薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『「空気」の研究』を読む 25

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

 今回も『「空気」の研究』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

28 あとがきを読む

 以上、「空気」・「水」と「日本の通常性」・「日本のファンディ」についてみてきた。

 今回は「あとがき」を見て、次回で第3章などをまとめ、次々回で感想を書きたい。

 つまり、残り3回でこの本のメモも終了である(「メモ」っていってもブログ27回分、かなりの分量になるが)。

 

 

 あとがきでは「『空気』の支配の猛威はいつから始まったのか」という話から始まる。

 この点、徳川時代・明治時代は「空気」に支配されることを一種の恥とする風潮があった。

 しかし、昭和期に入ると「空気」の支配力が強くなり、「情況」の存在が個人の行為を免責するように、「空気」に拘束されたことの証明が個人の行為を免責するようになった。

 もちろん、「水を差す」という抵抗はあるが、「水」でその瞬間の「空気」を雲散霧消したとしても、結果的に生じるのは新たな「空気」である。

 ならば、現「空気」と「水を差す」間に生じる戦いは「空気」という「錦の御旗」の取り合いであって、「『空気』に対する抵抗」とは言い難い。

 

 

 ところで、ある「空気」によって「うやむやにするな」・「徹底的に探究(追究)せよ」という言葉が発せられることがある。

 しかし、一神教的観点から見た場合、探究・追究という作業は根気のいる持続的・分析的作業であり、特定の「空気」の拘束のもとでできる作業ではない。

 もちろん、宗教的情熱のような不合理な何かを源泉とする力が必要であることを否定するつもりはない。

 しかし、追究・探究といった作業はある種の「空気」に支配されない「自由」な状態であり、かつ、ある種の「空気」から独立してこそ可能になるもののはずである。

 それは、これまでの事例、例えば、数値やデータが「空気」に汚染される現象などからも明らかである。

 

 これに対して、上の「うやむやにするな」的な発言をする人がその事実に気付いている感じはない。

 そのことに気付かず、つまり、「空気に拘束された状況での追及は不可能」ということに気付かないのであれば、(一神教的)追究・探究は不可能であろう。

 何故なら、対象を臨在感的に把握した瞬間、その対象に支配され、相対的把握が不可能になるからである。

 

 以下、本書に書かれていないことを私なりに解釈してメモに追加する。

 この点、一定の「空気」に拘束されて「うやむやにするな」と叫ぶ彼らのいう「探究・追究」という言葉は、一神教的探究・追究とは異なるのだろう。

 具体的に述べれば、彼らに従っている「空気」に基づく事実・理論が客観的にも正しいことを裏付けるための活動、または、「空気」に反する客観的な事実・理論を排斥するための活動が「探究・追究」なのだろう。

 私は、数年の間、ある業界の「空気」から離れて、その業界に関することについて自然科学的手法を用いて研究する機会があった(今見れば、私のレベルは極めてお粗末なものであった、しかし、そのような研究をする人がゼロに近い状況であったため、そのお粗末なレベルであってもその業界で「有用」と評価されるものとなった)。

 他方、数年の間、私は民事訴訟や刑事裁判に携わる機会があった。

 訴訟・裁判の際に見た当事者・代理人の活動(当然だがこれは法令に則ったものである)を見ると、自然科学の研究者のいう探究・追究(これは一神教的観点と同様である)と法曹界の人間の言う探究・追究はずいぶん意味が違うなあ、と考えさせられる。

 もちろん、両者の目的は異なるのだから、「違うからいけない」とは考えないが。

 

 

 このあとがきでは、「何故、日本では空気の独裁化を招いてしまったのか?そして、我々はどうするべきか」という答えのヒントとして、我々のファンダメンタルな部分が示されている新井白石の『西洋紀聞』の文章が紹介されている。

 この文章では、我々日本人がファンダメンタリストに対していう言葉と同様の言葉が述べられている。

 

