薫のメモ帳

私が学んだことをメモ帳がわりに

『危機の構造』を読む 9

 今回はこのシリーズの続き。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

『危機の構造_日本社会崩壊のモデル』を読んで学んだことをメモにしていく。

 

 

14 第4章「『経済』と『経済学』」をまとめる

 まず、第4章の内容を箇条書きにしてまとめる。

 

・石油危機によって、日本の経済学が想定していた前提と現実が合わなくなり、経済学が分析のためのツールとして利用できなくなった

・戦前から継続する日本人の行動様式の特徴をまとめると、①単細胞・②想像力の欠如・③社会科学的実践の欠如であり、これらは総て盲目的予定調和説とリンクしている

・過去の日本の失敗を抽象化して表現すると、「『軍事発展や経済発展は軍事だけ、経済だけでは成立しない。政治・外交・軍事・経済・文化・学問の協働作業の上で成立する』という視点がなかった」ということになる

・日本の経済学は日本人の行動様式に対する理論的基礎を与えており、それが高度経済成長につながったのだから、日本経済学は最初から最後まで無用の長物だったわけはない

・日本の経済学は60年代まで冴えないものだったが、60年代に一気に発展し、70年代に一気に凋落する

・経済学を含む科学の特徴は「理論・モデルによる計算予測」にあり、その過程で単純化という作業が必ず入る

・経済学における基本的かつ重要な前提・補助仮説は①人は経済合理性に基づいて行動する、②経済現象は他の社会現象から分解できる、という2点である

・非現実的な設定自体は問題ではなく、重要なのはその結果としてどんなことが言えるか、である

・一時期、日本の経済学が日本で大成功を納めた理由は、現実の日本の資本主義社会と経済学の前提がマッチしたからである

・経済学の前提は徳川時代や伝統主義の社会等、資本主義以外の社会では適合しない

・70年代に入って日本社会が経済学の前提とする資本主義から劇的に乖離してしまったため、経済学の有用性が一気になくなった

・欧米社会でも経済学の想定する資本主義社会からの乖離は見られている

・日本は資本主義の形成の由来が異なるため、資本主義社会からの乖離の程度は欧米と異なる

・本書の資本主義の定義に従う場合、資本主義の重要な特徴は「労働者と労働力の分離」・「生産者と生産手段の分離」にあるところ、この観点から日本を見ると「日本は資本主義なりや?」という疑問が生じても無理からぬところがある

・日本は企業が共同体となり、また、労働市場が部分的にしか成立していないため、「労働者と労働力の分離」という前提がない

・資本主義の重要な特徴は、「資本は完全に資本家の物、似て食おうが焼いて食おうが原則として自由、ただし、他人の権利を侵害しなければ」であり、欧米の資本主義社会ではこの原則が貫徹しているところ、日本ではこの原則が貫徹されていない

・経済学の想定する資本主義社会の前提は「各人が自分の効用・利潤を最大化しようと行動すれば、結果的に、社会全体の効用・利潤も最大化される」という世界であり、この前提からレッセ・フェールが導かれた

・19世紀の近代社会は、市場に対する政府の介入を嫌っただけではなく、社会に対する政府の介入も嫌った社会であった

・19世紀の近代社会の大前提は、「各人が各人の利益・効用を追求するために合理的に振る舞えば、市場や社会に対する政府の介入がなくても、最大多数の最大幸福が達成する」というものであった。

・19世紀の近代社会の大前提は現実において必ずしも成立するものではない

・20世紀に入り、大恐慌その他が政府による市場への介入を必要とするようになり、社会分業の細分化と生産手段の大規模化が社会の紛争を大量発生させ、社会に対する政府の介入を必要とするようになった

・市場と社会への権力の介入により、政治と経済の相互作用という問題が発生した

・近代社会において権力を用いて市場・社会をコントロールするためには、国民に市場や社会をコントロールする意思と社会科学的実践を行う意思と能力が必要になるところ、この条件は市民革命を経た国々においてしか成立しづらい

・日本においては市民革命を経た国々がもっている「国民の権力によって市場・社会をコントロールする意思とそのための能力」はあるとは言えない

 

15 第5章「危機の構造」を読む_前編

 これまで日本における社会科学的実践の欠落の具体例について述べてきた。

 しかし、悲劇的事件を起こした具体的な個人・エリートや集団を吊るし上げるだけでは、日本社会が類似の人間を再生産して同じ悲劇を繰り返すだけで終わる(もちろん、この事実はつるし上げる必要がないことを意味しないことは留意)。

