今日はこのシリーズの続き。
『小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。
7 第2章を読む_後編
前回は、中国人の「幇内にある絶対的規範の遵守」の意義と中国人のビジネスの目的についてみてきた。
こうやって見ると、第2章の冒頭で見てきた通り、日本人と中国人の違いは、日本人とアメリカ人の違いに匹敵することが分かる。
前回、市場価格が「情誼(チンイー)」によっても左右されることを確認した。
つまり、資本主義社会の場合、市場価格を決める重要な変数は「需要と供給」であるとされている。
しかし、中国の場合、「需要と供給」の他に「情誼」が入ることになる。
この「情誼」には、現在の情誼と将来の情誼の両方の意味を含むから、ストック変数(定数に準じるもの、将来の情誼の場合)にもフロー変数(変動が激しいもの、現在の情誼の場合)にもなりうる。
そして、中国では、価格を決める要素に情誼を入れることを了解しているので、買い手によって価格が異なることを当然だと考えている。
つまり、現実では、中国を旅行した日本人旅行者に対する価格と現地人に対する価格が異なるという現象があるが、これは単に「情誼」の違いに過ぎない。
だから、日本人旅行者だけではなく外国人旅行者に対しても価格は高くなる。
さらに言えば、現地人と他の省の人でも価格が異なるらしい。
この背後にあるのは、ビジネスの目的たる人間関係(ネットワーク)の構築である。
ところで、幇と異なり、現実の情誼は二分的な概念(「ある」と「ない」で区分できる概念)ではない。
だから、価格は二重どころか三重にも四重にもなりうる。
しかし、本章においては理解の促進のため、情誼は「ある」と「ない」のいずれかしかない、というような二分法的なものとしてモデルを組み立てていくことにする。
前回述べた通り、日本人には中国人の最も強固な共同体たる「幇」に入るのは難しい。
だから、情誼を得る、あるいは、「情誼集団」に入るためにはどうすればいいか、ということを考えていく。
まず、「情誼」集団と「幇」の関係を見ておく。
この点、モデルで考えた場合、情誼はあるか、ないかの二分的に考えるため、全体を「情誼集団」と「情誼集団外」に分けられる。
この点は、幇と同様である。
しかし、幇内であれば、当然に情誼集団内でもある一方、情誼集団内にいても幇内にいられるとは限らない。
いうなれば、人間関係の中に「幇」という輪があり、幇の外側に情誼集団といった輪が存在することになる。
イメージするならば、情誼集団の輪の中に「幇」があると言えばいいだろうか。
もちろん、現実を見た場合、情誼はあるとないの二分法で考えるわけではない。
だから、現実では、情誼集団の輪は「深い情誼集団」・「そこそこの情誼集団」・「浅い情誼しかない集団」という形で複数の輪があることになる。
だが、モデルを見る場合は当分の間、情誼集団は単一のものにして考える。
まず、情誼集団は内側と外側で規範を異にするため、二重規範が存在する。
そして、共同体であれば二重規範が存在すると言えることから、情誼集団も幇のような共同体ではないかと推測できる。
しかし、共同体であれば二重規範が存在するが、二重規範が存在するとしても共同体であるとは限らない。
なぜなら、共同体の要件には①二重規範の存在の他に、②社会財の二重配分構造、③敬虔が支配的感情であることの3つが必要になるからである。
もちろん、情誼集団が共同体であることもありうるが。
ここで、本書における「自由市場」から見た場合の二重価格についての補足が入る。
つまり、本書における「自由競争」とは経済学用語における「完全競争市場」のことであり、その成立条件は①財の同一性②多数の参加者の存在③完全な情報公開④参入・退出の自由といった4つである。
この辺は次の読書メモで見てきたとおりである。
このような自由市場から「情誼による二重価格」について見た場合、二重価格の存在することは自由市場の前提を欠いていることになる。
なぜなら、財の同一性が満たされないから。
このことから情誼集団においても二重規範があることが分かる。
ちなみに、現実において情誼の深い結合のことを「自己人」というらしい。
ここまでくると、幇に近い信頼がある。
そこには、日本の親友だの友人といった言葉では到底把握できない。
これは、いい言葉に丸め込まれて騙されるケースとは逆のケースである。
この「自己人」としての信頼があれば、約束は死んでも守るし、相手が死んだ後でも守ることになる。
この点は、秀吉亡き後の豊臣恩顧の大名が行動(天目山直前の武田家の武将たちの行動でもよい)と比較してみると興味深い。