『西洋新聞』は新井白石が宣教師シドチを尋問した結果が記されたものである。

 そして、白石はシドチに対して「彼(シドチ)には賢い部分と愚かな部分があり、彼の発言を聴くとまるで二人の人格があるようだ」との感想を持つ。

 また、「賢い部分(=知識・技術)は日本に導入するべきだが、愚かな部分(=キリスト教)は導入すべきではない」という結論を出す。

 ところが、シドチは二重人格者ではなく、一人の人格によって立つ人間である。

 また、シドチが日本に来た動機は我々が「愚か」と判定した部分に属する事項である。

 この辺を見ても、白石と現代の日本人との間に共通項が見られる。

 例えば、現在の日本人がアメリカの素晴らしい技術(文明)に関する話とモンキートライアルの話を同時に聴けば、白石と同様の感想・結論を持つだろう。

   

 この点、白石は「鬼畜米英」等と考えていたわけではない。

 シドチの考えを聴き、日本に即して冷静に検討し、その結果として「賢い部分は導入するが、愚かな部分は導入すべきではない」と判断している。

 その理由は、「キリスト教が当時の日本の序列的集団主義に適合しないから」となる。

 具体化して書くならば、キリスト教は天(神)と個人が直接リンクされているが、日本では「天(神)=天皇=幕府=大名=・・・=民」という形で天と民は集団を介してつながっており、キリスト教のように個人と天(神)を直接リンクしたら、日本の秩序が崩壊するから、となる。

 

 

 このように考えると、キリスト教社会(欧米)において、個人は「神(宗教)」と「世俗(所属集団)」の二つによってリンクされていたと言える。

 そして、個人は二つの発言を意識し、両者のずれをどのように調和するか、両者による緊張状態をどのように緩和させるかを「常に」考えていた。

 一方、この「神」と「世俗」と個人の関係は日本人にも存在しえた。

 しかし、日本人の臨在感的把握の結果、つまり、対象に支配される結果、同じ時間に「神」と「世俗」を意識することができなかった。

 もちろん、情況によって臨在感的把握の対象が異なる関係で、ある時間では一方を、別の時間では他方を把握することはできるのだけれども。

 

 ただ、昭和以後と明治時代以前とを比較すると異なる点がある。

 つまり、過去の日本では儒教的道徳体系が別途存在し、個人はこの体系に生きていた。

 その結果、所属集団(組織、つまり、幕府や藩など)がこの道徳体系に沿っていれば「二人の言葉」はあり得ないものの、逆に、集団が「空気」などに支配されてこの道徳体系から逸脱した場合、道徳体系と集団を支配する「空気」との間に緊張関係が生じる。

 この場合には、キリスト教社会の個人のように、宗教と世俗のずれをどう修正するかを考える機会が生じた。

 

 

 さて、明治の近代化の際、日本は技術を導入して、思想(キリスト教)は導入しない(キリスト教に近い天皇教で対応する)という戦略を用いて近代化を行った。

 つまり、白石と同様の戦略を採用し、近代化という目的を達成した。

 しかし、賢い部分だけを導入しようとしても、愚かな部分も導入されてしまう。

 そのときに、「日本では精神文明では欧米に勝るが、物質文明では欧米に劣るので、後者のみを補充して云々」と言っても、両者の不可分性を考慮すれば無理であった。

 

 

 良し悪しはさておき、日本人は日本のファンディに縛られている。

 ならば、この点を把握することからスタートすべきであると考えられる。

 もちろん、「白石に戻れ」と言っても、近代化と高度経済成長の過程で日本の精神文明を一掃してしまった以上、現代では「空気」しか残っていないので不可能である。

 ただ、「近代化・民主化によって消したものが消えずに我々を拘束している」ということは分かる。

 ならば、次はその呪縛の内容を再把握すれば、脱却という選択肢も考えられるようになるだろう(実際に脱却するかは把握した後で考えればいい)。

「空気」を把握すれば、「空気」の無意識的拘束という現状からは脱却できるだろうから。

 

 なお、この再把握の過程は近代化・高度経済成長の過程と比較すれば、まどろっこしいことになるだろう。

 ただ、「進歩」とはこのような試行錯誤の連続であり、まどろっこしいものである。

 

 

 ということで、「あとがき」は終わり。

 以下、3章とあとがきのまとめに続く。