薫のメモ帳

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『日本人と組織』を読む 8

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『日本人と組織』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

8 第8章「聖なる世俗組織『キブツ日本』」を読む

 本章は「すべての人間は組織に不満を持つ」という原則に関する話から始まる。

 何故なら、組織は構成員に対して「無私」を要求するところ、人が「無私」になることは困難だからである。

 そこで、構成員全員が不満を持たない組織の作成は不可能であり、かつ、そのような組織の作成を追求すると組織は解体されることになる、という。

 このことは、「大学への不満→不合理な制度の是正要求→大学解体論」というプロセスで進んだ大学紛争を見れば想像できるのではないかと考えられる。

 

 もっとも、構成員の組織に対する不満は千差万別である。

 そこで、「不満の対象としての組織」という形で組織を分類していく。

 

 

 本書ではキブツ」というイスラエルの組織が取り上げられる。

 というのも、キブツは組織のある種の原理が示されているからである。

 

 この点、キブツの特徴として次の点が挙げられる。

 

・構成員個人の所有の否定

・生活物資は適宜支給される

・構成員の労働は能力によって決定される

キブツ自体には財産があり、社会福祉その他に利用される

・集団の運営については選挙によって選ばれた役員が決定

 

 この点、「キブツだからうまくいく」わけではない。

 また、不満を持って特定のキブツから去った者・組織から除名された者もいる。

 しかし、キブツを「組織の理想形」ではなく「組織の原型」と見ることは可能である。

 

 そして、キブツの特徴を述べれば「生産組織と生活組織の一体化・一本化」・「生産共同体と生活共同体の一致」となる

 つまり、原初的な(家族)共同体を現代に適合する形に組織化させたものがキブツになる。

 だから、キブツに対する不満は「生産組織と生活組織の一本化」に向けられることになる。

 つまり、生産(労働)と生活を分離したい人間から見れば、「生産組織には参加するが、生活組織への参加は拒否したい」となる。

 もっとも、(理念として)私的所有を否定している組織側がこの要求に応じると、「労働者の搾取」という結果になりかねないため、組織から見てこの要求は簡単に対処できるものではない。

 

 

 このキブツの特徴とキブツに対する不満から、生産組織と生活組織の関係に注目した結果、組織の型として次の3つがあることが分かる。

 

1、生産組織と生活組織の二つを分離する型

2、生産組織と生活組織の二つを一体化する型

3、両者の中間型

 

 このうち、二つの組織を分離するパターンはアメリカでよくみられる

 このような社会では、職場における「生きがい論」や「人間性無視論」は問題にならない。

 それどころか、このような考え方に拒否反応を示すこともある。

 そして、この拒否反応は資本家だけではなく労働者にもみられる。

 

 また、このような社会では労働日数・労働時間といった条件が大きな問題になる

 そして、労働終了に伴う解放感が重要になるため、生活と労働の分離が求められる。

 そのため、生産組織の私生活への干渉は好意的なものであっても拒否されることになる。

 

 このアメリカ型の組織の逆となるのがキブツになる。

 この点、キブツの起源は「生存・生活共同体」であり、生産は生存・生活の手段であった。

 また、防衛・水利・開拓といった作業は集団で組織的に行う必要がある一方、これらの作業は生活と生産の両方に関連するため、生産組織と生活組織を分離できなかったという事情もあった。

 このような場合、生存・生活・生産は一本化された組織ができることになる。

 また、生産活動と生活活動が一本化されるため、組織への貢献が生きがいにもなる

 

 以上の極端な二つのケースを見ながら、日本の組織を見てみる。

 日本の組織は以上の2つのタイプの中間型となっている。

 また、日本特有の文化的背景を考慮すれば、極端なパターンにはならなそうである。

 ただ、中間型になった結果、両者の悪いとこ取りという結果が生じれば、最悪である。

 そこで、生産組織と生活組織の関係と異なる観点から組織について見直してみる。

 

 

 組織を見ていくための次の観点は「宗教性」と「世俗性」である。

 つまり、「生産と生活」といった観点ではなく、組織の目的というものを考えた場合、神聖組織(宗教組織)と世俗組織の区別ができるという意味である。

 この点、神聖組織は宗教が絡む関係で来世に投影され、理想的秩序のようにも見える。

 しかし、それは別として、世俗と宗教の問題を考えるのと同様に、神聖組織と世俗組織の関係をどうするべきかという問題があった。

 もちろん、この問題の解決策は一方の全面肯定(他方の全面否定)という形を採らないことは明らかである。

 

 この点、先に組織化されたのは神聖組織であった

 その後、世俗組織ができて神聖組織と対立するようになる。

 もっとも、初期の段階では神聖組織が上で世俗組織が下であり、支配組織でもあった神聖組織は世俗組織の存在を認めなかったそうだが。

 その後、世俗組織も神の被造物であるという考えが生まれ、両者の関係をどう規律すべきかが考えられるようになる。

 そして、神聖組織と世俗組織をリンクさせる発想のことを「知恵」と呼ばれた

 

 この二つをリンクさせようとした背景としては次の一連のプロセスがあった。

 

「世俗組織への不満の表面化」→「不合理性の是正要求」→「不満なき理想的神聖組織化への運動」→「世俗組織それ自体の解体」

 

 なんか大学紛争と重なるがそれはさておき。

 もちろん、その世俗組織を「悪」として否定するなら、この一連のプロセスで世俗組織が壊滅するので問題がなかった。

 しかし、世俗組織を否定すれば、より大きな無秩序を招来する。

 そこで、神聖組織と世俗組織の結合という「知恵」が必要になったわけである。

 

