今回はこのシリーズの続き。
『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。
14 「第2章_イスラムの『論理』、キリスト教の『病理』_第2節」を読む(最終編)
これまで、古代のイスラエルの民が生み出した概念である「奇蹟」と「預言者」を取り上げた。
また、古代のイスラエルの民の発想である「宗教の合理化」によって「因果律」から「予定説」が生まれる過程についてもみてきた。
以上を前提に、イスラム教の「救済」についてみてみる。
既に見てきたように、イスラム教では信者であるムスリムに「六信」を求める。
「六信」における6つの内容は「神・天使・啓典・預言者・来世・天命」である。
そして、ここでは6個目の「天命(カダル)」に注目する。
イスラム教でも天地の間に起きるすべてのことは神の意志によるものであり、この点について例外はないものと考える。
このことは、クルアーンで何度も強調されている。
なお、「クルアーンを和訳したもの」については次のサイトのものを利用させていただいている。
(以下、クルアーンの和訳の第16章の第40節を引用、具体的なリンク先は引用後に記載)
本当に事を望む時それに対するわれの言葉は、唯それに「有れ」と言うだけで、つまりその通りになるのである。
(引用終了)
その意味では、アッラーはイエス・キリストやヤハウェと同様である。
このことからイスラム教は予定説に立脚しているように見える。
もちろん、クルアーンには予定説をにおわせる記述がそこかしこに出てくる。
(以下、クルアーンの和訳の第16章第95節から引用、具体的なリンク先は引用後に記載、なお、強調は私の手による)
もしアッラーが御好みならば、かれはあなたがたを一つのウンマになされたであろう。だがかれは、御望みの者を迷うに任せ、また御望みの者を導かれる。あなたがたは、行ったことに就いて、必ず問われるであろう。
(引用終了)
(以下、クルアーンの和訳の第87章の第1節から第4節まで引用、節番号は省略、節は改行で区別、具体的なリンク先は引用後に記載)
至高の御方、あなたの主の御名を讃えなさい。
かれは創造し、整え調和させる御方、
またかれは、法を定めて導き、
牧野を現わされる御方。
(引用終了)
一方、クルアーンにはいわゆる「善因楽果、悪因苦果」のようなことも書かれている。
(以下、クルアーンの和訳の第53章の第31節を引用、具体的なリンク先は引用後に記載)
本当に天にあり地にある凡てのものは、アッラーの有である。だから悪行の徒には相応しい報いを与えられ、また善行の徒には最善のもので報われる。
(引用終了)
さらに、クルアーンには「大罪でなければ、神はお目こぼしすらありうる」といった表現さえある。
(以下、クルアーンの和訳の第53章の第32節を引用、リンク先は上述のとおり)
小さい誤ちは別として、大罪や破廉恥な行為を避ける者には、主の容赦は本当に広大である。かれは大地から創り出された時のあなたがたに就いて、また、あなたがたが母の胎内に潜んでいた時のあなたがたに就いて、最もよく知っておられる。だから、あなたがたは自分で清浄ぶってはならない。かれは主を畏れる者を最もよく知っておられる。
(引用終了)
この点、慈悲深いアッラーならお目こぼしがあるということは十分ありうる。
しかし、その一方で「では、予定説はどこへ行ったのか」といった問題も生じることになる。
この点、キリスト教の神は峻厳である一方、アッラーは寛大である。
このことは、イスラム教では、人間の行為によって救済リストに入っていなかった者を救済リストに入れる可能性があること、多少の罪を犯しても救済リストから外されないことからもわかる。
しかし、その結果として予定説と因果律の矛盾をどう解決すべきか、という問題が発生した。
なぜなら、人間の自由意思を前提とする因果律と人間を神の操り人形と考える予定説は両立しないからである。
そして、いずれもクルアーンにある記載、つまり、神が仰ったことである。
そのため、人間の判断でいずれかを切り捨てるわけにもいかない。
その結果、イスラム教は予定説と因果律を同時に抱え込むことになった。
この問題はイスラム教の大学者を悩ませる大問題であった。
