0 中国について興味を持つ
ここ2~3年間、私は故・山本七平先生と故・小室直樹先生の書籍を片っ端から読み漁っている。
そして、特に重要なものは読書メモとしてこのブログに残している。
(以下、日本を対象とするもの)
(以下、ヨーロッパに関連するもの)
ところで、この二人の書籍を片っ端から読んでいる目的は「自分自身・日本人・日本社会を理解するため」である。
そして、自分自身・日本人(日本教徒)・日本社会(日本教社会)を理解するための参照点(補助線)として、近代社会(民主主義・資本主義・立憲主義)・キリスト教・イスラム教などを参照してきた。
ただ、参照すべきものとして、もう一つ重要なものがある。
それは中国である。
なぜなら、日本は中国から長年強い影響を受けてきたからである。
そして、中国を参照する際に、必要な視座は2つある。
1つは中国それ自身。
もう1つが、過去の日本人が中国から何をどのように学んだか。
後者については、山本七平氏が様々な書籍で言及しているため、それらを参照する。
ただ、今回は前者にスポットをあて、次の小室先生の本を読んでいこうと考えている。
なお、私の手元にあるのは過去出版されたものであるが、リンク先のものは現在の新装版である。
つまり、この本の初版は1996年であり、約30年前であるが、最近復刻されている。
ならば、現時点でもこの本から得られるものは少なくない、と見るべきであろう。
(ちなみに、『危機の構造』も『数学嫌いな人のための数学』などの小室直樹先生の本は最近「新装版」として復刻されている)。
1 「はじめに」を読む
『数学嫌いな人のための数学』の冒頭には次の言葉が掲げられていた。
(以下、『数学嫌いな人のための数学』から引用)
数学とは神の論理なり
(引用終了)
また、『日本人のためのイスラム原論』では第1章の冒頭に次の言葉があった。
(以下、『日本人のためのイスラム原論』から引用)
イスラムを知る者は祝福される。
世界の宗教を理解するからである。
世界そのものを知るからである。
(引用終了)
どちらも大仰な言葉である。
これに対し、『小室直樹の中国原論』の冒頭は次の言葉が掲げられている。
(以下、『小室直樹の中国原論』から引用)
この本は、あなた自身が中国を理解するための水先案内である。
(引用終了)
「祝福」や「神の論理」と比較すると、多少スケールが落ちているような気がしないではないが・・・。
この点、「はしがき」では当時の状況が紹介されている。
曰く、「現在、中国に関する情報が多すぎ、かつ、矛盾している。このような状況で、中国に対してどのような投資や経済交流などをしていけばいいのか」と。
この点、当時と異なり、現段階では中国(中華人民共和国)は世界第二位のGDPを誇っている。
ならば、「日本(日本人)は中国(中国人)とどのようにかかわっていけばいいのか」という問題は現代においても極めて重要な問題である、と言える。
また、ヘーゲルは中国を「持続の帝国」と呼んだ。
ところが、当時の取材レポートを見ると、「中国は大きく変わりつつある」という評価で一致している。
ならば、中国は持続の帝国ででなくなったのか。
と、中国に関する未知の状況を紹介したところで、著者(小室先生)は「アメリカ人と日本人の未知の事項に対する対処の違い」を指摘する。
つまり、日本人は「体験で体当たりするしかない」と考えるのに対して、アメリカ人は「科学者を結集して学問的に研究するだろう」と述べる。
さらに、第二次世界大戦のときの日米の違い(アメリカはあらゆる分野の学者を集めて日本の研究を行い、その結果、レーダーや原爆を開発したのに対して、日本人は「B29に竹槍」と言う言葉があるとおり「体当たりと突撃」で対応しようとした)を指摘して、「この日米の態度は半世紀以上経った今でも変わっていない」と断言している。
なお、アメリカは別論、日本に関しては「半世紀以上」は「1世紀」になるのではないか、と感じないではないが(以上の指摘は次の読書メモ参照)。
以上、日米の違いを述べて「本書の目的は中国の科学的分析である」と述べる。
その意味で、本書の立場は日本の社会構造がもたらす破綻について分析した『危機の構造』に近い。
そして、本書は理解の促進の観点から「中国の歴史」を参照している。
つまり、中国の歴史こそ中国理解の宝庫にして鍵である、と。
また、「契約」・「法律」・「所有」など概念が西洋と中国で大きく異なる点も指摘している。
さらに、重要なことが「中国では二種類の共同体が絡み合っている」という点である。
1つがタテの共同体と言うべき「宗族(そうぞく)」、もう1つがヨコの共同体と言うべき「幇(ほう)」である。
この2種類の共同体により中国は幾重もの二重規範(ダブルノルム)が錯綜した世界になっている、と。
この点、「中国では人間関係が大事である」ということは評価として一致する。
では、「大事と言われる人間関係とはいかなるものか」ということはなかなか答えられない。
なぜなら、この点は科学的分析が必要になるからである。
そこで、本書は「幇」と「宗族」に対して科学的分析を行い、「幇」・「宗族」・「中国の人間関係」についてみていく。
さらに、中国における「契約」・「法」・「所有」についてどのようなものか、近代資本主義の「契約」・「法」・「所有」と比べてそれらがいかにかけ離れたものかについてみていく。
以上がはしがき。
うーん、壮大な試みである。
次回は第1章について見ていく予定である。
もっとも、この本は各章の量が多いため、各章を複数回に分けてみていくことにする。