 もっとも、この知恵の方向性も「分離型」と「結合型」の2パターンに分かれていくことになる。

 例えば、プロテスタンティズムの立役者の一人であるマルティン・ルター「霊の秩序」・「肉の秩序」という形で両者を分けた。

 つまり、「人は二つの秩序(宗教と世俗)に属している」と考えるパターンである。

 この二つの分離という発想は、「教会と政府」・「企業と家庭」・「地域共同体と職場」という発想にもつながる。

 そして、この分離型の背後にある発想は、「両者(世俗と宗教)を分離して、二種類の組織に関わることで、人間が双方の組織への不満を持たないようにする」という発想である。

 これに対し、両者を結合・一体と考えるのがメノナイトというキリスト教の一派である。

 この組織では世俗組織は神聖組織の従属する範囲でしか認めていない。

 

 この二つのパターン、結合・一体という意味で手段が大きく違うように見える。

 しかし、世俗組織に対する絶対的服従を拒否する方向では共通している。

 

 

 以上の視点から日本を見てみる。

 この点、日本では世俗組織と神聖組織の区別が曖昧である

 その結果、厳格な分離型・厳格な一体型といった組織が出現しにくい、ということになる。

 また、世俗と宗教の分離の曖昧さが世俗組織から宗教組織の転換が起きてもおかしくないということもある。

 例えば、戦前の天皇制国家が神聖組織なのか世俗組織なのかの判定が困難であったこと、また、天皇機関説事件以前は世俗組織、その後から敗戦までは神聖組織と評価できなくもないことからもわかる。

 

 この点、神聖組織が下部組織に手段としての世俗組織を持てば、構成員は組織に一体化するのが通常であり、その結果出来上がる組織は「キブツ日本」のようなものになる。

 となれば、キブツ日本」において私有財産は否定されることになるはずである

 現に、イスラエルキブツはこの点について厳格であり、メイナイト村でも原則は私有財産否定である。

 もっとも、戦争時の日本を見た場合、私有財産の否定は徹底されていない。

 もちろん、このことは天皇制国家が純然たる世俗組織であることを意味するわけでもないが。

 

 そして、天皇制国家(明治政府)の神聖組織・世俗組織を分離しない混合形態は、そのまま戦後に引き継がれたと考えられる。

 この宗教性と世俗性の併有が日本の組織の特徴であり、日本では「世俗組織」・「宗教組織」といった区別に意味がなく、聖人と俗人(凡人)といった区別がないことになる。

 その結果、日本では、仮に世俗組織であっても「聖なるもの」の存在が世俗組織の存在理由や構成員の士気のために必要といったことが起きる。

 これは、欧米の場合、つまり、世俗組織に「聖」なるものが存在してはならず、「世俗組織の中に『聖』なるものが存在する」と主張することが一種の冒涜と判断されることと比較すると対照的である。

 

 この日本の状況を戦前の言葉を使って述べれば、「(世俗組織たる)企業は天皇陛下のために存在する(下部組織である)。世俗的利益のために存在するわけではない」となり、戦後の言葉を使って述べれば、「企業は社会のために存在するのであって、世俗的利益のために存在するわけではない」ということになる。

 ここにはアメリカの「世俗と宗教の分離」といった発想はなく、キブツの発想に近いものがある。

 この点とユダヤ人と日本人の共通項を考慮すると、日本社会は「日本株式会社」と言うよりも「キブツ日本」と言った方が実態に近いのではないかと考えられる。

 

 

 この点、キブツ日本」を支えた「平等」には日本文化、特に、「『空気』の研究」で見てきたいわゆる「一君万民・状況倫理」の裏付けがあったと考えられる

 そして、「キブツ日本」による国内の平等化とキブツ日本の共同財産の蓄積を進めて、その後、外国人労働者を日本国内に入れない一方で、蓄積した共同財産を海外に投資して投資して得た利益を日本国内で日本国民に分配すれば、キブツの得た収益を構成員で分配するというような形になるだろう。

 もちろん、現実のキブツではこのような投資活動をしていないらしいが、このような組織の形態は過去の僧院に見られたものである。

 この過去の僧院のプロセスを可視化すれば、「自給のための生産組織の運営→生産組織による資本の蓄積→資本を用いた農地の開墾・開墾した農地を貸すことによる小作料の取得→小作料を分配することによる僧院の共同体化」ということになる。

 

 しかし、このような「神聖組織が下部に世俗組織を抱えている状況」のままでは、新しい参加者が加わらない限り、世俗組織は一定以上の成長は見込めなくなる

 というのも、神聖組織は基本的に平等・無競争が基本であり、ゼロ成長で当然だからである。

 

 この点、戦後の「キブツ日本」は「戦後の若年層」という大量の加入者をばねに急激な発展を続けてきた。

 また、日本の世俗組織は神聖組織の性質も持っており、その結果、自分の人生を投入する価値があった。

 ここには日本の伝統とのマッチングも作用したと考えられる。

 他方、「キブツ日本」は世俗組織たる企業に対して平等と世俗化を要求した。

「平等」というのは「護送船団方式」というべきものかもしれない。

 これに対して、企業は機能体でありながら共同体化することで従前の神聖性を維持しようとする。

 もっとも、神聖組織はゼロ成長が基本だから、過度な神聖性の導入は組織の発展の可能性をつぶしてしまうことになる。

 また、若者が大量に増える時代は当時の時点で見ても少子化により終わりつつあった。

 そこで、未来のための模索を始めなければならなくなっている。

 

 

 以上が本章のお話。

 最近、小室直樹氏の『危機の構造』を読んでいる(メモにもしている)が、この本を読むことによって相乗効果が得られている。

 また、今後の日本社会に対する見方として重要な視点を提供してくれた。

 この点、知識を得ることで既に膨大な快楽を得ている。

 ただ、快楽を得て終了というのはもったいないので、なんとかしたいなあ。