今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
10 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第2節」を読む(前編後半)
キーワードは「宗教の合理化」である。
または、「呪術との決別」といってもよい。
そして、「呪術との決別」を具体的に実行するために、古代のイスラエル人は二つの概念を用意した。
それが「奇蹟」と「預言者」である。
もちろん、「奇蹟」と「預言者」はキリスト教やイスラム教においても重要な意味を持つ。
この点、イエス・キリストは様々な奇蹟を起こす一方で、「悪魔の力を借りているのではない」と弁明した、と言われている。
これは「私の奇蹟は呪術ではない」という意味になる。
では、奇蹟と呪術の違いは何か。
この点、表面的・客観的な結果だけを見て、その他の要素を捨象してしまえば、呪術と奇蹟との間には区別はない。
しかし、宗教的に見た場合、両者には大きな違いがある。
そして、呪術と奇蹟は「奇蹟は誰が起こしたものか」・「この奇蹟は倫理的にかなっているか」という観点から見た場合に明らかになる。
この点、呪術によって超常的な結果が発生した場合、「この結果は私の呪術によるものだ」と主張する。
呪術の本質が「人間が神を操る点」にあるを考慮すれば、この主張は当然の主張である。
しかし、奇蹟によって超常的な結果は発生した場合、「この結果は神が起こしたものである。自分の功績ではない」と主張する。
その主張をより細かく説明すると次の通りになる。
つまり、造物主たる神は天地に存在するものや様々な法則を作った。
例えば、万有引力の法則を定めたのは神である。
そのため、人間には万有引力の法則を変更することはできない。
しかし、法則を作った神であれば一時的に万有引力の法則を停止させることができる。
そのような一時的な変更によって生じたものが奇蹟である。
啓典宗教においては超常的な結果としての奇蹟をこのように説明するのである。
奇蹟と呪術の違いとしてもう一点重要な観点が「倫理性」である。
つまり、呪術には倫理性がなくてもよいが、奇蹟には倫理性がなければならない。
というのも、人間の意志によって人間が起こす呪術には倫理性があろうがなかろうが関係ない一方、神が起こす奇蹟には神の意志が存在する以上、奇蹟には倫理的な説明がつけられるからである。
例えば、旧約聖書の「出エジプト記」のモーセの起こした奇蹟を見てみる。
モーセはエジプトの王ファラオと交渉し、その際に、たくさんの奇蹟を見せつけた。
しかし、その奇蹟の内容は、「イナゴの大発生を起こして食料を食い尽くさせる」・「疫病を流行らせて人々のバタバタ倒れる」といったものである。
エジプトから見れば大損害である(日本的に言えば、また、本書の記載によれば「迷惑」になるだろうが、もはや「迷惑」で片づけられるレベルではない)。
エジプトから見れば、呪術や魔術、いや、悪魔の仕業と考えたことであろう。
しかし、イスラエルの民から見れば、これらの結果は神の「イスラエルの民を救う」という神意によって起こしたのである。
例えば、「イスラエルの民を奴隷として苦しめたエジプトの連中に対する憎しみを思い知らせる」・「イスラエルの民を奴隷として苦しめたエジプトの連中に対して復讐する」といった意図で行ったのではない。
事実、ファラオがイスラエルの民の出国を認めてからは上記災害はやんでいる。
また、ファラオは、後にイスラエルの民を追撃するために軍隊を派遣したが、モーセはイスラエルの民を守るため、奇蹟によって軍隊を撃退した。
しかし、それ以上のこと、例えば、エジプトの軍隊が全滅したのを好機と考え、奇蹟を駆使してエジプトを征服する、といったことはしていない。
この後、カナンの地を求めて何十年も放浪する、また、カナンの地を手に入れるための諸々を考えれば、奇蹟を駆使してエジプトを蹂躙し、エジプトそれ自体をイスラエルのものにするという選択肢もあったであろうに。
(もちろん、このような話は本書にはない、このブログは私の勉強のためのメモ書きに過ぎず、本書のコピペではない)
奇蹟に対してはこのような「説明」をつけることができる。
もちろん、「説明」に意味を見出さない人間が見れば、この差に意味はないだろうが。
他方、いわゆる日本の新興宗教の教祖の起こしているものを見てみよう。
本書では、「神を拝んだら、宝くじがあたり、3億円をゲットした」、「夫の不倫に困っていた妻が教祖に献金したら、不倫相手の女が病気になった」といった具体例が挙げられている。
