今回はこのシリーズの続き。
旧司法試験・二次試験の論文式試験・平成11年度の憲法第1問についてみていく。
この点、前々回から憲法外の視点から本問を見ている。
ただ、前々回からみている論点については今回で終了したい。
なぜなら、この辺にしないと話に収拾がつかなくなるからである。
15 人権享有主体性について
前々回から死刑囚の発信不許可処分最高裁判決(平成7年(行ツ)66号発信不許可処分取消等事件平成11年2月26日最高裁判所第二小法廷判決、リンクは省略)の反対意見を見ながら、日本教から見た場合の違憲審査基準その他について考えた。
次に、日本教の観点から見れば、本問のような既決者の発信の自由の制限が問題となる場合、用いるべき違憲審査基準は「『相当の蓋然性』の基準ではなく、『一般的・抽象的なおそれ』の予見で足りると考えているのではないか」という仮説を立ててみた。
さらに、人権思想と日本教の相性を見る前提として、いわゆる「法律の留保」と「公共の福祉」について比較した(なお、本当は今回のメモで用いる予定であったが、問題点の予想以上の深さから今回は触れない、ただし、いずれ触れたいと考えている)。
今回は「人権総論の論点(いわゆる人権享有主体性)に関する日本教の評価」をみていきたい。
まず、人権の背後にある思想を確認する。
なお、『痛快!憲法学』の読書メモを活用する。
この点、人権がキリスト教、または、ジョン・ロックの思想を前提としているのは既に見てきた通りである。
概要を確認すると次の通りとなる。
1、人権は前国家的なものであるから、『人』であれば等しくその権利がある
(生命・自由・財産の不可侵)
2、社会を営む都合上、人々は社会契約=憲法を締結し、政府に与えた
(社会契約説)
3、契約=憲法や政府の行為に不適切な部分が現れれば、人々はそれを改廃できる
(抵抗権)
この思想が生活と関連している、また、この思想を採用するという意思があるので、アメリカとヨーロッパでは憲法が実効的に機能している面がある。
では、日本ではどうか。
ここで、福沢諭吉の『痩我慢の説』を取り上げる。
というのも、この文章の序論で興味深いことを述べているからである。
『瘦我慢の説』の序文は「立国は私なり、公に非ざるなり」から始まるわけだが、その後に次の文章が続く。
(以下、『痩せ我慢の説』から引用、強調は私の手による、リンクは後述)
地球面の人類、その数億のみならず、山海天然の境界に隔てられて、各処に群を成し各処に相分止むを得ずといえども、各処におのおの衣食の富源あれば、これによりて生活を遂ぐべし。
また或は各地の固有に有余不足あらんには互にこれを交易するも可なり。
すなわち天与の恩恵にして、耕して食い、製造して用い、交易して便利を達す。
人生の所望この外にあるべからず。
(引用終了)
そして、この後、「なんで人間は勝手に境界を引いて国家を作るんだ?(以下略)」と続く。
もちろん、福沢諭吉の主張は引用後に続くわけだが、ここではその前段階の認識の部分を見ておきたい。
ここで、福沢諭吉は「生きる上で望むこと」として、「天からもらった恩恵(太陽光や土地や海の恵み)を用いて、(勤労により)農作物を生産して食べ、(勤労により)道具を作って用い、余剰・不足分があればそれを(勤労により)交換して豊かに生きる」と述べている。
実は、この福沢諭吉の発想とロックの思想の背後にある「勤労の思想」は似ているなあ、と考えるがどうなのだろう。
もっとも、この福沢諭吉の発想が当時の臣民、または、現在や将来の国民に共有されているかは分からない。
そこで、山本七平氏や小室直樹氏らの書籍を見ながらこの辺を考えてみる。
参考にする書籍や読書メモは次のとおりである。
それから、読書メモは作っていないが、最近読んだ次の書籍も参考にしたいと考えている。
この点、資本主義・立憲主義・民主主義を成立させたキリスト教の特徴として次の要素がある。
救済は個人単位
