今回はこのシリーズの続き。
『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。
10 第3章「歴史と日本人思考」を読む_後編
前回は、日本の情報処理の拙さと国防問題についてみてきた。
今回はその続き、つまり、外国による日本への軍事的侵攻の可能性について検討する。
大前提として、外国が日本に攻め込んだ場合のアメリカの対応について確認する。
というのも、現在も当時も「外国が日本に攻め込んだときにアメリカはちゃんと対応するのか」という疑問があるからである。
ただ、政治的に考えた場合、「この問題は『アメリカは日本を助けるかもしれない』と思わせた時点で十分である」という。
というのも、助ける可能性がある以上は外国は日本への軍事的侵攻に対して二の足を踏むだろうし、アメリカとしても「日本有事の際、アメリカは絶対に傍観する(日本側に立たない)」と言うこともないからである。
この点は、現在の北朝鮮の合理的判断に基づく日本侵攻の可能性についても当てはまるだろう。
このことは「無防備でいい」とか「挑発をしてもよい」ことにつながらないことは当然である。
以上の前提を踏まえた場合、当時、アメリカを敵に回す覚悟で日本に攻め込む可能性のある軍事大国はソ連であった。
この点、ソ連は太平洋戦争直前に日ソ中立条約を反故にして満州に侵攻してきたこともあり、ソ連を信用できないと論じるものもある。
しかし、このソ連の直前の侵攻、あるいは、第二次世界大戦におけるソ連の行動を考慮するならば、ソ連が合理的判断に基づいて、アメリカと日本の二国を敵に回す覚悟で日本に雪崩れ込んでくる可能性は高くはないらしい。
この点を確認するため、第二次世界大戦前後におけるソ連の行動を見てみる。
例えば、ソ連のポーランド侵攻はドイツがポーランドに侵攻してから約2週間後であるところ、この時点でドイツは既に連戦連勝を重ね、ポーランドの首都ワルシャワはドイツによって包囲されていた。
さらに、バルト三国への侵攻・併合もポーランドの占領・フィンランドの冬戦争で優位になってからである。
この慎重な傾向は独ソ戦以後にも見られる。
この点、独ソ戦開始直後のドイツの猛攻は通常の大国が耐えられる限度を超えていた。
例えば、第一の山場である1941年の「モスクワ攻防戦」において冬将軍の到来が早くなかったならば、または、リヒャルト・ゾルゲなどの日本の勢力圏で活動するスパイから「日本はソ連に侵攻しない」といった情報がもたらされなければ、あるいは、関東軍が背後からソ連をついていたら、モスクワ攻防戦の勝敗は逆転していてもおかしくない。
また、第一の山場をしのいだソ連であったが、その後もソ連の苦戦は続く。
1942年のソ連の反撃は実を結ばず、逆に、ドイツから石油の補給ルートになっていたスターリングラードに攻め込まれることになる。
第二の山場である「スターリングラード攻防戦」においてドイツ軍を降伏させたのは1943年の1月であり、これによってパワーバランスがソ連側に傾いたと言える。
もっとも、秤が傾いただけでドイツ軍の主力部隊は残存していた。
ドイツの主力部隊が回復不可能になるのが、第三の山場とも言うべき1943年の「クルスクの戦い」である。
これ以後、戦いの主導権は完全にソ連に移る。
特に、1944年1月にレニングラード(現在のサントペテルブルク)解放以後においてドイツの勝ち目はほとんどなくなった。
この点、1944年1月というのは、ノルマンディー上陸作戦の前である。
つまり、ソ連は自力でドイツの猛攻を跳ね返したのである。
そして、スターリンにその気があれば独力でドイツ軍を追撃し、ベルリンを陥落させたうえで、ヒトラーに代わって欧州を制することができた。
にもかかわらず、スターリンは執拗に西側戦線を要求した。
戦勝後、ヨーロッパ大陸に米英が干渉されることを覚悟の上で、である。
このことから、スターリンやソ連・ロシアの指導者層はヨーロッパの侵攻に対して慎重だったということが推測できる。
もちろん、一回だけなら偶然の可能性もあろう。
しかし、日本についても同様の傾向が見られる。
ノルマンディーの第二戦線が作られた後、ドイツの敗北は時間の問題となった。
第二次世界大戦を通じて近代化したソ連軍ならば、対日参戦の余裕は十分にあっただろう。
特に、フィリピンの防衛のために関東軍の精鋭を満州から引き抜いた1945年の初頭であればなおさらである。
もっとも、対日参戦は8月、ドイツの降伏から3カ月も経過している。
もし、スターリンとソ連首脳部がさっさと対日参戦をしていれば、日本はドイツのような多国間による占領となり、東西ドイツや南北朝鮮のような悲劇が生じてもおかしくはない。
事実、スターリンはアメリカに対して「戦後の日本の統治にソ連も参加させろ」とか「千島・樺太だけではなく北海道等をよこせ」といった要求を突きつけているからである。
現実においてこれらの要求をアメリカは拒否するわけだが、もし、満州侵攻がもっと早ければこの要求が通ってもおかしくなかったことになる。