このような結果に対して、「では、神は自分を拝んだ人間に3億円を与えたのか、倫理的な説明をしてみろ」といってもそれは不可能であろう。
また、夫の不倫を妻が非難するのは当然としても、相手を病気にさせることが神意であるといいうるであろうか。
神ならば不倫を治すための抜本的な手段を採用し、小手先の手段を採用しないのではないか。
これらの事象に対しては、想定外の超常的な結果に対して「通常の現象から説明することは不可能である」という消極的な説明は可能であっても、「この結果は神意にかなっている」ことを裏付ける積極的な説明はできない。
以上のように、啓典宗教においては「奇蹟」であるためには、神意にかなっている、つまり、倫理的にかなっていることが重要になる。
もちろん、日本的・形式的・員数的に「倫理的にかなっている」と説明するだけではダメであることは当然である。
具体的・実質的な理論と事実関係に関する説明が必要である。
それゆえ、キリスト教では「奇蹟」の認定、奇蹟を起こした聖人の認定にはたくさんの時間をかけ、綿密な調査を行う、らしい。
例えば、「現代医学では治療不可能な病にかかっていた者がいたが、『ある人間がある行為』をしたところ、その者の病が完治して元気になった」という例を考える。
この場合、「ある人間のある行為」は奇蹟といえるか。
元気になった、病気が治った原因は様々なものがありうる。
例えば、人間には治癒能力があるので、それがたまたま奇蹟的に目まぐるしく働いて病を叩きのめした可能性がある。
あるいは、常用していた水・薬に未知の成分があり、それによって病が退治されたのではないか、云々。
もちろん、それらの可能性が微細であることは言うまでもないが、それらの可能性を全部つぶしていく必要がある。
それらの可能性をつぶしてはじめて、「ある人間のある行為」と「病の完治」との間に因果関係が認定できることになる。
この点の認定は、日本の民事訴訟の因果関係の認定よりはるかに厳密である。
最低でも刑事裁判の因果関係の認定と同等である。
あるいは、欧米の科学的な手法と共通している、といってもよいかもしれない。
また、因果関係の問題をクリアしたとしても、神意に沿っていることの認定も重要である。
患者から大金をふんだくっていたとなれば、まあ、奇蹟とは言わないだろう。
神は患者から大金をふんだくる人間に対してそのような恩恵(アメージング・グレイス)を施さないであろうから。
ところで、キリスト教でも「奇蹟」を起こすのは神である。
しかし、奇蹟を実行した人は神が「奇蹟を行うためにその人物を選んだ」ということを意味する。
そのため、奇蹟を実行した人を聖人・聖女として尊ぶことになる。
つまり、神に選ばれた「神の使徒」と考えるのである。
ところで、イスラム教も啓典宗教であるので、「奇蹟」と「預言者」が重要になる。
また、呪術といったものを排除する。
ただ、イエス・キリストについては「奇蹟」のエピソードがたくさんあるのに対して、マホメットについては奇蹟のエピソードが少ない。
そこで、マホメットに対して「神の声が聴こえているならば、奇蹟の一つでも起こしてみたらどうだ?」と揶揄するキリスト教徒・ユダヤ教徒が現れた。
これに対して、マホメットは堂々と「クルアーンこそが最大の奇蹟である。それが証拠に、それを疑うならクルアーンを超える作品を作ってみよ」と答えたといわれている。
この返答に対して、アラブの詩人たちはクルアーン以上の作品を作ろうとしたが失敗した、そのように伝えられている。
この点について、「それはイスラム教の自画自賛では?」と疑問に思うかもしれない。
しかし、クルアーンの詩句が極めて優れていることは多くの人間が証言している。
また、「クルアーン」は「読誦」というアラビア語から生まれた言葉である。
などなどから、クルアーンの美しさは異教徒でも認めるレベル、ということができる、らしい。
なお、本書によると、クルアーンはアッラーの言葉だけを集めたものである。
また、ストーリー性がなく、おおむね古い順に並べただけ、というものである。
だから、予備知識なくクルアーンを読んでも早々に挫折する、らしい。
もちろん、クルアーンが編纂されて正典が確立されるのは、第三代正統カリフの時代、マホメットは既にいない。
よって、マホメットにこの点を責めることはできないのだが。
以上が「奇蹟」に関するお話。
次に、「預言者」について話が移る。
預言者は「神の言葉を人間に伝えるため、神が製作したラウド・スピーカー」と定義するとわかりやすい。
