今日はこのシリーズの続き。
『小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。
6 第2章を読む_中編
前回は、中国の「二重規範」と「一般規範と特殊規範の優先関係」などについてみてきた。
今回はこの続きである。
ここから本書は「絶対的規範」の意義についての話に進む。
つまり、『三国志演義』では劉備(玄徳)・関羽(雲長)・張飛(翼徳)の桃園の誓いによって「三人幇」が形成された。
そして、この誓いによって絶対的な「規範」ができた。
しかし、この規範は啓典宗教における「契約」ではない。
この点、啓典宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)における契約と契約に基づく規範は絶対的なものである。
しかし、契約は言葉(文章)となっている。
また、「『契約を守る』とは『契約を文字通りに守る』」ことを意味する。
そのため、「契約を守ったか守らなかったかが客観的に判明できる」と言える。
もちろん、場合によっては規定が曖昧なものがあるため、それについては解釈で補われることがあるとしても、「理想化されたモデル」として考えればこうなる。
以上が「契約」の特徴である。
この観点から「幇」の規範を見てみると、幇は「契約」ではない。
そこで、「『幇』の規範の絶対性」の意味が問題となる。
例えば、(文章になっていない)規範が遵守されたと言えるための条件は何か。
その規範を守ることを担保しているものは何か。
この点、啓典宗教であれば、規範が遵守されたか否かは契約と現実を照合すればいい。
また、契約を守ることの担保は宗教的救済や神罰である。
しかし、中国の場合、このように考えることはできない。
そこで、中国の歴史(『三国志演義』や『史記』)からみていく。
『三国志演義』に登場する「桃園」による三人幇、この幇にいた劉備・関羽・張飛は三人幇の絶対規範を守った。
本書に書かれていないことを追加すると、劉備は華容において曹操を逃した関羽の助命を嘆願した。
関羽は劉備の家族を守るために一度は曹操に降ったものの、劉備の居所が判明すると、劉備の下にはせ参じ、その際には、複数の関所を強引に突破した。
まあ、その準備中に張飛は自分の部下に無理な命令を突きつけてしまったため、その部下に暗殺されてしまう。
そして、その部下が呉に降ったがために、劉備は関羽と張飛の仇討ちを国を挙げて行うことになった(いわゆる「夷陵の戦い」)。
また、「三顧の礼」によって成立した「君臣水魚」の二人幇、この幇において劉備と諸葛亮も二人幇の絶対規範を守った。
このことは、劉備の死後における諸葛亮の劉禅に対する補佐と中原回復のための北伐を見ても分かる。
さらに、「刺客列伝」にも「厳遂と聶政」「智伯と豫譲」の二人幇がある。
刺客たちの献身は既に見てきたとおりである。
このように、幇内にいた厳遂・智伯・劉備たちは「ギブ・アンド・テイク」の恩恵を受けた。
他方、「幇外であれば規範が相対的であること」は既に見てきたとおりである。
それゆえ、倫理性の高い関羽に報いた曹操は「ギブ・アンド・テイク」の恩恵を受けることができた一方、倫理性の低い呂布に報いた董卓などはその恩恵を受けることができなかった。
このようなことから、幇内の規範が遵守されたか否かは「ギブ・アンド・テイク」が果たされたか否かによって決まる、ということが推測できる。
本書では次の書籍の文章を引用しながら、次のように述べる。
まず、中国人はビジネスを行うときはパートナーを必要とする、とのことである。
その理由を上の書籍を引用して次のように述べる。
(以下、上記書籍を引用している本書の記載を引用、なお、強調は私の手による)
リスクを分散するという意味もありますが、仲間の反応を通して、その事業が成功するかどうかを見極めようとしているわけです。
(中略)
華僑の人たちには、「お互いに利益を分かち合う」という考え方が共有されています。ですから、利益を一人で独占しようということもしないのです。
(引用終了)
以上、中国の事情を見てきた。
以下、第1章の幇理論を拡張する意味で、幇や幇に準じる共同体、共同体のようなものを「輪」と呼ぶ。
つまり、輪の内側における規範はより絶対的なものとなり、輪の外側における規範はより相対的なものとなる、と言える。