以上の一連の行動から推測される事実は、ソ連・ロシアは極めて慎重であると言え、アメリカを敵に回すリスクを負う可能性は極めて低いということである。
もちろん、錯誤があったり、国内統治がガタガタになっていれば日本への侵攻はありうるし、この結論を採用したからといって警戒しなくていいというわけでもないが。
さらに、他に見るべき事情に中ソ関係がある。
この点、中ソの両者がガッチリ手を組むことは中ソ紛争を考慮すれば考えにくい状況となった。
ならば、ソ連による日本侵攻の可能性は低いとみていいし、中国による日本侵攻も(当時において)さらに可能性が低いとみることができることになる。
ガッチリ手を組めない以上、攻め込んだ国から見た場合、攻め込まなかった他方の国の挙動が分からないからである。
そして、スターリンの死後、革命家が絶えて、官僚が政治を担うようになれば、ますます冒険することはなくなる。
これは「優秀な官僚」が「偉大なる独裁官」よりも冒険嫌いであることから明らかである。
以上の視点を確認したうえで、話は日米安保に移る。
何故なら、日米安保の意味合いはこのような地政学的条件によって違った様相を示すことになるからである。
そして、このような複雑かつ多元的(次元数の多い)国際環境の論理を把握しないで、「安保反対」と呪文の如く唱えることに意味がないからである。
つまり、当初の安保の矛先(「日米安保条約」が脅威になる国)はソ連や中国などの共産圏であった。
しかし、世界情勢の変化の結果、安保の矛先はアメリカに向きだすことになった。
実際、失われた30年の前の20年間、つまり、70年代と80年代の日本のアメリカに対する経済攻勢はすざましいものがあったからである。
現在の日本の状況しか知らない人間から見ればイメージがわかないかもしれないが、それは高度経済成長後から高度経済成長前の世界をイメージしにくいことと同様なのかもしれない。
この「安保の矛先がアメリカに向く」とはどういうことか。
アメリカは太平洋戦争のように日本が軍事的に牙を向けることを阻止するため、安保条約(と9条)を押し付けた。
その結果、日本はアメリカに対する軍事的な挑戦ができなくなった。
その代わり、安保がなければ必要になる軍事予算を国民生活と国民経済に回し、経済でアメリカに反撃を開始した。
つまり、アメリカは日本からの軍事的脅威を排除した代わりに経済的侵略を受けることになった。
これが「安保の矛先がアメリカをむく」の意味である。
この点、アメリカから日本を見た場合、「安保と9条のセット」はタダ乗りであるという意見がある。
しかし、上で見てきた通り、アメリカから見てもメリットとデメリットがあるわけである。
例えば、日米安保が破棄した瞬間、あるいは、現在のロシアのウクライナ侵攻のように、中国が日本(尖閣や沖縄)に軍事侵攻をしたときにアメリカが中途半端な態度を示せば、日本の平和主義の空気は一変するだろう。
また、日本の極端から極端へ突っ走る性格を考慮すれば、直ちに核武装となっても不思議ではない。
その点を考慮すれば、「アメリカにおいて安保は日本を核武装させないためのコスト」ともいえる。
その上、昭和35年ころの安保反対運動はアメリカに対して安保を高く売りつける(安く買い叩かせない)という意味で価値があった。
著者によるとこの意味に照らせば進歩的文化人らの功績は軽視すべきではないという。
閑話休題。
このように、アメリカにとってメリットとデメリットの両輪を持つ「矛先がアメリカをむいた安保」。
当然だが、「矛先を向いたから安保を解消しよう」で済む話でもない。
ところで、日本の対アメリカ戦略は吉田茂の戦略を基軸に行ってきた。
そして、この戦略のモデルは日英同盟である。
イギリスの軍事力をアメリカの経済力に置き換えれば、日英同盟はそのまま吉田茂の戦略になる。
そして、この吉田茂の戦略は高度経済成長という形で大成功する。
偉大なる成功がおそろしい危機の予兆にもなるとしても。
ところで、日英同盟は日露戦争と第一次世界大戦では機能し、その後、ワシントン軍縮体制において解消した。
解消した理由は、日英同盟の目的が日本がアジアにおけるイギリスの利権を保証する代わりに、イギリスが日本の列強としての地位を保証する点にあったところ、日露戦争や第一次世界大戦を経た結果、イギリスの敵国たるロシア帝国・ドイツ帝国が没落した一方で日本が強くなりすぎたからである。
ならば、アメリカも日本が経済的に強くなりすぎれば安保を放棄するというシナリオがあったのかもしれない。
もっとも、後付けでその後の歴史を見てみると、日本は経済構造・社会構造の変化の波を追い切れずに(アメリカとの関係で)弱体化し、他方、中国の発展もあって、安保の矛先はアメリカから中国に向かってしまった。
当時の見解それ自体は役に立たないが、見解を導く考え方は現在でも使えるだろう。
日本の国際環境の複雑さは昔と比べてより複雑になったと言えても、単純化はしておらず、多次元的判断はより重要になっていく一方だからである。
また、日本の外交の迷走は戦前もニクソン・ショックのときも大差ないからである。
そして、この迷走の背後には、外交が両立しえない2つ・3つの構造の上に成立していることにある。
