今回のメモは次のシリーズの続き。
今回も『参謀は名を秘す』を読んで考えたこと(学んだことではない)をメモにする。
この点、このメモは本書の内容に対して否定的なことを書いている。
しかし、参謀の機能に関する本書の説明は私にとって参考になるところが大であった。
その点は強調しておきたい。
4、結果の過大評価と不可能の要求
次に、「主家を滅亡・危機に追いやったから名軍師・名参謀たりえない」という点を考えてみる。
この点、著者は「酷かもしれないが」という趣旨の言葉を何回も述べている。
よって、ここから述べることは「『著者の自説・内心』に対する意見」という認識は捨て、「『著者がたたき台として作った仮説』に対する意見」という認識を強く持った方がよさそうである。
大事なことだが、「能力を査定する際、結果は重要」である。
そして、諸葛孔明は北伐を成功することができず、結果、蜀漢は孔明の死後に滅亡する。
直江兼続は関ケ原で西軍に着いたので、上杉家は会津120万石から米沢30万石になる。
川中島において、山本勘助は自分の作戦を上杉方に見破られ、主君の弟(武田信繁)が討死し、また、自分自身も討死する。
山中鹿之助は尼子氏の再興を果たせなかった。
楠木正成は後醍醐天皇に献策したが受け入れられず、自分自身は自刃する。
だから、「主家を滅亡させたり、危機に陥れた彼らに名軍師・名参謀の資格があるのか?」という問題提起は正しい。
しかし、「主家を危機に陥れたならば、名軍師・名参謀ではない」という命題を設定すると、「一度も主家を危機に陥れない」ということが名軍師・名参謀の条件になる(対偶)。
こんなことは現実的・具体的に可能なのだろうか?
例えば、戦国時代を終焉させた織田信長は金ヶ崎にて浅井家の寝返りにより敵中に孤立し、主家の危機を招いた。
また、徳川家康は三方ヶ原で武田信玄に大敗し、これまた、主家の危機を将来させた。
しかし、このことを減点材料にして「名大名の一覧リスト」から信長や家康を除外するかと言われれば「ノー」と言うしかなかろう。
逆に、こんなことを言い出せば、名大名のリストに残る大名は誰もいなくなるだろう。
つまり、「主家を危機に陥れた」だけで名軍師・名参謀から除外すれば、その条件を満たせる人間はほとんどいなくなる。
戦前の陸軍の大秀才、東条英機の戦陣訓には「百戦百勝の伝統に対する己の責務(以下略)」という部分があるが、「百戦百勝」というのは秀才の脳内の産物でしかなく、現実には無理である。
あるいは、「主家を危機に陥れない方法は大勝負に出ないことであり、大勝負に出なかった者こそ名参謀・名軍師である」ということになりかねない。
この辺を考慮すると、直江兼続の関ケ原の敗戦後の立ち回りは見事とも言え、この立ち回りこそ名軍師たらしめているとすら言えそうである。
ただ、主家の危機の際に死亡してしまった軍師・参謀はその後の再興に関与しない以上、「一度の失敗で(以下略)」という批判は回避しがたい。
その点から見れば、山本勘助についてはこの批判を回避するのは難しいかもしれない。
他方、「危機」で済まず、「主家を滅亡させて(その後、再興できなかった)」場合については「一度の失敗で(以下略)」という批判は回避しがたい。
これは諸葛孔明・楠木正成・山中鹿之助・真田幸村のケースである。
ただ、その場合、別の見方ができる。
「実際問題、滅亡は回避できたのか」という問いである。
滅亡が回避できなければ、滅亡の原因を当人の責任にできないからだ。
真田幸村は権力の中枢から遠かったということは述べた。
そのため、「彼らのバトルで挽回できてもそれには限界がある」ことは主体性の問題で述べた通りである(これに対して、「『権力の中枢に入ろうとしなかったこと』が名参謀・名軍師失格の原因である」と言いうることも前述のとおり)。
それに加えて、「(幸村が豊臣家にはせ参じた大坂の陣以降において)豊臣家を維持することができたか」と言われるとこれまた微妙である。
この点、徳川の天下を豊臣側に引き寄せることはかなり難しいだろう。
他方、大坂の冬の陣の講和の際、徳川家に降伏(屈服)し、大坂城を明け渡すことくらいをすれば1万石程度の大名として生き残ることはできたかもしれない。
もっとも、それは「主家を危機から救った・主家を維持した」ということになるのか。
仮に、そのように評価するなら、前述の直江兼続は参謀・軍師として完全に合格になる。
次に、楠木正成の場合はどうか。
権力の中枢への遠さは幸村ほどではないが、それでも遠いということは前述のとおりである。
また、「二条河原の落書」や「顕家諫争文」を見る限り、建武の新政の評価は微妙である(前者が建武の新政だけをターゲットにしていないとしても)。
