今日はこのシリーズの続き。
『小室直樹の中国原論』を読んで学んだことをメモにする。
9 第3章を読む_後編
前回、中国の「宗族」についてみてきた。
そして、その理解するためのキーワードたる血縁社会・氏と姓などについても確認した。
今回はこれらの続きである。
前回、姓と血縁社会の関係についてみた。
例えば、中国は血縁社会であり、かつ、姓があった。
また、古代イスラエルは血縁社会であるが、姓はなかった。
これに対して、古代の日本の神々を見ると姓に言及されることはなく、また、日本の現代社会は血縁社会ではない。
また、古代イスラエルのように「誰だれの子誰だれ」というわけでもない。
逆に、特定の場(職業など)において血縁などの属性を苗字に利用している。
このことから、古代の日本においても血縁社会ではなかった、と推測できる。
さらに、社会科学的研究によってデータが集まると、日本は父系社会でも母系社会でもないことが判明する。
このことが分かる例が大名相続である。
つまり、日本の大名は血縁者以外の者であっても養子にし、さらには、相続させることができた。
この発想は中国から見ればとんでもないことになる。
というのも、中国で養子をとる場合、他の宗族から養子をとることはできないから。
このことは宗族が共通の祖先を祭る祭祀集団である(他の宗族の者が祭れるのはその者の祖先である)ことを考慮すれば当然の結果である。
そして、同一宗族内に養子がいなければ、その家を断絶させてしまうことになる。
この発想は日本では違和感を持つであろうから、この点を補足する。
この点、中国の宗族が「はじめに祖先ありき」ならば、日本は「はじめに家ありき」である。
つまり、日本の場合、極論してしまえば、「『家』に入る条件に血統はない」ということになる。
そのことを示すのが「一族郎党」である。
日本がこの言葉を使うとき、一族も郎党も同じ「一体」と考える。
しかし、他の血縁社会の人間が見れば、一族と郎党は主人と奴隷くらい違うと考える。
このことからも、日本では「はじめに家ありき」となる。
だから、「一族郎党を引き連れて、ことごとく死出の旅に出た」という表現が通用し(血縁社会ならば郎党は考慮されないか、あるいは、郎党は逃げ出してしまうであろう)、家が断絶しそうになれば、血縁者でなくてもいいから養子にして相続させることになる。
そして、この養子の違いは日本の社会構造の違いに由来する。
とすれば、養子について理解することは中国社会の理解、ひいては、中国企業の理解につながると言えよう。
そして、その養子についてさらに理解するため、欧米(キリスト教社会)の養子についてみていくことにする。
というのも、欧米の養子も日本や中国と異なるからである。
まず、欧米は父系社会に近いが、父系社会そのものではない。
だから、中国と異なり、欧米では血縁者でなくても養子にすることができる。
この点は日本と同じで中国と異なる。
しかし、欧米の場合、養子には相続権がない。
つまり、欧米の場合、貴族の養子には爵位がなかったし、財産の相続権もない。
逆に、養子に財産を残したければ、遺言その他で贈与しなければならないことになる。
ちなみに、欧米ではペットにも財産を贈与することができるらしい。
このことを考慮すると、欧米諸国では養子はペットのようなもの、と言えるかもしれない。
以上、血縁社会・氏と姓・養子などから中国社会の根幹部分に関する「宗族」についてみてきた。
そこで、この宗族が中国企業にどのような影響を与えるかをみていく。
まず、中国企業は共同体になることはない。
というのも、どんなに強烈なアノミー(詳細は以下の読書メモ参照)が来ても、中国の宗族がこれを吸収してしまうからである。
この結論は理由が異なるもののアメリカの資本主義と同様である。
もちろん、日本社会とは異なる。
もっとも、アメリカの企業はシステムを通じて連帯(結合)しているのに対し、中国は宗族による連帯が作用している。
つまり、企業のトップと同一宗族に属する人々もその企業に入っている。
そして、宗族に属する人同士では同一血縁共同体による連帯を持つので、その意味で別の強さを持つ。
そのためか、企業のトップに連なる人々は別の(宗族の)人々とは異なる特権・職権を持つことになる。
このような特徴を持つため、日本企業と比べた場合、中国企業には一長一短がある。
まず、中国企業内にいるトップと同じ宗族の人間はトップの手足の如く働く。
その結果、トップの意向は一気に企業全体に浸透していく。
このような固有の幹部を持たない日本企業では、特に、日本の大企業ではそうはいかない。
日本の企業の意思決定システムは、トップダウン、というよりも、ボトムアップである。
それを示すのが稟議システムであるが、この稟議システムは2つの欠点がある。
一つは時間がかかること、そして、もう一つがトップに上がるプロセスのどこか一か所でトラブればストップしてしまうことである。
日本のスピード感のなさはここに由来する。
このように見ると、大企業であっても中国の企業は同族会社のような形になる。
しかし、日本の同族会社と比較するとずいぶん違う。
その原因は「宗族」の有無による。
この点、同族会社から始まった日本の企業が発展して大企業になる。
すると、何代か経つにつれて同族的でなくなってしまう。
つまり、日本の企業の枢要な地位は同族とは関係ない人間で占められるようなってしまう。
他方、中国企業では何代経っても同族会社は同族会社となる。
まあ、その企業が存在する間は、ということになるが。
その意味で見れば、日本の企業は寿命が長いことになる。
そして、この違いは婿養子システムにある。
日本の場合、同族会社において血縁者の資質に疑義があったとする。
この場合、経営陣は従業員を見渡し、会社を継がせるにドンピシャリの人間を探し、婿養子にして(娘などに結婚させ)、その会社を継がせる。
この婿養子システムによって日本の同族会社は同族性を失ってしまうが、企業の制度疲労を治療し、企業の活性を取り戻すことになる。
