今回はこのシリーズの続き。
今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。
25 第3章_日本的根本主義について_(四)を読む
これまで、日本のファンダメンタリズムについて探求するため、キリスト教のファンダメンタリストについてみてきた。
このセッションでは、我々日本人が「ファンダメンタリストの中に、高名な科学者・医者、あるいは、奴隷解放などの理想のために活動する人がいる」事実に対して戸惑いを感じるその背景について考えてみる。
まず、焦点をミュンツァーにあててみる。
彼はキリスト教による共産社会のために奔走し、そして、失敗した。
また、彼は教会・権力者ではなく、農民・職人側の庶民の味方をした。
「農民・庶民の味方」という点に焦点をあてれば、彼を「市民革命の追及者」とみることはできる。
しかし、彼の目的が「市民の幸福」といった合理的・世俗的なものではなく、「キリスト教に基づく神の国の実現」といった宗教的なものの実現にあることは明らかであろう。
日本人が「世俗的(合理的)」・「宗教的」と分けたところで、それは我々の視点に過ぎない。
ルターに対する弾劾を見れば明らかなとおり、ミュンツァーから見ればこの2つは不可分のものだった。
そして、このことからとある現象が見える。
「ある合理性を徹底的に追及する原動力は、実は非合理的な何かを源泉としている」
「その非合理的な何かを失えば、合理性の追求は消し飛ぶ」
「その非合理的な何かを徹底化しても、合理性の追求は消し飛ぶ」
「非合理的な何かを源泉となるのは新しいものではなく古き伝統である」
この現象はファンダメンタリストである高名な科学者にもみられる関係である。
つまり、我々の戸惑いは「合理性と非合理性の併存(両立)」ということになる。
では、彼らは合理性と非合理性をどう両立させているのか。
合理性と非合理性をうまく両立させるためには、両者をうまく配置する必要がある。
そして、うまく配置するためには合理的組織的思考体系が必要になる。
その合理的組織的思考体系を作るのが「神学」となる。
そして、神学によって作られたマップに配置された場合、合理性(科学)と非合理性(宗教)は決して対立するものではなく、一方の追及が他方の成就という関係にある。
本書の記載にはないが、アメリカ合衆国は自由主義・民主主義国家であると言われている。
他方で、アメリカは宗教国家でもある(そうでないなら、大統領は就任の際、どうしてバイブルに手を当てて誓約するのか、ということになる)。
そして、このように書くと、日本人は「自由主義・民主主義と宗教は両立するのか」と疑問に思い、あるいは、戸惑う。
しかし、彼ら(アメリカ人、ないし、ピューリタン)は神学によって自由主義・民主主義とキリスト教をマッピングしている関係で両立すると考える。
この背景にも上に述べた「(神学に基づく)合理性と不合理性の併存」があるのだろう。
ここで、アメリカのピルグリム・ファーザーズによる物語(神話)についてみてみる。
なお、「神話」にポイントをあてるのは人々を拘束するのは神話であり事実ではないからである。
メイフラワー号に乗って新大陸に渡ったピルグリム・ファーザーズの指導者はアルミニウス論争でカルヴァン派に立ったロビンソンである。
ロビンソンは老齢のため新大陸への旅立ちを断念するが、代わりに送別の言葉として聖書の「エズラ革命」の一節を送る。
言い換えれば、ピルグリム・ファーザーズが新大陸でなそうとしたことは「エズラ革命」の再現ということになる。
では、「エズラ革命」でなされたことは何か。
本書の記載によると、「エズラ革命」とは言論によって民衆を説得し、説得された民衆の力を背景に行った革命の物語である。
つまり、エズラは民衆の前に立ち、ユダヤの律法の書(トーラー)を示し、自国の歴史と伝統を説いた。
そして、民衆にトーラーへの復帰と忠誠を説いて、民衆の支持を得た。
さらに、その支持を背景にして、当時の知的支配階級(ベスト・アンド・ブライテスト)を追放・承伏させ、神政制国家を設立する。
この革命の外形を見れば、「民主革命」と言えなくもない。
ただ、当事者にそのような意図がないことは明らかだろう。
ところで、ピルグリム・ファーザーズたちがエズラ革命を再現しようとし、その結果できた国がアメリカ合衆国なのであれば、「アメリカは宗教国家(神政制、セオクラシ―)なのか、それとも民主国家(デモクラシー)なのか、どっちなのか」という質問は無意味だろう。
少なくても、彼らの中では民主制と神政制が深く結合しているのだから。
ただ、その結果できた「民主(的神政)制」なるものが完全な律法主義になってもおかしくない。
あるいは、禁酒法のようなものができても不思議ではない。
さて、時代を近代革命前から1930年頃まで移す。
この時代は大恐慌の時代である。
アメリカではフランクリン・ルーズヴェルトが大統領になり、古典経済学一辺倒の経済政策からニューディール政策へと舵を切ろうとする(この辺は『痛快!憲法学』についてメモした次の記事参照)。
この時代からヨーロッパ諸国は合理主義的民主主義へと舵を切る。
その結果、合理性万能信仰が生まれ、これが指導原理となった。
例えば、大恐慌の時代から二度目の世界大戦を経たアメリカは、知識人たちが合理性に基づいて政権を運営した。
ただ、合理性の背後には合理性万能信仰がある関係で、合理性がある種の権威として振舞うことになる。
また、中国の国共内戦・朝鮮戦争・ベトナム戦争などにおいて合理主義に基づいた政権は失敗を重ねていくことになる(本書の記載、なお、「失敗」なのかどうかの私の評価は留保する)。
そこで、ファンダメンタリストたちは挫折感を味わい、改革を待望することになる。
もっとも、宗教改革やエズラ革命を見ればわかる通り、改革は「過去に戻れ」という復古主義の形を採らざるを得ない。
その結果として生じたのがジミー・カーターとそれに期待するファンダメンタリストたち、ということになる。
あと、「ケインジアンの衰退と古典経済学の復権」もこれに相当するのかもしれない。
一方、「合理性追求の力の源泉は不合理なもの」という点にポイントをあてると、「合理性それ自体は力を持ちえない」ことになる。
つまり、合理性それ自体は目的に向かって疾走する際の制御装置(ブレーキ・ハンドル)にはなるが、燃料・駆動装置(アクセルやエンジン)にはなりえないことになる。
これが、東部知識人の「南部バプテストに征服される」という予見とそれに対する無力感の背景にある考えである。
以上がこのセッションのお話である。
合理と不合理の関係にまつわる話は非常に参考になる。
次のセッションからはこれを下敷きにして日本人のファンディについてみていく。