本書では、このような人間関係の結合の固さに関する理解こそ中国の理解の基礎である、という。
ここで、本書では、幇の具体例として「管鮑の交わり」を取り上げている。
この点、管仲は「我を生んだのは父母。我を知るのは鮑叔」とまで断言した(出典元は司馬遷の『史記』であり、この言葉は次の書籍から引用している)。
「人を知ること」が重要視される中国において、この言葉は深い人間結合があることを裏付けている。
そうであればこそ、管仲は鮑叔の無限の献身を受け容れることができた。
もちろん、管鮑の二人幇は理想であって、頻繁に生じるものではない。
これは、諸葛亮(孔明)・文天祥・方孝儒が滅多にないのと同様である。
例えば、浅見絅斎の『靖献遺言』には、上の3人の義士(忠臣)について称賛をこめて記述する一方、その理想から正反対にいる人がはるかに多かったことも書いている。
だから、理想的な幇関係はなかなか存在しない。
しかし、情誼集団ならば十分存在しうる。
それが幇になるのか、ならないのかは別として。
ところで、「幇の輪の外側に情誼の輪がある」ことから「情誼が深まれば深まるほど幇に収束する」と言える。
しかし、幇には至らない深い情誼の結合も存在する。
では、情誼と幇の違いは何か。
それは「利害」関係の有無である。
この点、中国では需要と供給のみならず情誼が価格に影響することは既に述べた。
情誼が価格に作用するということは、情誼の背後には利害関係があることになる。
このことは賄賂も同様であって、情誼によって賄賂の実効性が決まるらしい。
では、この情誼関係が深まり、利害関係がゼロになったらどうなるか。
この極限状態が幇である。
このことは刺客列伝に登場する刺客を見れば分かる。
アメリカの殺し屋などと異なり、刺客は目的を達しても達しなくても殺されてしまうのだから。
その結果、刺客が受け取るのは歴史による救済でしかない。
この点は、次の読書メモで言及した通りである。
この現世的利害から超越しているのは、刺客だけではない。
この点、孔明は劉備から「劉禅に見込みがなければ、お前が皇帝になれ」と言われていたが、劉禅の補佐を全うした。
文天祥が元に囚われの身になったとき、元に降伏して重用されていた宋の元重臣がたくさんいたが、忠節に殉じて処刑される道を選んだ。
この点は、明の永楽帝に礼を尽くされた方孝儒も同様である。
このことから、幇においては利害関係がから自由であることが分かる。
他方、情誼には利害関係から自由ではいられない。
例えば、情誼集団の規範を破ればどうなるか。
規範を破った旨の情報は直ちに集団内に広まり、集中非難を浴びて、その集団から追放される。
そして、情誼集団は大きな利益と特権を抱えているので、情誼集団からの追放は大きな制裁の効果を持つ。
この利害関係の有無こそ情誼集団と幇の違いであり、この違いの把握は中国の徹底的理解のための基礎になる。
以上、情誼集団と幇についてみてきた。
また、ビジネス上で重要になるのは情誼関係となる。
そこで、情誼関係の結び方について問題になるが、本書で述べていることが「中国の歴史を研究すること」と「中国人とつきあうときのタブーを知ること」だそうである。
とはいえ、中国の歴史で情誼について触れている記述はあまりない。
では、情誼の上位概念たる幇について触れているものを参照する必要がある。
そこで見るべきものが、『刺客列伝』であり、『史記』や『三国志演義』における登場人物たちの行動(管鮑の交わり・孔明・関羽・呂布など)である。
あと、浅見絅斎の『靖献遺言』も参考になるらしい。
というのも、この本では中国人の代表的な八人の義士を取り上げているが、圧倒的多数たる非義士についても取り上げているからである。
そして、義士とそうでない者の違いは幇の規範の遵守の有無にある。
この違いから幇の規範についての理解を見出すことができるだろう。
なお、中国理解の核は二重規範にある。
そして、幇の外側に情誼集団があることは既にみてきた。
ちなみに、情誼の外側には「関係(クアンシー)」という緩い人間結合関係があり、さらに、その外側に「知り合い(友人)」があるらしい。
この「知り合い」の内側か外側かによっても二重規範が存在するらしい。
もちろん、「関係」についても同様である。
もっとも、歴史的文章は中国人にとって当たり前のことは書かれていない。
そこで、「中国人にとってのタブー」をノウハウ本から収集し、(知るだけではなく)身に着けておくことが重要になる。
そうすれば、諸々の情報から発生する矛盾は当惑させるものから思考を深めるサンプルと化すであろう。
以上が第2章のお話。
非常に参考になった。
これらの内容を補助線にして日本についてみていくこともできそうである。