規範なし(ただし、信仰は求められる)
原則予定説
崇拝対象は「一つの絶対神」
ユダヤ教から派生(契約準拠)
他方、私は上記書籍を通じて「日本教」の概要として次のような輪郭を作っている。
・日本教
救済は集団単位
規範なし(「空気」が規範として機能する)
予定説(無条件救済)
崇拝対象は「周囲の多数ある自然その他(多神教)」
以上を前提に、日本教から「人権の固有性・不可侵性・普遍性の原則」という人権総論の核に属する発想(人権享有主体性)までリンクさせることができるであろうか。
現時点で結論を出せばかなり苦しいと考えられる。
もちろん、「憲法」に「空気」が伴わせれば十分に可能であるが、それについては今回は考えない。
また、一時的に憲法に「空気」を伴わせたところで、「水」を差され続ける結果として「空気」は雲散霧消するので、この手段はあまり意味がないと考えている。
苦しいと考える大きな要素が「集団単位」と「多神教」という組み合わせである。
人権思想を持つキリスト教は「一神教」+「個人単位」+「規範なし」という組み合わせである。
これに対して、日本教は「多神教」+「集団単位」+「規範なし」という組み合わせである。
とすれば、救済単位は集団であって、個人でない。
つまり、人権享有主体性の「個人」の部分が出てこない(人権の固有性の不在)。
また、多神教である結果、全員が信仰する対象はある種ばらばらである。
その結果、「(等しい)権理」という統一概念に持っていくことが容易ではない(人権の普遍性の不在)。
以上より、日本に妥当するものは「人権」ではなく「家権」のようなものではないかと考えられる。
もちろん、「家」の部分には、「団体」・「企業」・「村落」・「共同体」を代入してもよい。
また、日本で個人の権利保護をうたうなら、そのような「家権」のようなモデルを前提として、個人を可及的に保護する体制を作った方がいいのかもしれない、と考えることもある。
もちろん、現在の日本のプレゼンスの大きさと国際化の流れを考えれば、現実的には不可能だろうが。
さらに言えば、私個人としては流浪の民のような状況であり、人権モデルの方が圧倒的に有利であり、「家権」を前提とするようなモデルを望む気はほとんどないのだが。
ところで、以前からこの問題について一度検討したいと考えていたが、考えていたよりもずっと奥が深すぎる。
よって、今回の検討はこの辺で終え、もう少し書籍を読んでから取り組みたい。
「これでは『尻切れトンボ』であり、『検討不十分』ではないか」という批判は十分承知の上で。
最後に、憲法の前提たる「社会契約」の観点から見た気になる点を取り上げ、この手の問題を終わりにする。
16 論理の拒絶について
最近、私は『数学嫌いな人のため数学』を読んでいる。
そして、この本を見ていて、憲法との関係で重要なことが書かれていたので、それを確認する。
それがいわゆる「『空』の思想」と「論理の否定」である。
『数学嫌いな人のための数学』では、「『空』の思想」と数学や資本主義との相性の悪さについて述べているが、同様に立憲主義との相性の悪さも示していることになる。
何故なら、アメリカ・ヨーロッパにある立憲主義・民主主義・資本主義の背後にあるものは同じだからである。
さらに言うと、この「『空』の思想」と「論理の否定」は問題の解明を複雑化している。
何故なら、「論理の肯定」がある場合、両者の思想を言語化して比較参照することができる一方、「論理の肯定」がない場合、それができないからである。
このことは「キリスト教とイスラム教の比較」・「キリスト教と儒教の比較」が日本教との比較と比べて容易であることから推測することができる。
そして、そう考えるとこの問題に踏み込むことに躊躇せざるを得ない。
まあ、対外的な要請に応じてこの問題を見ているわけではないので、別に踏み込むことをやめてもいいのだけれども。
まあ、「結局のところ、よくわからない」以外の感想がないけれども。