そして、この複雑な神学的状況についてマックス・ウェーバーは次のように述べている。
(以下、大塚久雄先生が訳された『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の記載について本書に書かれた部分を再引用、なお、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』へのリンクは次の通り)
イスラム教のばあいは、(中略)宿命論的な予定説であり、したがって地上の生活の運命には関係があっても、来世での救いにはなんら関係するところがない
(引用終了)
「宿命論的な予定説」とは次のような考え方である。
この世の出来事、また、人間の運命は神が決めた予定通りの結果となる。
しかし、人間の来世の運命については因果律が成り立つ。
つまり、イスラム教では「この世では予定説、来世では因果律」というように予定説と因果律を振り分けたことになる。
この点を「宗教の合理化」という点から評価すれば、一歩後退したとみることができる。
しかし、このような振り分けによって、信者に対して途方もない安心感を与えた、途方もない緊張感から解放することになった。
この点、予定説においてはその人間が救済されるか否かは神が決めていることになる。
そのため、人間の努力によってその結果が変わることはない。
例えば、「信仰を深めれば救済されるのか」と考えた場合、因果律に従えば「救済される」と考えることになる一方、予定説の立場に立てば「わからない」ということになる。
もちろん、予定説に立っても、「私が信仰を深めるように神が決めたところ、私がその設定に従って動くのであれば、私は救われる可能性が高いだろう」といえるが、あくまで「だろう」にとどまる。
人間の尺度で神をはかれるか、『ヨブ記』はどうだったか。
神は神の都合で自分をキリスト教徒にしたのであって、救済とは関係ないのではないのか、などなど。
その結果、真面目な信者であればあるほど不安はどんどん増していくことになる。
不安を解消するためには信仰を深めるしかないわけだが、これとて一時しのぎにしかならない。
このような観点から中世のカトリック教会の秘蹟といった儀式を見ると、このような緊張を緩和させるための策だったともいいうる。
しかし、イスラム教では救済に関する因果律を導入することでこの緊張感を根本から解消した。
アッラーは万能にして絶対である。
しかし、ヤハウェやイエス・キリストと異なり、アッラーは寛大である。
信仰を守らなかった者を除いて来世での救済を確約する。
一方、現世のことは神が決めたこと、アッラーの御心のまま(いわゆる「インシャラー」)なのだから、くよくよするな。
イスラム教は予定説による問題をこのように解決していった。
カトリック教会の対策と比較するとこれまた対照的である。
話はここからイスラム教における具体的な「救済」、つまり、天国と地獄についてみていく。
まず、対比の観点から、ユダヤ教とキリスト教における「救済」を確認する。
この点、集団救済を旨とするユダヤ教において、「救済」とは「神によるユダヤ民族の現在の惨状からの解放」=「神によるユダヤ人による世界支配」という形で実現することになる。
また、個人救済を旨とするキリスト教でも、救済とは「最後の審判に通過することで『神の国』に入ること」を指す。
このようにみると、ユダヤ教やキリスト教にはも天国という概念がないことがわかる。
ユダヤ教においては「救済」によってユダヤ人が世界の支配者になるに過ぎないし、キリスト教においても地上に打ち立てられた「神の国」に入って永遠の命が得られるのに過ぎないのだから。
もちろん、地上に打ち立てられた「神の国」を天国と評価することができるとしても。
逆に、救済されなかったとしても地獄に落ちて永遠に苦しむというわけではない。
なお、本書にある中村元という方の説によると、釈迦は死後の世界について何も語ってないらしい。
だから、本来の仏教にも天国や地獄がないようである。
この点、古代エジプトの宗教にも死後の世界について考えられていた。
だからこそ、エジプトでは巨大なピラミッドという墓があり、また、王の身体をミイラにしたのである。