 そこで、日本の悲劇的事件を再生産する日本社会のシステムそれ自体にスポットをあてていく。

 ここで、キーワードとなるのが「アノミー」・「盲目的予定調和説」・「機能集団の共同体化」である。

 

 第2章で、ナチス・ドイツアノミーと比較して、日本のアノミーが広範囲・深刻化していることに言及した。

 また、日本の盲目的予定調和説や共同体化した機能体の問題は、個々の日本人の努力でどうにかなるものではない。

 ならば、いささか過激な言い方をすれば、上の三つのキーワードの相乗作用によって、自分が自分の意図とかかわりなく「『まさかあの人が?』と言われる事態」に巻き込まれてもおかしくない、ということになる。

 

 

 本書によると、機能集団の共同体化という現象、戦前はそれほど一般性はなかったらしい、

 この点、陸軍・海軍・官僚といった組織は共同体化されていたかもしれないが、社会側はそれほどでもなく、企業間の移動は今より自由だったらしい。

 そして、機能集団の共同体化現象が社会の隅々まで浸透する(一般化する)のは高度経済成長後のことらしい。

 また、「機能集団の共同化現象」と「企業間移動の自由度」は負の相関の関係があり、共同体的性格を帯びない職業は職業移動が割合自由である。

 さらに、年功序列・集団間移動の困難さは共同体の特徴であって、日本社会の特徴ではなく、共同体であればどの国でもそのような傾向がある。

 もっとも、一般論としてアメリカ・ヨーロッパの近代社会は機能体が共同体化せず、機能集団と共同体は分化していく傾向がある、というだけで。

 

 とすれば、日本と欧米の違いは、機能体が共同体から分離していくのか、逆に、一致していくのか、という点になる。

 本書にない言葉で補えば、欧米は二尊主義、日本は一尊主義ということになる。

 

 では、なぜこのような違いがあるのか。

 ここでカギになるのが、「戦後日本における全面的急性アノミーだという。

 私見だが、山本七平氏の研究で継ぎ足せば、「明治時代から急性アノミーが部分的、かつ、徐々に進行し、戦後になって一気に爆発・拡大した」ということになるのだろう。

 

 

 では、アノミーとは何か。

 一般に、アノミーは「無規制(状態)」と訳されるが、意訳すると「無連帯(状態)」の方が理解しやすいかもしれない。

 そして、アノミーの意味する範囲は「社会の状態」だけではなく、「社会の状態によって生じる個人の心理的危機」の範囲まで含めて用いられるようである。

 アノミー概念はデュルケームによって提案され、現在では政治学社会学における有効な分析道具となっている。

 ここでは、アメリカの政治学者、セバスチャン・デ・グレージアによるアノミーの区別を見てみる。

 

 まず、アノミーには様々なアノミーがあるらしい。

 それぞれの性質は次のとおりである。

 

1、単純アノミー(シンプル・アノミー

 社会環境の変化はその良し悪しにかかわらず、新環境の適応を要求する。

 また、人間は社会的規範によって自己の欲望をセーブしているところ、新環境の提供する規範も従前の規範が異なるため、自己の欲望に関する環境も変化する。

 以上により、社会環境の変化それ自体が個人へのストレスとなり、そのストレスに耐えられない結果、精神病や破壊行動を生み、あるいは、自殺に至る。

 この現象を単純アノミーという。

 

2、急性アノミー(アキュート・アノミー

 単純アノミーの瞬間バージョン・強烈バージョンといっていいものかもしれない。

 全面的・瞬間的な社会秩序の崩壊による社会環境の劇的な変化により規範が全面的に解体した結果、個人に強烈なストレスがかかり、そして、このストレスに耐えられなくなった結果、自殺・精神病・破壊衝動による事件になるケースを急性アノミーという。

 この背後には「権威に対する服従によって得られる心理的安定性」があり、権力者と服従者との間の双務関係(ルールに従って、権力者は服従者に生存と安定を提供し、他方、服従者は権力者に服従と畏敬を提供する)がある。

 

