薫のメモ帳

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『数学嫌いな人のための数学』を読む 14

 今日はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『数学嫌いな人のための数学』を読んで学んだことをメモにする。

 

 

14 第3章の第2節を読む(中編)

 本節は「私的所有権の抽象性や絶対性」についてみている。

 そして、前回は「私的所有権の絶対性」についてみてきた。

 今回はこの続きである。

 

 本書で著者(故・小室直樹先生)は述べる。

 過去はおろか現在の日本でさえ「所有権は絶対」ではない

 このことが日本の市場法則にどれほどの制約を課してきたであろうか、と。

 当然だが、著者の主張は「所有権の絶対が原則に過ぎないとしても、日本にはその例外が山ほどありすぎる」という意味であることには注意が必要である。

 

 

 そして、この制約の背後に日本の腐朽官僚制にあることが述べられている。

 つまり、資本主義体制の官僚制は依法官僚制でなければならないのに、日本では依然家産官僚制のままである、と。

 この点は次の読書メモで触れられている。

 

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 ただ、この腐朽官僚制の背後には所有権の絶対性の欠落という要素がある。

 この点については、次の読書メモが参考になる。

 

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 以下、この点について日本の歴史を遡ってみてみる。

 

 徳川時代は資本主義社会ではないので当然と言えば当然であるが、「所有権の絶対性」に反する例がいくつかあった。

 その例を示すと、棄捐令・闕所・お断り・御用金の4点である。

 

「棄捐令」はいわゆる「徳政令」のことで債権(借金)を無効とするものである。

 松平定信による棄捐令により札差(金貸し)が被った損失は約120万両となったと言われている。

 また、「闕所」というのは豪商に冤罪をかぶせて死刑などの重罪にし、財産を没収する制度である。

 さらに、「お断り」とは大名が町人から金を借りてその返済を拒絶することである。

 これによって破産せざるを得なくなった豪商もいると言われている。

 最後に、「御用金」とは富豪税(財産税)である。

 

 まあ、前期的資本による世界であれば、ある種どこでも見られることかもしれない。

 それゆえ、徳川時代のシステムにあれこれ言うのはどうかという感じがしないではない。

 

 

 そして、本書は「所有権の絶対性」とキリスト教の関係について話題に移る。

 ただ、これについては次の読書メモが参考になるため、読書メモへのリンクを貼るにとどめる。

 

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 結論から言えば、所有権の絶対性は「キリストと人間」という「創造者と被造物」の関係を所有に応用することによって生まれたことになる

 

 

 そして、話は「経済学と数学の関係」に進む。

 つまり、現在の経済学(資本主義)に数学(近代数学形式論理学)を導入できたのは「抽象性を獲得したから」である、と。

「抽象性の獲得」は「単純化と言ってもよい。

 なお、「抽象性の獲得」によって数学を導入し、かつ、大成功した別の学問の例としてば物理学がある

 この辺は次の読書メモが参考になる。

 

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 この話は数学との関連性を考えるなら極めて重要である。

 そこで、改めて説明する。

 

 まず、古代ヘレニズムにおいて幾何学と数学が結合した。

 これができたのは点・直線・円などの図形といった諸図形、つまり、幾何学で用いられるパーツが抽象性を獲得したから、となる。

 

 例えば、ここでいう「直線」には長さがあるが太さがない

「点」にはその場所に存在するとされているが大きさがない。

 こんなものが具体的(現実)に存在しないこと、抽象的(架空)の存在に過ぎないことは明白である

 何故なら、現実ではどれだけ小さくすることはできてもゼロにすることはできないからである。

 例えば、絶対零度に到達することができないように、極限値には到達できないように。

 

 このような抽象化・単純化したパーツを用いてユークリッド幾何学は成立・発展した。

 そこで、ユークリッド幾何学は抽象的な架空の世界のお話に過ぎないことになる。

 しかし、この抽象化・単純化により計算コストが下がり、ユークリッド幾何学は飛躍的に発展することになる。

 