ならば、、、と思えなくもない。
さらに、山中幸盛(鹿之助)の場合はどうか。
月山富田城が落城した後、山中鹿之助は尼子勝久を奉じて、尼子家の再興を図る。
そして、毛利家に対して局所的に勝利するものの、尼子家を維持することはできなかった。
やがて、尼子家は織田家の傘下に入るが、上月城の戦いの結果、尼子勝久親子は自刃、山中鹿之助自身も同時期に殺される。
この点、諸葛孔明(劉禅を補佐して漢王朝の再興のために魏を討つ)とある種の共通性がありそうである。
山中幸盛の件は、主体性・結果の両面から名軍師・名参謀の要件を満たさないという批判はある程度あたっている。
最後に、異質な点から名軍師・名参謀に疑問符がつけられている武将に目を向けよう。
それは竹中半兵衛である。
本書による名参謀・名軍師失格の原因は「病気(健康)」と「功績の不明瞭さ」である。
特に、「病気(健康)」の点を強調されている。
もちろん、「酷かもしれない(厳しいかもしれない)」という趣旨の言葉はある。
ここで興味深いのは当時の世情から見てどうにもならない「病気」を原因にしていることである。
さらに、「代わりの者を探し出して、自分は辞退するべき」と述べている点である。
しかし、これは「不可能なことの要求」である。
そして、ここで「不可能なことの要求」を持ち出したことから、他のところでも「不可能なことを要求している」という推測が成り立つ。
というのも、竹中半兵衛にのみ不可能を要求し、他の者には不可能を要求しないというのは規範・基準として公平ではないからである。
しかし、不可能なことを要件とし、その要件を満たさないことをもって名参謀・名軍師の要件から外して行ったら、誰も残らないだろう。
確かに、このように作られた要件は極めて明快であり、分かりやすい。
他方、一定の例外等を設けて複雑にした要件は、恣意的に見え、あるいは、分かりにくい。
また、「参謀待望論」を雲散霧消させたければ、「名参謀・名軍師のリストから全員を除外してしまう」という手段は合理的である。
ただ、「その基準は基準として用をなすのか」という問題は残る。
「基準として用をなすのか」という抽象論をケーススタディに変換しよう。
時代は太平洋戦争、アメリカで高評価を受けている参謀として八原博通参謀という人がいる。
この人は太平洋戦争で沖縄戦を戦った参謀である。
この人の採用した作戦は敵方だったアメリカにおいて高く評価されている。
しかし、その代償に地元沖縄に多大な犠牲を強いることになり、その点の批判は決して少なくない。
また、沖縄戦は日本の敗北で終了し、また、その後、間もなく、日本はポツダム宣言を受諾することになる。
さて、この本の著者はこの八原参謀をどう評価するのだろうか。
同じ基準で考えるならば、この人も「(厳しいかもしれないが)名参謀失格」となるだろう。
しかし、アメリカ側の評価に対する反論として説得力を持つだろうか?
この点は、硫黄島を戦った栗林中将についても同じことが言える。
これについてはどう反論するのだろう。
法格言として存在し、現在の法でも適用されている前提として、「法は不可能を要求しない」というものがある。
著者の基準は「人間に対する行動の要求」として、「法」として見た場合、不可能を要求するものであり、「規範・基準として」妥当なものとは言えなさそうである。
山本七平の「敗因21か条」に引き付けて書くならば、「『生物学的常識がない』点、『日本の不合理性、米国の不合理性』の点をそのまま引き継いでしまっている。」ということになる。
誤解してほしくないので強調するが、筆者の分析や評価は神視点から見れば間違ったものではない。
神や道具であれば筆者の評価は正しい。
また、名参謀・名軍師の分析をしたいのであれば、「神や道具である」と仮定して分析することは必要不可欠であり、その点からも妥当である。
さらに、「具体的に、このように振舞えば歴史的経過と異なる結果が出せた。彼らにそれができなかったのは残念であり、能力不足だった」という主張自体に問題は全くない。
しかし、「人間である名軍師・名参謀に要求する基準(法規範)として適正なのか」と言っているだけである。
さらに言えば、もしも、「不可能を要求し、結果的に不成功だったことをもって参謀・軍師失格の烙印を押し、それによって『参謀待望論』を粉砕する」というのが筆者の狙いならば、それは成功しないだろう。
最後に、筆者も筆者自身の分析に対して私が書いたような批判が返ってくることは十分承知しているだろう。
また、私自身、筆者の分析に学ぶことは大であったので、その点は非常に意味があると思っている。
(「5、参謀待望論の背後にあるもの」に続く)