それに対して、イスラエルの民は死後の世界について考えなかった。
これはエジプトの宗教に同化されることを嫌ったのであろう。
この死後の世界を考えない発想はキリスト教にも引き継がれた。
しかし、ギリシャ思想には「霊肉二元論」という発想があり、その思想には霊魂や肉体は魂の入れ物に過ぎないといった考え、天国や地獄といった発想があった。
そして、キリスト教がギリシャ文化が浸透したヘレニズム社会に広まった際、「霊肉二元論」がキリスト教に侵入した。
その結果、カトリック教会では、「肉体が滅んでも魂が残る。そして、魂は永遠に生きる。また、生前の行いにより、死後、天国や地獄へ行く」といった考えが採用されるようになる。
また、カトリック教会は「煉獄」といった概念をも作り出す。
つまり、「罪を犯した者が地獄に行く」と考えた場合、人間は大なり小なり罪を犯すことになるから天国に行けることはない。
しかし、そう考えると全員が地獄が落ちてしまい、救いがなくなる。
そこで、カトリック教会が生み出したのが、大罪を犯さなかったが微罪を犯した人間を収容する「煉獄」という施設である。
煉獄に入った魂は業火で焼かれる。
しかし、魂が業火で焼かれると罪が浄化され、浄化された魂は天国に行ける。
著者は「この『煉獄』は人間の機微に触れた素晴らしい発明である」という。
どんなに善良な人間でも罪を犯さないことはない。
しかし、「煉獄があり、そこで業火に焼かれて魂が浄化されれば天国に行ける」と言われれば大いに安心するだろうから。
では、イスラム教では「救済」についてどのように考えているか。
うまり、アッラーがすべての人間を蘇らせ、完全な肉体を与えたうえで、個別に救済の決定を行う。
そして、救済された人間は、永遠の命が与えられて、イスラム教における「神の国」にあたる「天国」、つまり、「緑園」に行くことができる。
だから、キリスト教では「神の国」に入ることが果たして幸せなのかどうかわからない。
しかし、イスラム教では「神の国」に関する具体的な説明がある。
クルアーンの記載を上記サイトから確認してみる。
(以下、クルアーンの和訳の第56章の第10節から第40節まで引用、節番号は省略し、節と説は改行で区別、具体的なリンク先は引用後に記載)
(信仰の)先頭に立つ者は、(楽園においても)先頭に立ち、
これらの者(先頭に立つ者)は、(アッラーの)側近にはべり、
至福の楽園の中に(住む)。
昔からの者が多数で、
後世の者は僅かである。
(かれらは錦の織物を)敷いた寝床の上に、
向い合ってそれに寄り掛かる。
永遠の(若さを保つ)少年たちがかれらの間を巡り、
(手に手に)高坏や(輝く)水差し、汲立の飲物盃(を捧げる)。
かれらは、それで後の障を残さず、泥酔することもない。
また果実は、かれらの選ぶに任せ、
種々の鳥の肉は、かれらの好みのまま。
大きい輝くまなざしの、美しい乙女は、
丁度秘蔵の真珠のよう。
(これらは)かれらの行いに対する報奨である。
そこでは、無益な言葉や、罪作りな話も聞くことはない。
只「平安あれ、平安あれ。」と言う(のを耳にする)だけである。
右手の仲間、右手の仲間とは何であろう。
(かれらは)刺のないスィドラの木、
累々と実るタルフ木(の中に住み)、
長く伸びる木陰の、
絶え間なく流れる水の間で、
豊かな果物が
絶えることなく、禁じられることもなく(取り放題)。
高く上げられた(位階の)臥所に(着く)。
本当にわれは、かれら(の配偶として乙女)を特別に創り、
かの女らを(永遠に汚れない)処女にした。
愛しい、同じ年配の者。
(これらは)右手の仲間のためである。
昔の者が大勢いるが、
後世の者も多い。
(引用終了)
ちなみに、イスラム教は現世での飲酒を禁じている。
もちろん、偶像崇拝の罪に比べれば微罪であり、その後の善行で帳消しにできるものだったとしても。
この点は、「天国はこのようなうまい酒があって、しかも、いくら飲んでも酔わないのに、なんで地上の(まずい)酒なんか飲む必要があるんだ」ということらしい。
この点、日本教から見た場合、イスラム教は規範でがんじがらめにされているように見え、この結果として、「イスラム教は禁欲的な宗教である」ように見える。