 この抽象化・単純化による成功例は物理学に山ほどある。

 例えば、質点が挙げられる。

 この質点は「質量はあるが大きさがない」存在とされている。

 当然だが、現実において質点は存在しえない

 というのも、実在するはずの質点の比重(密度)は無限大となってしまうからである。

 ニュートン力学はこの質点の運動からスタートするので、ニュートン力学ユークリッド幾何学同様、架空の世界の理論に過ぎないではないかと笑い飛ばすこともできるはずである。

 特に、日本教徒のような実利にしか関心がなく、背後の理論・モデルに関心のない人間であれば以上の感想を持つことは全く不思議ではない。

 ところがどっこい、このニュートン力学が物理学の基礎になったことは歴史が示すとおりである。

 このニュートン力学の発展の背後にあったのが「抽象化による数学の全面的活用」である。

 

 当然だが、「抽象化による数学の全面的活用」が成功を保障するわけではない。

 しかし、社会科学でこの「抽象化による数学の全面的活用」によって成功した例が経済学である。

 リカードの理論は表面部分に数学がないだけで、背後には数学が利用されている。

 マルクスは経済学における数学の使用を奨励した。

 ヒックスやサミュエルソン以降は数学の利用は当然となっている。

 なお、本書にない巨匠にレオン・ワルラスを入れてもいいかもしれない。

 

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 では、この経済学とは何を研究する学問か。

 これは次のメモで述べた通り、資本主義社会の経済法則と言われている。

 この観点(単純化したものとの批判がありうるが)から見ると、研究対象がかなり絞られているなあ、という感想を持つ。

 この対象の限定に「抽象化による数学の全面的適用」の副作用を感じなくもないが。

 

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 この限定は他の社会科学と比較すればわかる。

 例えば、政治学古代ギリシャの政治哲学からスタートしている。

 また、法学もローマ法が重要な基礎テーマとなっているし、古代中国やソビエト法さえ研究対象となる。

 このように政治学や法学においては資本主義社会以外の社会でさえ研究対象になる。

 もちろん、社会学も然り。

 というか、社会学では人間社会だけではなくサル社会を研究することだってある。

 また、心理学は人間の行動ではなく、ネズミの行動が研究中心となっていた。

 さらに、人類学では単純社会の研究で画期的な業績を上げ、方法論が確立された。

 その観点から見れば、資本主義社会は複雑すぎて研究が困難である。

 このように、他の社会科学と比較すれば経済学の研究対象はかなり限定されているということになる

 

 とはいえ、例外的であってもいいので、他の社会の経済研究をすることはないのか、という疑問が頭に浮かぶかもしれない。

 本書ではその点について補足されている。

 つまり、旧ソ連では社会主義経済に関する経済研究がなされていた。

 しかし、その方法論を見るや資本主義の経済学、いわゆるブルジョワ経済学に過ぎなかった、と。

 まあ、マルクス自身の目的が資本主義社会の経済法則にあった以上、これはしょうがないことなのかもしれないが。

 

 

 以上、経済学が数学を全面的に導入できた背後に「所有権の抽象性」があることを見てきた。

 この所有権の抽象性は資本主義社会に見られる特異的な現象であることはこれまで見てきたとおりである。

 

 なにしろ、現代でさえ動産、特に、不動産以外の物で登録制度のない動産については「占有」の力が大きいのだから。

 このことは日本の民法に「占有権」という章が「所有権」の章よりも前にあることからもわかる。

 あるいは、民法192条の即時取得の条文からもわかる。

 この条文は「物の占有」に所有権があると信頼・誤信して動産の譲渡を受けたときに所有権が取得できるという条文である。

 ちなみに、不動産には同様の条文はない(民法94条2項類推適用という類似の手段があるだけである)。

 

民法192条(即時取得

 取引行為によって、平穏に、かつ、公然と動産の占有を始めた者は、善意であり、かつ、過失がないときは、即時にその動産について行使する権利を取得する。

 

 そして、中世においては「現実の占有」と「所有」が不可分だった

 言い換えれば、中世においては「具体的な占有が必要」という意味で所有権は抽象的ではなかった、ということになる。

 そして、日本ではこの傾向が強いことはこれまでの読書メモで述べてきたとおりである(リンク先は上に述べた『危機の構造』に関するメモの12と13)。

 