3、複合アノミー(コンプレックス・アノミー

 大きい規範・連帯がなく、多数の小さい規範が断片的に存在する状況で発生するアノミーである。

 つまり、単純アノミーと急性アノミーは「一つの規範の変化」がもたらすものである(小さければ単純アノミー、大きければ急性アノミー)が、複合アノミーは「多数の規範の相互作用」によってもたらされる点が異なる。

 

4、原子アノミー(アトミスティック・アノミー

 複合アノミーを前提とし、さらに、「所有」が社会的文脈から切り離せない状況を付加した結果生じるアノミー

 欧米との比較において、日本では資本主義の大前提たる「所有権の絶対性」が著しく相対化されている(『経済学をめぐる巨匠たち』の第15章より、読書メモのリンクは次の通り)が、その前提をアノミーの状態に反映させた、と言えばイメージしやすい。

 

hiroringo.hatenablog.com

 

5、構造的アノミー

 単純アノミー・急性アノミー・複合アノミー・原子アノミーアノミーの原因については制限がない。

 自分の行為が原因だったり、集団内の事情が原因だったり、社会内部の事情が原因だったり、社会外の事情が原因だったり、その原因はさまざまである。

 そのうち、社会構造・社会システムがアノミーを生み出す原因となったアノミーのことを構造的アノミーという。

 

 

 以上の5つの言葉を前提にして、日本のアノミーを分析してみる。

 そうすると、現代日本の陥っているアノミーは急性アノミーである。

 そして、現代日本を急性アノミーに陥らせた大事件は「太平洋戦争の敗戦と敗戦処理における天皇陛下人間宣言」である。

 この点、重要なのは後者であるが、敗戦がなければ人間宣言は不要だったことを考慮すれば、敗戦の影響も小さくはないと考えられる。

 もちろん、細かい事件として「デモクラシー神話の崩壊」(冷戦による逆コースによる崩壊)や「共産主義神話の崩壊」(スターリン批判や中ソ紛争による崩壊)もあるだろうが、「敗戦と民主化」によって生じたアノミーの埋め合わせという観点が小さくない。

 また、本書に記載されていないことではあるが、過去をさかのぼれば「列強に対する屈服・脅威と幕藩秩序の崩壊」がアノミーをもたらし、その埋め合わせが「現人神神話(人間宣言によって崩壊)」という見方も可能であろうが、ここでは踏み込まない。

 

 現実において天皇陛下立憲君主に過ぎなかったことは確かであるが、それでも天皇陛下の権威は絶大であり、「神聖」であった。

 それゆえ、天皇陛下は神であり、その権威は日本の帝国臣民に対して一定の心理的安定をもたらすものであった。

 しかし、天皇陛下人間宣言はこの権威をぶち壊してしまった。

 これは、単純アノミーで済まない根本規範(グランド・ノルム)の変更であり、急性アノミーにならざるを得なくなる。

 

 ところで、根本規範を破壊され、急激なストレスを叩きこまれた帝国臣民はどう対処したか。

 当時は生活物資に事欠く状態、生活物資の確保だけで精一杯だったともいえる。

 しかし、生活物資が確保できれば、このストレスは確実に人々に襲ってくる。

 そこで、人々は村落共同体や地方の小集団に戻っていった。

 というのも、村落共同体は天皇制を底から支えた日本の基礎だったからである。

 

 この村落共同体が共同体として存続していけば、急性アノミーは緩和されたかもしれない。

 しかし、社会情勢の変化は村落共同体の急激な変化と崩壊をもたらすことになる。

 その社会情勢の変化こそ高度経済成長である。

 そして、崩壊した村落共同体から放り出された人々が救いを求めた先が企業ということになる。

 その関係で、本来、営利目的追及という社会的機能を果たすための機能集団だった企業が共同体的な性格を持つことになった。

 この日本の組織の持つ「機能集団の共同体化」現象こそ現代日本特有の特徴である。

 そして、この「機能集団の共同体化」がもたらす独特の法則が日本の現代社会に危機をもたらしている。

 

 

 もちろん、「機能集団の共同体化」という現象は盲目的予定調和説と同様、欠点しかないといえるものではない。

 この「機能集団の共同体化」現象は天皇(明治政府)の官僚組織と村落共同体をリンクさせるために機能していた

 つまり、丸山真男教授の言葉を用いてを説明すると、「明治の近代化プロセスは①国家(政府)からの近代化が地方(村落)に波及していくプロセスと②地方・村落の社会を規律する人間関係その他が国家機構や社会組織に転移していくプロセスの無限の繰り返し」としている。

