今回はこのシリーズの続き。
『日本人と組織』を読んで学んだことをメモにしていく。
9 第9章「『知』を窒息させる『信』の肥大化」を読む
本章は「組織及び社会と人間の意識の関係」についてみてみる。
もっとも、「社会が人間の意識を規定するのか、あるいは、人間の意識が社会を規定するのか」といった二者択一の問題には踏み込まない。
社会学では「一方が他方に波及し、その後、他方が一方に波及し、それが無限に続く」といった現象が珍しくないうえ、別に二者択一の一方に決めなくても話は進められるからである。
ところで、前章で日本の社会や組織は神聖組織と世俗組織の中間体のような形態をしていると述べた。
そこで、「日本の社会や組織が日本人の意識にどのような影響を与えるか」についてみていく。
前章では深く踏み込まなかったが、「神聖組織は過去・未来の理想郷の模型」であり、その一方で「神聖組織は聖職者集団」でもあった。
つまり、神聖組織には「現実の聖職者集団」と「理想の模型」というで二重の意味を持っていた。
例えば、キリスト教の教会は「キリストの体、神の国の地上の模型」という形で捉えられていた。
あるいは、共産党は「未来の理想郷にして、資本主義社会における共産主義社会の模型」と考えられていた。
この「模型」というのは努力目標であり、その意味で神聖組織は努力集団であることになる。
つまり、「模型」の意味を持つ神聖組織は「その模型の実現化に向けて努力する」と構成員が信仰することによって成立する集団である。
だから、その意味で「信にかかわる集団」と言える。
他方、世俗集団は利益の追求や社会政策の実現といった「世俗の目標の実現」のために存在する。
そのため、何らかの信仰の仮託があるわけではなく、その意味で「信にかかわる集団」ではないことになる。
ところで、「信にかかわる要素」の反対側にある要素が「知にかかわる要素」である。
以下、両者を「信の要素」・「知の要素」と短縮して記す。
両者をイメージするなら「信仰」と「知識」に置き換えてもよい。
この点、「信の要素」が組織の存立理由となる神聖組織においても「知の要素」が存在する。
それどころか、日常の組織運営については「知の要素」なしでやっていくことができないため、「知の要素」は重要である。
もっとも、その「知の要素」の重要性ゆえ、組織の存立理由となる「信の要素」と「知の要素」は、しばしば重要かつ深刻な対立をもたらす。
そして、「知の要素」と「信の要素」の矛盾・衝突をうまく調整できれば、その組織は単純な世俗組織とは比較にならぬスピードで成長し、逆に、二つの要素の矛盾・衝突を調整できなければ、一気に組織は壊滅することになる。
本書ではその具体例として日本共産党を取り上げられている。
ただ、日本を探せば、この例には枚挙にいとまがないかもしれない。
ところで、「『知の要素』と『信の要素』の対立」といった問題は神聖組織なら極めて難しい問題である一方、伝統的な商人組織といった世俗組織であれば最初からそのような問題は存在しない。
というのも、「信にかかわる要素」は個人の問題であり、組織の「知にかかわる要素」と衝突しない限り問題にならないからである。
ただ、両者の衝突がないということは爆発的な発火点もないので、大きな変化は生じづらいということになる。
以上の「信の要素」と「知の要素」の衝突の例として、本書では天動説と地動説の問題が取り上げられている。
地動説に関連してガリレオ・ガリレイは処罰された。
ジョルダーノ・ブルーノは処刑された。
その一方、コペルニクスは死後も含めてなんら処分がなされていない。
これはなぜか。
この点、コペルニクスは地動説の発表直後に死亡したので迫害・処罰されなかったという見解もある。
しかし、もし地動説それ自体が異端なのであれば、死んだことは理由にならない。
中国のように墓を掘り返して云々ということまでしないとしても、聖職者だった身分のはく奪といったことは十分あり得るであろう。
とすれば、「地動説それ自体が異端」という理由は少し弱いことになる。
ここで見るべきは「信の要素」と「知の要素」である。
つまり、コペルニクスは地動説を仮説として「知の要素」として発表した。
いわば、「地動説」を知的討論によって自由に改訂・変更できる問題として発表したのであり、知的討論で改訂できない「信の要素」に触れないように発表したのである。
このことから、当時のカトリック教会のスタンス、つまり、「信の要素に触れなければ自由(不問)」というスタンスも見ることができる。
だから、コペルニクスは聖職者たる身分を死後も維持できたのではないか。
とすれば、集団における「信の要素」と「知の要素」に関するスタンスや集団のタイプを知るには同種の問題を探してみていけばいいことになる。
さらに、信の要素と知の要素が衝突する問題として、「信教の自由」と「表現の自由」の問題がある。
ご存じ近代憲法における精神的自由の二大要素であり、日本国憲法でも20条1項と21条1項で保障されている。
なお、日本では精神的自由として認められた人権に「思想良心の自由」(19条)と「学問の自由」(23条)があるが、これらの権利(人権)は信教の自由と学問の自由に分解可能である。
ところで、精神的自由に属する「信教の自由」と「表現の自由」は両立しうる人権ではない。
これは、「自由」と「平等」の関係と同様と考えてもいいとさえいえる。