 そして、所有権に抽象性がないということは「現実支配イコール所有」となる

 本書では、この具体例として旧大蔵省の役人たちの「金融市場は自分のモノ」という例を出している。

 また、ソ連の役人が現実的に支配していたソ連社会主義経済を私物化してソビエト連邦と社会経済を滅ぼした例を示し、「資本主義の精神の欠如は社会主義すら滅ぼす!」と締めくくっている。

 この辺のことはあちらこちらで繰り返されていることではあるが。

 

 

 本書はここで「高級ブランド品を買う自由」というコラムが紹介されている。

 これは「所有権の絶対性」に関連する話である。

 

 この点、「高級ブランド品にお金を持っている若いOLが詰めかけた」という事例に対して、「これは資本主義だからできること」と説明している。

 もちろん、古い考え方から見た場合、「若い女性が何十万もするバッグを買うとは何事!」などと目の色を変えることはできる。

 しかし、所有権の絶対性から考えれば問題ないのである。

 ちょうど新たな事業に打って出ようとしたハワードのケースのように。

 

 逆に、これは資本主義でなければできないことであるともいえる。

 中世の村落で同じことができたかと言われれば、かなり微妙であるのだから。

 

 もっとも、「資本主義的な思想」と「現実の社会システム」のどちらが先だったのかは気になるところである。

 産業革命自体はこの思想や社会システムができた後らしいが。

 

 

 さて、コラムはこの辺で終わり、話は「所有の抽象性と数学の関係」に移る。

 この点、所有権の絶対性と同様、所有権の抽象性は商品交換から生まれた

 

 この点、この「所有権の抽象性」とは「所有権は具体的な占有・現実的な支配と関係なく、観念的に成立する」ということである。

 また、この抽象性があってこそ、所有権に対する数学的な処理(合理性計算)が可能となった。

 なぜなら、抽象的な所有権があるからこそ、所有権の有無に対して同一律矛盾律排中律としての性質を持つことになるからである。

 そして、この所有権の抽象性が資本主義社会以前の所有権に存在せず、資本主義社会特有のものであることはこれまで述べてきたとおりである。

 

 この近代資本主義においては、所有権(法律上の権利)と占有(現実の支配)が完全に分離している。

 いわゆる「ゾレン(当為)」と「ザイン(存在)」が分離しているというべきか。

 もっとも、この二律背反的二元主義は、日本の伝統的所有権意識には決定的に欠けている

 いや、現在の日本でさえ欠けているかもしれない。

 

 そして、このような所有権の抽象性は資本主義社会のなかで形成されていった

 つまり、資本主義において富は「商品」としての性質を持つ。

 そのため、それらの富は財貨と「交換されるもの」として把握される。

 そして、富が「交換されるもの」として把握されれば、重要な要素は「物の価値」であって、「現実の支配」はそれほど重要にならない

 さらに、富を交換過程で把握する場合、商品の価値のみを抽象化しても差し支えない。

 かくして、所有権は抽象性を獲得していった。

 

 なお、復習になるが、商品の交換過程をスムーズにするためには所有権が包括的・絶対的である必要がある

 というのも、中世のように複数の所有権が複雑に絡み合っていたら、目的合理的(形式合理的)企業活動はおぼつかないからである。

 

 以上、近代社会における所有権の抽象性と絶対性に確認したところで、話は徳川時代の日本の商家に移る

 筆者は興味深い特徴として、徳川時代の日本の商家において財産は家(全体)に帰属する」という点を取り上げている。

 もちろん、近代資本主義社会ならば財産は個人に帰属する。

 その意味で、近代資本主義経済と徳川時代の経済は正反対である

 

 筆者によると、この「家」(全体)の範囲は経営者一族に限るのではなく、従業員まで及ぶことがあるという。

 以前、ライブドアが買収を仕掛けたときに「会社は誰のものか」なる言葉が流行ったが、この言葉の背後には徳川時代からの伝統があるのかもしれない。

 

 

 本書は、ここから話が「所有と経営の分離」と「徳川時代から現代まで続く日本の商家(企業)の特徴」についてみていく。

 しかし、既に相当の分量になってしまっているため、これ以降は次回に。