今回もこれまでの続き。
今回も山本七平氏の書籍から学んだことをメモにする。
10 「第10章 思想的不徹底」を読む
今回が関連する敗因21か条は次の4つである。
(以下、敗因21か条より引用)
敗因十六 思想的に徹底したものがなかった事
敗因五 精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)
敗因七 基礎科学の研究をしなかったこと
敗因六 日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する
(引用終了)
この敗因は相互に関連がある。
その方向性を示せばこうなる。
思想的不徹底→(劣勢時における)精神的な弱さ
思想的不徹底→不十分な思想・学問(空中楼閣)の蔓延
不十分な思想・学問(空中楼閣)の蔓延→基礎科学への無関心
基礎科学の前提を欠いた思想・学問(空中楼閣)→現実に即した応用の不能
本章は、マニラ赴任後に故・小松真一氏が見た軍属たちの話が紹介されている。
彼ら(紹介されている軍属)は自分をいかなる思想で律しているかという発想がない。
その一方、自ら責任を自覚しなければ無責任でいられるというある種の特権階級にいた。
その結果、彼らは奇人・変人ぶりを露呈し、道化に転落してしまう。
そして、自分を律する思想がない結果、精神的にもろく、結果、その人の行動は場当たり的になり、かつ、一貫性を欠いてしまう。
なお、今回は批判的に書いたからこうなったが、批判的に見なければ「まあ、普通はこうなるのでは?」とも考えられなくもない。
次に、本章では、故・小松氏の調査の結果が紹介される。
故・小松氏は技術者として真面目に調査したが、結果的に(ブタノールの)増産は不可能という結論が出て、総てが無駄に終わる。
そこで、故・小松氏は「用が済んだのでお役に立てる場所があるから内地に帰る」と人事に掛け合うと「一年は南方にいてくれないと軍の威信にかかわる。勲章の件もあるから我慢しろ。みんな我慢している」と言われる。
これでは、上に述べた変人でなくても遊民にならざるを得ない。
この点、上に述べた道化に転落した軍属たちの問題は個人の問題と言える。
しかし、いま述べた件は組織の問題である。
つまり、思想的不徹底は個人のみならず、組織にもあてはまったわけである。
まあ、組織と個人が連動しないというのは考えにくいので、これまた当然と言えそうだが。
以上をまとめると、本章から引き出すべき教訓は次のようになる
・自分を律する思想(徹底的に考え抜いたもの、中途半端に考えた空中楼閣ではない)を持たなければならない
・自分の思想に適合する技術を開発するための「基礎科学の研究」をしなければならない
実は、後者が手段、前者が目的の関係になっている。
とすれば、大事なのは「徹底的に考えた思想」ということになる。
もっとも、気になるのは「それは可能なのか」ということである。
言い換えれば、「どうやったらそれは可能なのか」ということになる。
どうなのだろう。
さて。
以下、少し私の過去に引き直して考えてみる。
思うに、私にも「徹底さ」がなかった。
もっとも、それに気付いたのはだいぶ後になってからだが。
私が「徹底さ」が必要なことに気付いたのは、ある「自分が『模倣』しているもの」の根拠に対して「なぜ?」と問いかけたときに明確な回答が出なかったことである。
そこで、「一度、自分なりに徹底的に突き詰めてみよう」と考え、「何故?」を突き詰めて考え抜いてみた。
その結果、「この部分は(現段階では裏付けがなく)仮説で支えているに過ぎない」・「この部分は実測による根拠がある」などと自説を支えている根拠の強さが精確に分かり、自説についての理解(弱点も含む)が深まったわけだが。
この点、総ては「模倣」から始まる。
この「模倣」のタイミングで「模倣」の対象について徹底的に疑っていたら、「模倣」自体達成できないだろう。
とすれば、「不徹底」は欠点だけを生み出すわけではない。
しかし、「あるタイミングで徹底的に考える必要がある」ことも間違いない。
そして、より徹底的に考える(「『何故?』の方向に深く考える」と言い換えてもよい)ことで、単なる「模倣」から自分のものになるように思われる。
これは所謂「守破離」の考え方に似ている。
すると、思想的不徹底の問題は「十分に能力があるのに『守』にしがみつき、『破』または『離』の段階に移らない問題」と言い換えられるのかもしれない。
この言い換えが正しい保証はないが、そう考えると「思想的不徹底」に対する突破口が見出せそうだ。
こう考えれば、思想的不徹底が生じる理由は「『守』の段階に安住できてしまうから」と言えるし、また、「『守』の段階に安住できなくすること」が解決の方法になるのかもしれないので。