今日はこのシリーズの続き。
『経済学をめぐる巨匠たち』を読み、経済学に関して学んだことをメモにする。
なお、今回が最終回である。
18 感想
この書籍を読んだ理由は経済学の概要を学ぶことであった。
そして、「単に読む」だけではなく「このブログでメモを作る」という作業を行うことで、この目的は達成できたと考えている。
ただ、この本を読んだ感想(学んだ内容ではない)について頭に浮かんだことがいくつかあるので、最後にそれらについてメモにしておく。
第一の感想は「キリスト教SUGEEEEE」である。
『痛快!憲法学』で資本主義の背後にキリスト教であることは知っていたが、改めてそれを確認するとともに、キリスト教(新教)のすごさを確認した。
ジャン・カルヴァンによる聖書の解釈とそれが及ぼした影響についてはすごいなあ、と。
もちろん、ジャン・カルヴァンの聖書解釈に影響を受けて、邁進していった人たちもすごいというしかない。
さらに抽象化させると、キリスト教やイスラム教等の宗教(個人を対象とする一神教)はすごいというべきか。
宗教的情熱・不合理についても私はもっと知るべきなのかもしれない。
あるいは、渋沢栄一の言う「論語と算盤」のうちの「論語」についてもっと知るべき、と言うべきか。
ところで、資本主義の背景にはキリスト教があることは確認した。
しかし、そうだとすると、日本にヨーロッパ・アメリカのいうところの資本主義が根付くのかは微妙だなあ、という感想を抱いた。
「勤勉は美徳」という精神はなくはないが、資本主義的な観点から見れば「目的合理性精神」と「勤勉は美徳」の両方の精神が必要だし(「目的合理性精神」はトップの人たちがもち、トップ以外の人はただトップに従うという方法で多少はフォローできるだろうが)、利潤の正当化については完全に怪しい。
ただ、それはしょうがない気がする。
次に、経済学の背後にある「思想の重要性」を改めて実感した。
もちろん、経済学を使ってあれこれ論じるのであれば、理論の具体的な結果や道具の使い方を知らなければ話にならない。
でも、道具の使い方と理論の結果しか知らなければ、道具に不具合が生じた場合に右往左往することになる。
理論による結論と現実の乖離の原因、理論の修正の方法などが分からないからだ。
この部分に、日本のファンディがもたらす欠点、あるいは、いわゆる「敗因21か条」の思想的不徹底の部分を思い出さざるを得なかった。
さらに、「資本主義というのは優曇華の花である」という感想も持った。
『痛快!憲法学』に「民主主義は優曇華の花である」ということが書いてあった。
しかし、資本主義も民主主義に負けず劣らず優曇華の花だなあ、と感じざるを得なかった。
この点、資本主義以外のシステム、例えば、前期的資本によって資本主義が作り出した富以上の富を生み出すことができるならば、あまり気にする必要はない。
しかし、前期的資本では資本主義以上の富を生み出せないならば、この「優曇華の花」を維持しなければならないことになる。
その辺はどうなのだろう。
この点について知るために、ソ連や中国についてもっと見る必要があるのかもしれない。
あるいは、イスラム社会についても。
最後に、未来を考える上で役に立つものを学ぶことができた。
例えば、「社会の前提に『経済と宗教』がある」という前提を置いたマックス・ウェーバー。
また、「資本主義は成功によって滅びる」と述べたヨーゼフ・アイロス・シュンペーター。
この「成功によって滅びる」というのは資本主義だけに当てはまる話ではなく、射程の範囲が広そうである。
さらに、弟子・後継者に恵まれなかったカール・マルクス。
この点、資本主義は早晩限界を迎えるものと思われる。
というのも、資本主義のもたらす環境負荷に地球が耐えられないと考えられるからである。
「そのためにどうするのか」ということを考える際、今回学んだ思想は大いに役に立つだろう。
まあ、日本のファンディはこの「思想」の部分を見ないだろうから、日本が思想を活かせるかと言われれば甚だ怪しいと言わざるを得ないが。
以上、この本から様々な知識を得ることができた。
また、新たな知識を獲得することで私は猛烈な強度を獲得することができた。
しかし、「強度の獲得」だけで終わらせるには少々もったいない。
また、これまでの私の経験を今回得られた知識を使って評価することで違った面を見ることが出来そうな気がする。
そこで、この「違った面」についてその内容をまとめて発表するのも面白いのではないかと考えている。
もっとも、その内容はこのメモブログでは発表しないが。
なお、来週からは司法試験の過去問等の途中で終わっている記事を最後まで完成させていこうと考えている。
山本七平・小室直樹関係の書物を読んでメモを作ることは来年になってから始める予定である。
ただ、次はこの本に挑戦しようと考えている。