例えば、「地動説を発表すること」は表現の自由の行使である一方、「天動説を信仰している者」にとっては宗教弾圧、つまり、「信仰の自由に対する制限」になるわけである。
逆に、「地動説の発表を禁止すること」は表現の自由の制限につながる一方、天動説を信仰している者にとっては宗教的実践の結果それ自体であり、信仰の自由の行使ということになる。
そのため、いわゆる「公共の福祉」(憲法12条・13条)による調整が必要になるわけだが。
ここで、「信の要素」と「知の要素」の境界が完全に存在しない、恣意的になってしまったらどうなるだろうか。
その場合、「天動説か地動説か」という一般には「知の要素」に関わる科学の問題が信仰の問題に移って、知的議論を一切否定するといったことが生じうる。
あるいは、「神の存在」といった一般には「信の要素」に関わる宗教的問題が世俗の問題となり、その結果、「棄教の強制」が可能といった問題が生じうる。
もちろん、境界を完全に明確にすることは不可能であり、無理やり境界を作ることの弊害も存在する。
しかし、完全に不明確にすれば、それはそれで別の問題が生じるのである。
そして、この問題は日本に限った問題ではなく、どの世界でも共通する問題である。
以上の観点から日本を見てみる。
日本の組織の特徴は神聖組織と世俗組織の中間型にあることは既に述べた。
この結果、「『信の要素』と『知の要素』の境界をあいまいにして分離しない」という結果が生じた。
その結果、本来ならば科学・社会政策のような「知の要素」に属する事項が、『信の要素』に属する事項として争点になるといった珍現象が生じることになった。
本書では、その例として公害問題を取り上げているが、この種の問題は日本ではごろごろ転がっている。
その結果、「反原発」といった「一定の社会政策の推進」が一種の宗教になり、本来社会政策の推進を目的とする世俗組織も神聖組織のような何かになっていくのである。
こうなれば、社会政策の是非が一種の宗教戦争になり、「情報の提供や討論を通じて知識を増加・修正させ、一定の合意に至る(合意の中身は「留保」ということもありうる)」といった知的議論が一切不可能になり、改宗や転向の強制による解決が不可避となる。
これが「信の肥大化」がもたらす悲劇である。
では、この「信の肥大化した集団」は神聖組織として扱うことが可能なのだろうか?
この点、神聖組織には「理想の模型」という性質があり、その結果、周辺の世俗組織を未来における神聖組織に導く存在理由がある。
しかし、「信の肥大化した集団」は「信」が極端に肥大化しているだけで、理想の模型が存在しない。
とすれば、この集団を神聖組織として見ることはできない。
では、この「信の肥大化した集団」は世俗組織なのだろうか?
もし、世俗組織であれば「知の要素」は重要な要素であり、知識の収集・変化を受け付けないといったことはあり得ない。
よって、世俗組織として扱うこともできなくなる。
この点から見ると、この「信の肥大化した集団」は中間型のように見える。
ただ、正確には「世俗性と神聖性のいずれの性質も持たない無属性集団」というのが正しいようにも思える。
ところで、この現象は日本の公害運動・原発反対運動においてある程度はっきり見られた。
だからといって、切断操作をして「通常の日本の組織はこれらの特徴がないから大丈夫」と考えると失敗すると考えられる。
というのは、「神聖組織と世俗組織の二重性」・「『信の要素』と『知の要素』の未分離」といった特徴は日本のあらゆるところに見られるからである。
この点、「両者を分離しないこと」は悲劇だけを起こすわけではない。
また、「両者の分離の志向」は大量の悲劇を招いている。
ただ、両者を分離しない伝統を持つ日本人と日本の組織、逆に、両者を分離する伝統を持つ欧米人と欧米の組織が違っても不思議ではないことになる。
そして、「日本の世俗組織が、欧米の世俗組織ではなく、欧米における一種の神聖組織である点」というのが、一種の問題を引き起こすことになる。
なぜなら、世界の脱宗教化・世俗化現象の際、日本人や日本の組織も世俗化を免れることができないところ、その結果として日本人が日本の組織を「知の要素」の対象としてしか見ず、「信の要素」を組織以外の別に求めても不思議ではないからである。
もっとも、日本が欧米のようになるわけではない。
なぜなら、日本には一神教がなく、代わりにあるのは「信の肥大化させた何か」に過ぎないからである。
そして、日本人が「信の要素」を「信の肥大化させた何か」に預けたら、「知の要素」が窒息してしまうことになり、これまた大変な悲劇が起きる。
従前の日本の組織はこの欠点を承知していたためであろうか、組織内に「知の要素」と矛盾しない「信の要素」にかかわる対象を設置させてきた。
これは信の要素と知の要素の矛盾を回避するための日本の伝統に由来する知恵と言えよう。
もっとも、日本の組織が世俗化すればこの要素も消え、代替手段が必要になる。
その際、趣味サークルでは「信の要素」の預け先としては不十分である。
以上から、日本の課題が具体化して見える。
つまり、「今後、企業が持っていた神聖組織としての要素が抜け、完全に世俗化した際、構成員は『信の要素』をどう適切に保護していけばいいのか」と。
以上が本章のお話。
面白かったし、結構参考になった。
ただ、未来に生かしていくためには別のステップが必要になりそうである。