ところで、日本が中国に進出して何かを行うとき、成功するも失敗するもパートナーとなった中国人次第ということになる。
パートナーの重要性は中国に限られないが、中国ではよりその重要性が高まる。
では、どうやってよきパートナーを見出すか、が問題となる。
この点、日本人と中国人の重視する要素が異なるためか、日本人が中国人と信頼関係を築くことは至難のわざらしい。
というのも、日本人は信頼を組織や地位・立場で決める。
つまり、日本人のビジネスにおける信頼は、企業による信頼・地位による信頼である。
しかし、この信用は中国では通用しない。
というのも、中国における信頼とは「人間と人間との間の信頼」だからである。
つまり、中国人から見た場合、日本人の(相手の立場ゆえの)信頼など「信頼に値しないということになる。
その結果、「(幇を含む)輪」の外側にいる日本人は「事故」にあうことになる。
もっとも、中国は二重規範の国であって、輪の外側では基本的に自由であることはこれまで見てきたとおりである。
ならば、嘘をつかれた、騙されたくらいで済んだならマシ、と言えなくもない。
というのも、相手が呂布だった場合を考慮すれば、はるかにマシな損害で済んでいるから。
本書は上の書籍を引用して次のように述べている。
(以下、上記書籍を引用している本書の記載を引用)
ですから、長年にわたって苦楽を共にし、信用できる相手にしか胸襟を開きません。
その代わり「この人間は信用できる」となると、心から交わりを結びます。
(引用終了)
そして、「心から交わりを結」んだ時については次のような文章を引用している。
(以下、上記書籍を引用している本書の記載を引用、文毎に改行)
「約束は生涯守る」という考え方が貫かれています。
ですから、人が代わったことで簡単に約束が反故になるということに、他変な裏切りを感じるわけです。
(引用終了)
こう見ると、まさに「約束を遵守する人」であり、史記に登場した刺客たちともいえる。
ここで、本書は「約束」についての日米と中国の違いを説明している。
つまり、日本人やアメリカ人の約束はフローであるから、「この約束は守ったが、あの約束は守れなかった(ので、責任を取った)」ということがある。
これに対し、中国人の約束はストック(アセット・資産)であって永続するため、「すべての約束を絶対に守る」必要がある、と。
以上、日本人の感じる二面性や矛盾について、中国人の二重規範・価値観・約束の意義からみてきた。
このように理解することで、「では、『輪』に入る方法を知りたい」という考えが頭に浮かぶことになる。
しかし、本書によると、これはとんでもない難問で、日本人には不可能である、らしい。
「刺客列伝」のようなことをやる必要がある、と言えなくもないのだから。
もっとも、第1章で述べた「幇」モデルは単純なものである。
だから、現実においては「幇」と「幇外」だけではなく、「幇らしきもの」がある。
つまり、現実では、幇の周りに幇を包含する輪があり、さらに、その外側に別の輪があり、、、という感じになる。
だから、その輪の一部に入れるだけでも大きいらしいが、その輪に入ることすら容易ではないらしい。
その理由に「特定集団の規範が社会の普遍的規範よりも優先する」という中国人のエートスがある。
本書では、その具体例として「先約をキャンセルして仲間との約束を優先する」というエピソードを挙げている。
この点、近代主義的発想(相手に無理は言わない、すべてを目的合理性にあわせる)から見た場合、「先約優先」という発想がお互いに共有されているため、「先約があるので、この日時にあうことはご容赦ください」といった言い訳が成立する。
しかし、中国人の場合、そうはいかない。
「『先約優先』などの一般規範よりも私との人間関係(特定集団の規範)が大事だろう。だから、先約をキャンセルしてこちらを優先しろ」となる。
そして、日本人はこの主張に「無理を言うな」ということになり、あるいは困惑することになる。
ところで、この中国人のやり方にはこちらを試しているところもあるらしい。
つまり、「先約よりもこちらを優先するか」どうかの反応を見て、「幇に入れられるか」・「その周囲の輪に入れることは可能か」・「そもそも輪に入れられないのか」を判断している、らしい。
