム教によって社会生活が規律されているために、権力者が変わっても、権力者がイスラム教に容喙しなければ社会生活が変わらない。
したがって、モンゴル人の支配を受けたことについてイスラム教徒はそれほどのダメージをもたらさなかった。
これに対して、キリスト教徒は聖地奪取に失敗してもキリスト教という信仰を捨てなかった。
これに、イスラム教社会がキリスト教社会に与えてきた恩恵が加わる。
その結果、「キリスト教徒はなんと救われない輩であろうか」という感想を持ってもいたしかたないものと考えられる。
これが十字軍コンプレックスの根底にあるものと言える。
このように、モンゴル人はイスラム教に帰依させ、キリスト教徒の聖地奪還を阻止したイスラム教社会。
例えば、インドではムガル帝国が大勢力を築いていた。
また、アラビアとバルカン半島ではオスマン帝国が大勢力を築いていた。
この点、18世紀までオスマン帝国の軍隊は最強の軍隊と言われていた。
その中核を占めていたのがトルコ皇帝の親衛隊の「イエニチェリ」である。
このイエニチェリの強さの秘訣は何か。
強さの秘密はたくさんの要素があるだろうが、重要なものの一つに「イエニチェリが常備軍だった」ということがある。
この点、オスマン帝国でイエニチェリが結成されたのは15世紀と言われているが、当時のヨーロッパには常備軍がなかった。
つまり、当時のヨーロッパでは、国内の領主が自分の家臣を率いて戦場に向かっていた。
また、絶対王権の時代になると国王は自前の軍隊を持つようになったが、その主力は金で雇った傭兵に過ぎなかった。
ヨーロッパで本格的な常備軍が作られるのはフランス革命の後の国民軍である。
ところで、常備軍は普段からトレーニングを行っており、また、組織としても統制がとれている。
よって、常備軍の前には寄せ集めの軍隊や傭兵では話にならないことになる。
このことはナポレオンが国民軍という常備軍を駆使してヨーロッパ全体を敵に回せたことからも理解できる。
もっとも、ヨーロッパで常備軍が生まれる以前にオスマン帝国ではイエニチェリという常備軍を作っていたのである。
なお、このイエニチェリ軍団の主力を務めたのが、戦争で捕虜になったバルカン人などである。
イスラム教徒はクリスチャンと異なり、問答無用で捕虜を皆殺しにすることはしない。
そして、捕虜が改宗してイスラム教徒になるとイエニチェリに入隊させ、普段から猛特訓して兵士にしたのである。
これがイエニチェリの強さの秘訣となった。
さて、このイエニチェリが東ヨーロッパを暴れまわっていたのが15世紀から16世紀である。
ちなみに、ビザンティン帝国の首都たるコンスタンティノープルが陥落したのは1453年である。
その後、16世紀になるとオスマン帝国は東ヨーロッパにも駒を進めた。
そして、オスマン帝国はオーストリア帝国の首都たるウィーンを包囲することになる。
オスマン帝国のウィーンの包囲は2回ある。
1529年と1683年の2回で、特に深刻だったのが後者である。
そこで、オスマン帝国軍の撃退の為に前例のないヨーロッパ連合軍が編成された。
この連合軍で活躍したのが、ポーランド国王ソビエスキー、オーストリアの名称プリンツ・オイゲン、ハノーヴァー選帝侯ゲオルグ・ルートヴィヒにして後のイギリス国王ジョージ一世である。
この三人の活躍もあって、ウィーンからオスマン帝国軍を撃退することができた。
そして、この戦いでオスマン帝国軍を撃退したことでパワーバランスがオスマン帝国からキリスト教社会に移り始めることになる。
ところで、1683年のウィーン攻防戦によってヨーロッパにもたらされたものが二つある。
一つが「カフェ文化」、もう一つが「行進曲」である。
つまり、豊かなトルコでは既にコーヒーを飲む習慣があった。
それゆえ、オスマン帝国軍の撤退後、撤退したオスマン帝国軍のテントにコーヒーの粉が残されており、これがウィンナ・コーヒーの起源になる。
また、オスマン帝国では既に軍楽隊があり、ヨーロッパにはそれがなかった。
それを見たヨーロッパ人たちは行進曲を作り始めることになる。
このことはモーツァルトやベートーベンが「トルコ行進曲」というタイトルの曲を作ったことからも見ることができる。
このように、当時のオスマン帝国(トルコ)とヨーロッパとの間には嗜好品や音楽などの文化において大きな差があったと言える。
以上、十字軍以後のイスラム教社会とキリスト教社会について確認した。
次回は、「イスラム教社会がヨーロッパ社会を席巻していたら」という仮定から、ヨーロッパ側が反撃するために開いた「近代」という扉についてみていくことにする。