薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『日本人のためのイスラム原論』を読む 27(最終回)

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人のためのイスラム原論』を読んで学んだことをメモにしていく。

 なお、今回が最終回である。

 

 

27 本書の感想

 最初の感想はこちらである。

 

イスラム教SUGEEEEEE」

 

 なにやらキリスト教すげー」と似たような感想を持つことになったが(詳細は次のメモの通り)、「すごい」と感じたことは事実である以上、その感想を書くしかない。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 

 次に、「世界を知るためには、イスラム教とイスラム教社会についても知っておく必要がある」という感想をもった。

 以前、イスラム教社会の歴史に関する本(次のリンクの通り)読んだが、機会があれば再読したいと考えている。

 

 

 また、「足らない分野を補う」という観点から見れば、中国とインド、そして、アフリカ(特に、サハラ砂漠以南)と南アメリカの歴史も見ておきたいと考えている。

 優先順位としては中国とインドが先に来るだろうが。

 

 

 さらに、非常に優れたイスラム教の教えを見ながら、「苦悩するイスラム教社会」と「『セイの法則』の理論公害で一度大きく勢力を削られた古典経済学派」がダブって見えた

セイの法則」の理論公害については次のメモで見たとおりである。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

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 つまり、「セイの法則」に頼りすぎた古典経済学派は大恐慌という歴史的事件に対して有効な手を打てず、結果、ケインズ派に押される事態を招いた。

 同様に、イスラム教社会も「非常にバランスがとれているイスラム教」に頼りすぎた結果、近代という一種のモンスターに対応できないでいるように見えた。

 もっとも、この点についてはイスラム教が生まれてから19世紀までがうまく行き過ぎたのではないか」という感じもしないではないが。

 

 

 最後に、私の浅はかな考えではあるが、「『規範』があり、かつ、『預言者が現れることがない』という事情がある以上、イスラム教を維持したままの近代化は難しい。とすれば、近代とは別の手段で近代(欧米列強)に匹敵する経済力や軍事力を維持することを考えたほうがいいのではないか」という感想を持った。

 その一方で、キリスト教宗教改革が成功したのは、『規範』がなかったからではないか」という感想をも持った。

「信仰のみっ!」と叫べたからこそ、過去の「規範」にこだわる必要がなかった

「規範」という原則と例外の合法的な境界がなかったからこそ、原則と例外の関係を自由に変更することができ、また、原則に基づいた徹底的な思考ということができた。

 その結果、二極に大きく揺れるという弊害があるとしても(この傾向はアメリカに大いにみられる)。

 

 さらに言えば、日本の「規範なし」という特徴は日本の近代化に大いに貢献したのだな、という感想ももった。

 もちろん、これが現代日本の構造的アノミーの源泉にもなっているので、一長一短なところも否定できないが。

 

28 日本教の立ち位置

 私が本書を読んだ目的は「他の宗教を通して日本教を理解すること」にある。

 というのも、日本教には言語によって作られたドグマがないように見える(ドグマとして機能するのは「空気」である)ので、他の宗教と比較しながら「同じ機能を果たすもの」を見ていく必要があるからである(この発想で日本教を見たのが後日メモにする予定の「『日本教』の社会学」である、なお、本書のリンクは後述)。

 

 まず、世界の宗教をざっくり分けてみる(わからない部分は不明としておく)。

 

・仏教

救済は個人単位、規範あり、切迫性なし、因果律、崇拝対象は不明

儒教

救済は集団単位、規範あり、切迫性不明、因果律か予定説については不明

崇拝対象は「天」(人格なし)

ユダヤ教

救済は集団単位、規範あり、切迫性不明、因果律

崇拝対象は「ヤハウェ」(人格のある一つの絶対神

キリスト教

救済は個人単位、規範なし、切迫性あり、予定説

崇拝対象は「神」(人格のある一つの絶対神

イスラム

救済は個人単位、規範あり、切迫性なし、宿命論的予定説

崇拝対象は「アッラー」(人格のある一つの絶対神

 

 よくわからない部分は「不明」にしているが(今後、補填する予定である)、本書で見てきた範囲であれば、このような感じになるであろうか。

 

 

 では、日本教はどのようになるであろうか。

 

 まず、「規範なし」ということは言えそうである。

 この点は、本書で言及されている日本の歴史を見ればわかる。

 

 次に、「切迫性」もなさそうである。

 この点は、予定説を信じてコーリング(ベルーフェ)に邁進するピューリタンプロテスタント)たちが持っていた不安感・切迫感が日本人にないことから判断した。

 また、日本が儒教や仏教の教えの影響を受けていることを考慮している。

 この点、近代化に邁進した明治時代・高度経済成長に邁進した戦後を見ると、日本人に切迫感があるように見えるが、社会状況が切迫感をもたらしたとはいえ、日本教それ自体に切迫感が埋め込まれている感じはしない(もっとも、この辺はよくわからない)。

 

 さらに、日本は崇拝対象が多数ある「多神教と考えられる。

 この点は、山本七平の書籍(具体的なメモは次のリンクから)から判断した。

 

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 あと、予定説と因果律についてはどうだろうか

 山崎安斎たちが提唱した学説、つまり、明治時代の神学から考えると「予定説」になるらしい。

 また、日本の自然の豊かさを考慮すると、「因果律」よりも「予定説」になりそうな気もする。

 何故なら、「自然から恵みを受けること」に対する人為的条件というものがイメージしづらいからである

 もっとも、自信はない。

 

 あと、日本の歴史を見ると、集団救済のように見える。

 ただ、この辺はよくわからない。

 

 以上をまとめると次のようになる。

 

日本教

救済は集団単位、規範なし、切迫性なし、予定説(無条件救済)

崇拝対象は周囲の多数ある自然など(多神教

 

 こんなところだろうか。

 この部分は別の本を見ながらさらに補強していていく予定である。

 

 

 以上で本書のメモを終わる。

 今後の予定だが、まずは次の2冊のうちのどちらかを読みたいと考えている。

 

 

 こちらは中国に関するお話

 イスラム教についてみたのだから、中国についても見る必要があると考えられる。

 特に、日本と中国は密接にかかわっていたのだから、この本を読むことは日本(日本教と日本社会)の理解にもつながるはずである

 

 

 こちらは近代科学、そして、形式科学たる数学のお話

 近代を理解するために役に立つと考えたため、この本もメモにしようと思う。

 

 以上の2冊を見た上で、本丸たる日本教に乗り込もうと考えている

 具体的に読む本は次の2冊である。

 

 

 

 また、各論に相当する本として次の2冊も読みたい。

 

 

 

 この点、日本教・日本社会などについて読みたい本は他にもある。

 また、それらの本のうちメモにするレベルまで深く読みたい本もある。

 しかし、とりあえずはこれらの6冊をメモにすることを目標にする。

 もちろん、今後、読書ブログに回せる時間が激減していくことを考慮すれば、これらの6冊が終わるのは最低でも来年末、もしかしたら再来年になるかもしれないが。