 とすれば、大日本帝国というシステムは、共同体(内面的部分)としての性質と機能体(官僚組織)としての性質を併せ持っていたといえる。

 その意味では、現代社会の共同体化した企業と同質なのかもしれない。

 

 ところで、戦前はこの大日本帝国が機能体と共同体の微妙なバランスを維持していた。

 ならば、戦後は企業が機能体と共同体の微妙なバランスを維持していることになる。

 

 この「共同体化された機能集団」が日本の伝統に由来するのではなく、現代の日本社会の特徴であることは、戦前と戦後、あるいは、高度経済成長前と後の推理小説を見てみるとわかるらしい。

 というのも、前者において、村落共同体の人間関係について厚く書かれている一方、会社における人間関係についてはほとんど記載がないからである。

 

 

 では、「共同体化された機能集団」の特徴は何か。

 第一は二重規範の形成であり、第二は共同体が自然現象の如く所与のものと見えてくることである。

 そして、共同体化された機能集団こそ盲目的予定調和説的行動を生み出す社会基盤である。

 もちろん、「盲目的予定調和説と共同体化された機能集団」は相互に補完しあっているので、お互いがお互いを再生産しあう関係にあるわけだが。

 

 そして、共同体の構成員は共同体独自の文化によって再構成される。

 また、共同体外のコミュニケーションは形式的(員数的)には頻繁になされようとも、実質的には無意味になる。

 その結果、構成員は共同体外への関心を失う。

 その一方で、共同体内の関心に集中し、共同体内の人為的に作られたに過ぎない諸々が自然現象のごとく見えてくる

 そうなれば、共同体内の規範・慣行・前例は改正の対象となるはずもなく、神聖なものとして扱われ、無批判の遵守と無条件の献身が求められることになる

 

 これに盲目的予定調和説が加われば、共同体内に存在する機能に対する技術信仰が生まれる。

 つまり、社会全体の利益促進の手段に過ぎなかった技術が信仰の対象になる。

 信仰となる結果、手段に過ぎない技術が目的化されてしまい、業務遂行の変更・相対化に関する意見や技術の改良・改良の前提となる批判・質問が、構成員にとって信仰弾圧に見えるようになる。

 そのため、構成員の反撃は批判に対する反批判ではなく宗教戦争の様相を帯びるようになる。

 こうなってしまったら、批判拒否症と大差ない。

 この批判拒否症は当事者の資質の問題だけではなく、機能体の共同体化と盲目的予定調和説の相互作用がもたらす当然の帰結と言いうる。

 

 そして、この盲目的予定調和説に陥ったものが全体のリーダーとして最悪ということは第2章で述べた。

 というのも、そもそも技術信仰に陥る人間は技術者や官僚に過ぎず、決断者ではないからである。

 もっとも、なにかの拍子でその者が全体のリーダーとして決断せざるを得なくなれば、その者の持っていた技術信仰と所属していた機能体兼共同体(もちろん、社会からみれば一部に過ぎない)の利益を第一に考えざるを得ない。

 その際、社会全体に存在する他の共同体や他の機能に対する配慮は自動的にスキップしてしまう。

 また、信仰に頼って決断してしまえば、その決断に対する批判は信仰に対する批判となって、これまた批判が信仰弾圧と同一のものと受け取り、受け付けなくなる。

 さらに、信仰の根拠が共同体的な部分に依拠する以上、根拠の客観的な基準はなく、主観的・流動的になる。

 ゆえに、合理性判断になじまず、権力の恣意的な流入を阻止できない。

 かくして日本のアノミーは完成される、ということになる。

 

 このアノミーが引き起こした具体例は既に述べてきた通りだから、ここでは割愛。

 かくして、「盲目的予定調和説と機能体の共同体化の相互作用」は構成員を含む社会全員の誠実な努力と意思をすべて無視して、ひたすら破局にまい進することになる。

 

 

 というのがここまでのお話。

 今回はこの辺にしておく。

 日本の危機的構造をある程度単純化してここまで整理できるということが正直、意外であった。

 もっとも、個人的には、本書の記載とは異なり、この機能体の共同体化現象は直近の日本に限った現象とは言えないと推測している。

 この点は、その他の資料と比較しつつ、慎重に判断したい。