つまり、預言者は神の道具である。
例えば、モーセはエジプトにいるイスラエルの民を救おうと思っていたわけではない。
しかし、突如、神(ヤハウェ)がモーセの前に現れ、「お前、ちょっとエジプトに行ってな、私の民を救い出して来い」(私釈三国志風意訳)と言って、モーセをエジプトに派遣する。
この預言者像が極限的に推し進められた結果、生まれた預言者がエレミヤである。
エレミヤは産まれる前から預言者と規定され、生まれた後も預言者として生きる。
しかし、エレミヤにはなんの富も幸福ももたらされなかった。
それどころか、エレミヤは不幸な人生を送ることになる。
というのも、ラウド・スピーカーとなったエレミヤが伝えるべき言葉が「イスラエルの民よ、このままでは滅亡するぞ」というもの、つまり、民に対する警句だったからである。
神の意図を私釈三国志風に書くならば、「最近、我がイスラエルの民は契約(律法)を軽んじておる。これは民がたるんでおる証拠だ。だから、いっちょ災いを与えることにした。だから、エレミヤよ、ちょっと民に警告してこい」といったところであろうか。
これに対して、エレミヤは「私は何をすればいいかすらわからない若輩者でしてー」などと言って拒否しようとするが、当然神はそんなのお構いなしである。
結果、エレミヤはラウドスピーカーになって神の御心のままに行動するが、神の警句はその時代のイスラエルの民にとっては不快・不吉なものでしかない。
そりゃそうだ。
エレミヤの言葉は「このままでは神のが裁きを下され、滅ぶことになる」なのだから。
その結果、エレミヤは誰からも相手にされず、また、犯罪者のごとく扱われた。
エレミヤもさすがに音を上げ、神に対してこのように述べることになる。
ウィキソースにある『口語訳旧約聖書』の『エレミヤ書』、第20章の第7節・第8節を引っ張ってこよう。
(以下、上記リンク先から引用、節番号省略、改行で節を分ける、強調は私の手による)
主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました。あなたはわたしよりも強いので、わたしを説き伏せられたのです。わたしは一日中、物笑いとなり、人はみなわたしをあざけります。
それは、わたしが語り、呼ばわるごとに、「暴虐、滅亡」と叫ぶからです。主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになるからです。
(引用終了)
日本人から見た場合、エレミヤは気の毒な存在である。
しかし、エレミヤにはどうすることができない。
神が命令を撤回しない限り、そして、神が撤回しない以上は。
この点、シナイ山でエジプトから脱出したイスラエル人を皆殺しにしようとした際、モーセは言葉で神を説得した。
しかし、モーセは神を操った、論破したわけではない。
モーセの言葉により神が自己の判断を変更しただけである。
判断するのは神、人間は判断の材料を提供しただけである。
エレミヤの場合、シナイ山の場合と異なり、神が命令を撤回しなかったので、エレミヤは神のラウド・スピーカーとして行動し続けることになる。
そして、エレミヤは非業の死を遂げたといわれる。
また、イスラエルの国は分裂・崩壊、イスラエルの民はバビロン捕囚の悲劇を迎えることになる。
ところで。
仏教の背後には因果律があった。
その象徴が律法であり契約である。
これを具体的に示せば、「我々が契約を守れば神は我々を救済する。また、我々が契約を守らなければ、神は我々を滅ぼす」となる。
しかし、この因果律に対しても「合理的な発想」が及んでいった。
その結果、次の疑問が浮かぶ。
エジプトから脱出した際、我々の先祖はシナイ山の麓で偶像崇拝の罪を犯した。
これは十戒の第二条に背く大罪である。
にもかかわらず、神は我々を皆殺しにしていない。
例えば、ゾドムやゴモラは偶像崇拝の罪を犯していないのに滅亡の憂き目にあったというのに。
とすれば、「我々が律法を守らなくても、神は我々を滅ぼさないのではないのか」と。
また、次のような疑問も浮かぶ。
信仰を持ち、律法を守り、清く正しく生きている人間がいる。
しかし、彼らの皆が幸せになっているわけではない。
ならば、「我々が律法を守っても、神は必ずしも救済するわけではないのではないか?」と。
このことを端的に示しているのが、以前言及した「ヨブ記」である。
正しい信仰を持ち、正しい生活をしていたヨブに対して、神はとんでもない苦難を課す。
ここで作動した法則は因果律ではない。
あるいや、エレミヤについても同様に考えることができる。