そもそも、両立しえない複数の構造の上に成り立つ環境で外交的に成果をあげるためには、冷静な分析能力が必要になる。
例えば、ビスマルクの時代、南の大国オーストリアと東の大国ロシアはバルカン半島において矛盾した政策を持っていた。
それに対して、ビスマルクはオーストリアとロシアの行動様式を冷静に分析し、分析結果を用いた適切な手段を用いて、ドイツ帝国の建設に成功させた。
しかし、この冷静な分析は次の時代に受け継がれることはなく、ドイツ帝国はその後フランスとロシア、さらには、イギリスの三国協商によって包囲されることになる。
その意味では、天才的外交とはそもそも極めて困難なことであり、できないことそれ自体を非難しても始まらないということになるだろう。
とはいえ、「後は野となれ山となれ」でいかないのであれば、生活空間を維持するのであれば、何もしないわけにはいかない。
アメリカも日本のリーベンスラウムを維持するために何かをするはずはない。
また、国連に頼むわけにもいかない。
さらに、日本固有の問題として政治と経済の未分離がある。
そのため、政治の危機が経済の崩壊を引き起こし、逆に、経済の危機が政治の危機をもたらす可能性がある。
では、どうするか。
19世紀に用いられてた砲艦外交などの手段は当然用いることはできない。
ならば、ある種、ビスマルクが持っていた冷静な分析能力等を駆使し、日本の経済的動脈に対する危険を未然に防止するしかない、という。
しかし、そのためには社会科学的実践が不可欠であるにもかかわらず、日本人はその点の適性が弱く、誠心誠意の日本人の努力が無意味になっている。
その危機の予兆を示してくれた石油危機は、その現実的危機の程度と併せて考慮すると、天祐だというのが著者の主張であるが、日本人は忘却しつつある。
これからの社会変化に対応するためには、経済構造のみならず、研究体制や教育体制にも手を入れる必要ああるだろう。
そのためには、ジャーナリズムの重要性、デモクラシーにおけるジャーナリズムの機能たる権力の監視の重要性には以前にもまして重要になる。
もっとも、日本において不可能なことを日本の機能体たる新聞・ジャーナリズムに押し付けてしまうと、前回述べた「日本人はこれこれが欠けている。反省せよ」で終わってしまう。
そこで、そもそも日本の新聞・ジャーナリズムに「権力の監視」というデモクラシー上の機能を担える土壌が日本にあるのかを最後に検討する。
著者による答えを述べると「きわめて困難」と述べる。
理由は、次の日本人の2つの特性に由来する
・日本人特有の情緒倫理
・人格と意見を同一視する思考方式
つまり、人格と意見を同一視される以上、「表明された意見=個人の人格」とみなされる。
そして、「情緒倫理=感情的に不快にさせる意見は悪」がこれに結合した結果、「日本人一般の感情を逆なでする主張を提起することそれ自体が非難に値し、かつ、その非難の対象は主張それ自体ではなく、主張者の人格にある」という規範になっている。
さらに、「情緒倫理=主観倫理」であり適法違法の境界線がないので、歯止めが利かない。
こうして、日本では感情を逆なでしうる意見が封殺されてしまうのである。
この構造は「『空気』の支配」とそっくりである。
まあ、日本人の通常性から発しているので、この結果は当然ともいえるが。
本章では具体例として、人質事件や外務省機密文章漏漏洩事件が取り上げられている。
当然、意見としては様々なものがあり、それに対する批判も当然多種多様である。
しかし、日本の特有の規範が発動すれば、公共性ある言論空間で「多様な意見を戦わせること」は到底無理ということになってしまう。
それでは、思想言論の自由市場など存在しえない。
それでは、世論が理性的に機能しない。
当然、新聞・ジャーナリズムもしり込みせざるを得ない。
もちろん、理性による権力監視など夢のまた夢ということになる
(当然、デモクラシーを放棄するというのなら、この状況で問題がない)。
ところで、この日本特有の問題による被害はどこに集中するであろうか。
それは弱者である。
なぜなら、反論ができないならばやられっ放しで終わり、かつ、境界がない関係で歯止めがなく、終わりが見えない(死ぬまで終わらない)からである。
その例は過去なら公害問題・環境問題、今でも炎上などでみられる。
アメリカを例に出そう。
例えば、ウォーターゲート事件のニクソン大統領の追撃は厳しいものがある。
しかし、その一方で大統領を弁護する意見も決して弱くない。
他方、差別主義者に対する批判は強いが、逆に、差別主義者の主張も堂々とされる。
この日本では考えられない環境こそ、ジャーナリズムの強みであり、かつ、デモクラシーの強みなのである。
もちろん、これらの問題は現代に突然現れた問題ではなく、日本の構造に由来するものである。
ただ、これからの時代に対応していくためには、ジャーナリズム・デモクラシーの強みである「言わせるだけ言わせる。ただし、批判は徹底的にする」というシステムは不可欠になるだろう。
以上が本章のお話。
参考になる点が多かった。
しかし、出てくる言葉は「うん、それ無理」って言葉なんだよなー。