今日はこのシリーズの続き。
『小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。
5 第2章を読む_前編
第2章のタイトルは「『幇』を取り巻く多重世界」。
第1章は中国の人間関係を表現するための理論(モデル)として「幇」理論を組み立てた。
しかし、第1章で組み立てたモデルは「幇」と「幇外」で二分したものに過ぎない。
つまり、このモデルのままではあまりに単純なので、このモデルを現実に近付けていく必要がある。
質点の力学を剛体の力学へ応用させていくように。
本章で見ていくのはその理論の精密化である。
さて、本章は「『中国人との付き合い方を一言で言ってくれ』という質問を受ける」ということから話が始まる。
もちろん、第1章を見てみればこの質問があれなことは明白であるが。
まあ、この辺に日本教徒の特質が現れているような気がしないでもない。
これに対して、小室先生は「アメリカ人だと思って付き合いなさい」と返す。
一言で返答するなら、このような形にならざるを得ないであろう。
まあ、この返事でも「日本人と中国人には類似性が多い」という誤解を解くことがあるので、それで意味があるのかもしれないが。
確かに、日本人と中国人は人種的に近いと言われている。
また、漢字を利用しているし、長い間、日本は中国の文化を輸入してきた歴史もある。
それゆえ、日本人は文化的意日本人と中国人は類似性がある、と考えてしまっても無理はない。
しかし、第1章や他の章を見ていけば分かる通り、ここに深い誤解の根っこがある。
日本人と中国人のエートスは大きく異なる。
本章では、このエートスと「幇」の観点から日本と中国の違いを細かく見ていく。
まず、本書では「ギブ・アンド・テイク」に関する体験談から話から始まる。
つまり、「ギブ・アンド・テイク」は中国における鉄則である、と。
もちろん、この点は間違ってない。
しかし、日本人が注意しなければならないことは、「(中国においては)ギブ・アンド・テイクは社会規範に優先する」ということである。
言い換えれば、「社会規範を逸脱・濫用してでも『ギブ・アンド・テイク』を遵守しなければならない」と言ってもよい。
この辺は「幇」の規範の絶対性と類似する。
このことを社会学的用語で述べれば、「特定集団の規範が社会の普遍的規範よりも優先する」ということになる。
ちなみに、近代社会は基本的に逆である。
その具体例として、民法の90条から92条を見てみよう。
民法90条
公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。
民法91条
法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う。
民法92条
法令中の公の秩序に関しない規定と異なる慣習がある場合において、法律行為の当事者がその慣習による意思を有しているものと認められるときは、その慣習に従う。
つまり、民法91条と92条は、当事者らが、民法の任意規定(「公の秩序に関しない規定」)と異なる意思表示をした場合、または、任意規定と異なる慣習に従う旨の意思表示をした場合、任意規定ではなく当事者の意思表示や慣習に従う旨の規定がある。
もちろん、その意思表示や慣習が民法の強行規定(「公の秩序又は善良の風俗に反する」規定)に反する場合、それに反する当事者の意思表示や慣習があっても無効になる。
近代社会の場合、このような規定がある関係で特定集団の規範が社会規範よりも優先することになる。
これに対して、中国では原則と例外が逆になっている。
この「原則と例外」の違い、これが大きな差を生むことになる。
さて、この「『ギブ・アンド・テイク』は社会規範に優先する」というルール。
しかし、これだけでは説明として不十分である。
これに言葉を足していくとこうなる。
「『ギブ・アンド・テイク』は社会規範に優先する。ただし、『ギブ・アンド・テイク』による恩恵を受けるためには、『一定の集団』の内側に属していなければならない。その外側にいる人間からのギブは『ギブ』にならない」
本書では、中国において医者が外側にいる人間に対して法外な治療費を請求し、払えないと分かるや否や治療を拒否したケース、役所でたらいまわしにされるケースを取り上げている。
この点、医者のケースを見て医者が強欲だった、と考えることはできなくはない。
しかし、著者によると「こう振る舞うのが中国におけるエートス」であると述べている。
そして、医者と患者が一定の集団の中にいれば、逆に、医者は親切な治療をしていたであろう、とも。
なお、本書では、体験談として『中国人とつき合う鉄則_「そこが知りたい中国人」』(別冊歴史読本特別増刊、新人物往来社)から紹介している。
この点、「ギブ・アンド・テイクは社会規範に優先する」だけなら、どの社会でもある話である。
しかし、このルールに「ギブ・アンド・テイクの恩恵を受けるためにはその集団に属している必要がある」というのが入ることで、近代民主主義や資本主義とは大きな差を生むことになる。
ところで、ここで述べた「ギブ・アンド・テイク」は法と言えるか。
もちろん、「法」と言ってもヨーロッパと中国では大きく異なるため、それぞれの観点から確認する。
まず、中国では「法」が高度に発展していた。
そして、中国において法家の商鞅は「法の本質は信賞必罰にあり」と述べている。
また、「信賞必罰に親疎遠近の差別があってはならない」とも述べている。
このことは、法家だけではなく、兵家(孫子など)も述べている。
このことから、上述の「中国におけるギブ・アンド・テイク」は法ではない、と言える。
さらに言えば、中国の役人が「社会規範を逸脱・濫用してでも『ギブ・アンド・テイク』を遵守しなければならない」と考えた結果、その役人が持つ法律解釈権につき恣意的に利用し、その結果、集団内の人には有利な解釈を、集団外の人には不利な解釈をすることになる。
もちろん、このような役人の行為は中国の「法」にも反するが、「法」が社会規範に過ぎず、ギブ・アンド・テイクに劣後することは既に述べた通りである。
これが、中国が法治国家ではなく人治国家と見られるゆえんであり、さらに、日本人(アメリカ人も)が困惑する理由である。
もちろん、このような法の解釈・執行が、平等を掲げるデモクラシーの法に反することは明らかである。
しかし、本来の中国の「法」から見てもこれは「法」ではないらしい。
この法としての性質を奪うのが、「二重規範(ダブルノルム)」である。
そして、この「二重規範」は「幇」のところでも登場した。
そこで、この「二重規範」についてさらに見ていく。
ここで見てきた「集団」の一つの例が「幇」である。
つまり、第1章で「幇内は絶対、幇外は相対」ということも確認した。
そこで、幇がこの集団としての性質を持つことはわかる。
しかし、このような集団を持つのは「幇」だけに限らない。
例えば、第3章で述べる「宗族」はこれにあたる。
ところで、第1章で「幇」が二重規範を持つこと、さらに言えば、「幇」が共同体であることを確認した。
そして、共同体が二重規範を持つ例として、ユダヤの商人(高利貸)が挙げられる。
この点、ユダヤ法では利子を取って金を貸すことを禁止している。
では、このユダヤの高利貸は規範を逸脱した存在か。
そんなことはない。
それは、ユダヤ法が禁止している対象を見れば分かる。
つまり、「金を貸しても利子を取るべからず」というのは出エジプト記の第22章にある。
しかし、この規定はイスラエル共同体内の規範であって、共同体外には適用されない。
だから、共同体外の人間、例えば、キリスト教徒に対して金を貸すのであれば、このユダヤ法の適用はないことになる(社会規範の適用を受けることになる)。
以上の説明は、共同体と二重規範をイメージするために有効であろう。
「幇」もこれと同じように考えることができる。
そして、このことこそ中国理解の急所である。
以上、第2章についてみてきた。
ここから話は「幇」と「契約」についての話に進むが、きりがいいので今回はこの辺で。