本書では、上述の本の著者である和田一夫氏が華僑の信頼を得たときのエピソードが紹介されている。
ここで、本書では儒学(儒教)の「五倫」についての補足が入る。
つまり、儒教では人の守るべき道として「五倫」がある。
その内容は「父子の親」・「君臣の義」・「夫婦の別」・「長幼の序」・「朋友の信」の5つ。
そして、ここで登場する「朋友の信」の『信』は絶対的なものである。
だからこそ、君臣・父子・夫婦と共に重要な人間関係の一つに加えられている。
このように見ると、中国から見た場合、中国に進出したい日本企業は順番が逆ではないか、とも考えられる。
というのも、中国の観点から見れば、「長年苦楽を共にした人間がパートナーとなり、そのパートナーは信頼できる。その結果、事業などがうまくいく」というのに、日本では「事業に成功するために信用できるパートナーが欲しい」と言っているのだから。
とはいえ、だからといって諦めるというわけにもいかないだろう。
そこで、科学的推論を始めるわけだが、その推論を始める前に、中国の社会構造についてみておく。
なお、ここから述べることは、以前に次の読書メモでも一部言及している。
まず、確認すべきことは「中国人の商売の目的は金儲けだけではなく、人間関係を豊かにするためにもある」ということである。
そして、「人間関係を豊かにする目的」との関係で「物の価格が需要と供給だけでは決まらない」という結果が生じる。
この人間関係のことを「情誼(チンイー)」などという。
つまり、「情誼」の深い人、及び、これから深めていきたい人には安く売るし、その逆については高く売るといったことが生じる。
もちろん、だからと言って金儲けについて手を抜くわけでもないが。
本書では上記和田氏の書籍が引用されているので、ここでも引用する。
なお、和田氏の発言は華僑に関する言及であるが、中国人のビジネスマンでも同様らしい。
(以下、上記書籍を引用している本書の記載を引用、文毎に改行)
その一つは、「利益第一主義」という商売に対する彼らの徹底したリアリズムです。
「企業は売上げよりも利益だ」という考え方に徹底してこだわります。
(引用終了)
本書によると、中国人は「利益第一主義」であり、その意味で彼らの行動は理論経済学のヒックスのモデルに似たものになる、らしい。
また、中国人を「利益第一主義」とした場合、日本人は「シェア第一主義」になるという。
というのも、日本のビジネスマンの目的は「シェアを増やすことで企業の名を高め、もって、日本経済における企業のランクを上げることにあるから」である。
この日本の観点から見れば、中国は「お金がすべて」に見えてしまう。
しかし、それが総て(目的)ではなく、お金儲けの目的(背後)に人間関係がある。
ここで、いわゆるピューリタン(資本主義者)と中国人と日本人のビジネスの目的と究極目標(目的の目的)を比較していくと次のようになる。
ピューリタン、ビジネスの目的は利潤、利潤の目的はキリスト教的な救済
中国人、ビジネスの目的は利潤、利潤の目的は人間関係の構築
日本人、ビジネスの目的はシェア、シェアの目的は企業の名誉を高めること
なかなかに興味深い。
この点、ピューリタン(資本主義)の場合、利潤の目的は隣人愛の実践、それを通じた宗教的救済にある。
そのため、市場法則に人間関係は入らないし、現実においても人間関係が大きくものをいうこともない。
しかし、中国人のビジネスマンはそうではない。
本書では、このことを示すために『中国人_the truth of Chinese』(孔健、総合法令刊)の文章を引用している。
その内容は次のとおりである。
(以下、上の書籍で引用されている本書の記載を引用、文毎に改行、強調は私の手による)
商売は、金と物とのやり取りをすることだけではない。
人間と人間との付き合いなのだと、彼えは固く信じている。
(中略)
彼らは金だけを追求する商売を軽視する。
商売を通じて、豊かな人間関係が成立しないと、満足しないのである。
(引用終了)
以上、中国人の二重規範、重視している価値観などについてみてきた。
その観点から見れば、中国人の行動も理解できるのではないかと考えられる。
このように見ると、日本人との違いがよく分かり、参考になった。
本章の残りは次回に。