また、本書によると、この婿養子システムは社員のモチベーションに寄与している、という。
観念的に考えれば、すべての社員が婿養子の候補になるのだから。
この観念のかもしだす空気が会社の空気(ニューマ)になれば、それは企業の活性化にも寄与しよう。
ここで学問的に補足が入る。
この婿養子システムを続けていく社会と母系社会は異なる、らしい。
何故なら、会社を継ぐ婿養子は血族ではないから。
社会学用語の定義に従うならば、この婿養子システムは「マトリ・ローカル」という。
「これは母が居るところに家族が住む社会」と言うべきものである。
なお、父系社会が父系集団をつくるように、母系社会は母系集団をつくる。
つまり、母系集団は母から子の血縁関係で作る集団である。
もっとも、祭祀の主催者たる族長の相続におけるルールは父系集団のルールと異なる。
つまり、父系集団であれば、相続は父から息子になされる。
もちろん、どの息子に継承するかは長子相続・末子養子その他色々なケースがあるとしても。
これに対して、母系集団の場合、母から娘になされるケースもあるが、それ以外のケースもある。
もちろん、血縁ネットワークは母と娘によって結合しているが、祭祀の主催者(族長)は男が務めるということはある。
では、この場合、相続のルールはどのようになされるか。
母の兄弟から姉妹の息子へと伝えられるのである。
このように見ることで、婿養子システムは母系社会でもないことがわかる。
当然、父系社会でもない。
このことから、日本社会は血縁社会(父系社会または母系社会)ではないことが分かる。
そのため、父系社会たる中国社会に日本の社会観は全然通じないことが推察できる。
本書では、日本企業と対比したときの中国企業の特徴として、中国企業は共同体になることがない、ということに追加説明が入る。
つまり、マックス・ヴェーバーの定義に従うと、ある集団が共同体であるためには、①内外二重規範の存在、②社会財の二重配分、③共同体内における敬虔な情緒の存在、といった3つの条件が満たされる必要がある。
そして、資本主義は共同体が解体し、普遍規範(少なくても二重規範ではない)の成立によって成立する。
つまり、観念的に考えた場合、資本主義が完成すると、普遍規範以外の規範は消滅し、ひいては、共同体もなくなる。
まあ、そんなことはないだろうが。
例えば、日本の場合、資本主義が完成しているわけではないが、それは企業(会社)が共同体として機能しているからである。
そして、上の読書メモにあるように、企業が共同体になった直接の原因は太平洋戦争の敗戦にある。
以下、その内容を簡略化して述べる。
戦前、日本人は「天皇システムと村落共同体」に安住していた。
しかし、太平洋戦争の敗戦により天皇システムは崩壊した。
これが急性アノミーを引き起こしたことは上の読書メモのとおりである。
他方、日本の戦後復興も村落共同体を崩壊させ、その後の高度経済成長によって完全に崩壊した。
ちなみに、日本の経済復活は朝鮮戦争に始まる。
というのも、この戦争による特需が日本の経済を回復させたからである。
ちょうど、第二次世界大戦によって生じた需要が大恐慌にあえいでいたアメリカ経済を復活させたように。
ちなみに、この経済復興にはアメリカの政策も関係している。
当時のアメリカから見ても、日本経済がアメリカにとって脅威になるとは考えていなかった。
ちなみに、昭和35年当時、日本のGNP(国民総生産)はアメリカの10分の1であった。
アメリカから見れば日本の数字は取るに足りない数字ではあろうが、敗戦で焼け野原になってから15年でここまできたことを考慮すれば、恐るべき数字である。
なぜなら、戦前日本の経済力はアメリカの25分の1から20分の1程度であっただろうと推測されていること、アメリカの経済力も第二次世界大戦を通じて飛躍的に増加しているからである。
ちなみに、経済成長のためには、労働力が必要となる。
だから、この時期から農村から都市への大規模な労働力移動が始まった。
つまり、村落共同体が崩壊し始めたことになる。
そこに、高度経済成長により日本の社会は大変革を遂げる。
この辺の話は次のメモに述べたとおりである。
その結果、共同体としての村落は完全に壊滅した。
これまで見てきた通り、日本は血縁共同体はない。
また、地縁共同体もないし、宗教共同体もない(この辺はイスラム教の共同体と比較すれば分かる)。
日本にあったのは「協働共同体」としての村落共同体である。
そして、この村落共同体は高度の自給システムがあった。
この辺は高度の分業が発達していたインドの村落とは異なる。
もちろん、この背後に日本の豊かな自然があったことは想像に難くないが。
しかし、敗戦・戦後復興・高度経済成長により村落共同体は壊滅した。
これが急性アノミーになったことは既に述べたとおりである。
その結果、このアノミーを会社(企業)が引き受けることになった。
つまり、企業が共同体になったのである。
既に述べた通り、理想的な資本主義(もちろん、この理想が日本人にとって理想かどうかはさておく)には共同体が存在しないのだから、企業が共同体になった日本が資本主義の後進性を示していることは想像に難くない。
でも、後進性を言い出したら、中国社会も大差ない。
しかし、その理由は日本のような「企業が共同体に変質したから」ではない。
そもそも、中国には宗族という巨大な血縁共同体が存在するのである。
だから、急性アノミーがあったとしても(このことは文化大革命よりその可能性が示唆できる)、宗族がこのアノミーを吸収し、企業が共同体化するわけではないことになる。
以上、この血縁共同体のあるなし。
これが、第1章と第2章で見てきた「幇」と同様に、中国と日本の根本的な違いの一つになる。
以上、本章を見てきた。
中国の理解のみならず、日本の理解、学術用語の理解も進んだ。
さらに、昔読んだ本の復習もできた。
この調子で、次章も読んでいきたい。