神がエレミヤを預言者と選び、エレミヤが預言者として忠実として動いた。
しかし、その結果はどうか。
エレミヤは不幸になり、また、預言者としての職を辞することすら許さなかった。
かくして、因果律に対しても合理化の波が襲う。
そして、古代イスラエル人の合理性は因果律をも崩すことになる。
この因果律の崩壊が新世界への扉を開くことになる。
その新世界こそ「キリスト教」である。
キリスト教は「人間の救済は神の恩寵による」ということを軸に考える。
ここで私による注意書き。
この点、本書の記載によるものではないが、「神の恩寵に対して人間の働きかけがどの程度可能であるか」という点については温度差がある。
ざっくりとしてみた場合、人間の働きかけの寄与度をより大きく評価するのが正教会、小さく評価する(ほとんど評価しない)のがプロテスタント、カトリック教会はその中間といった感じのようである。
ただ、本書は比較宗教学的観点から宗教を見ていること、ざっくりした理解のためにはシンプルなモデルで考えることが有用であることなどから、プロテスタント、特に、カルヴァンの発想を見ていく。
以下の予定説の発想はジャン・カルバンの発想で、それを容認する教派は複数存在するが、カトリック教会・正教を含めたキリスト教全体が共有している発想ではないため、その点は注意が必要である。
そして、キリスト教のなかで「人間の働きかけは不可能である」と考える発想が予定説になる。
つまり、この発想においては「神は総てを決め給う。人間には自由意志がなく、神の命ずるままに決めたロボットに過ぎない」と考えることになる。
この発想、一方に「万能の神」を、他方に「脆弱な人間」を置き、これを極限まで推し進めれば出てくる発想である。
この点、この発想に対して「それでは、神の支配する全体主義国家ではないか」と考えるかもしれない。
その感覚は正しい。
特に、人間を神と考える日本教の観点から見た場合は。
しかし、キリスト教には大なり小なりこの発想がある。
そして、人間の力、ソ連の幹部の力は全知全能の神にはるか及ばないものであったため、ソ連は崩壊した。
しかし、ソ連の幹部ではなく神が同様のことを行えばどうなるか。
神は全知全能であり、無限の力が行使できる。
5000兆円どころではない。
ならば、ソ連のような統制体制を完璧に運営できると考えることになる。
なお、キリスト教と聖書が全体主義的な志向をを持ちうるということについては、以前、読書メモに書いた次の記事などが参考になるかもしれない。
リンク先をここに貼っておく。
ところで、一般の宗教は「信仰する者、規範を遵守する者は、救済される」と考える。
しかし、この発想は「人間は信仰した、または、規範を遵守した。よって、神はその人間を救済した」ということになり、因果律的な前提を置いている。
また、「人間の信仰・規範順守が神を操るという」という意味で呪術的でもある。
よって、「信じる者は救われる」という発想は「神は絶対にして、総てを決定する」という発想とは相容れないことになる。
その結果、キリスト教社会では「人間が信じれば神が救うのか」、あるいは、「神が一方的に救済するか否か決定するのか」という点が問題になった。
そして、正教・カトリック教会・プロテスタントで結論が分かれた。
そのうち、「神が救済を決定する」を全面的に採用したのが、プロテスタントということになる。
神の絶対性を否定すればキリスト教は成り立たないことを考慮すると、聖書への原点回帰を旨とするプロテスタントがこの見解を採用するのは当然のことである。
もっとも、この予定説はキリスト社会に受け入れられていたわけではない。
なにしろ、この予定説を採用することは、「人間の為す行為は神の意志によるもの、人間の意志決定には何も意味がない」と考えるのと同義なのだから。
自己評価の低かった私はある程度すんなり受け入れることができたが、まあ、普通の人は素直にうなづけないであろう。
イギリスの詩人、ジョン・ミルトンは予定説を批判し、「たとい地獄に堕とされようと、私はこのような神をどうしても尊敬することはできない」と述べたらしいが、それが素直な反応であろう。
日本教徒なら「(空気によって)退治すべき対象」にまでなってしまうかもしれない。
さて、ジャン・カルバンの予定説。
この点について、ユダヤ教からキリスト教を独立させたパウロはどのように考えていたのか。
これに対してカトリック教会はどうしたか。
それらについて見ていきたいところではあるが、分量が相当量になっているので、今回はこの辺で。