しかし、イスラム教は欲望を否定していない。
というのも、イスラム教では「天国に行って至上の快楽を求めたほうが、現世で質の低い快楽を求めるよりもマシである」と考えているのに過ぎないからである。
この点は、修行者に対して飲酒・金儲けなどを禁止し、あらゆる欲望を断つことを目的とする仏教とは対極的である。
さらに、アッラーの99の美質には「勘定高い」という点がある。
つまり、アッラーは商売上手の神様でもある。
このことはクルアーンにある言葉からも伺われる。
(以下、クルアーンの和訳の第2章の第245節を引用、具体的なリンク先は引用後に記載)
アッラーによい貸付をする者は、誰であるのか。かれはそれを倍加され、また数倍にもなされるではないか。アッラーは、乏しくもまた豊かにも自由自在に与えられる。あなたがたはかれの御許に帰されるのである。
(引用終了)
この「神に貸付けせよ」という表現、仏教には当然ない。
しかし、イスラム教ではアッラーは商売の論理でも語ることができる。
だから、「善行をせよ」という表現は「アッラーに貸付せよ」と表現することになる。
「善行が報われる」という表現も「後でたくさんになって返ってくる」といった表現することになる。
さらに、最後の審判についても次のような記載がある。
(以下、クルアーンの和訳の第3章第25節を引用、具体的なリンク先は引用後に記載)
疑いの余地のないその日、われがかれらを集める時には、どのように(かれらはなるだろう)。各人は、自分の稼いだことに対し(十分に)報いられ、不当に扱われないのである。
(引用終了)
日本人から見れば、「なんと明け透けなことか」と考えるかもしれない。
もちろん、このような表現の背景にはマホメットが生きていたころのアラビア社会が商業で栄えていたこと、マホメット自身も商売をしていたことに由来する。
ただ、アッラーは恐ろしくアラビア社会に通じているようである。
全知全能なんだから当然と言ってしまえばそれまでだが。
以上は緑園、つまり、天国の話である。
では、地獄についてはどうか。
こちらについても具体的な記載がある。
(以下、クルアーンの和訳の第56章の第92節から第94節まで引用、節番号は省略し、節と説は改行で区別、リンク先は上述の通り)
もしかれが、嘘付きで、迷った者であるならば、
煮え立つ湯の待遇を受け、
獄火で焼かれよう。
(引用終了)
つまり、イスラム教では、最後の審判によって有罪と判定された人間は完全な肉体を持ったまま地獄に堕とされる。
そこでは、熱湯や烈火にあぶられ、大蛇やサソリによって苦しめられるといった形ですさまじい苦痛に襲われることになる。
もちろん、完全な肉体をもっているため、その苦痛がやむことがない。
この点は、「永遠の死」で終わるキリスト教とは対照的である。
だから、イスラム教徒は「天国は退屈だなあ」と考えたとしても「地獄に行かない」ために善行や信仰に励むことになる。
以上、イスラム教における救済と救済の先にある緑園(天国)と地獄についてみてきた。
このように見れば、イスラム教の明快さがわかる。
つまり、キリスト教の予定説はわかりにくい。
さらに、信じたところで救われるか否かがわからず、真面目であれば真面目であるほど不安になる。
一方、イスラム教の救済は「信じたものは救われ、信じないものは救われない」という意味で明快である。
また、微罪であれば挽回のチャンスもある。
さらに、アッラーは慈悲深く、人間の欲望自体は否定しない。
このように見えると、イスラム教は現実主義的で、信者に甘いのではないかと考えるかもしれない。
しかし、このイスラム教からは昔から暗殺者やテロリストを出してきた。
例えば、英語の暗殺者(アサシン=assassin)という言葉はイスラム教の「暗殺教団」が語源になっている。
この集団は文字通り「一人一殺」でイスラム教の敵を抹殺してきた。
さらに、今日のイスラム教徒による暗殺・自爆テロもそうである。
この暗殺とテロの歴史とイスラム教のアッラーの慈悲深さはどのようにリンクするのか。
これについては次節について述べていく。
というのが、本節のお話である。
非常に参考になった。
この先もどんどん読んで、理解を深めていきたい。